AUTOMATON vs. 松山洋 サイバーコネクトツーのルーツと信念 (前編)

株式会社サイバーコネクトツー代表の松山洋氏にお話をうかがいました。ゲーマー諸氏には同社の説明はとくに必要ないでしょう。ゲーム版『NARUTO』シリーズで圧倒的な存在感を放っているほか、ちょうど1年ほど前にはCC2が開発をてがけた『ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル』がリリースされました。

株式会社サイバーコネクトツー代表の松山洋氏にお話をうかがいました。ゲーマー諸氏には同社の説明はとくに必要ないでしょう。ゲーム版『NARUTO』シリーズで圧倒的な存在感を放っているほか、ちょうど1年ほど前にはCC2が開発をてがけた『ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル』がリリースされました。なお、本社は福岡にありますが2010年には東京スタジオをオープンしています。

 


――先日はフランスのJapan Expoに参加なさったとうかがいました。

じつは毎年参加しているイベントでありまして。それが、フランスで開催されるJapan Expoです。

最新作は『NARUTO-ナルト- 疾風伝 ナルティメットストームレボリューション』ですが、 Japan Expoはタイミング的にもそのタイトルを盛り上げる一番大事なイベントになります。とくに今年はJapan Expoが15周年で、過去最大の来場者数が見こまれていました。今までは3日間なのですが、今年は15周年で5日間の開催で。結果的に5日間で25万人のフランス、パリっ子達が集まったわけです。

しかもJapan Expoという名前のイベント名のとおり、日本の漫画アニメコンテンツというものを愛する欧米人の方々が集まるイベントになっています。Japan Expoは他のゲームイベント……東京ゲームショウ、E3、ドイツのゲームスコンベンション、いわゆる家庭用ゲームの祭典と毛色が違う、ファン主体のイベントです。われわれはゲーム業界にいるのでゲームのことばかり考えていますが、子供たちにとってゲームっていうものは、じつは特別なものではありません。ゲームもアニメもマンガも小説も、なんであれ娯楽は娯楽であって、面白ければ映画だってアニメだって観るしゲームだって遊ぶ。そのあたりの感覚が、ゲーム関連の特化したイベントだけをやっているとみえてきづらいんです。お客様の雑多な感じというか、面白ければ何だって夢中になれるという雑食性が見えてきます。Japan Expoみたいなイベントのほうが等身大の子ども達の趣味嗜好を確認できて、私自身勉強になっていますね。

――来場者の年齢層は?

若い子もいますし、はたち前後の若者、そしてもちろんそれより上の、20代後半から30代も多くいらっしゃいます。

――最近のトレンドで気になったものはありましたか?

とくにJapan Expoに関していうと、日本でこの一年間で流行ったものがなんだったのかというものが反映されていますね。

去年はどこを見ても『進撃の巨人』が人気でした。コスプレも含めて。もうどんだけ調査兵団がいるんだって感じで。

今年も『NARUTO-ナルト- 疾風伝 ナルティメットストームレボリューション』と『ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル』についてメディア向けにプレゼンさせていただきました。その方々に対して、「『ジョジョ』という作品をご存知ですか?」と挙手願ったところ、昨年伺ったときよりもかなり多い割合の方々に認知されていました。

今は日本で一般誌であつかわれるぐらい『ジョジョ』の人気が盛り上がっているじゃないですか。たくさんのグッズが作られて、「ジョジョブーム」とも言われていていますよね。ちゃんとそれが海を越えてフランスまで伝わっていました。彼らはもともと日本で何が流行っているかとか、日本人が夢中なものにすごいアンテナが高い方々です。でも、ちゃんとそれがダイレクトに反映されているのがすごく印象的でしたね。

――そこにサイバーコネクトツーさんのゲームの影響力もありましたか?

