AUTOMATON vs. トイボックス 和田康宏、金沢十三男のこれまでとこれから(前編)

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トイボックス株式会社の和田康宏氏、金沢十三男氏の両名にお話をうかがいました。和田氏の代表作は『牧場物語』。金沢氏は『レッド・シーズ・プロファイル』(海外題:『Deadly Premonition』)の生みの親でもあります。さまざまな思惑の交錯する昨今のゲーム業界にありながら、ツーマンセルで動くトイボックスの真相にせまります。

[収録日: 7月某日]


――今回のインタビューはとくにこの作品の話を、というかたちではありません。トイボックスさん全体のことと、クリエイターとしての和田さんと金沢さんのことをお聞かせいただけたらと思います

では最初はトイボックスさんがスタジオを設立した当初のことをおうかがいします。おふたりともマーベラスエンターテイメント出身です。なぜ新しく会社を設立されたのでしょう?

和田氏:
僕がゲームの仕事を始めたのが1990年、1991年から。思えば長くやってきました。最初は制作をやっていましたが、必要であれば開発の中にも入っていきました。そういうかたちで90年代やっていたのですが、自分でものづくりをする割合と、マネジメントをする割合が、最初9: 1だったのに、だんだん逆になっていきました。歳もとりましたし、キャリアも積んできて、マネジメントができる人・経験を積んだ人としての扱いが大きくなり、その比率が増えていってしまったんですね。

もともと僕らはビクターのゲーム部門でゲームを創っていたんです。その後、マーベラスエンターテイメントに買収されて、そうこうしているうちに、古株の人が辞めていった。結局、僕が管理職を中心にやらなきゃいけない状況になっていきました。歳も歳だし、徹夜をずっと続けるのもしんどいし。仕事をシフトしていかなきゃならないんだろうなという考えも少しはあったので頑張ってはみたのですが、やっぱり創りたいな、という思いが強く残っていました。このままだとちょっと後悔しそうという思いがあり、2009年にグラスホッパー・マニファクチュアに移りました。

 

――マーベラス時代の『NO MORE HEROES』などのつながりでしょうか?

和田氏:
『NO MORE HEROES』は僕と須田さんで立ち上げました。かなり面白いことができたと思っています。

マーベラスエンターテイメントはパブリッシャーです。もちろん中に開発もあったんだけれども、基本的にはパブリッシャー。グラスホッパー・マニファクチュアはデベロッパー。会社のあり方としてグラスホッパー・マニファクチュアはものを作る会社で、マーベラスエンターテイメントはものを売る会社です。当時の僕にとって、マーベラスエンターテイメントに残って開発に移りますというのはさすがに無理があったので、いったんそこを離れて、須田さんのところでできることがあるのではないかと。そういうことで、グラスホッパー・マニファクチュアに入ったのです。ただ、当時グラスホッパー・マニファクチュアもかなり大きくなっていて。そこにいるのは結局みんなゲームを作る人たち開発なので、大きくなった組織のなかで何が必要かというと、マネジメントだったという(笑)

 

――結局はそこに。

和田氏:
「あれっ?」と(笑) 「なんか、創りたいから開発会社に入ったんじゃなかったっけな?」みたいな。そういうことを相談させていただき、早いほうがよいだろうということで辞めさていただきました。グラスホッパー・マニファクチュアには1年半位いたのですが、2011年に、グラスホッパー・マニファクチュアを退いたときに、本当にもの創りがしたいなら、絶対にインディペンデントなかたちでやるしかないと思い立ち、会社を作りました。

僕の創ったものって、不思議と欧米のほうで評価をいただいているんです。まあ、日本国内でもそれなりに売れてたんですが、ほかの有名なクリエイターさんたちみたいに何十万も何百万も売れるようなものでもなくて。どちらかというと海外のほうが好きになってくれる人がいました。そういう意味では海外に精通したパートナーがいるといいな、と僕は思っていたんです。

そのころ金沢も次のステップ、道を探しているということがありました。彼も、やはりクリエイティブとマネジメントの両面をもっているようなコウモリみたいなやつで(笑) そういう意味では結構系統は僕と似ているんです。

 

――金沢さんは「色が強い」ですよね。

和田氏:
じつは、創っているものは真逆なんです。それが僕はかえっていいなと思っています。僕の「ゲームの世界がこうあったらいいな」という理想は、いろんなものがそろっていることです。

 

――多様性ということでしょうか?

