なぜ人はゲームを遊び続けるのだろう。個々人によって理由は異なるが、私の場合は「そのゲームでしか得られない体験」を追い求めているからだ。たとえば、暗殺者教団のメンバーとして世界を駆け巡ったり、海賊行為をしたりギャングを率いたり。ゲームの中でスパルタの戦士になることもあれば、ヴァイキングになったこともある。娯楽溢れる現代において、「何が何でも自分を選んでほしい」「今遊ぶ価値のある自慢の体験を用意している」と訴えかけてくる作品こそ評価したいと考えている。しかしながら『アサシン クリード ミラージュ』はかつてシリーズで遊んだ懐かしさ以上のものを提供できていない。その姿は手を伸ばせばたちまち消えていく、輝かしい昔日の幻そのものである。
『アサシン クリード ミラージュ』はUbisoftより発売された3Dアクションゲー厶だ。舞台はアッバース朝のバグダッド。プレイヤーは古の暗殺者集団「隠れし者」の一員である「バシム」として、世界を裏で牛耳る結社に立ち向かっていく。対応プラットフォームはPC(Epic Games/Ubisoft Store)およびPS4/PS5/Xbox One/Xbox Series X|S。なお本作からシリーズを遊んでも問題はない。
※本稿はUbisoftからコードの提供を受け、PlayStation 5版でのプレイに基づき執筆している。
それはあの日のまぼろし
シリーズ15周年を迎えた『アサシン クリード』シリーズは、もとよりステルスアクションゲームとして、クリアするだけなら“簡単”な部類にあった。フリーランニングによる自由自在な移動と、暗器による一撃死のシステムによって、ジャンルに苦手意識のある人でも比較的容易にゲームプレイが可能であった。そうした“簡単”なプレイに歴史のうねりの中で輝く主人公たちのドラマを組み合わせることで、巨悪をサクサクと成敗していく、ヒロイックな体験が成立していた。しかしながら、タイトルを重ねるごとに、簡単さ由来の問題も顕在化していった。プレイングの作業感とゲームデザインのマンネリ化である。“簡単”を維持するあまり、ゲーム内だけでなくシリーズを通して体験の形を大きく変化させることができなかったのだ(ゲームプレイの簡単さというものは、プレイヤーが理解すべきシステムの単純さ以上に、学習経験を継続して活用できることが重要である)。
そのため開発陣はさまざまな試みを通じ、この問題の解決を図っていった。マルチプレイや海戦など新たなゲームモードを導入したり、シンプルにストーリークリアまでの難易度向上を図ったり。『アサシン クリード オリジンズ』から続くアクションRPG化や、ステルスプレイをより強調した『アサシン クリード クロニクル』も発売された。だが、完全に問題が払拭されたわけではなかった。海戦やマルチプレイの導入など高評価を受けたものもあるが、高まった難易度は結局『アサシン クリード シンジケート』の時点で明確に低下し、変化として導入したアクションRPG化も、継続によってマンネリが生まれてしまった。
そしてさらに、新たな問題も浮上した。「アサシンクリードらしさ」とは何か、というシリーズが持つアイデンティティのゆらぎである。先述したように、本シリーズはもともと簡単なゲームプレイに暗殺者を表題とした歴史ドラマが融合することでヒロイックな体験を生んでいた。
しかし、難易度を上げたり、新たなシステムを導入することで、プレイヤーが「暗殺者らしい」「ヒロイックな立ち回り」をすることが難しくなり、シリーズという一貫性にブレが生じてしまった。「他作品と比べて簡単で、遊びやすくあること」「新鮮な体験を届けること」「カッコいい暗殺者の歴史物語であること」。シリーズという形態そのものにここまで振り回されているフランチャイズも珍しい。また、本シリーズは業界の流行が反映されているタイトルも多い。歴史を扱った作品内容とリンクしているように見える。マルチプレイの導入や、アクションRPG化以降に顕著になったゲームボリュームの拡大および縮小の流れが分かりやすい。
原点回帰を謳う『アサシン クリード ミラージュ』はここまで説明してきた「マンネリ化及び作業感の解消」「シリーズのアイデンティティ復活」そして「時代に合ったゲーム体験」という3つの目標を達成するべく生まれたであろう作品である。戦闘システムをシリーズ初期作品に近づけることにより、マンネリ化の解消および、「簡単で暗殺者らしいステルスアクション」というアイデンティティを取り戻そうと試みている。また、「プレイヤーが可能な限りすべてのコンテンツにタッチできるようにする」という昨今の流行に合わせ、作品ボリュームの削減を行っている。これは『アサシン クリード ヴァルハラ』の時点で見られたものだが、本作ではそれをさらに推し進めている。
変わったことで芯がブレて、再びマンネリ化してしまうならば、元に戻してみればよい。元の時点で作業感が出てしまうのならば、飽きられる前にゲームを終わりにすれば良い。それは昨今のニーズに適合している。極めてシンプルな発想だが、理にかなっている。ただ、抜本的な解決に至っているわけではない。そして本作がもともと『アサシン クリード ヴァルハラ』のDLCになる予定であったことを差し引いても、シリーズ15周年のプロモーション中に発表された作品であること。「飽きられたらもとに戻ることを繰り返すのか?」というビジョンを消費者に提示してしまったという事実は、シリーズが今後描く未来に関して閉塞感をもたらしてしまっている。
