『The Last of Us Part II』レビュー。愛が愛を叫ぶ、暴力と愛に満ちた至高の傑作

『The Last of Us Part II』レビュー。PS4『The Last of Us Part II』は、愛が愛を叫ぶ、暴力と愛に満ちた至高の傑作であった。

『The Last of Us』が発売されてから7年。Naughty Dogは逃げなかった。いくつかの問題を抱えながらも、『The Last of Us Part II』は傑作の向こう側へとたどり着いたのだ。かつて「パート1」がPlayStation 3というゲームハードの歴史に、消えぬことのない名を刻んだように、「パート2」もまた、まもなく終幕を迎えるPlayStation 4の歴史に有終の美を飾るだろう。光を失った復讐鬼が辿る旅路は、その実、愛に満ちていた。

『The Last of Us Part Ⅱ』は6月19日にソニー・インタラクティブエンタテインメントより発売されたアクションゲーム。開発を手掛けたのはNaughty Dogだ。本作は累計販売数1700万本を記録した『The Last of Us』の続編作品であり、前作から5年後の世界を舞台に、主人公であるエリーを襲った不幸とそれに起因する復讐譚を描く。

*ソニー・インタラクティブエンタテインメント(以下、SIE)提供レビュー用コードでのプレイにもとづき執筆。記事内画像はいずれもSIE提供のもの。また本記事内には『The Last of Us Part Ⅱ』に関する軽度のネタバレと捉えうる内容あり

愛が愛を呼ぶ無限地獄

『The Last of Us』のストーリーは『Part Ⅱ』へと至ってもなお、表面的な部分こそ前作とは真逆である「暴力の連鎖」を題材として謳ってはいるが、根本的なテーマは変化していない。『The Last of Us』においては、共に大切な者を喪ったジョエルとエリーの二人が、生存限界におけるさまざまな人間同士の関係性を垣間見ていく中で、愛の伝染ともいうべきか――極めて強い結びつきを獲得するまでの軌跡を語ったものだった。

しかし、こうも解釈できる。独り善がりなジョエルの救済物語であると。自らの救済、そして内面化されたエリーのために、他者を殺し、意見を否定し、果ては感染症の根絶という希望だけではなく、すぐ隣にいるエリーの決意すら踏みにじった。自らの人生に意味をもたせるために。長い旅路の末に獲得した自己愛と、彼が”愛したかった”エリーへの愛。愛のなせる業である。

――「素朴実在論」という言葉がある。「この世界は自分の目が映すままに存在しており、他人にも同じように視えている」という考え方だ。この論が実際に機能していないことは明らかだろう。なぜなら私達が何を感じているのか=個々人の内に抱いた心象を比較することは、不可能だからだ。

特に人間関係を示す際、この事実は顕著だと言えよう。私達は他人との関係を互いに信じ込むことによって、成立させている。その中でも「愛し、愛される」という「特定の人物への激しい執着心」を伴った強烈な自己暗示を必要とする関係は、時として排他的な属性を帯びやすい。「〇〇なAが好き」という感覚は「〇〇なAでいてほしい」へと変化し、やがて「Aは〇〇であるべき」と、最終的には現実のAを無視し、想像上のAを実在として信じ込むようになる。恋は盲目という文句が指し示すとおり、認知は簡単に歪んでしまう。もちろん、関係性を妨害する他者の介在を許そうとはしない。愛とは暴力の数ある形のひとつだと、私は思うことがある。

そして『Part Ⅱ』はこの愛が持つ暴力性を1作目以上にフィーチャーし、主人公であるエリーのみならず、ほぼすべての登場人物に反映させた内容となっている。各々が愛ゆえに他者を否定し、認知を歪め、その結果、愛の伝染ともいうべきか――他者の愛を呼び覚まし、狂わせていく。目指すべき篝火が失われた世界では、抱いた愛を生きるための道しるべにするほかなく、愛に引きこもった人間たちは相互理解を拒み、惨劇を限りなく拡大していくのである。

本作ではエリー陣営以外にも、WLF(ワシントン解放戦線)という軍閥や、カルト宗教団体「セラファイト」などが登場する。興味深い点として、それぞれの組織が敵対組織を観た場合、その景色は悍ましく、逆に自らに視点を移した場合はとても暖かな、温もりのある風景として映るということが挙げられる。