和田氏:
そういうことですね。たとえば、AAAの人殺しFPSが世界で一番売れていたりしますけれど、それを否定する気はまったくありません。自分もやりますし、面白い。でも、みんなが「ああいうのが売れるんだ」と思ってFPSだけのゲームの世の中になったらまずいと思います。

それに対するアンチテーゼとしてというか、対抗勢力みたいなもの……たとえば対極にあるのは『どうぶつの森』とかかもしれない。そういうものもちゃんと隆盛を誇っていて、FPSも隆盛を誇っている。もっというと、いろんな雑多なものが、それぞれそれなりに頑張って元気である、活況を呈しているみたいな状況が、ゲーム文化のあり方として健全だなという理想というか、思いがあります。

そのなかでトイボックスができることってなんだろう、と考えていくと、やはり「自分がこういうのがやりたい、それに賛同してくれる人ついてきてくれ」というよりは、「じゃあ、自分はこういうものを創る」「あ、これも面白いな、でも俺はこういうものを創る」という関係性が成り立つパートナーがいいなと思っていました。

話が戻るのですが、僕が創ったものが欧米で受け入れられていたということがあったので、海外でビジネス・デベロップメント的なことができる人がいいなと。ということで、たまたま金沢のもっている個性とマッチしたのです。僕がマーベラスエンターテイメントにいたときに、2005年にイギリスにRising Star Gamesという会社を作りました。

 

――どういう会社ですか?

和田氏:
当時、マーベラスエンターテイメントとスウェーデンのBergsalaというディストリビューターの間でゲームのパブリッシャーをヨーロッパに作ろうという動きがあって、結果的に半々の出資でRising Star Gamesを設立しました。そこにプロデューサーとして金沢に行ってもらったのです。

 

――海外経験がおありなのですね。

和田氏:
はい。ちょっと行ってよと言いながら、結局5年近くいてもらったのですが。そういう流れもあって、金沢はかなり海外の経験もあるし、コミュニケーション能力もあるし、色々な意味で最適なパートナーだなと思いました。彼自身も次のステップを模索しているときで、じゃあ一緒に作っちゃおうかという流れになったんです。

 

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――なるほど。ところで須田さんとのお付き合いは『NO MORE HEROES』のときからですか?

和田氏:
じつはビクターの時代に『花と太陽と雨と』でご一緒しています。元々はアスキーさんで創っていたんですが、当時ちょうどアスキーさんがゲームを自分達で創るのはやめるような方針をとっていたタイミングでした。それで宙に浮きそうだったんですが、「これは面白い!よね」って思ったので、いろんなことをまとめてビクターで販売させてもらいました。それが最初のご縁ですね。

 

――クリエイターとして同じタイプという感じではないように感じますが?

和田氏:
さっきの話じゃないですが、何か創っているものが違うからよけい面白いと思うんですよ。たとえば映画を観るにしても、僕はヒューマンドラマもスプラッタも面白いと思いますし、音楽の趣味が近くて前から話が盛り上がったりもしていました。それでぜひ一緒に新しいものを創りましょう!と始めたのが『NO MORE HEROES』です。『NO MORE HEROES』は続編まで一緒にやらせてもらいました。

 

――なるほど。ではまた古い話ですが、和田さんがマーベラスに入る以前の話をもう少しお聞かせいただけますか? まず、ゲーム業界に入られたきっかけは何でしたか?

和田氏:
元々、じつは僕はリクルートにいました。それは2年ちょっとですけど。リクルート・フロム・エーという会社です。そこで広告を作ったりをしていたんですが、なんだろう、ちょっと実体が無いものを作っていることに対する疑問みたいなものを、青い意味で持っていました(笑)

「これでいいのかな?」と。本当はもうちょっと実態のあるようなモノ創りをやってみたい、ということを働きながらずっと思っていました。そこで仕事を探していたときに出会ったのがパック・イン・ビデオという会社で、スタッフを募集していました。それを自分のところの雑誌『フロム・エー』で見つけて応募したのです(笑) そうしたらたまたま受かって。それがきっかけです。

 

――なるほど。スーパーファミコンくらいの時代ですか?