はい。元々作品世界のキャラクターそのものが特徴的ですから。あと、日本人の主人公は少なくて、空条承太郎や東方仗助くらいで……あとは空条徐倫も舞台はアメリカですから(編集部注: マンガ『ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン』のこと)。ほとんどが外国人。イギリス人、アメリカ人が多い作品ということもあって、今まで私自身も『ジョジョ』がずっと好きで、追いかけてずっと見てきてる一人です。ちょうどタイミングが合い、テレビアニメが放送されグッズも製作されて、ゲームもあって、という状態なので、本当にこれから『ジョジョ』がいよいよ世界へ広がっていくタイミングなのかな、というのは肌で感じますね。

 

――知人の教え子が『NARUTO-ナルト-』好きで、話を合わせるために全巻読んだんです。で、「アニメでやってない先の話を教えて!」って言われて話をしてあげたら、「そこじゃなくて、必殺技とかを覚えてきてよ」って怒られたらしいんですよ。彼にとって重要なのはキャラクターと必殺技なんです。その子は『NARUTO-ナルト-』のキャラクターや必殺技は『ナルティメット』シリーズで覚えたらしいんです。

あー、なるほど。それは嬉しいですね。

 

――これからの海外の『ジョジョ』ファンもとりあえずゲームから入るというのも大いにありえますね。

そうですね。ゲームもひとつの突破口になれれば嬉しいです。

 

interview-cc2-01

――話は変わりますが、サイバーコネクトを立ち上げるときもマンガに興味があったのですか?(編集部注: 1996年発足当時の社名は「サイバーコネクト」。2001年に「サイバーコネクトツー」へ社名変更)

子どものころの夢は、週刊少年ジャンプの漫画家になることでした。なので小学校中学校の時も美術部や漫画部に入っていて、教科書やノートに落書きばっかりしていました。実際に自分で考えたマンガも書いていました。でも、中学高校で運動部に入りました。バスケ部だったんですが、大学入ってまた漫研(漫画研究同好会)に入って。福岡の九州産業大学なんですけど。ここは有名な漫画家さんを多く輩出している大学でして。

大先輩の代表的なところでいうと、『シティハンター』の北条司先生、あとは私が一番好きな『ゴッドサイダー』の巻来功士先生。あとは『THE MOMOTAROH』、『陣内流柔術武闘伝 真島クンすっとばす!!』などのにわのまこと先生。あとは古くはコロコロコミックで私が子どものころにマンガを描かれていた『あまいぞ!男吾』のMoo.念平さん。そういった九産大を卒業して漫画家になる方っていうのは数多くいらして、私の大学時代の二年下の後輩は今も描いてますが、六道神士という『エクセル・サーガ』の作者。今、士郎正宗さんと『紅殻のパンドラ』を連載されていますけれども。結構活躍されている漫画家さんが多くいて。九産大は実は漫画家さんだけじゃなくて、アニメーター、アニメ業界、ゲーム業界、ミュージシャン、役者さん、俳優さん女優さん、お笑い芸人まで……松村邦洋さんも先輩にあたります。後輩にあたるかただと、モデルの蛯原友里さんとか。

振り返ってみると九州福岡って本当にクリエイターを多く輩出している。チェッカーズ、タモリさん、浜崎あゆみさんも。やっぱり本当に数多くの漫画家さんやミュージシャンやそういったクリエイターさんを多く輩出しています。土壌は元々あったんです。私自身は九産大を卒業して、その後最初に就職したのはコンクリート業界です。だから、全然関係なかったんですが。

 

――そのころ漫研などにいて、プロになろうと思っている人もいらっしゃったのですか?

もちろん、いましたよ。すごく大学自体がデカいっていうのと、九州で唯一芸術学部がある大学だっていうのがありました。なので、関東や関西に出るのではない人間は、みんな九州産業大学を目指すという。なので、“スタンド使いが惹かれあう”……みたいな。

とにかく、「それ系」が好きな連中が集まっているマンモス大学です。私自身が所属していた漫画研究同好会(漫研)も、100人以上の部員がいました。毎回は来ないような人間もいましたけど。すごく活発的にいろいろなことをやっているサークルでしたね。もちろんマンガも描いていましたし、私自身は三回生のときにマンガも描きながら編集長を務めていました。それに、一回生のときから、着ぐるみを自分達で作って『仮面ライダー』のアトラクションショーを文化祭でやる、そういったこともやっていました。

そのときにもやっぱり感じたんですけど、漫研だからといってみんなマンガばかり描いているかというと、じつはそうじゃないです。マンガ描いている人ももちろんいましたし、みんなやっぱりゲームが好きだったし。ちょうど私が大学のときに『ストリートファイターII(以下「ストII」)』が出て、ゲーセンに入りびたって、友達の家でメガドライブをやったりしていました。スーパーファミコンやメガドライブの時期だったので、後輩の家にみんなでたむろして、単行本を山積みにしてみんなでメガドライブの『修羅の門』をクリアする。あれは漫画のとおりにコマンドいれないと、クリアできない仕様なんです。みんなでこう「菩薩掌をかわしたあと、どうするんだっけ!」って言いながら。そういうマニアックなところは今もたぶんあんまり変わらないのかなって。どこの大学にもそういうサークルってあるんでしょうけど

