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※注意

同記事には『ダンガンロンパ』シリーズ作品および

『ダンガンロンパV3』のネタバレがふくまれています。

未プレイの方はご注意ください。

 

 

アメリカ人作家パメラ・メイヤー氏によれば、人は一日に10回から200回もの「嘘」をつかれており、初対面の人間は出会ってから最初の10分で3回嘘をつくそうである。生まれてから1歳には隠蔽を覚え、2歳ではったりをかけるようになり、4歳で嘘とおべっかを使い、9歳でもう嘘の達人になる。大人になれば世界はほぼ嘘で埋め尽くされていることになる。少々眉唾モノの説にも思えるが、現実社会においてストレスなく社会生活を過ごすため、また人間が虚実を曖昧にしてすべての現実に押し潰されないようにするためには、確かに嘘は必要だろう。嘘とは“憎むべきであるが必要。必要ではあるが不快”という、蔦のように人生に食い込んで絡みつくものである。にも関わらず、定義することが非常に困難な、形而上と形而下の真ん中にどっしりと居座り続ける解析不能な“怪物”だ。

ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期(以下、ダンガンロンパV3)』のテーマは「嘘」である。結論を先に言ってしまえば、『ダンガンロンパV3』の物語は、「嘘」という不定形の怪物がいる海へと続く蓋を、きわめて真摯に、かつ全力で踏み抜いている。全プレイヤーを底の見えない海に心地よく叩き落してくれるゲームであり、成功した商業コンテンツのナンバリング作品である点を考慮すれば、きわめて挑戦的で挑発的な作品でもある。ただし、その海の深遠に身をあずけたのはプレイヤーだけではなく、制作者もまた然りである。この点もまた、作品を語る上での重要な要素として注意しておく必要がある。

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物語の円滑な流れをせき止める「アクションパート」

物語の評価に入る前に、ゲームシステムから触れておこう。『ダンガンロンパV3』のシステムは過去作からそれほど変化はしておらず、「ストーリーが進み、殺人事件が起きる。推理パートで証拠を集めて裁判パートに入り、犯人を確定する。犯人が処刑された後に行くことができる場所が増えてストーリーが進む」という、基本的なフォーマットにはほとんど手が加えてられていない。ただし裁判パートでは、変化をもたせようといくつかの試みがなされている。根幹である「誰かの発言の矛盾点に証拠となる言弾(コトダマ)を撃ちこむ」という基本は変わっていないが、いくつか新しいアクション要素が加えられている。「偽証システム」「パニック議論」「発掘イマジネーション」「ブレインドライブ」「議論スクラム」「理論武装」などがそれにあたる。

全てに解説を加えることはしないが、端的に言って本作品の最大の欠陥はここにあるといえるだろう。プレイしなければならない内容、回数共に多すぎる上に、ゲームとしての練りこみが足りないため、プレイヤーにとって単にストレス要因にしかなっていない場面が非常に多い。ことに「ブレインドライブ」というドライブゲームは、ただ時間がかかるだけでほとんどカタルシスを感じることができない。「理論武装」という音ゲー要素に関しては、そもそもボタンを押すタイミングが音ゲーとして成立していない。確かに同じようなシステムは前作までもあるにはあったのだが、今回のアクションパートは前作よりも尺稼ぎとして“やらされてる感”が強い。学級裁判という、物語の本筋にあたる部分の進行に集中できず、その部分だけ間延びした印象になる要因を作っている。一方で「議論スクラム」という、裁判中意見が分かれた場合に登場人物を二つに分けて議論を戦わせる新要素に関しては、物語の中に自然に入り込んでくる上に、システムとしても分かりやすく、何より物語の進行を阻害しないものとなっている。

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しかしこういった玉石混交のミニゲームの無闇な乱立は、普段ゲームをプレイしない層にも訴求できる可能性を持ったこの作品にとって、疑いなくマイナス要素になっていると断言していい。裁判パートの難易度調整を開始前に設定できることを親切な設計と考えるならば、むしろいくつかのアクション要素を削る決断も必要だったのではないかと感じる。学級裁判はこのゲームにとって数少ない「ゲーム部分」ではあるものの、同時にストーリー部分が盛り上がりを見せる、一種のクライマックスでもある。シリアスなストーリー展開の中、プレイヤーが相手の言葉を打ち抜く言弾には、「達成感」と共に「心の痛み」「葛藤」あるいは「逡巡」といった感情が込められてる。この効果がシリーズ中、物語上において世界観に没入する為のギミックであったという事実を、もう少し考慮すべきだったはずだ。

