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私は『サイバーパンク2077』について、起承転結のあるストーリーテリングと非リニアなゲームプレイが完全に融合している、ゆえに「人生のロールプレイ」というナラティブを表現することができ、他の同系統RPGと一線を画していると、弊誌レビューにて記述した。

しかしそもそもとして、オープンワールドを採用したゲームでストーリーとゲームプレイを融合させるのはどれだけ難しいことなのか。そして非リニアなゲームプレイを意図したい方向性の中で融合を図るということが、いかなる手法のもと達成され、「人生のロールプレイ」という理念を体現しているのか。これらについて言及することが出来なかった。

これが何故かと言えば、本作はストーリーとシステムが不可分の関係にある、すなわちシステムに関して深く言及するには必ずストーリーにおける核の部分に触れなければならないからである。よって必然的に本稿は『サイバーパンク2077』における極めて重要なネタバレを述べることになる。既にゲームを存分に遊んだという方、もしくはネタバレを気にしない方のみ、読み進めることをオススメする。

オープンワールドゲームにストーリーを持ち込むということ


まずはオープンワールドゲームにおいて、ストーリーテリングとゲームプレイを両立させることの難しさを説明していこう。オープンワールドゲームの特徴は、読んで字の如く、用意された広大な箱庭内で、キャラクター操作を通じてゲームを自由に進行させることが出来るという点にある。段階的に難易度を上昇させるステージ進行の形を採用した、俗に言う「リニア型」のゲームとは異なり、ゲーム進行には移動というワンクッションが必要となる。そのため、プレイヤーが自らのゲームスピードをコントロールできる。また、進行が自動的ではないことから、ミニゲームをはじめとする多様なコンテンツを盛り込みやすく、よってゲーム体験の個人差が生まれやすい。これは良い意味でも悪い意味でも作用する。

ゲームスピードをプレイヤー自らにコントロールさせることで多様なコンテンツを盛り込み、それによって幅広いプレイ体験を生み出すことこそ、オープンワールドゲームの大きな特徴である。一方で、「ストーリー」を展開するという点においては向いていない形式でもある。ゲーム進行をプレイヤーに委ねている都合上、プレイ内容に起承転結に合わせた一貫性が生まれにくい。たとえば世界が滅びる寸前にも関わらずメダルゲームで散財したり、サブクエストをこなしてレベルを上げるという事態が容易に発生しうる。結果としてストーリーラインとゲームプレイが別個のものとして分裂してしまい、最悪、どちらか一方が余計なものとして認識されてしまうこともある。

この問題の解決策として現段階で見られる方法は大きく分けて2つ。1つはストーリーそのものをシステムに合わせたデザインにすること。あくまでキャラクターを箱庭内で操作出来ることを体験のメインとして注力し、ストーリー展開を重視しないゲームデザインにする方法だ。代表的な作品としては『The Elder Scrolls V: Skyrim』や『Fallout 4』、『グランド・セフト・オート』シリーズや、『Minecraft』『Terraria』などのサンドボックスなどが該当する。これらの作品では、ストーリーを重視しない結果、コンテンツも豊富にパッケージングが可能。結果として「架空世界の住民として暮らす」という極めて属人性の高いロールプレイ体験を生み出すまでに至っている。

もう1つの方法は上の逆で、システムをストーリーに合わせてアレンジすること。この方法でも、箱庭を用意し、キャラクターを自由に操作できることには変わらない。だがゲームの進行に応じて操作キャラクターを変更する、進行自体にゲーム内時間を用いたタイムリミットを設ける、移動という語りの外にある行為に物語性をもたせることでストーリー間の余白を埋めるなど、多種多様な創意工夫を凝らすことで、「世界があり、主体的に行動できる」という状態を、物語を演出するための1手段として用いるのである。『ニーア オートマタ』や『デス・ストランディング』『ゴースト・オブ・ツシマ』などが該当する。