――『げんしけん』みたいな。

そうです、本当に『げんしけん』ですね。なので、マンガが好きで漫研に入ってたはずなんですけど結局はそこに垣根はなくて、全員エンタメが好きでした。劇場版『AKIRA』をみんなで観に行くとか、レーザーディスクを持っている先輩の家でGAINAXの『炎の転校生』の上映会をやったりだとかですね。そういうことを……本当によくある『げんしけん』の風景ですね。

 

interview-cc2-02

――そのころ松山さん自身がゲームをお好きだった? とくにメガドライブ?

当時は、スーファミ、メガドライブ……。みんなソニックやっている中で『アレックスキッド』が好きでした。セガの独自性、カラーが一番出ている時期だと思います。ちょうどそのころはPCエンジンもあったので『邪聖剣ネクロマンサー』とか、ギーガー(編集部注: H.Rギーガー。映画『エイリアン』をてがけたデザイナー)の影響を受けたようなグラフィックでしたけど。あれがすごくあたらしいマシンだと。これだけ描画できるんだと、素人ながらに感動しました。色数が多いとか、横に4つ以上並んで5つ目が消えないとか(笑)。

――先ほど『修羅の門』の名前が出ましたが、そのころからキャラクターのゲームものがお好きだったのですか?

好きでしたね。たぶん、ほぼやっていたと思いますね。

――それは漫画とかアニメとかほかのコンテンツがお好きだったから?

もともとやはり私はマンガが好きで。マンガが好きだからアニメ化されたらアニメを観たし、ゲーム化されたらゲームをしたし。スーファミで出た名作ですけど、『らんま1/2』の格ゲーもずっと同級生とやってましたね。

語弊があるかもしれませんが、『ストII』は『ストII』ですごくツールとしてよくできている(編集部注: おそらく「対戦ツール」の意)と思います。でも、やっぱりスーパーファミコンよりも本当に好きな人はゲーセンで遊ぶという時代のなか、私は『らんま1/2』の格ゲーの方が好きでしたね。キャラクターゲームとしても……もともとよくできていますけれど……自分たちの愛情補完みたいなものが働くじゃないですか。

――なるほど。ところで、松山さんはもともとグラフィックデザイナー出身でいらっしゃいます。

そうです。3年間コンクリート会社で勤めた頃に、漫研にいた同級生が東京でゲーム会社に務めてました。当時まだネットも携帯もなかったので、電話とファックスでやりとりをしていました。私は大阪にいて、そいつは東京にいて、深夜お互いの仕事が終わった後に話をするなかで、独立を考えているから一緒にやろうということになりまして。そいつと私が福岡出身だったので、じゃあ福岡で作ろうと。それでできたのが今から18年前。当時は私を含めて10名しかいなかったですけど、10名で作ったのが有限会社サイバーコネクトですね。

――その会社に先立つ事業企画とかは?

なーんもないです。なんにも。

――とりあえず作ってみた?勢いで(笑)

まさにそうでしたね。1996年当時、私自身も25歳で社会人を丸三年やって、そこから独立したかたちです。ただ私自身はコンクリート会社でいわゆる普通のサラリーマンをやっていました。一緒に独立したメンバーというのは今も一緒にやっていますけれども、やっぱり独立するのが先で。

当時のサイバーコネクトは、私の同級生が言いだしっぺで代表を務めたんですけど、いま思うと、会社を立ち上げてこれからどういう会社にしていくとか、成功のビジョンがなかったです。まあ、若かったというのもあります(笑) とにかくがむしゃらに独立してゲーム会社を作って、自分たちの好きなゲームタイトルを創る。

勢いというか意気込みでできた会社でもあったので。本当に最初はノービジョンでしたね。びっくりするほどそうでしたね。私自身はもともとゲーム畑でもないですし、コンピューターすら触ったこともなかったです。ゲームの創りかたもわからないし、コンピューターのこともわからないという状態でした。