では、本作の詳しい仕様について見ていこう。『アサシン クリード ミラージュ』のゲームシステムはアクションRPG時代に搭載された、定点移動を通じてある程度自由にオープンワールド内のエピソードを回収していくストーリーラインと、シリーズ初期作をイメージしたステルスアクションを軸に構成されている。概観をざっと眺めてみれば、スリや悪い噂システム&手配書、群衆に紛れてのステルスなど、懐かしい面々が顔を揃えているが、なかでも戦闘アクションは一撃死のシステムに、復活した強力無比なカウンターと優れた暗器が合わさることで、初期作当時のサクサクとしたゲームプレイを令和の世に蘇らせている。隠れて殺す。ゲーム中にそれ以外を意識することは特にない。単純にして明快である。なかでも煙玉と吹き矢の威力は健在であり、強化して使えばたちまちゲームバランスを崩壊させることができる代物だ。
また、本作の特徴として、さらにゲームプレイを簡単にすることが可能になっている。一部ミッションではターゲット暗殺に至るまでのヒントやフローチャートが提示されたり、「買収用コイン」というアイテムを消費することでNPCからサポートを受けることができる。本作は「原点回帰」というコンセプトだけでなく、シリーズ15周年のプロモーション中に発売された作品ということで、シリーズに触れたことがない人をターゲットにしているだけでなく、初期作をプレイしたがその後の変化に伴って離れた人に帰ってきてほしいという狙いがあるのだろう。ユーザーの間口を広げるための施策と考えられる。このほかサブクエストや収集要素も存在しているが、全体的に既存作品の縮小版という言葉がよく似合う内容にまとまっている。プレイボリュームに関しては、筆者の場合、サブクエストや収集要素をある程度あそんだ上で、ストーリークリアまで約18時間程度といったところである。
ストーリーについては、ネタバレを避けるために詳しい描写に言及することはないが、短編という形式を採用したことと、時代劇という物事の推移を扱う題材が噛み合っておらず、ひとことで言えば「尺不足」である。時間が足らないことで主人公陣営、敵陣営ともにキャラクターの掘り下げが充分になされておらず、魅力を発掘することができていない。よって黒幕の看破であったりといった重要なシーンでのカタルシスもまた不足している。本作は『アサシン クリード ヴァルハラ』の前日譚という位置づけであり、主人公の結末も既に判明している。だからこそ過程をドラマチックに描いてほしかったが、浮き沈みの少ない平坦な内容になってしまっている。また、尺を取ってキャラクターに充分な魅力を与えられていないことで、普段のゲームプレイにヒロイックな属性を付与することができず、シリーズ通して問題となっている、プレイングのマンネリ感を引き起こしてしまっている。既に簡単なゲームプレイをさらに簡単にするシステムと合わせ、短編ながらゲーム後半には体験の味気なさが目立ってしまう。
ただ、シリーズの醍醐味である最高級の美術を通じた観光体験に関しては、素晴らしいの一言である。イスラム黄金時代を築いたアッバース朝時代を思う存分鑑賞することができる。耳をすませばモスクからアザーンが聞こえ、目に映るはイスラーム建築やイスラーム芸術の数々だ。シルクロードを通じた東西貿易が盛んな時代ということで、マーケットには多種多様な人種と商品があふれ、たとえば中国茶などが陶器に混じって売られていたりする。病院にはユナニ医学の教本や図式をイメージするオブジェクトが配置されていたり、天文台のような施設がある場所もある。村々では当時の生活感用品が顔をのぞかせる。ただぷらぷらとフィールドを散策するだけで日本にはない未知を発見でき、心がワクワクしていることを感じられる。ただ作品としてのボリューム縮小にともない、旧来と比較すると各歴史的要素の説明資料が少なくなっている印象である。
時代に合わせた短編方式と原点回帰のコンセプト。「待ち望んだものがようやく出てきた」というプレイヤーの人もいると思うが、筆者としては残念でならない。というのも、『アサシン クリード ミラージュ』は短編でありながら本作でしか体験できない独自要素のあるプレイを表現できておらず、記事冒頭にあげた「ゲームデザインのマンネリ化、および体験のマンネリ化」というシリーズ通しての問題にも対処していない。初期作がそうだったように、結局本作でもゲーム中盤以降はゲームプレイの中に簡単さ由来の作業感が生まれてしまっているし、短編という形式を採用したがゆえの新たな問題が浮上している。
「楽しみたい娯楽がたくさんあって時間がない」時代だからこそ、短くも濃厚な体験方式がいま日の目を見ているなかで、ほかの娯楽より本作を優先する理由を提示せず、過去の栄光を追い求め、問題を先送りにしている本作。昔からUbisoftは“無難”な作風で知られるが、『アサシン クリード ミラージュ』は悪い意味で無難なゲームの象徴であるといえよう。シリーズ15周年を越えて、あの日の幻に囚われている場合ではない。これまでに積み上げてきたノウハウを活かし、次はシリーズ20周年に向け、新たな時代で、新たな体験を生み、さらなる飛躍を遂げてほしい限りである。