ゲームで「心」をつくりたい。ゲーム開発者三宅陽一郎氏・北山功氏が語りあう、インディーシーンにおけるAIと哲学の可能性

 

精神疾患になると朝が一番辛い

ーークオリアは人間の知的活動と関係があるんですか? それとも無意識の活動にまで拡大されるんですか?

北山:
無意識の範疇はニューロンである程度説明がつくと思うんですよ。その上の話ですね。

ーークオリアが欠損した人の事例を見ていくと面白いかもしれませんね。何かブレイクスルーがおきるかもしれない。

三宅:
それは現象学という哲学の一分野の探求テーマで。たとえば指を失った人がいるとして。それでも指があると思えちゃうんですね。

北山:
幻肢痛ですね。

三宅:
幻肢痛がなぜおきるかというと、脳の中の身体モデルが生きているからです。

北山:
それは後天的に欠損した場合ですね。

三宅:
そうですね。ずっと自分の身体モデルが残っちゃうんですね。人間にとって物理的身体と身体のイマージュは違うんですよね。

ーー酔っ払って大脳新皮質の働きが低下すると、わーっととりとめもないことを考えてしまったり。いろいろ昔の嫌なことを思い出してしまったり。ドラッグでいうバッドトリップなどはそうですね。

北山:
はいはい。

三宅:
精神病の方って朝が一番つらいんです。

北山:
なぜですか?

三宅:
無意識からいろんな情報が上がってくるのを、昼間は意識でうまく押さえ込んでいるんですが、眠るとその監視役がいなくなるので、大暴れしちゃうんです。だから朝おきるとヘトヘトになっちゃうんです。

北山:
そういう意味なんだ。

三宅:
朝起きるとヘビたちが暴れまくった後だという。そうすると自分がそれを押さえ込むまで、薬を飲んで意識をしっかり持って、ようやく押さえ込んで昼間になるという。

ーー実際はどんな気持ちになるんですか?頭痛がするとか?鬱っぽくなるとか?

三宅:
そういうのではなくて、ひたすらカロリーを消費して、HPが削られていく感じです。

北山:
考えすぎみたいな?

三宅:
そうそう。だと思うと目の前にひたすら白い壁が現れて、迫ってくるだとか。そういうのが並行しておきるんです。そうなると精神がへとへとになっちゃう。

ーーまさにバッドトリップみたいな。

三宅:
それをうまく抑えないと正常に戻れない。夕方くらいが一番いいみたいですね。。我々は複雑になりすぎていて、いろんな制御系やいろんな情報やいろんなイメージをジェネレーションしている。そういうものをうまく押さえ込む力が……。

北山:
どこかにあるということですね。

ーーそれを意識が押さえ込んでいて、無意識の源はいろんなノイズだってことですね。バチバチバチ。

三宅:
我々が意識的に捉えている世界って、本来無意識が捉えている世界のうち、ほんの一部なんです。でも、それを全部意識の方に持ってくると、混乱しちゃう。

北山:
とてもすごい情報だってことですね。

三宅:
だから、劇場モデルでいうと、暗いところにいろんなものがうごめいていて。

北山:
懐中電灯で見ている感じですよね。

三宅:
懐中電灯で照らした部分だけを意識として処理しないと、とてもじゃないけど精神が持たない。生物って環境と相互作用しながら生活しているじゃないですか。進化論的にいうと、生物は環境との相互作用の中から浮かび上がってくる。そうすると、ほっておくと環境の側に意識が引っ張られていっちゃうんです。人間の人間たる所以の部分はすべて環境との相互作用の中で生まれてくる。そうすると微生物みたいな感じで、全部環境の側にコントロールされちゃうわけです。それを人間の側に引き戻すために意識が重要で。

意識って、ほとんど空気みたいなものなんですけど、環境から人間の側に持ってくるには、どうしても必要。無意識がありつつも、無意識を抑えるという、矛盾した役割を持っているんです。無意識の力動がないと環境との相互作用ができないんですけれど、そいつにすべて任せてしまうと、全部無意識の側に持って行かれちゃう。なので、意識というのは無意識を選別することしかできないんだけど、それは人間が人間として形を保つために、どうしても必要なんです。

