否定的な態度でゲームに臨む愚

 

今週、自分で自分の原稿を2本ボツにしました。いずれもファーストインプレッション記事。どちらかといえば批判的な内容でした。率直に言って今なおその感想に変わりはないのですが、それでも誠実さ・あるべき態度と引き換えに公開することはありえないと判断しました。

 

”くだらない”理由

ゲームに限らず何事でも、最初から「これはくだらない」と決めてかかるのは自分がくだらない人間になっているだけです。いかなる作品であれ通常はなんらかの価値を有しており、たとえそれが駄作だとしても「駄作である」という価値があるのです。そしていうまでもなく、何十時間とプレイしてようやく到達できる領域もまた存在します。

しかるにゲームをプレイするならば「これはきっと面白いに違いない」「楽しくなるはずだ」というポジティブシンキングからスタートするのが当然の態度であり、責務ですらあります。実際、そのような前向きな思考は自己へプラスの作用をもたらします。作品への愛を育むことすらありうるでしょう。かりにそれが世間一般ではクソゲーのレッテルを貼られているものだとしても。

カネを払ってつらい気持ちになろうとするマゾヒストなど実在しないとはいいませんが、確実に少数派です。私たち、まっとうなゲーマーは常にゲームを堪能すべくプレイするもの。馬鹿馬鹿しくすらある話ですが大量のゲームを浴びれば浴びるほど、こうした自然な感性が薄れがちであることもまた確かなのです。

 

ファーストインプレッションの難しさ

裏返して語ると、ゲームに触れた第一印象がかんばしくないことはどうしてもありえます。私が 4 Hours Impression 企画を思いついたとき「4時間もプレイすれば何かしら価値を見いだせるだろう」と楽観視していたのですが、それは甘い考えでした。

現在、Steam をはじめアーリーアクセス版、つまるところ未完成品が販売される光景は非日常的ではなくなりました。事態の良し悪しはともかく、これはつまり消費者としてのゲーマーが、各ゲームのポテンシャルに期待し対価を支払うという風土が構築されたということにほかなりません。

”ポテンシャル買い”ということは、商品としてのゲームがあり得べき内容をともなっていない場合のほうが大半であるということでもあります。であれば、ゲームを触った直後から、ましてや数時間でその奥底に潜む魅力に到達することなど稀。普通であれば「なんか評判が良いから買ってみたけどなんだこりゃ」から無心のひとときを過ごしたのち「なるほどこれは可能性がある」に達するものです。

アーリーアクセスやベータ版にカネを出すということは、「アーリーアダプターぶること」に意味はいっさいありません。いうなれば、愛を育むという覚悟にほかならないのです。各作品のコミュニティは、愛の伝道者と機能しているにすぎません。愛を保証するものではありえません。

結論すると、「ファーストインプレッションでの総合的な批判は不可能」です。少なくとも私の場合、4時間では無理だと気づくにいたりました。ではなにが可能なのか。それは、「期待すること」だけです。このゲームは面白そうだ/楽しめそうだ、そう予感したときにのみ”ファーストインプレッション”という行為は許されます。それが、私自身が私に決めたルールです。

 

否定的感情を捨ててから

2つの原稿を読み返してみて導出された最大の反省点は、そもそも作品自体を信用していなかったということでした。べつにゲームをけなしてやろうだなんて不毛な姿勢だったわけではありませんが、それでも内心わずかながら「このゲームはたいしたことないだろうなあ」と思っていたのは否めません。

これが間違いでした。ならば最初からそんなゲームをプレイしてはならないのです。ゲームという名の総合芸術に臨むにあたり、一切の”挑戦”を捨て去らなければなりません。神を試みるのは、最後の最後、一片の欠片も残さぬほどにゲームをしゃぶりつくしてからであるべきです。

私たち――我々執筆陣をふくめたすべてのゲーマーは、ほとんどの場合プロデューサーでもディレクターでもプランナーでもなければ、批評家ですらありません。最初の数時間で真贋を見極めるためにゲームをプレイする必要性はないのです。

ゲーム起動して直後、ネガティブな心境に陥ったとき。最初にすべきは、攻略サイトを読むことでも、フォーラムやチャットで愚痴をたれながすことでも、低いレーティングをつけることでもありません。鏡を見ながら深呼吸する、それが最優先です。あとは感性と愛が試されます。