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小島秀夫監督の著書を読んだ。自分はどんなゲームでできているのか?eスポーツキャスターが考えてみた
映画評を読み返し、エッセイに感銘を受けていたのだが、ふと思った。「僕は、一体どういう要素で構成されたのだろう…」、と。

「僕の体の70%は映画でできている」
いつ見ても素敵なタイトルだと思う。こちらは、僕が最も尊敬するゲームクリエイターである小島秀夫監督の著書である。(正確には、「僕の体の70%は映画でできている: 小島秀夫を創った映画群」ソニー・マガジンズ刊)
タイトルのとおり、小島監督がどういった映画に影響を受けたかをまとめた映画評である。2008年に発売された際に手に取り、小島監督の創作の根源に少し触れた気がしたものだ。そんな著書が実は昨年末「創作する遺伝子:僕の体の70%は映画でできている」(新潮文庫)として新たに発売された。映画評だけでなく、2016年以降に発表された小島監督のエッセイもあわせて収録されているということで、早速購入してみた。
映画評を読み返し、エッセイに感銘を受けていたのだが、ふと思った。
「僕は、一体どういう要素で構成されたのだろう…」、と。
小島監督のように映画の影響を受けたことは間違いない。しかし、映画は私にとってそれほど身近ではなかった。僕が住んでいた徳島県南部には映画館がなく、往復2時間以上かけて映画館に行かなければならず、映画館に行くことは特別なことだった。
一方で、アニメや漫画は身近なものだったように思う。『ドラゴンボール』や『スラムダンク』が週刊少年ジャンプで連載していた時は、小学生から中学生にかけてだった。「今週のジャンプ、読んだ?」という台詞は、私と友人の間では挨拶に近い言葉だった。
ただ、友人たちとの共通の思い出という印象が強く、自分を構成している要素かと言われると、考えてしまう。
そこで登場するのが、やはりゲームだ。
デジタルという画面の中に無限に広がる世界に初めて会った時のカルチャーショックは忘れられない。まさに頭をぶん殴られたような体験だった。
では、私に影響を与えたゲームとは何か?今回、私を構成したともいえるタイトルを厳選に厳選を重ね、3つほど選出させていただいた。
“曖昧さ”から得られた疑似体験
1988年2月10日に発売されたファミコン版『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』(以下、ドラクエIII)は、社会現象となった。発売日にはおもちゃ屋(当時はゲーム専門店も少なかった)に長蛇の列が並び、テレビでニュースになるほどの人気ぶりだった。

私も発売日には手に入らなかったと思う。半年遅れてプレイしただろうか。
2024年にもHD-2D技術によって美麗にリメイクされた。(もちろん、このバージョンも購入し、プレイ済みだ!)ドラクエシリーズの中でも名作中の名作と名高い本作ではあるが、今振り返ってみると、ファミコンという情報量が少ないハードだったからこそ、強い影響を受けたのかもしれない。
現在では、多くのゲーム・漫画・アニメによって西洋文化をベースにしたファンタジーは身近になった。そのため、例えばエルフやドワーフといった西洋ファンタジーに登場する種族についても、多くの人がイメージできるのではないだろうか。
ところが、『ドラクエIII』が登場した当時は、日本では西洋ファンタジーはそこまで身近ではなかったように思う。そのため、「くさりかたびら」という防具が登場しても何のことか分からない。まず、「かたびら」が分からない。今のようにGoogle先生やAI先生はいないので、すぐに調べることもできない。そんなわけで、子供ながらになんとなく「くさりかたびら」を想像するのである。
防具なので、鎧にくさりが巻き付いている。あるいは、腕の部分(籠手)にくさりが巻かれている、といった想像を巡らすわけである。
ほかにも、『ドラクエIII』には「ほしふるうでわ」という道具が登場する。すばやさが2倍になるという超重要アイテムなのだが、ファミコン版プレイ当時は「ほしふる」の部分が固有名詞か、地名くらいにしか思っていなかった。
ところが、20代になってからだろうか。攻略本か何かで「星降る腕輪」と書かれていて驚愕したことがある。確かに『ドラクエIII』の中でも名前の由来をどこかで語っていたような気もするが、そんなことはすっかり忘れ、「ほしふる」さんの腕輪かなんかだと思い込んでいたのである。
ファミコン時代のタイトルにはこういうことが多々あった。容量などの制限から、ひらがなやカタカナを用いて表記する作品が多かったのだ。知らない単語や固有名詞に関しては想像するしかない。
ただ、このようにファミコンという表現力に限界のあるハードだったからこそ、プレイヤーそれぞれで少し思い出が違うのではないかと思っている。
上記のとおり、未知の言葉に出会った時、プレイヤーは頭の中でその物や事を想像し、補完する必要があった。そのプレイヤーの脳と画面に映し出された世界がリンクすることで、今でいうちょっとした「異世界転生」を起こしていたとさえ言えるかもしれない。
そう、私にとって『ドラクエIII』は、まさに別の世界を冒険する疑似体験を与えてくれたタイトルと言えるのだ。