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丁寧に紡がれていく新章『ダンガンロンパ』(1~5章)

ゲームシステム面の不満点とは逆に、今作のミステリとしての仕掛けと発想、その見せ方は出色の出来だ。ことに第一章に関しては、連作のミステリとしてはシリーズを通じて“一回限り”しか通用しないトリックを、発売前情報の時点から綿密にミスリードを仕込んで入れ込んできたのは巧妙というしかない。それがアガサ・クリスティーの「アクロイド殺人事件」とほぼ瓜二つな構造の展開、伏線の張り方ではあるにせよだ。「アクロイド殺人事件」のトリックは発表当時、フェアなのかアンフェアなのかという論点で大激論になったが、良い意味で本格ミステリと認識されてはない『ダンガンロンパ』にとっては親和性が高い。いや、むしろ『ダンガンロンパ』だからこそ映える最適解だった。感心するほどにライン際すれすれを突く美しさである。初代から続く「閉鎖空間としての学校」「超高校級の学生」「学級裁判」「デスゲーム」「モノクマ」といったフォーマットがマンネリを抱くのではないかという心配をよそに、第一章「私と僕の学級裁判」はその縛りの中で見事なものとなった。効果的に使用されるドビュッシー「月の光」の旋律と共に、筆者自身を含むプレイヤーの多くを物語に一気に引き込む導線として、完璧な出来栄えだったといえる。

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登場人物達の織り成すドラマ部分も、今までとは違った意味での厚みを増している。今作において、主人公のポジションは今までのような“集団の中心人物”ではない。過去作の主人公が持っていた要素は、「推理をする人物」「感情で物語を引っ張っていく人物」「強い理想を持つ人物」と、それぞれ複数人で分け合う形になっている。その結果、その章で誰が死ぬか死なないかが推測しやすくなったことは否定できないものの、一人のスーパーヒーロー的な存在がいなくなったことで、物語全体に漂う不安定な空気、デスゲームというものが本来的に持つであろう陰惨さはより際立たつようになった。「超高校級の希望」などという、ともすれば奇跡を可能にするような気持ちにさせてくれる物語の緩衝材は存在しない。無力な人間が生々しい苦悩を抱えながら殺人を犯し、そして苦渋の思いの中で殺人を解決していくという一連のシーケンスが醸し出す空気の重さと重厚感は、シリーズ屈指だ。前作とは一変して、犯人の処刑シーン「オシオキ」の描写も、一瞬で迎える死などは許さないとばかりに陰惨なものが多い。長尺で苦しみながら死んでいく犯人がもがき続ける姿に表れる生への執着心は、残された登場人物のやるせなさを際立たせる。

また、詳しい説明は避けるが、張り巡らされた伏線と事件一つ一つのトリックも、今まで以上に練りこまれていると言っていいだろう。「もしかしたらこのトリックは多少偶然が絡む可能性があるのではないか」と思うようなトリックもあるにはあるが、プレイヤーに“そう思わせる”こと自体が物語全体の伏線になっているという、考え込まれた物語の構成には舌を巻かざるえない。

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新章開幕としてこれ以上のないスタートを切った一章から、数々の伏線を振りまきながらほぼ隙のない展開で物語が進み、劇中最高の出来といって過言ではない第5章を迎えた瞬間、『ダンガンロンパV3』は実に「ダンガンロンパ」らしい方法論で過去の作品を凌駕した。物語の展開、伏線の回収、トリックの新しさ、テーマである「嘘」の使い方。シリーズ中で初めて学級裁判という推理ゲームの中で「モノクマ」に真っ向勝負を挑み、そしてある意味で勝利した「嘘」の代弁者たる、作中影の主人公でもあるトリックスターの見せた「意地」。これらを余すことなく表現した名シナリオは、『ダンガンロンパ』だからこそ、ゲームだからこそ、ナンバリングだからこそ完成したシリーズ集大成と呼んでも差し支えないものだ。ここへきて『ダンガンロンパV3』は最終章を残して名作の要件を全て満たした。が、最終章を終えた人間が振り返ってみれば、そこまでの流れは“美しすぎた”ということになるのかもしれない。

 

