最新作、レトロゲーム。私が2匹のウサギを追いかけるその理由

ビデオゲーマーとしての私を知る人に、一度は必ずこう忠告される。

「新しいゲームも古いゲームも遊ぶくらいなら、どちらか一方に絞ったほうが良い」
「そんなに急いでゲームを買わなくても、評価が固まってからでいいじゃないか」

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これは確かにその通りで、つまらないゲームに手を出してしまうことがないようにと、あえて一歩待つというのは至極まっとうな姿勢であるといえる。誰 だってつまらないゲームを高いお金を出したくはない。私とてそれは例外では無い。新作ゲームを買うというのはリスキーな行為なのだ。

 


新作を買うという愚行

 

翻って視野をレトロゲームにまで広げてみると、不朽の傑作も世紀の怪作も稀に見る駄作も、かつての先人たちが既に下した評価がいくらでも参考にでき る。それを鑑みると、未知の新作を買うというのはある意味で愚かしい行為ともとれるだろう。まして、優れたゲームの持つ「そのゲームの純粋な面白さ」とい うのは経年劣化とは縁遠い。そうした過去の評価の高いゲームだけ遊んでいればよいのではないか、そういう考えにも一理ある。

一理あるが、私はそういうゲームへの向き合い方をするつもりはない。可能な限り新旧問わずゲームを追いかけていたいし、今のところそれをやめるつもりはない。旧作やレトロゲームが決して持ち得ない「新奇性」を持ちうる可能性があるのは、いつだって新作ゲームだけだからだ。

 

マーブルマッドネス(ATARI 1985) 私の人生を決定づけたゲーム。
マーブルマッドネス(ATARI 1985)

私の人生を決定づけたゲーム。

 

 


「未知」の持つ輝き

 

ビデオゲームにかぎらず、こうしたコンテンツは「新たな可能性」が実際に提示されたその瞬間から風化してゆく。新しさ・斬新さといった要素が持つ輝 きは時とともに剥がれ落ちていき、その最も強い輝きを実際に目の当たりにできる期間は、それが世に出た直後の、ほんの僅かな期間しか無いのだ。

その新奇性を生み出すのに、技術の進歩は不可欠である。もちろん「最新技術」を全面に押し出すタイトルにろくでなしが多いのは否定できない。しかし 技術がなければ新奇性を産み出すことは難しい。「L.A.Noire」の「役者を実際に取り込んだ表情とボイスから相手の嘘を見抜く」という遊びはカメラ やモーションキャプチャの技術の進歩なしには実現できない内容であり、「Tiny and Big: Grandpa’s Leftovers」の「地形を自由に切断して未知を切り開く」という遊びも、物理エンジンという技術が普遍的なものになったために生まれたものだ。これ からも大多数の新しい遊びは、その時々での最新技術に裏打ちされた形で出てくることだろう。

それに、最新ゲームに使用される技術というのは、その時々でのトレンドな技術であることも多く、それが発売された時点での「旬」を私に教えてくれ る。その旬とは時として物理エンジンであったり、表情エンジンであったり、影生成の技術であったり、「自然なAI」であったり、不必要なオープンワールド 要素であったりと多岐にわたるが、私はそうしたゲームの持つ、どこか最新技術に振り回されているというような空気が好きである。

 

 

Tiny and Big: Grandpa’s Leftovers(Black Pants Studio 2012) 地形をレーザーで切り刻んで足場を作ってゆくアクションパズル。 何でも切れる。そして潰される。
Tiny and Big: Grandpa’s Leftovers(Black Pants Studio 2012)

地形をレーザーで切り刻んで足場を作ってゆくアクションパズル。

何でも切れる。そして潰される。

 

旧作ゲームは確かに「面白いゲーム」の宝庫だ。過去の評価を参考に、旧作・レトロゲームだけを見ていけば、一定の水準以上を保ったゲームに出会い続 けることはできる。おそらくは今よりも確実に、堅実に。しかしながらそこで出会えるゲームは「新しいゲーム」ではない。それはかつて「新しさという輝きを 放っていた面白いゲーム」であり、その輝きを私が目の当たりにすることはもう絶対にできないのだ。
私はその輝きをこそ味わいたい。そのゲームが持つ、一番の輝きを眼にしたい。たとえそのためにどんなに徒労が増えるとしても、ハズレを掴まされたとしても、私は新しい可能性と、その輝きを目の焼き付けておきたいのだ。

 


レトロゲームの魅力

 

その一方で、私は同時にレトロゲームも愛している。先述の通り、今でも語り継がれる「遊べるレトロゲーム」というのは、その面白さのコアが経年劣化 の波に耐える骨太さを持っている。新奇性や話題性というのがゲームにとってとるに足らない贅肉であるとするならば、その淘汰に耐えた、いわばそのタイトル の本質がさらけ出された状態にあると言える。優れたゲームは時の流れとは無関係な、普遍的な魅力を持っていることが常であり、それは今遊んでも何らかの魅 力を見出すことができることが殆どである。

また、レトロゲームといえど過去に「旬」であったことには変わりなく、「このゲームの発売が許されるというのはどのような時代であったか」というこ とを考えるのも楽しい。そういう意味では、視点は違えど「その時代を味わう」という点において、私のビデオゲームに対する姿勢は新作もレトロゲームも大し て変わらない。

もしこの先私が何らかの理由で「新作を追いかけることとレトロゲームを追いかけること」のどちらかを諦めなければならなくなった場合、私は躊躇なく レトロゲームを諦めるだろう。私はビデオゲームにただ面白いというだけでは足りない「新しい体験」を求めており、それをレトロゲームから得ることは不可能 だからだ。

そういうことが起こらない限りは、私は常に最新ゲームを追いかけつつ、過去の遺産を掘り返すことも辞めることはない。新作ゲームは未知の可能性で、レトロゲームは色褪せない普遍性で、私を楽しませてくれるだろう。

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Rokurou Eyama
ビデオゲームとアメコミとバイク(盗難被害遭遇済)をこよなく愛する30台前半。レトロゲームも最新ゲームも等しく同じ大切なプレイ対象である。 幼少期に出会った『マーブルマッドネス』の衝撃でビデオゲームに目覚め、なぜか実家に転がっていたMSX2+に親しみ、バーチャルボーイに立体視の未来感を植えつけられゲーム人格が形成されていった。STGからRTSまでどんなジャンルも遊んでみるが女の子がいっぱい出てくるゲームは苦手。

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