映画とゲームが融合した傑作
『ドラクエIII』での体験を吹き飛ばしてくれることになるタイトルが、私の次の構成要素なのではないかと考えた。
それが、冒頭で触れた小島監督が制作した『ポリスノーツ』である。小島監督といえば、『メタルギア』シリーズや『デスストランディング』シリーズを代表作として挙げる人が多いだろう。私も、もちろんこの2つのシリーズをしっかりプレイしているが、それでも小島監督作品の中で『ポリスノーツ』が最も好きな作品である。

『ポリスノーツ』はアドベンチャーゲーム(以下、ADV)に位置づけられるタイトルである。ADVとはプレイヤーが物語の主人公となり、探索や会話、謎解きなどを通してストーリーを進めていくコンピュータゲームのジャンルだ。本作は1994年にPC版が発売され、1995年に3DO版、1996年にPlayStationとセガサターンで発売される。私はPlayStation版でプレイした。
PlayStationやセガサターンが登場した当時、ゲームでは3DCGやアニメーションでの表現が広がり、音声・音楽の表現もリッチになっていた。登場人物の会話の多くが声優の実際の声で語られ、重要パートはアニメーションで描かれた。20代の人からしたら「何を言っているのか?」と思われるかもしれないが、キャラクターにアニメーションや音声が付くことは、当時では革新的なことだった。
そんな環境の中で、本作が素晴らしいのは真の意味で「映画とゲームを融合させた」作品であるからだと思う。
主人公のジョナサン・イングラムは、コロニー外活動用ポリススーツ「EMPS」の試験運用中に起きた事故に巻き込まれ、25年間コールドスリープ状態だった。そのため、55歳でありながら肉体は30歳のままという設定で物語はスタートする。
つまり、社会復帰した時には妻(正確には元妻になっている)や相棒は歳を取ってしまっており、社会は大きく変容してしまっている。そんな中、探偵として生きている主人公ジョナサンの元に前妻からの依頼が入り、物語は始まっていく。しかし、捜査を続けているうちに大きな陰謀と、自分がコールドスリープになった事故とが結びついていく。

あらすじを書いてみたのだが、ゲームタイトルであることを事前に知らないと、映画、あるいはアニメ作品だと勘違いする人もいるかもしれない。
私が体験したのは、まさに「映画の中に深く入ったような感覚」だった。『ドラクエIII』のような自分の想像とゲームの内容がリンクするのではなく、作品の中にどっぷり浸かり、その世界に以前から住んでいたような不思議な感覚。そのため主人公ジョナサンの怒りに共感し、悲しみに涙した。
そこまで私が没入できたのには、やはり映画に精通していた小島監督の演出力が大きかったと思う。
本作は、カメラワークとカット割りが映画的であるとも評価されてきた。緊迫した場面でのズームインや意味深な小物へのカメラ移動など、映画のワンシーンを観ているような体験を常時与えてくれる。
また、ゲームとは思えない物語の作り込みも作品の中にぐっと引き込まれる要素だ。本作では臓器売買が1つのテーマになっているのだが、「宇宙という無重力空間での長期滞在が、人間の骨や臓器にどのような影響を与えるのか」という医学的・SF的な発想が根底にある。
そういった緻密な演出、徹底的に作りこまれた重厚な世界観が、私にとっては「映画をプレイしている」と思わせてくれたタイトルであることは間違いない。
ゲームだからできるifの世界
最後に選ばせていただいたのは、『機動戦士ガンダム ギレンの野望』である。