ーーエントロピー増大の法則によると、世の中は放置しておくとどんどん崩壊して、混沌化しちゃいますからね。

北山:
その混沌化をおさえるために、意識を使っている。ああ、なるほど。

三宅:
精神力学的な形だと思います。パスカルも「人間の知能は無と無限の間にある」と言っています。ここで無限というのは自然のことで、無というのは人間の意識のことです。知能というのはその間にあって。世界の混沌の方にいってしまうと、どちらかというと人工生命的な、環境と同化しちゃう。でも、そこから離れてしまうと人間って、ぶっちゃけてしまうとなにもないんです。それを引き受けるのもまた、人間だということですね。

無があるから人間は混沌たちから外に出ているんだけど、でも外に出て何があるかというと、そこには虚無がある。その間にあるから人間は知的な部分が保てる。

ーー書籍「SLG解体新書」でアートディンクの河西克重さんが「セル・オートマトンを使ったゲームは、放っておくと環境がどんどん崩れていってしまう。それを引き戻してバランスを保つのが人間の操作なんだ」と言っていましたね。『トキオ』というスペースコロニーが舞台のゲームについて、そんなふうに語っていました。

北山:
なるほど、それはすごいですね。

ーーそれは意識を人間の操作に仮託させているんですね。

北山:
『僕は森世界の神になる』もそうかもしれない。放っておいたら、よく世界が発散するんですよ。それを調整していかないと。でも、人間が調整できることって、ちょっとしかないんですよね。

ーーそのバランス調節をゲームにしているというわけですね。『アガルタ』はどうですか?

北山:
『アガルタ』はそうでもないですね。どんどん発散していきます。ライフゲームみたいなゲームだったら、放っておいたら、カオス状況じゃなければ、ひとつの状況にどんどん固まっていくんですよ。だから発散する方向に調整しないといけない。『アガルタ』も放っておいたら、全部水になったり、蒸発したりします。

ーー同じですね。

北山:
だから、何かうまいこと調整したら、保てるかもしれませんね。

ーーライフゲームでも、消えないようなパターンってありますよね。パタパタと模様が変わっていて、やがて循環して一定になるという。

北山:
それをカオス状態というんですよね。人間がそれをコントロールするわけか。たしかに、発散していくのをちょっとずつ調整していく感じですね。

ーーそうですね。

映画「君の名は。」は何が入れ替わっているのか?

北山:
でもね、なんでクオリアが出てくるのかが、いまだにわからないんですよ。混沌をコントロールすればいいというのはわかるんですが、その存在を僕らが感じる必要性はないだろうと。

三宅:
たとえば、食べ物を食べ物として捉えなければ、死んじゃうわけですよね。

北山:
でも、それはラベルみたいなものじゃだめなのかと。

三宅:
それは行動を促すものじゃないとだめですよね。意識がなかろうが、あろうが、行動を促す力を持っているわけですよね。それがさっき言った無意識の情動みたいなものです。食べ物を食べようとする、飲み物を飲もうとする、敵を見たら殴ろうとする、3つの欲求があったとして、それは無意識から湧き上がるジェネレーションじゃないとだめですよね。IF文で判断するような、トップダウンじゃないというわけです。クオリアはボトムアップで、環境の側にパワーがあって、その記号自身がクオリアなんで。それを、複数のクオリアの中から、意識がどれかを選ぶんですよね。食べるのか、飲むのか、戦うのか。

北山:
意識が精神の中で浮かび上がっていく必要性が、あるのかないのかというところが。

三宅:
識別さえできれば。

北山:
そう、識別さえできれば動いちゃうので、哲学的ゾンビみたいな状態で、制御することもできるんじゃないかなと思うんですよね。

三宅:
だから酔っ払っていても自分の家に帰れるというのがそれで。

北山:
ああ、そうですね。

三宅:
意識が朦朧としていても、ボクサーはボクシングがある程度できたり。

ーークオリアは個人の範疇で止まっているんですか?

三宅:
そうですね。クオリアは僕にとっての緑が、他の人にとっては赤かもしれない。それは比べようがないんです。たとえば、お前はこのアイドルが好きかもしれないけれど、俺はこっちのアイドルのほうが好きだとか。それはもうわからないですよね。「あの子の笑顔が夏の風のようだ」とか言っても、何言ってんだこいつは、ということになる。

ーー人間は互いに分かり合えない。

三宅:
分かり合えないですね。

北山:
分かり合えるかもしれないけれど。

三宅:
分かり合えたら、それは文学的ですよね。そして、それを作るのが芸術でもある。

北山:
それを作るのが最終目標みたいに僕は感じているんですよ。そこがホントの生物が生物であるための最後の砦みたいなもんですよ。

三宅:
動物がもつクオリアよりも、人間がもつクオリアのほうが、より細かいんだとは思いますけどね。

ーー蟻や蜂のように集合知を持っていそうな生物もいます。

三宅:
あれはたぶん、相互交流が厳密に定義されているんですよね。「俺について来い」というフェロモンを出すとか。アリの行列ができるのもそのせいだし。あれは生物の意識が環境に引きずられやすい例なんでしょうね。