和田氏:
スーファミが出たばっかりくらいかな。1991年なので。最初はファミコンのローカライズみたいな仕事をやっていました。

 

――海外向けの?

和田氏:
逆です。

 

――ということは昔の洋ゲーみたいなのを国内向けにローカライズしていらした?

和田氏:
そうそうそう。僕が最初にやったのは『T2ザ・アーケードゲーム』っていうアクレイムという会社が作った横スクロールのゲーム。昔『グーニーズ』ってゲームあったのですが、あんな感じのゲームですね。

 

――懐かしいですね。あの時代は映画原作のゲームで微妙な作品もかなり国内に入ってきていましたね。

和田氏:
パック・イン・ビデオって大きな声じゃ言えないけど、当時たんなるユーザーだった僕にとっては『ランボー』とかみたいな、いわばクソゲーを出していたところなんですよ。僕は映画も大好きだったし、ゲームも大好きだったんで、こんなクソゲー出すくらいだったら自分がもっと面白いものを創ってやる! みたいな生意気な気持ちもありました。

会社の面接に行くちょっと前に、たまたま映画の『ターミネーター2』の先行ロードショーがあって観ていたんですよ。これゲームにしたら面白いなと思って、今でいう『Batman: Arkham City』みたいな企画書を作りました。できっこないのに勝手に作ったのです。結局、いきなりそんなものが創れるわけもなく、最初にやったのは『T2』のローカライズ。そんな感じでした。

 

――なるほど。そのあとそのなかで、会社内、自社内のコンテンツはなにか創り始めたのですか?

和田氏:
最初はアシスタント的な形です。ゲーム創りの右も左もわからないので、アイデアだけはあるけれども、それを言っているだけではなにもできません。当時いたプロデューサーの下につけられて、お茶くみやら雑用まで何でもやりながら、いろんなことを勉強しました。

そのころにも社内に開発はあったのですが、すごく小さい規模でした。会社全体でいうと編成のほとんどは海外のタイトルを探してローカライズをするみたいなことですね。スーファミの初期からやっていました。それがそこそこうまくいったので、「じゃあお前も好きなもの作ってみろ」という状況になりつつありました。色々な企画を出しては蹴られ出しては蹴られしながら、93年くらいに企画が通ったのが『牧場物語』ですね。

 

――そのころ、ご自身が出していた企画は創りたいものが漠然としたものでもあったのでしょうか? 今のように映画を観てインスピレーション受けたりすることもおありだった?

和田氏:
そのときは、アクションだったらカプコンさんやコナミさんが創っている。任天堂さんのマリオとかゼルダとかには当然かなわない。何を創ろうと思ったかというと、世の中に全然ないものを、と。そうしないと、先輩たちがすでにすごいものを生み出しているので、その真似みたいなことをしても無理だろうという感じでした。

 

――なるほど。ゲームとしては当時人気があったものがお好きだったのですか?

和田氏:
普通のゲーマーです! ただのゲーマーです。

 

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――『牧場物語』は1993年からスタートしたのですか?

和田氏:
1993年に企画がはじまって、実際に発売したのは1996年。1年半位作っていたら、開発会社が倒産してしまい、社長に逃げられてしまいました。会社に行ったら、パッと裏口から逃げて行きました(笑)

 

――そんな刑事ドラマみたいな状況があるんですか。

和田氏:
蒲田で実際にあったんですよ(笑) じつはその開発会社には、僕とアスミックという会社とエクシングという会社が開発を依頼していて、ラインが3つありました。そのなかで僕とアスミックのプロデューサーと待ち伏せしていたら、裏口にササッと動く影があって。見に行ったら、「あいつだーっ!」ってふたりで追っかけたんです。そしたら本当に踏み切りで電車が来て閉まってしまい逃げられたんですよ。

 

――すごいですね。

和田氏:
マジっすよこれ。漫画みたいな、ドラマみたいな話だけど本当なんです。そのときのアスミックのプロデューサーは梶井さんというんですけど、そのあとSCEに移られて、『デモンズソウル』のプロデュースをされていました。久々に面白いゲームだなと思ったら「あ、梶井さんだ」と。刑事捕物帖仲間。ただ、去年亡くなられて。同い年なんですけど。ガンで。悲しかったです……ごめんさい。あれ、なんの話でしたっけ?