ただ、このタイトルを語るにあたり、大前提として私がアニメーション作品「機動戦士ガンダム」が大好きであることを記さないといけない。その中でもアムロとシャアという2人の物語を描いた初代「機動戦士ガンダム」から「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」までのいわゆる宇宙世紀の物語は、もはや何度観たか分からない。
実際にガンダムのゲームタイトルは数多く発売されていた。その中の多くがアニメーション作品の追体験だったり、アニメーション作品のサイドストーリーとして作成されたものが多かった。
ところが、本作はまさかのアニメーションで描かれたメインストーリーを書き換えてしまうというものだったのだ。1998年にセガサターンで発売された本作では、「もしも◯◯になっていたら」という別の世界線をみることができた。しかも、一通りではない。プレイヤーの選択によって分岐するという、多層的なifなのである。当時の私にとって、衝撃的な体験だった。
アニメでは、一年戦争と呼ばれる地球連邦政府とジオン公国の争いは、最終的に地球連邦政府の勝利で決着する。その後の物語はアニメーション作品「機動戦士Zガンダム」や「機動戦士ZZガンダム」に引き継がれていくことになるのだが、本作では選択次第で、ジオン公国を勝利に導くこともできる。
ちなみに本作でプレイヤーは、アムロやシャアといった主要人物を操作するわけではない。地球連邦政府であればレビル、ジオン公国であればギレンの立場となり、それぞれの勢力を指揮するのである。
アムロとシャアも登場はするのだが、それぞれの陣営のエースパイロットとして登場する。つまり、全体のいち兵力として登場するのである。(ただ、エースパイロットの中でもこの2人は飛び抜けて強かった)
確かに、アニメーション作品のファンとして、「あの人物が生きていればどうなったのだろう」といった妄想を一度ならずしたことはある。ただ、これはあくまでファンの妄想でしかない。そんなファンの妄想を叶えてくれたのが本作なのである。
「機動戦士ガンダム」はマルチメディア展開の先駆けのような作品である。
テレビアニメとして人気が出たことで、映画版が作られた。プラモデル(玩具)として展開され、「ガンプラ」は今やひとつのジャンルともいえる。ゲームはもちろん、漫画作品もかなり多い。ガンダムだけの漫画雑誌「ガンダムエース」が刊行されているくらいだ。
しかし、その出発点は全て「ファーストガンダム」と呼ばれるアムロとシャアの物語である。ところが、『機動戦士ガンダム ギレンの野望』はプレイヤーの幾つもの選択肢により変化する、アニメーション作品とは異なる未来をみせてくれる。
それはアニメーションファンにとっての夢であり、インタラクティブな要素を持つゲームでなければできないシステムでもあるのだ。
こんなマルチメディア展開があるのか……と驚愕したものである。
大胆な企画とゲームというプラットフォームでしかできない快作だったといえるだろう。ゲームというエンターテイメントの新しい可能性を見せてくれた作品だったと思う。
今回は私を形作った作品について考えてみた。今の若いゲーマーの方にはひとつも共感できなかった内容かもしれない。ただ、今回この原稿を書かせてもらって、私はやはりゲームによる影響を強く受けたのだと改めて感じた。
もちろん、映画やアニメに感動し、涙したことも数え切れないほどある。それら作品の中には今も心の支えになっているものもある。
ただ、改めてこうやってまとめてみると、ゲームの体験はそれらと大きく異なる。なぜなら、必ずそれら体験には技術の進歩がセットになっているからである。
単に物語やゲームシステムを楽しむだけではなく、新しい技術に乗せられたクリエイターの熱を時代ごとに感じられたからこそ、私の記憶に強く刻まれ、今もその体験を色鮮やかに思い出せるのかもしれない。それは、インタラクティブ性という唯一無二の体験を持つ、ゲームでしか味わえないことだ。ゲームという存在は、プレイヤーがプレイして完結する。だからこそ、強い体験として私の中に残っているのだと、改めて感じた。
そして、今も私は次の体験を求めている。
現実と区別がつかないほどの映像表現ができるようになった現代において、ゲームはどんな新しい体験を与えてくれるのか。
多分、一生、私は探し続けるのだろう。
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