『バトルフィールド 1』がシングルプレイヤーキャンペーンで描いた「戦争を終わらせるための戦争」

10月21日、PC/PlayStation 4/Xbox One向けにエレクトロニック・アーツから発売された「BF」シリーズ最新作『バトルフィールド1』。第一次世界大戦を題材とするのはシリーズで初めてとなり、さらにシングルプレイヤーキャンペーンはオムニバス形式となった。これは4年続いた第一次世界大戦に相応しい世界の広がりを感じさせるものになっているが、一つ一つのキャンペーンシナリオにおいてその背景についての説明は少なく、ある程度プレイヤーの予備知識を求めてくる内容になっている。今回は6つのシナリオと主人公達について、ゲームをプレイした際に補完として楽しめるように、キャンペーンの概要をそれぞれの背景にある歴史的事象と共に紹介していく。

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戦争の火蓋

「ヨーロッパは繁栄のきわみにあり、その先には、さらに明るい未来が広がっていることを誰もが信じて疑わなかった」-シュテファン・ツヴァイク-

1914年初頭、普仏戦争から平和が約50年にわたり続き、産業革命によってヨーロッパ史上でもまれに見る繁栄をむかえた時代「ベルエポック」。当時、戦争の勃発を予想している者はほとんどいなかった。ただし、どの国にも産業構造の急速な変化による社会的な不満という火種はくすぶっていた。あるいは植民地経営において後塵を拝しているドイツ・オーストリアなど(同盟国)は、先発組とも言えるイギリス・フランス・ロシアなど(連合国)との対立を強めており、特に富裕層および支配者側からは戦争を望む声が強くなっていた。表面に映る平和と繁栄に反して、その裏側では戦争の火種はいまにも燃え広がりそうな気配があり、各々が国策としては軍拡の方向へと動いていたのだ。

そのような情勢下、折り悪くオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子がセルビア人によって暗殺されてしまう。オーストリア・ハンガリー帝国は独立した捜査権などをセルビアに要求するが、同じスラブ系民族の国としてロシア帝国を後ろ盾に持つセルビアはこれを拒絶。1914年7月28日、ドイツ帝国の支持をとりつけたオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに対して宣戦布告した。ほぼ同タイミングでドイツ帝国がフランスに対して宣戦布告をし、ここに第一次世界大戦は勃発する。

ただ、当時この紛争は短期で終了するだろうという見方が大勢を占めていた。当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「この紛争は一週間程度で終結するだろう」と非常に楽観的であったし、どの国でも出征する兵士達の多くは「クリスマスまでには帰る」つもりであった。

1914年当時のヨーロッパ
1914年当時のヨーロッパ

 

ドイツがフランスに宣戦布告する意味「シュリーフェンプラン」

サラエボ事件そのものを捉えた場合、当事国は明確にサラエボとオーストリア・ハンガリー帝国であり、フランスとドイツには事実上無関係ではある。ただし、両国の間には戦争をする明確な理由があった。フランスにしてみれば、普仏戦争においてドイツ帝国に奪われたままになっているアルザス・ロレーヌ地方奪還の悲願がある。ドイツ側からみれば、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアとその後ろ盾であるロシアとことを構えてくれることによって、一時的にでもロシアとフランスからの挟撃状態を回避することが可能であり、拡大政策の強いドイツが版図拡大に乗り出す絶好のチャンスであった。

そこでドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、フランスに戦線布告。1894年の露仏同盟により二正面作戦を受ける可能性が高まったことを危惧し、ドイツの参謀シュリーフェンがあらかじめ立てておいた対仏露の基本対策「シュリーフェンプラン」を発動した。その骨子は「距離的、輸送手段において、ロシア軍到着までに到着することにある程度時間があることを見込み、最大6週間の期間でベルギー経由でフランス側に進行、勝利してそのまま取って返した軍を東部戦線に回しロシアと対峙する」というものであった。一見短絡的に見えるこのプランだが、軍事的観点からみて実現が不可能なものとはいえない。現に第二次世界大戦においてナチスドイツは、シュリーフェンプランに若干の修正を加えたマンシュタインプランによって、6週間でフランスを陥落させている。ただし、第一次大戦では事情が違った。

シュリーフェンプラン
シュリーフェンプラン 画像出展: Wikipedia

 

プランの頓挫から泥沼の塹壕戦へ

まずドイツ軍がベルギーを通過することによって、イギリスの早期の参戦を決定的にしてしまったこと。これはベルギーがイギリスの玄関口に位置する重要な国だったためだ。さらにロシア軍のスピードを見誤っており、見積もりが6週間のところ実際は17日で国境沿いにまで到着した。そして当のベルギーの反撃をそもそも考慮に入れていなかった。一言でいえば、全方向にわたる見通しの甘さが戦況の膠着を招いた。

10月になってもパリ陥落どころかベルギー全土とフランス北部フランドル地方までしか進軍できなかったドイツ軍は、その土地を死守するために塹壕を掘り防御体制を敷いた。同時期、イギリスもドイツ軍のこれ以上の侵攻を阻止するために塹壕を掘るようになる。当初は塹壕戦に消極的だったフランス軍も、完璧に作られた塹壕に篭ったドイツ軍の機関銃掃射により2万人の死傷者を出すに至り、本格的な塹壕戦術をとりはじめる。そしてここから約4年間にわたり、850万以上の戦死者と1000万人の非戦闘員の死者、2100万人の負傷者が文字通り「量産」され続けることになる。人類史上もっとも愚かな戦いの一つである第一次世界大戦、その泥沼化が始まったのだ。

 

塹壕戦とは

塹壕戦それ自体は7世紀に初めてその記述が見られるほどの古い戦術の一つであり、なんら目新しいものではない。ではなぜ第一次世界大戦における塹壕戦がそこまで悲惨な結果を生んだのか。それは機関銃の大規模運用が可能になったことにより、正面からの突撃に対してほぼ完璧な防衛火力が機能するようになったという点に尽きる。大戦中、西部戦線での塹壕はスイスから北海までという、それこそヨーロッパを縦断する長さで作られ、迂回すら不可能になった。塹壕戦が本格的に始まった後、戦場で使用される兵器、野砲、榴散弾、毒ガス、航空機爆撃、戦車などそれらすべてが「どう塹壕を崩すか」あるいは「塹壕に篭る敵戦力をどう削るか」という点を第一目標として開発、運用されてきたものだった。また戦争後期、塹壕戦を突破するためにドイツ軍が使用した「浸透戦術」は、第一次大戦塹壕戦でも効果の高いものだった上、後の第二次世界大戦初期では運用の軸を戦車に変え、ヨーロッパ全土を席巻した電撃戦の基礎を作った。

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