北山:
そこをちゃんと作ったら、ホントの生物がゲームの中で動き出すんじゃないかと思っているんです。なかなか作るのが難しいんですが。

三宅:
そこを今は環境側に情報を埋め込むしかないんですよね。ジェネレーティブじゃなくて、マニュアルで作っていく。ゲームの中の食べ物には食べ物だというタグをつけるしかない。

北山:
でも、それを目指している人は結構いると思うんですよね。

三宅:
学習行動を通して「この実は食べれます、食べられません」というクオリアを取得するのは、確かにあるんです。

北山:
それはパターン分析ですよね。

三宅:
そうですね。分類がクオリアかと言われると、ちょっと違う。それに、クオリアって間違っているときもあって、この実は食べられると思って食べたら毒で死んだみたいな。クオリアとして楽しかったというのが、間違っていたとか。この人はクオリアとして優しそうな人とかいって、間違っていたとか。そこも生物らしい。客観情報じゃないから。世界から浮かび上がってくる情報だから。

北山:
もう一つ深いところの疑問があるんです。映画「君の名は。」って、人が入れ替わるじゃないですか。三宅さんは、三宅さんの体の中に、三宅さんの意識とクオリアがあるじゃないですか。僕が三宅さんになろうと思ったら、どことどこを入れ替えたらいいですかね?

ーーああー。

北山:
それって、なんで自分が自分になるのかということでもあって。なんで劇場を見る自分が自分にわりあてられているのかもよくわからないですし。

ーー今の話から書籍「24人のビリー・ミリガン」を思い出しました。

北山:
それはクオリアが24種類あるのかもしれないですね。

三宅:
一つの人格であるうちは、極論すると見えている世界自体が自分なわけですよ。このカップをこう見せているのは自分なので。その集合が自分の意識だといってもいい。このカップに対する意識は僕が作っている意識なわけだから、このカップをこう見ている。このカップ全体をこう見ているという意識が自分ですよね。それはどうやってジェネレートされているかはわからないですが、とにかく無意識の中から浮かび上がっていますよ、ということですね。

北山:
それはわかるんですが、三宅さんが見たものが、なぜ三宅さんの魂に映っているのかというのが、わからないんですよ。なんで僕の魂じゃないのか。たとえばMMORPGで、自分のアカウントでログインしたら、自分のキャラクターが操作できるじゃないですか。他人のパスワードを入れたら、他人の情報とかを見られるじゃないですか。そのIDがなぜ固有に割り当てられていて、交換できないかがわからないんです。

三宅:
それは身体がクオリアを作っているからでしょうね。我々の体には神経体が張り巡らされていて、我々は世界の中へ身体によって参加しているわけです。もし、あれが点だったら、そういうわけじゃない。

北山:
そうですね。

三宅:
我々がホルモンを持ち、胃をもち、身体から最終的なクオリアが形成されているわけだから、身体が違えばクオリアも違うわけですよ。

北山:
それはわかります。

三宅:
だから、それはIDとかじゃなくて、僕が見ているクオリアは僕自身が作っているわけで、それは入れ替えようがないという。

北山:
クオリアを受ける最後の芯になる部分はなんですか?

三宅:
見ているという概念は違うというか。体験なんです。見ているわけじゃない。

BitSummitにも出展していた北山氏

「自分を見ている自分」は誰なのか?

北山:
たとえば映画「君の名は。」では人格が入れ替わるわけですが、あれは何が入れ替わっていると仮定したら、ああいう状況になるのかという。

三宅:
あれは自分のクオリアごと持っていっているから。

北山:
そうですね。あれは脳の一部が互いに入れ替わっているイメージですね。

三宅:
極論すれば女性は男性からしか見えないんです。男性も女性からしか見えない。あれって、入れ替わった後で、体をさわって確かめるでしょう?

北山:
映画「君の名は。」では、記憶とクオリアごと移動しますけど、クオリアも記憶も移動しなくて、点のIDだけ移動するというのは?

