楽屋裏めいた話になってしまうが、ゲームについて書く仕事は、つねに二律背反である。普通よりもゲームを深くプレイしなければならないが、ひとつのゲームばかりプレイしていては仕事にならない。つまり、「楽しい」と感じる能力はもちろん必須だが、その「楽しさ」に見切りをつけてほかのゲームをプレイする筋力も必要なのである。終わりのないローグライクなどでは特にそうだが、いつまでもおなじゲームをやっているわけにはいかないから、あるゲームをどこまでプレイすればよいか、どこかで判断しなければならない。過不足なく語るためのぎりぎりのラインを見極めるのも、いわば腕の見せ所だろう。やりすぎても時間が失われるだけだし、引き際が早すぎると大切なことを見落としてしまう。

そもそも、レビューなどというのはおこがましい行為だ。どんなゲームでも開発に参加したことのある方ならすぐに納得いただけると思うが、一本のゲームを作るために必要な労力と時間は、物書きがそのゲームのレビューに費やすものと比べて、とんでもなく大きい。私たちの仕事はシンプルだ。書くべきことをメモや頭のなかでまとめ、名詞と動詞と形容詞と副詞と接続詞を用いて文章にすればいい。丹精込めて作り上げたゲームがどこの馬の骨とも知らない人間に評価されるなど、考えるだけでいやだが、どういうわけか馬の骨になってしまった私自身はそういった開発者たちの気分を想像し、すこしでも気をつけて書くことしかできない。あこぎな商売である。

さて、物書きの仕事はある一定のポイントを超えると時間との戦いとなる。すばらしい作品を数多く残したあの三島由紀夫でさえ、人気の絶頂期において執筆され、ライフワークだった『豊穣の海』の原稿料は、原稿用紙一枚あたり五千円だった。文字単価たったの12.5円。彼の作品に比べてまったくお話にならないような文章を書きながら、それくらいの原稿料を貰っているライターは世の中に一定数いる。

面白いゲームと時間を食いつぶすゲームというのは別ものだ。面白いゲームは、たとえそれが数時間の体験であったとしても、プレイヤーの記憶に残る。『INSIDE』なんか特にそうだろう。対して、時間を食いつぶすゲームは、「ハマる」。ハマるためにはもちろん面白さが必要ではあるが、プレイ時間の長さと面白さはまったくのイコールではない。費やすことができる時間の長さは、むしろゲームデザインにかかわることなのだ。

そういうわけで、今回私が設けた「愛憎極まるで賞」を勝ち得たのは、あまりにも楽しい時間を延々と使わされたという意味で『Stardew Valley』である。だいたい、このゲームのコンセプトそのものがズルいのだ。都会での孤独な会社勤めに疲れた主人公が、天国へ召された祖父の古い農場を相続する。主人公はのびのびと農場を経営しながら、田舎町の温かなコミュニティにだんだんと溶け込んでいく。

もっとも筆者の仲の良い友人が口を揃えて言うところでは、私は黙って物事を実行に移すが、本当は寂しがり屋なのだそうだ。それは、たぶん正解だろう。なぜならこの作品における、なんということもない薄味な住民たちとのイベントの数々で、何度もほろりとさせられてしまったからだ。夏の終わりに美しい海岸にやってくる、発光するクラゲの群れを町のみんなで鑑賞し、その美しさを讃えあうなどという催し事に、孤独な都会暮らしをやっている人間があらがえる訳がない。

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現代においては馬鹿馬鹿しい乱痴気騒ぎでしかない結婚式についても、この町では住民による手作りの、心温まる催し物となっている。過分に想像力で補っているところがあると思うが、町の住民たちがそれぞれに持ち寄った食事をし、花嫁のドレスはかつてたくさんのほかの花嫁が着たもので、町長の宣言によってプレイヤーキャラクターと結婚相手のキャラクターは永遠の愛を誓う。現代の結婚式は、本質的には完全に無意味な消尽でしかないので、人々は巨大なホテルで行われる結婚式の招待状を、ほんの少し面倒なものだと考えている。少なくとも私はそうだ。しかしこの作品においては、ほんとうに貧乏のどん底にいるような時でも、町の住民たちの協力のもと、すてきな結婚式を挙げることができる。

