スクウェア・エニックス 齊藤陽介氏ロングインタビュー。『ドラゴンクエスト』から実写ゲームまで、王道と獣道を歩んだゲームプロデューサーの四半世紀

スクウェア・エニックス 齊藤陽介氏ロングインタビュー。エニックスに入社した93年から実写ゲーム時代、『ドラゴンクエスト』『ニーア』シリーズのプロデュース、アイドルグループの育成から趣味の人狼まで、王道と獣道の両方を歩んだゲームプロデューサーの四半世紀を振り返ってもらう。

普段スポットライトがあたらないゲーム業界の裏方の仕事、人、もの、イベントなどを特集する企画「The Back Room Residents(隠し扉の住人たち)」。初回のインタビュー対象となるのは、常にゲームクリエイターと共に歩みながら、一歩引いた立場でプロデュース業を続けてきたスクウェア・エニックスの齊藤陽介氏。実写ゲームからアイドルグループ、『ドラゴンクエスト』から『ニーア』シリーズまで、王道作品を担当しつつ獣道を開拓してきた齊藤氏に、ゲーム業界に入ってからの四半世紀の間に何を考え、どう動いてきたのか対談形式でうかがった。

齊藤陽介
スクウェア・エニックス 取締役兼執行役員、プロデューサー。1993年、エニックスに入社。『アストロノーカ』『ユーラシアエクスプレス殺人事件』『クロスゲート』といった実験的な作品をプロデュースしてきた。2010年代には『ドラゴンクエストX オンライン』『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』を担当しつつ、『ニーア』シリーズの立ち上げに成功。現在は複数ゲームタイトルを進行しながら、若手育成とアイドルグループ「GEMS COMPANY」のプロデュース業に力を入れている。お酒と人狼が大好き。

なお対談相手となるのは、齊藤氏と旧知の間柄であるJ氏。今回は久しぶりの再会ということもあり、東京・六本木にあるレストラン「アサドール・エル・シエロ」にてお酒を酌み交わしながらの、4時間半におよぶ対談となった。

J
齊藤氏をエニックス時代から知る旧知の間柄。ゲームのプロデューサー経験もあり、業界事情通として知られている。ここ15年ほどは仕事の場を海外に移しており、齊藤氏とは今回久々の対面。AUTOMATON編集長とも仲が良いことから今回の企画参加に繋がった。

 

バトルえんぴつから始まった四半世紀の歩み

J:
齊藤さんお久しぶりです。業界に入って何年になったんでしたっけ?

齊藤:
エニックスに入社(1993年)してからだと26年になりますね。

J:
26年もゲーム業界にいる人って実は少ないですよね。ゲームのプロデュース業をやり始めてからは何年ですか?

齊藤:
25年くらい。四半世紀。最初の1年はグッズの生産管理部門にいましたから。

J:
あっという間の25年でしたよね。

齊藤:
Jさんと一番最初に携帯電話を買ったのって、23年くらい前じゃない?個人ユースの携帯電話が出回り始めたころにキャリアをスタートしたわけだから、技術的な革新が半端ないよね、この25年というのは。そういう意味ではあっという間でしたよ。次から次へと新しいプラットフォームが出てくるから、よくソフトウェアがハードウェアについていけたなという印象です。

J:
そうやって四半世紀やってきて、今でこそゲームに対する社会的認識はすごく向上していますけど、ゲーム業界を全く知らない人に自分の仕事を説明するときには、どういう表現を使ってますか?

齊藤:
ゲーム屋さんといえば大体わかってくれますね。あとは映画に例えることが多いです。演出や照明などいろんな部門がある中での制作部、いわゆるプロデュースの仕事をしている人だと説明しています。何でも屋さんです。アニメーションの例えだと、宮崎駿さんは監督。鈴木敏夫さんはあくまでプロデューサーであり、その立ち位置にいるのが今の俺です。そう言うと偉そうですが、分かりやすいので。監督とプロデューサー、どっちが偉いとかではなく、単純に役割が違うんです。

J:
最初ってなんでグッズの生産管理部門だったんですか?