三宅:
そういうのはないんです。昔からある議論で、昔の哲学者は劇場を見ている観客というモデルを考えたんですね。そうすると、その観客が入れ替われば人格が変わるということになる。でも、それだときりがなくて、それをみている観客の脳の中にある劇場をさらに見ている観客がいて……というふうに、無限に連鎖していくことになる。それはデカルト劇場と呼ばれます。

北山:
ああ、なるほど。

三宅:
だから劇場モデルなんだけど、観客はいないんです。視点がないんです。劇場そのものが視点。

北山:
視点はない。

三宅:
たくさんの演者がうごめいていて、スポットライトが動いている劇場自体が意識であって、そのスポットライトを見ている誰かがいるわけじゃない。劇場そのものが意思であり、知能。

北山:
ただ、人にはその劇場を、自分で見ている意識がありませんか?

三宅:
それは劇場モデルのよくあるトートロジー。矛盾なんです。劇場を見ている自分がもしいるとしたら、劇場を見ている自分の中の脳もあるはずでしょう?

北山:
そうなんです。そこでループしている。

三宅:
そこが劇場モデルの矛盾といわれるもので。劇場モデルは観客がいるわけじゃないんです。観客のいない劇場。その中でたまたまスポットライトが当たっているところにいた役者さんそのものが自分。見ているわけじゃない。もっというと暗闇の中でうごめいている役者も含めて自分。そこは無意識。

北山:
見ている人はいない。

三宅:
僕にとって目の前にあるコップは、僕が見ているようにみえるけど、究極的な言い方をすると、僕が演じている。なぜなら、この情報は僕の頭のなかで再構成されているわけだから。たしかにモノとして存在するわけだけど、これをコップとして演じさせているのは、僕自身。とすると、ここにあるすべては、僕自身といってもいい。だから北山さんも他者としているんだけど、僕の認識の中では、僕自身が演じているというのかな?

北山:
ああ。

三宅:
これは環主観性モデルといって、ちょっと難しい問題なんだけど。とにかく、すべての万物が僕の頭のなかでお坊さんになったりだとか。

北山:
イデアの影を自分自身で作っているということですよね?

三宅:
自分自身で作り出しているから。劇場そのものが僕自身。

北山:
見えているのはなんでなんですか?

三宅:
見ているわけじゃない。これを存在足らしめているのは僕自身。それは難しくて、一方ではそう捉えているともいえるし、一方では環境がそう見せているという側面もある。共創状態。コ・ジェネレーション。僕自身が単独でダンスしているわけじゃなくて、片方からは環境からの情報が来て、もう片方から僕が迎えに行くという話になって、ここではじめてコップというのが存在しているんです。だから僕が勝手にコップを想像することはできないし、コップが僕自身の意識の中に勝手にコップとして現れることはできないんです。僕とこのコップが共創状態にあるから、僕の意識の中にコップが出てくるわけで、半分は僕自身、半分は世界。つまり自分の劇場の上にあるすべての役者は、半分は自分自身で、その素材は世界から引っ張ってくるわけです。

北山:
はい、わかります。

三宅:
だから劇場そのものが自分自身。見ている自分がいるわけじゃない。見えている世界が自分自身。

北山:
見ている人がいないというのが、感覚的にわかりにくい。

三宅:
見ている人はいない。劇場の役者そのもの。このコップは見えているけど、コップが見えていると表しているのは北山さん自身の心理や意識であって。その素材は視覚をとおして収集しているけど、これをコップとして自分の意識の中に表しているのは北山さん自身。どれもこれもジェネレートされているんです。その機能が人工知能にないんです。ただの情報として受け取っているだけで。

北山:
それは中でシミュレーションをして、出しているというイメージなんですかね?

三宅:
本当は、人工知能はもう一回、世界を再構築しなくちゃいけない。それを今は省メモリとかいって、全部省いているんですね。だから視覚情報からすぐに意思決定をしようとする。そこから実は間違っていて。間違っているんですけど、情報処理としてはそれでいい。でも、人工知能としては間違っている。でも、それは認識世界としてリコンストラクションするというわけでもなくて。たとえば僕がコップを持っていて、手を離したら落ちる。それを僕はシミュレーションできる。

北山:
それまでの人生で獲得していますからね。

三宅:
僕の劇場の中にいて、僕はこの役者が手を話した瞬間にどうなるかもわかる。でも、実際にコップを下に落とすのは、現実世界ではニュートン力学ですよね。なんだけど、僕の主観の世界の中でコップを落とすのは僕自身です。

北山:
そうですね。今はそれがリンクしていて、同じ価値観になっている。

三宅:
それは僕がこれまでの人生の中でたくさんのことを学習してきて、劇場を動かすことを学んできた。だからコップが落ちた後どうなるかも、ある程度考えることができるんですけど、実際にこいつが落ちたときに、床の上で右に行くか、左に行くかはわからない。でもイメージはできる。だから、そういうふうに劇場と劇場の動かし方を僕は知っているんです。そして、その劇場そのものも僕自身。

北山:
三宅さんがいうのは、自分で外の世界、イデア世界をシミュレーションしているのがクオリアだということですか?

