『Blues and Bullets』レビュー 卓越したタイポグラフィ表現とジャンルの再構築


もはや半ば忘れ去られつつあるが、「セミ・ドキュメンタリー」という映画のジャンル名をご存知だろうか。これは1945年から1950年にかけて作られた選密な取材と考証に基づいた作風と野外撮影を特長とした実録系刑事ドラマのことだ。

セミ・ドキュメンタリー映画は現在ではフィルム・ノワールとして分類されがちだが、フィルム・ノワールの映画群がダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ジェームズ・M・ケインなどのハードボイルド小説を起源としている。一方で、セミ・ドキュメンタリー映画というニュース映画出身である映画プロデューサーと、映画を通じて組織の活動を啓蒙しようとしたFBIにあり、源流は明白に異なる。

FBIが製作に協力した異例な映画『Gメン対間諜』。刑事ドラマの方向性を決定づけた記念碑的作品である
FBIが製作に協力した異例な映画『Gメン対間諜』。刑事ドラマの方向性を決定づけた記念碑的作品である

セミ・ドキュメンタリー映画は、FBIが製作に協力した1945年の映画『Gメン対間諜』から始まり、このジャンルの最高傑作とも評される『裸の街』(ゲーム『L.A.ノワール』のDLCタイトルとして引用された)、刑事バディものの雛形であるラジオドラマ『ドラグネット』、我が国では黒澤明監督の『野良犬』が有名だ。

セミ・ドキュメンタリー映画はリアリズムやディティールを重視したため、いささか地味な作風となった。そのせいかおよそ5年で失速したのだが、このように短いブームが一巡してから1959年にセミ・ドキュメンタリーの流れを受け継いだ刑事ドラマの完成形があらわれる。それがエリオット・ネスの自伝を原作として、アル・カポネ逮捕劇を描いたテレビドラマ『アンタッチャブル』なのである。そして現在、『アンタッチャブル』を参照したビデオゲームが登場した。エリオット・ネスが主人公のミステリーアドベンチャーゲーム『Blues and Bullets』だ。

 

リニア構造の3Dアドベンチャー『Blues and Bullets』

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Blues and Bullets』は『SUGAR KID』や『Funk of Titans』といったカジュアル向けのゲームをリリースしていたA Crowd of Monstersから一転、渋めのゲームとして3作目としてリリースされた。フランク・ミラーのコミック&映画『シン・シティ』のように、モノクロームに赤の色彩が混濁するグラフィックが目を引く。全5エピソード予定されており、現在はエピソード1『平和の終焉』のみリリースされている。

ゲームそのものはQuantic Dreamの『Heavy Rain』やTelltale Gamesの『ウォーキング・デッド』、などと同じく、キャラクターを操作し、ときおり選択肢を選んでいくタイプのアドベンチャーゲームだ。これ自体はさほど傑出した出来とはいえないのだが、Take-Twoの『MAFIA』シリーズや『L.A.ノワール』など、この手のギャングものやノワールを題材としたゲームは、オープンワールドやアクションアドベンチャーが多いので、ドラマを主軸とした手堅いリニア構造の3Dアドベンチャーはむしろ新鮮に感じる。

 

卓越したタイポグラフィ表現

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とりわけ圧巻なのは主人公が幻影を見る心象風景のシーンである。水面上でネオンサインを画面全体にタイポグラフィ(文字の装飾表現)として際立たせて表現したイメージは強烈である。近年、『Splinter Cell Conviction』や『The Stanley Parable』でもタイポグラフィを効果的に見せるゲームがあった。またハードボイルドものでは『マックス・ペイン』の心象風景もシュールリアリスティックで魅力的ではあった。しかし『Blues and Bullets』の心象風景シーンは、これらの挙げたゲームを上回る夢魔的なイメージを提供している。

 

なぜ『アンタッチャブル』なのか?

それにしても、なぜ、エリオット・ネスとアル・カポネなのだろう。しかもこのゲームのエリオット・ネスは、1987年にリメイクされた映画『アンタッチャブル』でエリオット・ネスを演じたケヴィン・コスナーよりも、テレビドラマ版で演じたロバート・スタックに近い風貌をしている。

右: テレビドラマ版『アンタッチャブル』でエリオット・ネスを演じたロバート・スタック
右: テレビドラマ版『アンタッチャブル』でエリオット・ネスを演じたロバート・スタック

まず何よりテレビドラマにより近いエピソード形式の販売スタイルをとっている共通点があるわけだが、歴史的な観点からも説明は可能だ。上述したとおり、『アンタッチャブル』はセミ・ドキュメンタリーの完成系であり、刑事ドラマの一つの雛形となった。アンタッチャブルとは賄賂を受け取らないものを指し、ドラマではエリオット・ネスを中心とした、個性豊かな仲間たちとチームワークを発揮しながらアル・カポネとその一味を追い詰めていく。

だが『Blues and Bullets』ではどう描かれているだろうか。ゲームの過去のシーンにおいて史実やテレビドラマと違いエリオット・ネスに仲間はおらず、孤立無援になっている。酒におぼれ挫折したエリオット・ネスは現在では引退し、年老いてレストランを営んでいる。そこに奇妙な依頼がまいこんでくることによって、刑事ではなく探偵としてエリオット・ネスは物語に復帰する。

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これはすなわち『シャーロック・ホームズの帰還』以来の伝統である、ヒーローがいなくなって悪が跋扈した不条理な世界を仮定し、そこに引退したヒーローが帰還してくる物語をゲームで描きだそうとしているわけである。フランク・ミラーの『バットマン:ダークナイト・リターンズ』や、アラン・ムーアの『ウォッチメン』のようなアメコミの金字塔たちと同じ問題意識がここにはある。壁に書かれた「警官たちはどこにいった?」は『ウォッチメン』のオマージュだろう。そのようなヒーロー批評的要素に対して、歴史的視座を獲得したい場合、テレビドラマ版『アンタッチャブル』は打ってつけだ。刑事ドラマの原点を参照項としつつ、ヒーローが復帰するところから出発することによって、ジャンルの再構築を試みているわけだ。

 

ジャンルを再現するのではなく再構築すること

セミ・ドキュメンタリーの完成形である『アンタッチャブル』を、挫折したフィクションとして仮定し、フィルム・ノワール的彩色でもって再構築する方法論自体、ジャンル映画をゲームで再現する他のゲームとは一線を画するものだ。しかも誘拐事件の捜査の際、出くわすのは1980年代から1990年代の『エンゼル・ハート』や『セブン』などの映画で描かれたようなオカルトを含んだ猟奇殺人である。エピソード1は2時間ほどで終わるボリュームだが、出だしとしては刑事ドラマや探偵ミステリーの古典から近年までのエッセンスを抽出したフルコースを堪能しているようだった。

さらにこのゲームは、さきほど挙げた『ウォッチメン』のように、このゲームは偽史を通じてもうひとつのアメリカを暴き出そうとする野心すらも見え隠れする。エピソード1だけではそれがいかなる形になるのかは計り知れないが、このゲームがアートスタイルだけのゲームではないことは確かだ。引き続き、エピソード2の配信を首を長くして待っていよう。