齊藤:
デジタルなゲームよりも、手に取れるおもちゃの方がなんとなくいいなと思っていたんです。子供のころに超合金シリーズで遊んでいて、いつの間にかロケットパンチのパンチの部分を失くしてしまったという思い出が子供の教育・成長に何かしらの影響を及ぼすんじゃないかと。物理的なおもちゃを壊したり失くしたりすることが、育っていく過程で何かのきっかけを作るのではないかと勝手に思い込んでいたんです。デジタルゲームは壊れないし失くさないから、子供が大人になっていく過程の中では大して重要ではないのかなと考えていました。

ーーおもちゃ体験が子供の教育・成長に影響を及ぼすというのは、いつ思ったんですか。

齊藤:
俺は両親が銀行員で、自分が経済学部卒で、そんなにいい大学を出たわけではなかったので、就職活動のときは最初、どこかの地銀に滑り込めたらいいなぁとくらいに考えていました。だけど人のお金を数えたって楽しいわけないなと思って。大学では中小企業論を専攻していたおかげもあって、バランスシートだけは読めたんです。そこでバランスシートを見てエニックスは凄い会社だなと思ったんだけど、振り返ってみるとゲームよりは子供の頃に持っていたおもちゃの体験の方が心の中で刻まれていたんです。形あるものが壊れたり、形あるものを失くす体験が心の中に残っていて、それは大人になるまでの人格形成に凄く影響するなという考えがあって。人の生き死に関わっていないようで関わっている、衣食住以外の「遊び」の部分で関わりたいと思って選んだのがこの業界です。もともとテーブルトークRPGとかもめっちゃ好きで、そっちの会社も考えたのですが、絶対に儲からないなと。

だから本当はバンダイに入りたいくらい、おもちゃ会社に行きたいと思っていたんです。タカラから内定をもらったんですが、「う~ん、俺はリカちゃん人形を作るタイプじゃない」と思って、最後の最後に内定をもらったエニックスに入ったんです。ゲーム業界だとセガやナムコからも内定をもらっていましたが、それはおそらくゲームセンターへの配属で、当時はそれほど興味もなくて。ゲームセンター用のゲームはまだ作ったことがないので、今では俺の最後の課題だと思っています。

ーーその大切にされていた「子供時代の形あるものが壊れたり、失くす体験」という物が壊れる悲しみみたいなものは、齊藤さんのゲーム作品に反映されていますか。『ニーア オートマタ』はそういう情緒を感じます。

齊藤:
結果論としてはね。でも優しい世界を作りたいとは思っているかもしれない。ヨコオさんに『ニーア ゲシュタルト/レプリカント』で一番最初に言ったのは「お父さんと娘、お兄さんと妹。最後は草原で手を繋いで笑顔でエンディングを迎えてください」というオーダーです。そしたらあんな結末になりました。俺の中ではハッピーエンドだと思っているんだけども。

ーーそれは家族の再発見みたいなものを表現したかったということでしょうか。

齊藤:
というより、誰も幸せになれない世界なんてゲームとしてのカタルシスも何もないなと思って。もちろんひどい世界もあるんだけど、ひどい世界はひどい世界なりにハッピーエンドがあってもいいなと思っていたんです。

J:
おもちゃ志望だったことを考えると、最初にフィジカルな「バトルえんぴつ(*)」を担当できたのは嬉しいことだよね。

*バトルえんぴつ:エニックスが販売していた『ドラゴンクエスト』シリーズのバトルえんぴつには、モンスターや人間キャラクターが描かれており、各面に「◯に△のダメージ」といった行動内容が記載されている。サイコロのように交互にバトルえんぴつを投げ、HPがなくなると負け。90年代に小学生の間で流行した。

齊藤:
めっちゃ嬉しかったですよ。バトルえんぴつだけでなく、ロトの盾キーホルダーとかロトの剣シャープペンとかも担当していました。課長と先輩1名の部署だったので、ほとんどのドラゴンクエストのグッズの原価管理や生産管理をしていました。ロトの盾のキーホルダーはダイキャストで鋳型に流し込んで作るんだけど、バリが出ているやつを見つけたら工場のおばちゃんに「ちょっとバリが出ているからもうちょっと削って」とか言う仕事をやってたんですよ。

ーー開発ではなく生産管理側だったんですか。

齊藤:
デザインも何も出来なかったからじゃないですかね。経済学部で電卓はたたけそうだなと。俺は購買部という部署にいて、製造管理や原価管理をしていました。バトルえんぴつの面どおりに印刷するのってそんな簡単なことではないんです。下町の工場に朝7時くらいに行って、えんぴつに印刷するアナログな機械を温めるまで工場のおじいちゃんと一緒にお茶を飲みながら話して、まずは1本作って面がちゃんと取れているか確認して、OKを出してから大量に製造するという感じです。

 

キャリア初期には自分で仕様書を書いていた

J:
入社から1年経ってグッズから、ゲーム企画課に移ったとき、一人だけ金型とか計算がものすごく得意な状態だったわけでしょ?あれはなぜ?