たとえば、「トミー」というキャラクターが本作には登場する。彼は前作にも登場したジョエルの弟であり、本作ではエリーをサポートするために各地を奔走する。当然、エリー側の視点では非常に頼りがいのある人物として描写されるが、敵対勢力の側からすると一転、無慈悲なキリングマシンとして描かれるのだ。彼は過去、レジスタンス活動の一環としてさまざまな破壊活動や拉致監禁といった惨たらしい行いに手を染めてきたというバックボーンを持っている。その経験をフルに活かしてか、通過点を鮮血とこぼれ落ちた臓物で埋め尽くしていく。しかしながらその描写はエリー視点からでは絶対に直接的なものとして表現されることはないのである。愛情からくる認知の歪みによって、各々が各々の中に都合の良い世界を内包している、『Part Ⅱ』の世界観を端的に表現するキャラクターの一人であると言える。

ストーリーテリングの手法に関しては、一連の美しいチュートリアル・シークエンスからエンディングの寸前に至るまで、本作が双方向メディアである点を活かしており、なおかつ無駄な描写が一切存在しない。本筋から一歩離れたちょっとした寄り道ですら、「語り」として機能する。かつて「プレイする映画」をコンセプトに掲げる『アンチャーテッド』シリーズを作り上げた、Naughty Dogの技術が遺憾なく発揮されていると言えよう。

その中でも物語に一定の説得力をもたらす映像美においては、PlayStation 4という画材が持つ可能性を最大限に活かしきったといっても過言ではない。これは誇張表現ではない。泥と血で汚れた上着や、スキンケアという概念からは程遠い肌。ホコリやカビをまとった家具の表現。鉄の匂い漂う光沢を放つ銃。また目だけではなく耳でもNaughty Dogは私達を楽しませる。人間と動物の足音の違いや、種類の違いからくる草木の揺れる音の違い、飛び込んだ際に水中に響く水の音の違い。最高峰のレンダリングと音響技術とが私達を本作の物語から逃げることを許さない。

なお、ナラティブに影響を与えている部分での表現規制はほとんどないように感じられた。本作における「グロテスク」というものは、血しぶきや飛び出す内蔵といった、規制の入りやすいスプラッタ的な死の表現には重きがおかれていない。そうではなく、ナイフが皮膚を突き破る寸前の弾力感や、創傷からふつふつと湧き出す血液、銃弾に倒れた人間がモノに変わる瞬間の筋硬直といった生命の表現に力を入れており、結果として割かれた中身が見えずとも、十分に痛々しさと狂気が伝わってくる内容になっているからである。

ではこの愛が愛を呼ぶ物語が一体どのような帰結を迎え、それがどのようなメッセージを私達にもたらすのかということに関してだが、少なくとも、正義や悪を断じる内容ではない。「人は愛ゆえに過ちを犯すのだ」という高尚な説法を行うものでもない。ましてや「真実の愛」の在り処を示すものではない。本作が提示する命題は私達の普段と地続きであり、それでいて身につまされるものである。

強い愛情を抱いたがゆえに思考が硬直化した結果、視野狭窄に陥り、誰かを傷つけた経験というのは正直、筆者自身にも覚えがある。人でなくてもいい。ペットでも、モノでもいい。何かを強く好きになる、愛するということは清濁合わせ一体どういった現象なのか。あなたが愛する=強く執着する対象はその実、一体なにか。目の前にあるものなのか。空想の産物なのか。このゲームをプレイする過程で私達は、我が身に抱えた愛の正体を今一度問い直す必要性に迫られるだろう。

また、大きなスケールとしてだけでく、パーソナルな視点から見た本作の題材についても語らねばなるまい。先述したとおり、ジョエルは「パート1」において自らの人生における意味を「エリーを生かし育てる」ことに見出し、実行した。しかしその結果、エリーはジョエルがもたらした愛に溺れ、人生の意味を見出せずにいる。ファイアフライが待つ病院へたどり着くという、命を懸けた目的を失った、本来そこで人類を救うはずだったエリーは等身大の女性へ成長し、薄っぺらなラブ・ロマンスに浸ることで窒息死しかけている。果たせなかった大義から目をそむけながら。だが一転した状況を前に否応なく反らした視線を元に戻さざるを得なくなっていく。すなわち『The Last of Us Part Ⅱ』はジョエルに生かされることですべてを喪ったエリーが、彼女なりの人生の意味を見出すまでの成長物語でもあるのだ。