 

――『牧場物語』を手がけたというお話です。1993年に企画があって、1996年にリリース。

和田氏:
でした。一年半くらいたった頃に開発会社が倒産して。ただ、社長は逃げて会社は潰れたんですが、中心になっていたスタッフにうちの会社に何人か来てもらって、会議室に机を置いて、寝袋を用意して創ってもらいました。1996年に発売しました。

 

――『牧場物語』は最初、スーパーファミコンでリリースされています。超老舗シリーズですよね。全部で28タイトル。

和田氏:
あ、そうなんですね。もう、僕も分かってないです。

 

――超がつくロングシリーズですね。世の中にないものという発想で創ったとのことですが、ほかになにから着想を得たのでしょうか?

和田氏:
一番最初のとっかかりは、世の中のゲームの基本はすべて戦うもの、あとは競うもの、というところ。「じゃあ戦わないゲームを創ろう」と。それが面白いのかどうかはその時点ではわからないけど、まず「戦わない」ということを決めて、それで企画を始めました。なぜ牧場にしたかというと、色々あったんですけど、そのときファミコンの『ダービースタリオン』にすごくハマっていて。

 

――『ダービースタリオン』も、戦うのか戦わないのか……

和田氏:
まあ、あれは戦うゲームです。競走馬を配合して育成して戦うゲームですね。でも『ダービースタリオン』がものすごい好きで、超ハマっていました。最強馬を育成したり。さらに自分が田舎もの出身だったので、牧場の雰囲気と合うなと思いました。九州の宮崎です。今日明日は600mmの雨が降るらしいです。

実際に牧場に住んだりといった経験はなかったのですが。『ダービースタリオン』をきっかけとして田舎を舞台として考えました。あと田舎が舞台だと、ほのぼのして戦わないんじゃないかと。それを題材にして考えていった感じですかね。その後でどうしたらゲームになるのかを考えていったなかで、育てるという要素。作物とか動物を育成するというのはゲームになるかもと思って、ではどんなシステムかを考えていった感じですね。

 

――世界観から逆算してる感じですね。

和田氏:
そうですね。ただ、それだけだと普通のシミュレーション的というか、アーケード的だったのですが、RPGとかもやっぱり好きだったんで物語的な要素をくわえてアレンジしていきました。そういった擬似的な人生体験というわけではないですけど、NPCとふれあって成長していくような物語があったら、すごくあたらしいなあと思って。

じつはは最初の時点では「人生牧場」という名前だったんです。牧場を舞台にして、なんの経験もない人が色んな経験を積んでいい牧場主になりつつ、なにかかわいこちゃんともくっついて、子供もつくって、だんだん年老いていって、最後にニコニコ笑って死んでいく。そういうのを創れたらすげえなあ、って思ったんです。

それで『人生牧場』というタイトルを付けたんですが、当時シナリオを書いていた女の子に「絶対売れない!そんなタイトル」と言われて、「えぇー!?」ってなりました。マイナーなものが好きなわけではないのですが、ついついそういう傾向になってしまう。みんなが良いというのと同じではヤダなという、あまのじゃく的なところがあるのです。でも『人生牧場』と付けたら、たしかに売れないかもと思って、すごくノーマルな物語というタイトルにした経緯があります。

 

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――なるほど。世の中にないものを創ろうとした結果、マイナーなものになってしまったと。しかし今のゲーム業界になると、世の中にないものを出そうとすると、説得するのが相当大変ですよね。当時はフットワーク軽く企画が通ったのですか?

和田氏:
えっとですね……簡単ではありませんでした。当時のボスにすごく恵まれていたんです。ゲームのことをまったく知らない人で、音楽畑の人で、ずっとレコードを作って、ちょっと映像を作って、という人でした。

創ることに対するチャレンジに理解があったのと、あとは「べつに好きなものを創っていいけど予算は自分で稼いでね」というノリがあって。「おカネは天から降ってこないよ」みたいな。さっき言っていたローカライズとか色々なキャラクターものとか、大ヒットはしないけど確実に利益が出せそうなものということでそういうことを2年くらいやっていました。その2年で出した利益の中だったら挑戦できるなと。その流れがなかったらたぶんチャレンジできなかった。だから運もよかったと思います。

 

――なるほど。他にも社内で企画を出していた人はいたのですか?