齊藤:
入社してみたら課長と先輩1名しかいない部署だったので、自分が現場でやらないと全てが進まなかったんです。だから物凄くスパルタな1年でしたよ。

J:
ゲーム企画課に移ってから最初にやったのって何でした?

齊藤:
ゲームを作るという意味では『熱血大陸バーニングヒーローズ』です。そのあとに『ミスティックアーク』。

J:
それはアシスタントとしてですよね?

齊藤:
はい。それと並行して『天地創造』『ガイア幻想紀』『スターオーシャン』『ワンダープロジェクトJ 機械の少年ピーノ』(以下、ワンダープロジェクトJ)とかのデバックをしていました。

J:
当時はみんなでデバックしてたもんね。その時にみんなが『ドラゴンクエストVI 幻の大地』(以下、DQVI)をやっていたのを覚えてますよ。

齊藤:
異動してから数年後くらいのときに『DQVI』のバランス調整をやっていました。昼は仕事して、夜から朝までは『DQVI』をやれと言われて。ひどい、いつ寝るのこれってなって(笑)だからだんだん速くクリアできるようになっていきました。無意識のうちにラスボスまでたどり着いたり。そのあとにやった『勾玉伝説』(*)の仕様書は俺が書きました。いつまで経っても完成しないから。

*『勾玉伝説』:最終的に『BUSHI青龍伝~二人の勇者~』というタイトルでT&E SOFTより発売された古代神話RPG。ゲームフリークが開発を担当し、スーパーファミコン用に1997年発売。見下ろし視点でマップ移動し、敵とエンカウントすると横スクロール画面での戦闘に突入する形式を取っていた。

J:
確かあのとき、開発元のところに行って打ち合わせしてたよね。

齊藤:
行きました。もうすぐ完成するからということで行ったら、スクロールしない画面が一枚出てきて。まったくできてないじゃないかと。いろいろと大変でしたよ。プログラマーも新人しかいなくて、向こうの担当者がいなくなって、最後は俺が残って仕様書を書くというわけがわからない展開になっていました。仕方がない、やれるだけのことはやろうと思ってやってました。

ーー『ミスティックアーク』や『ダークハーフ』など、当時のエニックスは『DQ』以外にもRPGをいっぱい出していましたが、どのような戦略だったんですか。

齊藤:
『DQ』は数年に1回くらいしか出ないから、その間に新しいゲームを作っていたんです。

J:
RPGの企画が通りやすかったというよりも、実際に出された企画にRPGが多かったんですよね?

齊藤:
そう言われてみるとRPGは多かった。シミュレーションゲームとかもあったけどね。

J:
俺の中で印象が強かったのは『ワンダープロジェクトJ』(*)。

* ワンダープロジェクトJ 機械の少年ピーノ:1994年、アルマニックが開発を担当し、スーパーファミコン用に発売された育成シミュレーションゲーム。人型の機械(ギジン)ピーノに物の使い方や行動の善悪を学習させることで物語を進めていく。その育成システムと感動的なシナリオが評価された。

齊藤:
あれは新しかった。やっていて楽しかったです。

J:
でも後続が出なかったよね。新しい企画が欲しいんだけど、『ワンダープロジェクトJ』みたいな企画が出てこない。どうしても開発者ありきになるので。

ーー『ワンダープロジェクトJ』は名作ですが、やっぱり社内でも前評判が良かったんですか。

齊藤:
売れるか売れないかはわからないけれど、みんな楽しいなと思ってやっていたと思いますよ。俺は最後でガチ泣きしてましたもん。ピーノの台詞とかで。いまでもファンが多くて、リメイクしてほしいという声が多い作品だと思います。

 

『がんばれ森川君2号』とは違い「勝ち負け」の概念を入れた『アストロノーカ』

J:
最初にプロデューサーとして担当したのは『アストロノーカ』(*)?

c 1998 MuuMuu ・SYSTEM SACOM ・SQEX

*アストロノーカ:1998年、PlayStation向けに発売された育成シミュレーションゲーム。ニッカポッカ星系の小惑星に入植した宇宙農家(アストロノーカ)として、宇宙野菜の交配・育成に励み、「全宇宙野菜コンクール」優勝を目指す。作物を狙う害獣バブーのAIには学習機能が搭載されており、同じトラップでの撃退を続けていると回避するようになる。

齊藤:
コンシューマーは『アストロノーカ』、PCは『クロスゲート』で、Webは『みんな de Quest(Mail de Quest)』です。

J:
『アストロノーカ』はどういう経緯で作られたの?