一心同体にあるシステムとストーリー


では本題に入ろう。「起承転結を通じたストーリーテリング」と「非リニアなゲームプレイ」が完全に融合している『サイバーパンク2077』が、上記ふたつのうちどちらの手法を採用しているのか。答えとしては「両方」である。システムがストーリーに合わせて作られているし、ストーリーはシステムに合わせた内容になっている。シームレスに物語とプレイングが一つになることで、本作の主題である「人生」は形作られている。

レビューにて述べた通り、このゲームの売りは「ビルドに由来するアクションと会話中の豊富な選択肢の相互作用によって生まれる、非リニアなゲームプレイ」にある。だが実を言うと『サイバーパンク2077』という作品は非常にリニアな作品である。何故なら本作の題材が「人生」であるから。つまり、作中のキャラクターであるデクスター・デショーンが言う「平穏な生涯と栄誉の死」というゴールに向けてひたすらに突き進んでいく物語を宿しているからである。

非リニアなゲームデザインを突き詰めていくと、ある問題に衝突する。ゲームが完結しなくなるという難題である。遊び手自身の意識がプレイヤーキャラクターに没入していけばいくほどに、プレイヤーキャラクターは作品が提示するガイドラインから外れ、自由意志でもって自ら敷いた道を歩んでいってしまうのである。決してこれは(少なくともプレイヤー側にとっては)悪いことではない。プレイヤーが持つクリエイティビティが既存のゲームを素材に新たなゲームを作り出す場合もあるし、なかには『Minecraft』や『Terraria』といったサンドボックス作品のようにゲームクリアを最終目的としないゲームも存在する。

しかし制作者側からすると一大事である。せっかくエンディング込みで用意した体験が台無しになってしまいかねないのだから。よってCD PROJEKT REDが採った策というのが、本作のストーリーにおける題材を「人生」とすること。これによって非リニアなゲームの中に「誕生」と「死」という起承転結のうち「起」と「結」を強制的にセットすることができる。「人生」という極めて包括的なテーマを扱うことは、さまざまなゲームプレイをパッケージングすることにストーリー上の説得力を持たせることにも繋がり、遊び手の個性を出すことに理由が生まれる。プレイヤーが主人公と同期している状態で「余命わずか数週間=やがて死ぬ」という設定を与えることにより、「ストーリーを進めない」という状況そのものに違和感をもたせ、エンディングへとプレイヤーを誘導できる。人である以上避けられないVの死が示唆されることで、キャラクターに対し最後までリアリティが生まれ、プレイヤーとVの結びつきをより強くすることもできる

逆のことも言える。人生というリニアなテーマを語るにあたってシステムに必要な要素は、高い属人性を生み出すためのステータスビルドと、アクションや振る舞いの多様性。日常を演出するための多様な外伝。そして一個人がもつ可能性を示すためのマルチエンディングという非リニアな仕様である。鶏が先か卵が先かという話ではないが、ストーリーとシステムがまるで最初からそうであったかのように一心同体の関係にある。


CD PROJEKT REDが採った策はこれだけではない。ストーリーの語り口自体にも起承転結と非リニアなプレイングとを両立させる工夫がなされている。本作はマルチエンディングを謳っているが、メインストーリー中に物語の分岐点を1箇所しか置いておらず、条件を満たさなければ分岐そのものが発生しない(ルートによっては2箇所分岐が存在する)。これによってプレイヤーと主人公Vのリンクを切らすことなく、それでいて自然に「人生」という主題を表現することに成功している。

非リニアなシステムとしての、マルチエンディングにおける難点は、メインストーリー中にエンディングの明確な分岐点を複数箇所に渡って挿入してしまうことにあると私は考えている。プレイヤーに対し「ここが運命の分かれ目なのだ」と認識させた時点で、思考が物語の世界から離れ「ハッピーエンドへ導く/バッド・エンドを避ける」(実際に用意されているかに関わらず)という一歩引いたゲーム的な考え方をせざるを得なくなってしまう。一度登場した分岐点は常にプレイヤーの脳裏へ成否の判定をちらつかせ、今後の選択においても没入を阻害し、ナラティブを毀損する。キャラクターとしての振る舞いがプレイヤーへのテストに変わってしまうのだ。