三宅:
そうですね。劇場そのものがクオリアであり、劇場の役者の役回りを識別するのもクオリア。

ーーそれはどんどん人間の成長の中で成熟していきますよね。

三宅:
そうそう。どんどん細分化されていく。

ーー「自分を見ている自分」という言い方を、思春期の頃ってするじゃないですか。実際に幽体離脱って第二次性徴期におきやすいですし。

北山:
そうなんですか?

ーーそうらしいですよ。思春期における精神と肉体の成長がアンバランスなことが原因だそうです。

三宅:
劇場モデルにしても、体から情報が作られていくから。いわば体から情報を押し付けられているんです。それと自我がある程度一体化していて、本来自分を見る自分という概念はないんです。そもそも世界そのものが自分だから。

北山:
へえ。

三宅:
こから逃れることは難しい。たとえば今、目をつぶったとしても、目の前にある何かが消えてなくなるわけじゃない。視点がないからといって。

北山:
常にモデルは存在するんですよね。

三宅:
目をつぶっても、目の前にあるものが本当に消えたとも思えない。なぜなら、我々の意識自体が目の前のものを作り出しているから。もし、そうじゃなければ、目をつぶった瞬間に世界すべてが消えてなくなってもいいはずです。それは、存在というものを常に自分の中でコンストラクションしているから。つまり役者たちが劇場で動き回っているんです。この瞬間に目をつぶったとしても、たぶんコップはテーブルの上にあるだろうし、店内をあるきまわっている人はそのままいるだろうと。

物理世界と主観世界を同時に作って相互作用させる

北山:
それは哲学的ゾンビの状況で、コンピュータ上でそれは可能なような気がしますが……。

三宅:
それは、今の人工知能は……。哲学的ゾンビというのは情報処理の概念に引きずられているから。つまり「何らかのインプットがあって、情報を処理して、アウトプットする」というモデルのもとに、哲学的ゾンビがあるわけですね。

北山:
インプットとアウトプットは普通の人間とたいして変わらないけれど、その中にクオリアが発生しているか否かという。

三宅:
そうそう。それが情報処理のロボットなら、それがありうる。でも実際の知能はそうじゃない。そういう原理で動いていないから。

北山:
ああー。

三宅:
我々自身が世界を再現していて、その再現している中に自分を組み込む。劇場の中に自分の身体を組み込む。たとえばダンスをしているんであれば、劇場の中にこの人はこうなっているというのであれば。

北山:
それを実現するために映したほうが、なんらかの情報処理システムとして都合がいいから映しているということですか?

三宅:
情報処理じゃないなあ。簡単にいうと自分と世界がうまくダンスできるということ。そのための劇場を自分自身で作り出す。そこに身体が重要な役割を果たしていて。

もし身体がなければ、確かに劇場の外に出られる。自分がコンストラクションした世界を自分で見られるけれど、身体は劇場の中に自分を埋め込む装置でもある。つまり、我々がここにいて、そこで見えている世界というのは、自分自身で見えている世界だから。

これが、ちょっと精神の調子がおかしくなると、そう見えなくなる。どこか遠くから、またはものすごく近くから見えている感じがする。世界との距離感がうまくとれなくなるんです。でも、普通は身体によって位置がバインドされる。それによって劇場の中の自分の意思や他者との距離感や関係性がとれるようになる。

北山:
その関係性が持っている何か、情報処理か何かは、なぜコンピュータで作れないんですか?

三宅:
それは世界をリコンストラクションするように作れてないから。

北山:
ということは、作ろうとすれば作れるということですか?