こういったこころよいフィクション性は、孤独にだけは事欠かない現代の都会暮らしのプレイヤーの判断力を低下させる麻薬である。ちなみに、現実に田舎から出てきた友人に土地の風習などについて聞くと、それはそれでたくさんの苦労があることがわかる。そのうちのいくつかは、反吐が出るようなものだ。そういうわけで、この作品における田舎社会は現実の田舎社会のきな臭さを徹底的に排除した、都合のいい虚構でしかないことがわかるのだが、そうだとわかっていても、画面のなかで描かれている夢はあまりにも甘く、もう二度と目覚めたくないと思わせるほどの力がある。原理的には、現実における女性あるいは男性がそんなことをするはずがないと知っていても、かわいい/かっこいいキャラクターがふだんに用意されたノベルゲームをプレイして萌えるのとおなじことだ。その対象が個人であるか、コミュニティであるかの違いしかない。空しい話である。

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ゲームシステムにも悪意が満ちている。このゲームはオートセーブを採用しているが、そのタイミングは一日の終わりの就寝時である。毎回のプレイにおいて、プレイヤーは常にこのことを強く意識しなければならない。あなたはものすごくうまくいった一日の中盤で、もう寝なければ明日の仕事に支障が出る時間であることに気づく。あなたは自分自身の人生とゲームのなかの達成を天秤にかけ、いますぐ寝るか、ゲーム内での一日が終わってから寝るかを決定しなければならない。そういった時間帯には正常な判断能力が失われているので、常に後者を選ぶことになる。そして気が付けば、またしてもあなたは、うまくいった一日の中盤で、そろそろ寝なければまずいと気づく羽目になる。

私はどうせゲームをやるのなら、よりうまくプレイしたいと思うタイプだから、季節ごとにもっとも利益率の多い野菜や、住民の好みをいちいちWikiで調べてしまう。そうすると、もはやプレイ時間は等比級数的に増えていくこととなり、その一日がどれくらいの長さで終わるのかさえ、まったく目処が立たなくなる。ポーズ画面でゲーム内の時間を止めることができるからだ。そういうわけで、あと一日だけと心に決めて続行したプレイが、キマイラのように増殖して一時間に及ぶことさえある。そんなときに時計を見たときの悲しさといったらない。どうするべきだろう? 眠ったところで、どうせまた現代社会の孤独が待っているのだ! 徹夜してしまえ! そしてあなたはますます現実での判断力を失っていくこととなる。

おやすみ、おじいちゃん……。
おやすみ、おじいちゃん……。

これはもはや喜劇だし、出勤時間というものが私の生活から消失した今となっても、その滑稽さは変わらない。私はもはや自分の尻を自分で拭くことに決めたのだが、この作品があまりにも面白すぎるせいで、最近は自分の尻を拭くことさえうまくできなくなってきたからだ。かといって、この作品についてそこまで書くことがあるわけでもない。ゲームのなかの日付が2年目も半ばになると、もはやほとんどの行程は繰り返しとなるからだ。朝起きてかわいい嫁さんにキスをして、モンスターをしばいたり野菜を抜いたりしているうちに日が暮れる。町の酒場にビールをひっかけに行って、みんなにあいさつをしてから家に帰る。ダブルベッドの反対側の端にいる嫁さんの寝顔を愛でてから、こおろぎの鳴き声を聞きつつ眠りに落ちる……なんてうらやましいんだろう。どうして俺は画面の向こう側ではなく、こちら側にいるのだろう。

だから、この文章はものすごく楽しい時間を与えてくれた『Stardew Valley』に対する感謝の表明であり、同時にこの作品について何事か書いてやったぞ、という復讐でもある。そういう意味においての「愛憎極まるで賞」なのであり、私はこれでいくばくかの溜飲を下げつつ、おそらく今晩もこの作品をプレイするだろう――心のどこかで仕事の遅れを気にしつつ、そのことをこの作品のせいにしながら。