絵心はありましたので、やるんだったら企画・アーティスト・プログラム・サウンドの中ではアーティスト職だろうと思いました。そうなると今度はゲーム業界におけるアーティストとして一人前に働けるようになっていかなきゃならないので、アーティストとして能力を伸ばす必要がありました。

私以外の9人は、東京の大手のゲーム会社に勤めていました。みんな経験者、業界の先輩でしたので、彼らから学びながらゲーム創りとはなにか、コンピューターの基礎知識、そしてPSでゲームを作るときのグラフィックのテクニックを学んで盗んで。とにかく反復して練習していました。自分が描いたものが商品になりますが、先輩が描いたものと自分が作ったものを比較して、あきらかに自分の作ったものが不出来なんですね。なので、やっぱりこのまま世の中に出すわけにはいかないな、と思って何度も描き直して作り直していました。

だから会社ができて最初の4年間位はずっと家に帰らず会社に泊まってたんですよ。海で使うビーチマットを机の下においていました。みんなはもちろん遅くまで仕事をしますけど必ず帰るのですが、私はずっと会社にいました人の2倍やっても追いつけない、3倍やらないとだめだなと思い、だから8時間を3倍にして24時間ですね。

 

――寝る時間が.……。

それでずーーーーっと会社にいました。

 

interview-cc2-04

 

――1996年創設時には、周りに結構仲間がいらっしゃったとのことですが、やっぱりそのときの時流もありましたか? PlayStationがはじまったくらいかと思います。

ちょうどPSが出て2年目ぐらいだったので。当時SCEさんによる革命がいくつかあったと思うんです。代表的なところだと、メディアが変わった流通革命ですね。それまでのROMカセット流通がCD流通に変わりました。スーパーファミコンの末期ってドラクエが一万円くらいしたじゃないですか。それが結果的にゲームソフトが5800円で一本のソフトが大容量で発信できるようになったんです。

そしてリピート発注のスピードも素早く、すべてが理にかなったゲーム機だったと思います。「ゲームやろうぜ」というゲームクリエイターを発掘する施策をやるぐらい、新規参入に開いていたハードでもありました。なのでわれわれのように大手から独立して新規参入という会社さんがすごく多く出た時期でもあるんですね。いまとなってはすごく懐かしい話ですけれども。たぶんそういった会社と同じ感じで弊社もできていたんだと思います。

まあ、それと生き残れるかどうかは別の話ですが。うまくいかなかった会社が大半ですから。

――最初のころから完全にオリジナルものを出していたんですよね。『テイルコンチェルト』がデビュー作。オリジナルものを作るのは結構自信があったりしたんですか?

最初に創ったのが『テイルコンチェルト』、そのつぎが『サイレントボマー』。

interview-cc2-10

自信がどうというより、オリジナルのゲームしか創れないというのと、そもそもなにもわかってなかったです。たとえばキャラクター版権のゲームってどうやれば創れるのか知らなかった。当時のゲームクリエイターってみな自分たちでキャラクターやゲームシステムを考えて、ゼロから生み出すタイトルだらけだったと思うんですよ。

バンダイさん(現・バンダイナムコゲームス)だけだったと思うんですね。キャラクターのものがあったのは。なので、ほかのほとんどのゲームは、オリジナルIPでしたので。

社名をサイバーコネクトツーに変更してからは私が代表になりました。当時代表を務めていた同級生が出ていってしまいまして、会社が一回なくなりました。

『テイルコンチェルト』は当時日本だけじゃなくてアメリカやヨーロッパでも展開していただいていたんですけど、我々は人数が少なくてローカライズの作業にたずさわれる人員がいませんでした。自分たちはデベロッパーなので、すぐに2作目に移らなければいけませんでした。

それで『サイレントボマー』を創り、でもローカライズができないので、外部の会社さんにお願いをしていました。なので、ローカライズを自分たちでまともに面倒を見れない状態で、モノは創られ、結果的にやはり、アメリカ、ヨーロッパで発売されてもあまり売れなかったんです。『テイルコンチェルト』で全世界で15万本くらい。『サイレントボマー』も全世界で7万本くらい。