ここで重要なことは、Naughty Dogがジョエルの極めてエゴイスティックなおこないとその在り方を他のキャラクター(特に空っぽな状態にあるエリ―)と対比し、作品世界内における理想形に近いものとして提示していることだ。たしかに前作の作中後半、彼が獲得した決して揺るがない精神の有り様には多くの人が魅了された。私もその一人であり、自身の決意を貫き通せる強さがあればと何度思ったか数え切れない。だが彼の愛によってエリーをはじめ多くの一生が狂わされたことは無視できない事実である。仮にエリーがジョエルのような「強い人間」へと至った場合、私達は喜べるのだろうか。きっと喜ぶのだろう。ゆえに問い続けなければならない。愛と暴力の境界を。私達は何に怒り、何を赦してしまうのかを。

人生のロールモデルが破壊され、なおかつ誰もが自分の好きを、愛を、主張・共有できるようになった現代社会。「多くの人から愛された作品の続編」として誕生した『The Last of Us Part Ⅱ』が、あえて「愛が持つ狂気」という題材を、ゲームというメディアを用いて描いたことは、非常に意義深いことであると、私は思っている。

前作より受け継いだもの

『Part Ⅱ』におけるゲームシステム、特に戦闘システムは、旧作において評価された部分を核とし、遊びの幅を更に拡張した内容となっている。単なる「追加」という領域に収まることなく、本作ならではの(旧作と比較して)新鮮な体験を提供しながら、大枠としてのプレイ内容が旧作から乖離していると感じさせることのない、続編たる『Part Ⅱ』の名にふさわしい内容に仕上がっている。

『The Last of Us』において評価された部分というのは主に、さまざまなゲームプレイを受け入れる器の大きさであった。ステージごとに最適な攻略法というものが存在せず、それでいて豊富な選択肢が用意されている。完全ステルスから一方的な蹂躙まで、プレイヤー1人1人の回答を見つけ出す面白さがあった。資源管理とキャラクタービルディングの方向性は程よくプレイヤーの頭を悩ませ、最終的にはそれまでの積み重ねに戦闘の優位性以上の意味をもたらすものになっていた。ジョエルとエリーの旅路が「私の旅路」でもあるという認識をもたせるギミックとして機能していたのだ。しかし物足りない部分もあった。敵の種類が乏しく、戦闘以外の楽しみを見出すことは難しかった。美しい景色とエリーがぼやくキレキレのギャグくらいである。しかし本作において上記の欠点は解消されたばかりか、ゲームプレイをより良いものへと進化させることに成功している。

先述したように、本作にはWLF、セラファイト、そして感染者が敵キャラクターとして登場。三者三様の戦法を採り、主人公を追い詰める。軍閥であるWLFは複数人でまとまって動くことが多く、プレイヤーを見つけると四方八方から押せ押せと一斉に取り囲んでくる。特に探知能力に優れた軍用犬を同伴しているときは絶対に接近してはならない。一瞬で見つかってしまうばかりか、軍用犬自体が小さく素早いためうまく倒せず、延々と救援を呼ばれてしまう。

一方セラファイトは隠密行動とスリップダメージ(継続ダメージ)で攻めてくる。彼らは基本的に森や屋内、夜間や雨の時に登場し、共通の衣装が保護色となっていて視認性が悪い。それでいて音の出ない弓や近接戦闘を攻撃手段として使用してくるのだ。本作では攻撃を受けると一時的に倒れ怯んでしまう。そして受けた攻撃が弓矢の場合、身体から引き抜くまでスリップダメージを受け続ける。ゆえに見つかったと思ったらよく分からぬまま袋叩きにされていたということが度々ある。