※注意: 以降、ゲーム終盤の展開やエンディングをネタバレする可能性のある文章が記載されております。ゲーム未プレイの方はご注意ください。

 

そして「真実」が存在しない世界へ

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繰り返しになるが、このゲームのテーマは「嘘」である。しかし、『ダンガンロンパV3』の最終章を一言で表現するなら、「嘘をテーマにした物語」ではなく、「嘘そのもの」だ。ナンバリング作品として求められている水準を綺麗に超え美しくまとめあげた今作第5章までの物語、さらには「ダンガンロンパ」シリーズの過去作に思い入れがあればあるほど、「ダンガンロンパ」そのものを否定されたような気分になってしまいかねない、衝撃的な内容である。

最終章でダンガンロンパが進んだ方向を説明するのに多くの言葉は必要ない。“そもそもフィクションであったものをフィクションだと呼んだ”だけだ。ただそれだけの実に簡潔で当たり前の事実が、それまで丁寧につちかってきた「ダンガンロンパ」という物語、世界観を根底から揺るがすことになったのだ。プレイヤーはそれまで『ダンガンロンパV3』というフィクションの物語を体験していたはずだった。1章から5章までの間、プレイヤーの現実世界と『ダンガンロンパV3』の世界、リアルとフィクションの二つの視点を持っていればよかったのだ。しかし最終章の終盤、あるタイミングでいきなり、プレイヤーの見ているフィクションの世界がなんの予告もなく、突如3つに分裂する。「フィクション」を「フィクション」が囲い、それをさらに「フィクション」が覆う世界が現れてしまうのだ。言い換えるなら「嘘の世界」を「嘘の世界」が囲い、さらなる「嘘の世界」がそれを覆いつくすという、無軌道なまでの世界の歪みが発生する。それとプレイヤー自身の世界を合わせれば、計4つの世界の軸が同時に眼前に現れる。さっきまで眼前にみていた世界の突然の裏切りよって、一時的に処理能力が追いつかなくなった脳は恐慌状態を起こし、その混乱状態が続いたままにフルスピードで物語は終焉を迎える。そして、その混濁の余韻から意識が戻った時、後に残るのは「嘘」というよりもむしろ「真実が一片も存在しない心象風景」と呼ぶのがふさわしい。物語が残していったものを空しさと呼ぶのは決して間違っていないだろうし、物語の狙いから外れてはいない。

今までの何が本当で何が嘘だったのか。判断が全くつかないという果てのない虚無感とやるせなさ。それこそがまさに『ダンガンロンパV3』が提示したものだ。別の可能性がなかった訳ではないだろう。新章と銘打って発売された商業作品、しかも個人ではなく会社の名義で発売される作品が最終的にああなることに、関わってきた人間全員が諸手を挙げて賛成したとは考えにくい。しかし、「嘘」というあまりにも大きく深い闇を真剣に覗き続けた人間が、それに覗き返され魅入られてしまえば、結論が常識と大きくかけ離れるように流されていくのは明白だろう。そしてその代償として得た最終章、ひいては『ダンガンロンパV3』全体に沸騰する血液のように流れる熱量は間違いなく本物であり、その点でこの作品の質は間違いなく前2作をはるかに凌いでいる。「嘘」という怪物が存在する海へと身をあずけた制作者、彼らのブレーキを踏まない作品への姿勢こそが、『ダンガンロンパV3』という異常に完成度の高い異形のゲームを生んだのだ。

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「ダンガンロンパ」というジャンルとして

『ダンガンロンパV3』という怪作の評価を記すのはここでいったん終えるが、本稿の最後で「ダンガンロンパ」というジャンルの特異性に触れておきたい。

『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』が発売されたのは2010年である。二作目の『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』の発売が2012年。スピンオフ作品『絶体絶望少女ダンガンロンパ Another Episode』が2014年。多数のシリーズ作品が輩出されてきたものの、約6年から約7年という年月は、IPとしみればさほど長い歴史とはいえない。そんな同シリーズが爆発的に知名度を上げていった背景には、当初は誰も予想していなかっただろうスピードで膨らんでいったメディアミックスがある。

