パワーレベリング容認論


パワーレベリング(以下「PL」)という概念があります。それほど一般的な呼称ではありませんが、ゲーム内で先行しているプレイヤーが他のプレイヤーを「引率」し、相対的に高い効率でレベル上げやアイテム収集などをする行為を指します。

PL は嫌われがちです。いわく、ゲームバランスが崩れる。いわく、他のプレイヤーの迷惑になる。いわく、ゲームの楽しみを奪う。いずれもそれなりの正論です。しかし、本当に全部が全部を鵜呑みにしていい「道理」なのでしょうか?

まず、そもそも論としてゲームにおいて道徳や倫理をユーザーが勝手に規定すべきではありません。不具合に修正を当てることすらままならなかった10年前ならいざしらず、今はどのようなハードで、どのような規模でリリースされた作品でもそれなりの手間とコストさえ払えばパッチを当てることはできます。

ゲーム内で実践できる行為はすべてゲームの仕様であり、世界そのものです。そこに不快感を感じ、勝手にルールを設定してゆくのは原則的にユーザー側の高慢です。ゲームの世界を定義するのは21世紀の現在ではあくまでもゲームを開発する創造主たちにのみ許される所業であり、勝手にマイルールを作り上げてしまうのは異常です。それが仮に単一のユーザーでなくコミュニティから上がった声だとしても、です。

無論、プログラムとしてのゲームにおいて完全なルールを設定するのは困難でしょう。ときおりネットで晒しあげられる稚拙で蒙昧な発言ですら、徹底的な制限や制裁をくわえていたらゲームそのものが破綻しかねません。ですから、すべてをクリエイターの制御下におけというわけではありません。そのあたりはどうしても現実世界の一般常識に頼るほかないでしょう。

ひるがえって PL は、どこをどう解釈しても「仕様」そのものです。バギーな挙動を利用した稼ぎプレイではなく(筆者はそれすらも容認派ですが)、ましてやチートの類では一切ありません。もし PL が不特定多数のプレイヤーに迷惑をかけることになるとすれば、それはゲームそのものの欠陥にほかなりません。

PL はどこまでいっても PL でしかありません。ひたすら効率を追い求めた結果たどり着く邪道などではありません。友達と至極普通にプレイしていても発生しうる事象です。そんなものまで忌み嫌っていたら誰ともマルチプレイできない静寂の世界だけが残ります。

 

状況だけ切り出せばPLだが……
状況だけ切り出せばPLだが……

 

解決策というほど大げさなものはありません。事は非常に単純です。PL する側とされる側、双方にメリットとデメリットを用意すればいいのです。そうすれば、ただ「やっていて気持ちいいから」という理由だけから脱却し、より合理的で理性的なゲームができることでしょう。そして、「自己中心的なプレイをしている寄生」や「ゲームバランスを崩壊させるスポイラー」といった誹りを免れることにも繋がります。

改めていうまでもないことですが、この程度の対策は多くの作品で織り込まれています。とくに PC プラットフォームを中心としたタイトルで、かつマルチプレイがゲームの根幹にかかわるものでは考慮されていないことのほうがむしろ少ないかもしれません。しかしながら、残念なことにそうでない作品も散見されます。

筆者自身そこそこシリーズ作品を愛してきて、ときには炭鉱夫のようにプレイしてきたシリーズ最新作『モンスターハンター4』は直近の事例として挙げられます。ゲーム自体は不朽かつ不動のサザエさんとしての魅力が詰め込まれていますが、PL にかんする配慮はどうだったでしょうか?

なぜマッチングで HR や装備性能を制限・指定できないのか。なぜホストがゲームプレイの趣旨をほんのわずかでも説明できるようにしないのか。なぜ狩猟行為への貢献度によりアイテムドロップを変化させないのか。なぜプレイに必須のアイテムを手に入れるのに複数の画面遷移を強いるのか。いずれもそれほど複雑怪奇な設計ではないでしょう。にもかかわらず、製作サイドによる”世界設計”はなされず、結果として「上位なめてる?」「ハチミツください」「達人部屋だ」が生まれているのです。

本来であれば、PL はする側もされる側も快感を獲得するはずであり、そうであってしかるべきです。どうしてもそうした楽しみを奪いたいのならば、仕様として最初から組み込むのが正道というものでしょう。ましてや、「ユーザーのモラル」「ネットプレイでのマナー」に依存すべきではありません。主観と主観のぶつかり合いと下らない戦争の火種になるだけです。恐ろしいことに、製作サイドからモラルやマナーといった言葉がアナウンスされることがあります。仕様変更にかかるコストとたった数行のアナウンスにかかるコストを天秤にかけた結果なのでしょうが、いくらなんでも志が低すぎるのではないでしょうか。

郷に入っては郷に従えといいます。PL を毛嫌いする人相手に自らの正義を振りかざして啓蒙することもまた不毛です。ですが、もしこれをお読みになった方で PL と聞くだけで蕁麻疹が出るような方がいらっしゃったら、一度熟考してみていただきたいのです。何故あなたは PL を嫌うのですか?自分が乗り越えてきた苦難を軽々と乗り越える様子が気に食わない?レベルや装備だけ高まっていて中身の伴わないプレイヤーが増えて迷惑する?

なるほど。理解はできます。そして、知ったことではありません。ゲーマーはいつでも自由闊達にプレイするべきです。「常識的で清いプレイング」なんてものをアーリーな層が定義するのは、まさしく邪悪そのものですらあります。どうしてもそれを強いたいのならば、その価値観を共有できる者達とクローズドコミュニティを形成するのが筋です。また、PL によりゲームの飽きが早くなるという意見もありますが、それはゲームがその程度の出来であるというだけです。次のゲームを探しましょう。

PL に限りませんが、あまりにも目に余るどうしようもないプレイングとして暗黙知にされるべきは本当に修正ができないときだけです。2013年現在でも、多くの古いゲームがやりこまれています。その中にいわゆる禁じ手がコミュニティ内で設定されるのは仕方ないでしょう。やりこまれる過程で奇跡的に見つかった致命的な綻びというのも、ままあるからです。ただし、繰り返しますがこれは現代の作品ではまるで通用しないロジックです。

親の敵のように PL を憎む向きの心境をまったく理解できないわけではありません。しかし、少しばかり寛容の精神を持ってみるのはいかがでしょうか。PL は1つの重要なスタイルです。カネが絡むならいざしらず、所詮はデジタルなパラメーターばかりです。引っ張りあげたりあげられたり、そこに快楽を見出すことこそが真に前向きなゲーマーというものです。

 

ゲーマーに大海原の心を。
ゲーマーに大海原の心を。

 

[More Coverage]
対戦型マルチプレイにおけるアンロック制度不要論