最後に感染者についてだが、既存の種と共に、新たなものも少数ながら追加。既存種に関しては旧作と同じ戦法が通用するが、新種は狭い空間に範囲攻撃を仕掛けてくるため、独特な立ち回りが必要となる。また戦闘とは直接関係ないが、強化されたグラフィックによって表現される感染者たちのビジュアルには中々興味深いものがある。死体をまじまじと観察してみると、彼らが菌由来の存在であることがよく分かる。

今しがた説明した通り、プレイヤーは3種類の敵に合わせた対応を迫られるわけだが、それに合わせて戦闘ロケーションも多様化。プレイヤーが選ベる択が更に幅広いものになった。絶妙に見つかりやすい草むらや、高低差を特徴とする建造物。狙撃が可能なポイントがある一方で、水中に潜ればステルスを助ける抜け道を発見できたりもする。感染者を人間にぶつけるのも面白い。本作は敵の殲滅を強要されるシチュエーションがほとんどないいため、最悪「走り抜けてなんとかしてしまえ」ということも十分に選択肢として候補に入る。

残念ながら武器のラインナップはあまり変わっていないが、ビルドの方向性は増加している。操作感が旧作からそのままで良いと捉えるか、物足りないと感じるかは人によるところだろう。ちなみに私の感想は後者である。そのほかにも、近接時における回避行動の追加やクラフトで制作できる項目の増加が確認できる。入手できる資源量も前作と比較して増えたように思え(難易度NORMAL時)、新たに獲得した新要素を瞬時に試しやすくなっている。ゲームーオーバー時のリトライがすぐに行えるようになったのも地味に嬉しい。難易度設定に関しても、現時点で5段階存在するほか、敵の強さや自分の火力まで細かく調整できる「CUSTOM」の存在や、戦闘シーンを選んで単体で楽しめるモードも用意されており、TPSアクション好きには至れり尽くせりなオプションが揃っている。

また忘れていけないことは、戦いの中で敵を殺した際、他の敵NPCが彼/彼女の名前を呼び、死を悼むようになったことだ。これは軍用犬を殺した際も同様であり、開発者によれば、本作に登場する犬はすべて異なる名前がつけられているそうである。この演出によってプレイヤーは目の前の戦いが単なる射的ではなく、命のやり取りというであるということを強く意識させられ、作品に対する没入感が増す。場合によっては罪悪感すら覚えるかもしれない。先述したナラティブの要素とゲームプレイを有機的に接続させる優れた手法だと言える。

しかしながら本作はゲームであり、プログラムである。叫ぶ名前はまだしも、悲鳴に関してはパターンが存在するため、長時間のプレイの中で聞き慣れてしまう。そう、聞き慣れてしまうのである。私個人としてはこの演出、聞き慣れることを前提に作っているとしか考えられない。唯一無二の友を失ったことで心の底から湧き出す叫びが、単なるノイズに変わった時、プレイヤーは「邪魔だ。皆殺しにしてやる」と狂気を呟く主人公の側に立っているのではないだろうか。強い執着心(プレイヤーにおいてはゲームクリアという目的)に囚われた人間はこうも残酷になれるのだと久々に実感できるギミックである。

戦闘以外の楽しみの拡充については、まず探索要素の増加が挙げられるだろう。流石に箱庭を自由に駆け回るようなものではなく、幹に枝葉がついた程度の内容だが、進歩としては十分である。本作のマップは広がっただけでなく脇道に逸れることで確実に得をするよう設計されており、興奮と共に部屋奥の扉を開けたら何もなかった、という事態に陥ることがまったくない。

「得」の中身としては、前作から引き続き存在する、作品の世界観の深堀りを行う収集要素や、新たな武器。あるいは、新しいアップグレード項目を解除するアイテム(サバイバルガイド)が含まれる。短いながらカットシーンが挿入される場合もある。先述した増えた分の資源も、基本的には脇道に沢山転がっている。

プレイヤーに対する探索の動機づけに関しても工夫がなされ、チュートリアルを終えた後すぐに到達するセミオープンエリアはそれこそ探索を促す作りになっている。この場所で「探索=得」と学習したプレイヤーは、その後のマップにおいても積極的に廃屋や地下室へ潜ることを止めないだろう。逸れた先に出くわす環境パズルは可もなく不可もなく、ありきたりなものだが、逸れた先でしか味わえない体験(本筋の中で行う銃撃戦とは異なる体験)として効果を発揮。清涼剤の役割を果たしている。