和田氏:
はい、もちろん。みんなそれぞれ。たとえば金沢なんかもそうですけど、当時『魔女たちの眠り』というサウンドノベルのテキストアドベンチャーをやってましたね。赤川次郎さんにお手紙を書いて「好きです。使わせてください。」と。そしたら返事きちゃって。そんな感じだよね?

金沢氏:
お断りの返事が最初来たのです。嬉しくなって2回目に手紙を書いたら「会いましょう」って。

 

――すごいですね。当時の赤川次郎さんといえば大ヒット作家ですよね?

和田氏:
当時は今よりももっと売れていました。

金沢氏:
絶頂期ですね。

 

――ゲームには興味もっていただけたのですか?

金沢氏:
いや、初めてお会いしたとき「僕全然ゲームしないから、わかんないんですよね」みたいな。よくわからないので、家のテレビで説明してくださいと。

和田氏:
金沢のミステリー路線というかアドベンチャー路線はその当時のチャレンジから始まっているんだと思います。

 

――なるほど。当時は企画がそうやって通っていく。今だったら通るのが難しそうという企画でも意外と出てきてますね。

和田氏:
そうですね。時代背景としていうと、僕らが企画を通したときはそうではなかったのですが、そのちょっとあとはPlayStationとサターンという、いわゆる次世代の流れがやってきていて。とくにPlayStationのラインナップはすごく面白い時代でした。

 

――新人というか若いクリエイターが登場したという話ですね。

和田氏:
それもそうだし、異業種の才能が集まってきていました。たしかフロム・ソフトウェアさんなんかもコンシューマ業界ではないところからの参入だったと思います。『パラッパラッパー』みたいに今までのゲームの発想と違うデザインや仕組みのものが出てきたり。すごくいい時代ですよね。ゲームが盛り上がっている理想的な世界というのがまさにその時代だと思います。1990年代の中頃ってすごく良かったなと。

 

――そういった形でおふたりは経歴を積まれた後にマーベラスに移籍されて。

和田氏:
移ってというか、組織は、変わらないんですよ。じつは、一回も転職とかしたことないんです。

 

――ではチームとかは同じだったのですか?

和田氏:
はい。もちろん辞めていく人、入ってくる人はいますけれども。僕が辞めるまでの僕のいた会社は、ひとつなんです。1991年パック・イン・ビデオに入って、1997年にビクターインタラクティブソフトウェアに名前が変わって、2003年にその状態でマーベラスが、ビクターから会社を買収しました。それで僕らの会社はマーベラスインタラクティブになって、のちに親会社本社と統合されてマーベラスエンターテイメントになったわけです。会社自体は変わっていないはずなんですけど、資本が変わり、名前が3回変わったという感じですね。

 

――では、こちらへ独立するときに、最初に変わったということでしょうか。

和田氏:
そうですね。いや違うか。最初の転職はグラスホッパー・マニファクチュアになります。

 

――トイボックス創設後、開発の体制などは変化しましたか?

和田氏:
体制自体は今のところ変わっていません。というのも、僕自身長いあいだこの仕事をやってきたので、いろんなソフト開発会社を知っています。本当はトイボックスのなかに開発を作りたいのですが、安定して人を雇っていくことは難しくて覚悟のいることだと、経営をやってきたなかで痛いほどわかっているので。まずは強い体制づくりをしていかなきゃという思いが最初にありました。

そのとき「技術があってラインが空きそう」みたいな会社がいくつかあったので、そのなかでうまくコンビネーションを組んでいけば、トイボックスとしてのものづくりはスタートできると考えました。今まで3つ4つくらいの協力会社さんといっしょにゲームを創っています。ここはコントロールタワーというかヘッドオフィス的な場所になっていて、僕らは週の3分の1くらいいる感じです。

現在は開発が落ち着いていて、次の仕込みをしている時期なので会社にいることも多いですが、開発の最盛期は半分以上開発会社のほうに行ったりする。そんな状況ですね。

 


中編へ続きます(9月20日公開予定)。

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