ゆえに昨今におけるマルチエンディング形式のゲームでは「風が吹けば桶屋が儲かる」ように、分岐の選択そのものを、意図を読み取らせない曖昧な内容にしたり、直接の選択肢ではない「アクションがもたらす結果の良し悪し」を積み重ねることによって物語を分岐させる方法を使用している。後者については、直近の作品でいうと『ディスオナード』シリーズや『レッド・デッド・リテンプション2』などが「カオス度」「名誉」という名称を用い実装した。『サイバーパンク2077』が採用したのは、そのアレンジである。


本作は特定のキャラクターにまつわる、連続したサブクエストをすべてクリアすることではじめて、マルチエンディングの選択肢が発生する。さらにデフォルトで用意されている通称「アラサカルート」に突入しても、タケムラを生存させていなければゲーム内実績が解除されない仕組みになっている。余計な日常を積み重ねる度にナイトシティの文化や、2023年に起きたアラサカ社爆破テロの内容が明らかとなり、他者と密に関わる中で、Vの生死が個人だけの問題ではなくなっていく。一直線でゲームを進めた場合に突入するルートでは、あくまでVの人生はVのものとして完結するが、他のルートではそうはならない。相棒の夢と亡霊の無念、生まれ変わり、魔都からの脱出……そして、自らの手で掴む伝説。

世界の周遊=プレイヤーによる自発的かつ非リニアなアクション(しかも物語の本筋というガイドラインの外にある)を通じて、はじめて新たなルートが切り拓かれるというギミック。これは、物語のシステマティックなスケールを最初から提示しないことで、ゲーム的な観点を廃しつつ因果の収束を自然な形で表現し、どのルートにも当たり外れというレッテルを設けない、なるべくしてなったという説得力を与えることに成功している。本作の「人生」というテーマに噛み合っている仕様だと言えるだろう。プレイヤーの詮索と行動を誘発するという点から、自由度の高いゲーム体験を意図しているシステムデザインとも合致している。

これと似た方式を採用した著名な作品と言えば、周遊状況で最終決戦からの内容が変化する『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』がある。だが、切迫した状況を提示することで物語とシステムを同時に強調する『サイバーパンク2077』とは異なり、物語を「既に完結した出来事への干渉」とすることで、起承転結のレールを弱め、非リニアなプレイングをより強調する方針をとっている。

ジョニー・シルヴァーハンドという男


人生というナラティブを生み出した要因は、一心同体にあるシステムとストーリーにあるとここまで説明してきたが、もう一点だけ語らなければならない存在がある。ジョニー・シルヴァーハンド。信念を貫くことを生き方の第一とする革命家でありながら、繊細な心の持ち主で、他人を信用できず、素直になれず、面倒くさいけどなんだかんだ優しいヤツ。システムとストーリー、両者の境界に立つ男。Vの旅路にゴーストとして同伴する彼は、奇怪な2077年のナビゲーターに収まる人物ではない。

用意されたキャラクターとして振る舞う、というのはロールプレイングという遊びにおいてもっとも基本的な概念である。だが役になり切るという行為自体が、現実の存在を前提としたフィクション性を帯びている都合上、「現実のわたし」がフィクションに沿った「他人の芝居」をしているという、物語から一歩引いた認識を避けることはできない。どれだけなりきろうが、どこまでいっても赤の他人のなりきりであり、物語の登場人物にはなれない。これが常識だった。