もちろん当時いたメンバーは死ぬ気で創りましたし、もう全力、あれ以上のがんばりはもう無理というくらい全力でやったのですが、数字的にはもちろん上手くいってないです。そのなかで、当時代表をやっていた人間がいなくなって。それでもメンバー自体はみな力はあるので再就職できたとは思うんですが、ひとまず会社がなくなったことは残ったメンバーに伝えました。

このまま解散することもできるけど、これから『.hack』という企画をPS2でバンダイさん(現・バンダイナムコゲームス)でやっていこうとしている時期だったので、できれば解散せずにこのまま、生まれ変わろうと。がむしゃらにやってきて、少しずつ見えてくることってあるんですね。

弊社のスタッフにかぎらず、ゲーム業界って不思議で、さぼってる人は一人もいないんですよ。みんながんばってるんですよ、それこそ死ぬ気で。けど、うまくいく人といかない人がいます。なにが違うのかっていうと……最初のサイバーコネクトの4年間に私がいちスタッフとして感じたことでもあるのですが、前の体制のままだと問題があると。

原理主義というと聞こえがいいかもしれないですが、「面白いゲームを創れば結果は後からついてくる」という考えがありました。あともうひとつが、自分たちは人数が少ない、カネもない小さい会社なので、当時から大手企業の真似はできないので、自分たちなりにできることをがんばろうと。できないことをがんばってもできないぞと。

ある意味真理なんですけど、半分は大間違いなんじゃないかなといまは思います。だって、人数少ないから、「たとえば15人しかいないから15人でできる内容のものを創りましょう」、それもひとつの考え方ですけど、一方で大手は40人50人、100人でゲームを創っているんです。

interview-cc2-09

どちらの商品も、5800円で棚に並ぶわけじゃないですか。人数が少ないとかお金がないとか時間がないとか、お客様には関係がないんですね。すごそうとか面白そうとか、とにかくほしかったら買うし、そう思わなかったら買わないだけの話。「遊んでもらえたら絶対に面白い」、それはたしかにそうなのかもしれませんが、「遊んでみたい」と思ってもらわないと、実際に面白いかどうかわからないじゃないですか。

なので「半分は正しいんですけどもう半分が足りない」。このまんまいくと、たぶんずっと勝てないだろうと思いました。当時いたメンバーに、私に代表をやらせてくれと話しました。そのかわりやり方を180度全部変える。絶対に勝てるデベロッパー、会社にしてみせるから、あずけてくれないかと。

ついていけない、というのであればそれぞれどこかに行くでしょう。でも、みんな残ってくれまして。それまでは有限会社を10人みんなで均等にお金を出し合って出資をしてたんですけど、それも全部買い取らせてもらい、私ひとりの責任にしました。ワンマンな会社にさせてくれと。デベロッパーって、わかりやすくないといけないよと。ちょうどメディアが変わって大容量になって、ゲームが「まるで映画」っていわれるようになった時期なんです。

そのときスタッフと話をしたんですけど、映画でもなんだってそうなんですけど、配給会社で見る映画を決めている人はいないでしょう? 「アスミック・エースが配給してるんだー、じゃあ観なきゃ!」と思わないでしょう(笑) 結局は作品性。恋愛ものなのかアクションなのか、ジャンルなど選ぶ理由はいろいろあると思うんですが。

結局は監督誰なのとか、キャストは誰なのとかで選ぶと思います。なので、ゲームも最初はスクウェアとかコナミの新作とかバンダイだとかで選ばれました。でもいつかお客さんはパッケージの裏をみて、どこが創っているか、誰が創っているのかでも選んでくれる時代がくると思いました。

そういう指名買いの時代になったときのために、サイバーコネクトツーという会社のファンを作っていかないとなりませんでした。表に出ることもしない、粛々と良いものを創れば結果はあとからついてくる、そんな甘い世界じゃないと。なので、われわれは歌って踊れるデベロッパーにならないといけない。

指名買いしてもらうためには、知ってもらわなきゃいけないです。なので、やり方を全部変えようと思いました。どの会社さんもがんばってますからただがんばるだけではずっと並行線で勝てないです。

――何か突き抜けたところをつくらないと。

そうです。だったら、特別ながんばり方をしないと、特別な勝ち方はできないです。特別な会社になろうよと、「普通だったら一緒だから」という話をして、そこからサイバーコネクトツーの誕生、スタートです。

 


中編へ続きます(8月7日公開予定)。

AUTOMATON JP
AUTOMATON JP
Articles: 861