三宅:
もちろん作れると思います。たとえばセル・オートマトンの世界の中で、もう一つセル・オートマトンを作るというような話で。つまり自分から見た世界をもう一度、自分の頭のなかに再構成してやる。その処理をホントはちゃんとやらないといけないんだけど、それを全部省略してルールベースでやったり。認識の部分がまったく、ちゃんと作られてないから。意識の劇場をもう一度コンストラクションするというコンピュータの処理をやりたくない。

北山:
たしかに、二度手間ですもんね。

三宅:
今の人工知能は情報処理という流れの中で作られているので、一番エレガントなシステムを志向しようとするんです。でも知能はエレガントである必要はないわけで、無駄ばかり。無駄の集合みたいなもんですね。

さっき言ったように、20個の可能性を考えて、その1つを選択するって、それだけカロリーを消費しますよね。でも、そのおかげで生物はものすごい速さで対応ができる。思考ってだいぶ遅いんだけど、すぐにどの現実を選べばいいか判断して、思考を切り替えられる。それは現実を多重にリコンストラクションしているんです。

たとえば緊張すると疲れますよね。緊張しているときって、ものすごくたくさんの可能性を心のなかでシミュレーションしているからです。なにかおこったときに、たとえば20個〜40個の中から1個だけ取り出して実行するんです。つまり劇場を20〜40個位作って、その中のどれがきてもいいように準備するわけです。

北山:
緊張しているときって、そうですよね。

三宅:
森のなかに敵が潜んでいるときって、草の音をはじめ、ものすごくたくさんの可能性を考えて、どの可能性も頭のなかで動かしているんです。

北山:
無駄が多いからコンピュータでやるのには、ちょっとしんどいというか。手数が多すぎるというか、分岐が多すぎるというか。

三宅:
だから情報処理という概念から一回、離れなくちゃいけなくて。

ーー情報処理はできるだけシンプルで多様性が高いモデルがいいですよね。

北山:
僕のいう情報処理はなんというんですかね……

ーーさっき、ゲーム『アンリアルトーナメント』で劇場モデルを3つつなげてボットの動きを操作させたら、人間っぽい動きになったという話がありましたよね。セル・オートマトンのレイヤーを40個くらい同時に走らせて、その中の1つを問題解決に使うといったモデルは可能なんでしょうか?

北山:
できるかもしれないですね。

三宅:
ある意味で将棋はそういうモデルなんですね。どの手が来てもいいように、ものすごく考えて、ものすごくシミュレーションしておくわけで。

北山:
そう考えると、ちょっと将棋のアルゴリズムは似ていますね。

三宅:
将棋くらいだと、まだそういったことができる。

北山:
手数が少ないですし。

三宅:
現実は連続時間、連続思考だから、それを抽象化するためのモデルが必要になる。それが劇場モデル。

北山:
コンピュータでそういった機能を作れる可能性はあるということですか。

三宅:
間違いなくあって、それはできると思っています。

北山:
そのときにコップを見たときの色が出るかどうか?

三宅:
色は出る。それはなぜかというと、片方に崖があって、落ちたら死ぬというシチュエーションがあったとして、そこで作られる劇場というのは、あきらかに片方は死ぬわけです。片方は死で片方は生という劇場ができればいい。それを促すようなもの。

北山:
それはラベルだと弱いということですか。

三宅:
ラベルでは弱い。ラベルではなくて。

北山:
色を出すところまで行ってはじめて。

三宅:
色でもあるし、恐怖でもあるし。

北山:
ボトムアップ的に発生するというイメージですかね?

三宅:
ボトムアップの中で、かんたんにいえば味方と敵を区別しなければいけない。

北山:
それはニューロンか何かわからないですけど、そういったスイッチの塊だけでは、色までたどり着かないわけじゃないですか。

三宅:
うん、それは違う。

北山:
さっきのマイクロチューブルは可能性としてあるんですかね? 量子力学って観測によって届くわけで。

三宅:
量子力学脳があるんだったら、観測によるんだけど、むつかしいな。普通のニューロンってものすごく大きいから。ニューロンは分子だから。分子はもう量子力学のスケールじゃないから。10のマイナス37乗くらいまでいかないと、量子力学の分野にいかないから。軸索の部分でそこまでスケーリングされているんだったら……

北山:
そういう効果が出るかもしれない。

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Part5につづく


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1971年生まれ。関西大学社会学部卒。「ゲーム批評」(マイクロマガジン社刊)編集長などを経てフリーランスのゲームジャーナリスト。GDC、E3をはじめ、国内外のゲームイベントへの取材・レビュー・インタビュー記事、書籍執筆、講演など、幅広く活動している。NPO法人IGDA日本名誉理事・事務スタッフ。主な書籍に「ゲーム開発者が知るべき97のこと②」(編著)がある。