齊藤:
当時「ウゴウゴルーガ」がすごく好きだったんです。フジテレビの朝の子供向けCG番組だったんですけど……「ミカンせいじん」とか若い世代の人は知らないですよね。ウゴウゴくんとルーガちゃんというかわいい男の子と女の子がグリーンバックでCGと戯れる番組があったんですよ。幼児向け・子供向けではあるものの、ものすごくはっちゃけていて、ブラックユーモアもあって。「ポンキッキーズ」みたいな感じです。

J:
「ポンキッキーズ」に代わる、もしくは並ぶことを目指して作られた新しい子供向け番組でしたね。

ーー当時流行っていたんでしょうか?

J:
大人に受けていて、ちょっとカルト的な人気があったんですよ。

齊藤:
その「ウゴウゴルーガ」のCG会社がどこか調べたらウルトラ(のちのムームー)というところで、タウンページで電話番号を調べて連絡しました。当時はホームページなんてなかったものですから。

J:
当時コンタクトするときはみんなタウンページなんですよ。でもみんな警戒するので、たまに嘘言ってました。「プログラマーなんですけど応募してますか」と言ってアポ取りするとかやってましたよね。

齊藤:
(笑)

J:
「ウゴウゴルーガ」から出たクリエイターって結構多いよね。森川幸人さんは当然そうだし、『せがれいじり』の秋元きつねさんもそうだし。

ーーということは、かなりエニックスと関わりが強いですね。

齊藤:
エニックスはアウトソーシングの会社だったこともあり、ゲームに関係のないCG会社とゲームを作りやすい環境ではあったのかもしれません。

J:
あの時代にAIをフィーチャーしたゲームを作ったのが凄い。今、再ブレイクしているでしょ。

齊藤:
遺伝的アルゴリズムを使ったゲームとして、20年経って改めて評価されています。弊社の三宅陽一郎から(*)は、初めて本格的なAIを使ったコンシューマーゲームだと言っていました。

*三宅陽一郎:スクウェア・エニックスのリードAIリサーチャー。ゲームAI開発者としてデジタルゲームにおける人工知能技術の発展に従事。日本デジタルゲーム学会理事、芸術科学会理事、人工知能学会編集委員。

ーー『がんばれ森川君2号』は、AIが搭載された味方のロボットを育てますが、『アストロノーカ』は敵にAIが組み込まれていて逆パターンというか、対称的ですね。

齊藤:
俺は『がんばれ森川君2号』を見たときに凄く面白かったけど、これはゲームではないなと思って。ゲームにはやっぱり勝ち負けが必要で、それがあればもっと面白いものになると思って出来たのが『アストロノーカ』。

J:
『がんばれ森川君2号』を見て『アストロノーカ』を作ったということですか?

齊藤:
いや、『がんばれ森川君2号』がたまたまそういう仕様だったので、『アストロノーカ』はちゃんと勝ち負けのあるゲームに仕上げようと考えながら作っていました。

J:
『アストロノーカ』で失敗したことはありますか?

齊藤:
一番の失敗は、プロモーションとして『スターオーシャン』に『アストロノーカ』の体験版をつけたことだと思っています。体験版である程度満足して買ってもらえなかったパターンです。費用タダだからということで体験版をやる話になったのに、あとから1枚100円かかりますと言われて。『スターオーシャン』がめっちゃ売れて、広告宣伝費を全部持っていかれました(泣)今でも『スターオーシャン』の体験版についていたよねと言ってくれる人たちはいるんだけど、当時は購買には大きく結びついていないんです。

J:
なるほどなぁ、面白い。

齊藤:
ちなみに『アストロノーカ』のデバッグは1年くらいやっているんですよ。バグが出続けているという嘘をついてチューニングしていました。『アストロノーカ』の場合、トラップバトルのバランス調整に詰まるのは仕様バグとも言えるので、あながち間違いでもないんですが。

J:
あのゲームはチューニング命みたいなところもありますよね。

 

ーーーパート2、実写ゲーム時代の話題に続く

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