そして特筆すべきは物語の節目や、探索の道中など、随所随所で挿入されるギター演奏のミニゲームだろう。プレイヤーはエリーがジョエルから教わった――まるで親が子に伝えるように――ギターをタッチパッドをなぞる形で演奏することになる。片手でコードを抑える必要があったりと、楽器演奏の疑似体験としてはかなりよく出来ている部類ではないかと私は感じた。演奏する曲目はすべて往年の名曲ながら、悲哀を叫ぶものばかりだ。このギター演奏、実のところ本作のストーリーにおいて極めて強い意味を持っており、私は当初「血みどろの狂騒を描く作風から浮いているのでは」と感じていたが、最終的にはその認識を改めることになった。「浮いていること」に意味があるのだ。私達とエリーはギターを弾いている間だけ、元の自分に立ち返ることができるのである。

総じて、『The Last of Us Part Ⅱ』のゲームシステムは前作の良い部分を活かしつつ一皮剥けた、より高い完成度に仕上がっている。「暴力の連鎖」というナラティブな部分と、プレイヤーにエキサイティングな報酬を与えるゲーム部分が見事融和し渾然一体となって、本作を支える大黒柱として君臨している。

Hurtful?いやHeartful

本作は発売以前から「すべてのプレイヤーが快適に遊べる」ことを謳っており、事実60に渡るアクセシビリティ調整の項目が備わっている。色覚補正や、画面酔い防止のための視覚演出カット。テキスト読み上げ機能。ゲームプレイをスムーズにする、道に迷った場合のナビゲーションや、一時的なズーム、銃を構えた際のオートロックオン。さらには難易度調整とは別に、「敵が背後に回り込まない」「ほふく前進時は絶対に発見されない」「スローモーションの発動」など、シンプルにゲームを易化する項目もある。

肝心なのは全部の項目が効果的に作用しているかということだが、私は別に特殊な色覚をもっているわけではなく、画面酔いもしないため、これらにまつわる調整内容に関しては検証できなかった。しかしそれ以外の項目に関してはきちんと作用していることが確認できた。特にゲームを易化にするものをすべてオンにして本作を遊んだ場合、緊張感こそ失われるが、体験はノンストレスなものになる。一方で(アクセシビリティとは別だが)HUDに関する項目をすべてオフにした場合は非常にスリルあふれる没入感の強いゲーム体験をすることができる。

また探索を終えた際「ここはすべて見て回った」と、プレイの進行を促すアナウンスが入るなど、本作からはプレイヤーをエンディングまで導きたいという強い意図が感じられた。人によってはこの仕様を「自由なゲーム体験を阻害する要素」と捉えるかもしれないが、本作はリニア型の物語形式を採っているため、別段窮屈に感じることはなかった。

以上、『The Last of Us Part Ⅱ』の優れた点を述べてきた本稿ではあるが、逆に難点を挙げるとなると、前作をプレイしていなければ物語の魅力を十分に味わうことができない、という点くらいだろうか。度重なる理不尽と喪失の中で、ジョエルが勝ち取った「人生の意味」を見届けたプレイヤーでなければ、エリ―に取り憑いた愛や、彼女たちが振りまく惨劇に対して、強い理解の感情を覚えることは難しいかもしれない。続編作品の宿命ではあるが、もし「パート1」を遊んでいない方は、是非触れてみてほしい。そう、それほどまでに本作は完成されていた。多角的な観点から楽しむことが可能なナラティブ。それを阻害せず、前作以上の完成度を誇るゲームシステム。2つの旨味を十分に咀嚼できるようにしたホスピタリティ。開発陣の熱意が、一切の曇り無く、理想的な形で目の前に提示されていたのだ。

暴力としての愛、『The Last of Us』というタイトルへの愛、そして私達プレイヤーへの愛。光を失った復讐鬼が辿る旅路は、その実、愛に満ちていた。

Takayuki Sawahata
Takayuki Sawahata

娯楽としてだけではなく文化としてのゲームを知り、広めていきたい。ジャンル問わず死にゲー、マゾゲー大好き。

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