現実とフィクションの間に横たわる壁を越えるため、プレイヤーと主人公の同一化を果たすため、コンピューターゲームはさまざまな努力を費やしてきた。主人公に名前をつけることに始まり、視点を一人称に変えたり、シナリオの進行に自由度を設けたり、今ではロールをゲームが与えるのではなくプレイヤーが自ら見出す方向に舵を切っている。『サイバーパンク2077』も大枠としてはこの方針であり、主人公に自分を投影しつつシナリオの中でロールを見出すことをメインの遊びとしている。そしてこの狙いは脚本と一心同体にあるゲームシステムによって達成された。十分だ。なのに何故、ジョニーという「明確な他人となるパート」が本筋の重要な部分に組み込まれているのか。私は疑問に思っていた。だがゲームをクリアした今ならそれが分かる。

ジョニー・シルヴァーハンドというキャラクター最大の特徴は、「お前は俺に影響されているんだよ」というセリフそのものにある。周遊の道中で随所に差し込まれる彼との会話、連発されるくだらないジョークへの脳内ツッコミを繰り返す中で、次第に彼の人となりが分かってくる。最終的には彼の言動に対して一定の理解を覚え、作中で描かれないVとの日常会話を妄想できるくらいには彼のパーソナリティが分かるようになっている。

この程度であればバディ(相棒)を主題にした作品内でいくらでも観られる描写だが、本作のユニークな点は、この過程を経た上で私=Vという状況の上に彼の皮を被り、「ジョニーならどう対応するか」を真剣に考える場面が度々出てくる点である。一度モニターの中へ自分を完全に投影させた上で、ジョニーという役柄をプレイヤーに与えることにより、物語から一歩引いた認識をさせず、シームレスに演技を要求することが可能となっている。役柄に関する情報を小出しに提示することで、脳内に侵入されたかのようにパニックとなる最初と比べ、数を重ねる度に、ジョニーという人間に対し理解が進み没入している自分に驚くことになる。徐々に他人になっていくというナラティブ=徐々にロールが意識の深いところに染み渡り、プレイが洗練されていく感覚を体験できる。彼によるゲームプレイを主体としたルートに突入する頃には、演じているという認識が消失するレベルでジョニーとして振る舞えるようになっているはずである。

この仕様は「人生」という主題を表現する上で決して欠かせないものだ。人生とは得てして主体である1人の人間のみで成り立っているわけではない。他者の人生と互いに身を寄せ合うことでようやく成立するものである。そして大抵のフィクションの場合、架空の登場人物に現実味のある人生を見出すことは難しい。何故ならキャラクターとは人間が持つ側面を戯画化した存在であって、人間ではないからだ(だからこそリアリティを演出するため食事をしたり突然死んだりする)。本作はジョブを通じてさまざまな人生がVの人生と交わることになるが、彼らの存在自体は人生という主題を演出する上での舞台装置。秀逸なナイトシティのビジュアルのお陰で、生気を感じられないとまではいかないものの、絵画に描かれたモチーフ以上の役割を果たしていない。

だが唯一、ジョニーだけは「生きて」いる。プレイヤーがジョニーになり切るのではなく、限られた時間ではあるがジョニーとしての人生を歩む。一番長く共に旅することになる彼をプレイアブルな、しかも自然とより深く没入できるキャラクターとすること。そして他者の人生の存在を立証し対比させることで、「Vの人生」というナラティブも同樣に、単なるゲームプレイの一形態としてではなく、リアリティのある体験として実感させることができるようになっている。ジョニーが生きていることによって本作の体験内容が「変わったごっこ遊び」ではなく、「人生の追想」へと至っていると言っても過言ではない。

以上がレビュー内で語ることが出来なかった、「人生の追想」というナラティブの実現に際しCD PROJEKT REDが『サイバーパンク2077』に盛り込んだ仕様の数々である。ゲーム内容は間違いなく傑作だと言える本作。RPGの極点へと至るまでに描いたその軌跡に関して、読者の方々に新しい発見があれば筆者としては幸いである。

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