ざっと列挙するだけでも小説「ダンガンロンパ ゼロ」、アニメ版「ダンガンロンパ The Animation」、舞台「ダンガンロンパ」「ダンガンロンパ2」、そして希望ヶ峰学園の物語の最終章はゲームではなくアニメ「ダンガンロンパ3 The End of 希望ヶ峰学園 未来編/絶望編/希望編」で描かれた。発売当初さほど注目されたタイトルとは呼べなかった「ダンガンロンパ」というゲームは、いつのまにか「ダンガンロンパ」という、独特な魅力のキャラクターと世界観を指す一つのジャンルとして認識されるようになった。

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「閉鎖空間から脱出するために殺人事件が行われ、その犯人をあてることによって犯人が死亡するデスゲーム」という凄惨な物語を軸としたゲーム、その中で自身の好きな“推しキャラ”という言葉が当然のように使われる、いびつな人気。いびつとは記したが、批判の対象となるものではない。コンテンツは成長する際、コアなファンの層が変容して徐々に大きくなっていくものである。ゲーム性よりもキャラクターの魅力に焦点を当てたファンの声は、間違いなくこのシリーズを支えてきた功労者だ。ここで考慮すべきは、「ダンガンロンパ」という一つのゲームが、「ゲーム」そのもののファンと「キャラクター」「世界観」のファンに分化されてきたという事実である。それが『ダンガンロンパV3』に対する、両者のファンの視点に微妙な差異をもたらす土壌を形成している。

先に記した『ダンガンロンパV3』における最終章の方法論の是非を問うつもりは毛頭ない。ストーリーとキャラクター、世界観が高く評価されてきたゲームの最新作の物語、最高の流れで最終章を迎えた最後の展開がああいった形で結実したことを、長年のファンへの愚弄とも筆者はまったく思わない。ただし、愚弄だと思う人がいたとしてもそれを否定することはできないだろう。要するに、前二作のテーマであった「希望」や「絶望」以上に、「嘘」というテーマは深遠に過ぎたということだ。結局、「嘘」という巨大な怪物の闇を覗きこみながら「物語」きれいにまとめようとする行為自体に、「矛盾と軋轢」が生まれることは避けようがなかったのだ。

 

「嘘」を終えた「ダンガンロンパ」の行く先

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『ダンガンロンパ』『ダンガンロンパ2』で描かれたのは希望と絶望の物語だった。主役と敵役のはっきりとした対立軸はあったが、単純な善悪二元論に逃げない複雑な構造で形作られた希望と絶望の放つ色彩は、多くのプレイヤーを魅了した。たとえば『ダンガンロンパ』の黒幕。シリーズの顔ともいえる超高校級の絶望「江ノ島盾子」は、最高の絶望を感じるためだけに全てを賭け、絶望のためには自分の犠牲も喜んで甘受する。その突き抜けた生き方は清々しさすら感じさせ、美学としての絶望の概念を高らかに謳っている。あるいは『ダンガンロンパ2』の主要登場人物であり、高い人気を誇る超高校級の幸運「狛枝凪斗」。絶望的に「希望」を愛するがあまりに闇に飲まれたその生き方の禍々しさは、狂信性の行き着く先に希望も絶望も存在しないことを証明している。

しかし、過去作のような明確な対立軸が存在せず「嘘」がテーマになった今作でこそ、シリーズ中でもっとも強い絶望をプレイ中に感じるのは、非常に興味深い現象である。『ダンガンロンパV3』で繰り出される「嘘」は、それが大きい嘘であればあるほど実のところ悪と直結しない。嘘をつくかつかないかなどということは、実のところ人間の複雑な構造の心が吐き出す溜息に過ぎない。嘘をつかなくても、悪はなせる。その確信こそが人間存在への根源的な恐怖を喚起させる。そしてもし、その恐怖に名前をつけるとしたら、おそらく「絶望」なのだろう。本作の要諦は、もしかしたらそんな所に潜んでいるのかもしれない。

最後になるが、今作『ダンガンロンパV3』では舞台となる学園の名称が「才囚学園」であったり、主要登場人物の名前が「最原終一」だったりと、物語のあらゆる場所でシリーズの終焉を匂わせている。が、ここまで執念深く嘘にこだわり続けたこの作品の伏線をどう捉えるべきなのか、現時点では理解すらできない。シリーズは続くかもしれないし、終わるのかもしれない。嘘というものは実にやっかいな代物だが、真実がわからないということは時に「希望」でもある。

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【UPDATE 2017/2/7 17:55】 タイトル・本文にて、ネタバレに関する文章を強調・加筆しました。

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