『ゴースト・オブ・ヨウテイ 』レビュー。停滞はありつつも着実に前進する、現代ゲーマーの高速消費に耐えうるオープンワールドゲーム
あらすじだけを掻い摘んだ「ファスト映画」のような消費しやすい内容を提供するのではなく、オープンワールドとシネマティックな演出を前作より深く融合させた物語を実現している。

海外生まれのオープンワールド時代劇として、業界に旋風を巻き起こした前作からはや5年。怨霊は再び顕現した。サッカーパンチの新作『ゴースト・オブ・ヨウテイ 』はコンセプトの達成に向け、着実な進化を遂げている。コンテンツの高速消費が常態化した現代のニーズに適合しつつも、あらすじだけを掻い摘んだ「ファスト映画」のような消費しやすい内容を提供するのではなく、オープンワールドとシネマティックな演出を前作より深く融合させた物語を実現している。
※本稿はソニー・インタラクティブエンタテインメントから提供されたレビュー用コード(PS5版)でのプレイにもとづき執筆。極力ネタバレには配慮しているが、注意して読み進めてほしい。
「映画監督になれるゲーム」はさらなる進化を遂げた

結論から言えば、『ゴースト・オブ・ヨウテイ』は「オープンワールド時代劇として、前作『ゴースト・オブ・ツシマ』から着実な進化を遂げている。より美麗に。より現代的に。根本的な部分が変化した、新しい体験を提供しているわけではないが、掲げたコンセプトの実現に向けて大きく前進している作品となっている。
では「何が進化したのか」を語る上で必要な前提となる、『ゴースト・オブ・ツシマ』の特徴から説明していこう。『ゴースト・オブ・ツシマ』の特徴は、時代劇を表現する上で、オープンワールドという仕組みを活用したことにより、他に類を見ない形で成立していることにある。大抵の場合、シネマティックな演出を強く意識したゲームの多くはプレイヤーを目的に向けて誘導し続ける、リニアな形式を採用する。映画とは動画であり、起承転結を逸脱できず、物語を描くうえで意味のないシーンがあってはならないからだ。一方、オープンワールドはゲームプレイの自由度を重要視するスタイルである。すなわち、物語の進行になんら関係のないプレイを許容するためのスタイルなのだ。
そのため、本来ならば「映画」という物語そのものといえるモチーフと、オープンワールドというスタイルは相性が最悪である。しかし、『ゴースト・オブ・ツシマ』は物語の進行になんら関係のないプレイに「カッコいいワンシーン」という意味づけを行うことによって、相性の悪さを克服した。背景を常に動かし続け、カットシーンから普段の戦闘までシネマティックなカメラワークを徹底することにより、あらゆる時間に時代劇のワンシーンという意味を付与した。自由に操作可能なオープンワールドゲームでありながら、ゲームプレイに客観的な一貫性を持たせることに成功したのだ。作品をクリア後にプレイ動画を見直してみれば、それは立派な1本のオリジナル映画になっていることだろう。

そして、『ゴースト・オブ・ヨウテイ』は前作の特徴をより現代的な形に洗練させた作品である。オープンワールドを活用するうえで最大のウィークポイントを克服している。それは「飽き」や「迷い」だ。エンディングまでたどり着くことなく、ゲームプレイを途中で止めてしまうことである。この弱点は他のゲームジャンルやスタイルにも共通していることではあるが、オープンワールドにおいては殊更強調しなければならない。というのも、オープンワールドはコンテンツ消費速度の高速化という時代の流れにそぐわない。探索という刺激の薄い時間が必ず発生し、高速消費ができない。ゆえにゲームプレイを途中で切り上げてしまう危険性が他ジャンルよりも高い。
そこで、本作はプレイヤーに対し「フィールドのどこに何があるのか」を探索せずとも積極的に開示していく方針を採用している。プレイヤーが何かサブクエスト等の「アクティビティをこなす」と、いわゆる報酬のような形で、連鎖的に次のアクティビティを体験できる場所の情報が提供される。地図屋に行けば情報を買うこともできる。そのため、“地味な時間”が発生することはない。さらに言及すると、情報開示のためには必ず「アクティビティをこなさなければならない」「アクティビティがほんの少し手間なこと」が、この仕様のミソである。

率直に言えば、本作における物語体験の魅力は、終始徹底されたシネマティックな視聴覚演出に大きく依存している。次々とアクティビティを楽しめるようにするという仕様も、映画として意味のある派手なシーンが途切れない様にするための工夫である。殺陣や風景美などの「撮れ高」を提供し続けるための工夫だ。しかしながらそれは、プレイヤーに向けての情報の一方的な発信であり、ゆえにプレイヤー側は慣れてしまう危険性がある。
そこで、アクティビティの内容をほんの少し手間な内容にすることによって、プレイヤーへ入力に対する没入を促し、完全に受け身な体験になりきらないよう工夫している。攻略が少し難しい戦闘をはじめ、パズル形式になっている地図の作成、狐や狼に追随するイベント、DualSenseコントローラーを生かした特殊な操作による演奏や描画、完了に数段階を要する火起こしと調理など、プレイヤーに双方向な刺激を与え続けることで飽きを防止している。主人公が単なる浪人であるため、アクティビティの内容も設定の都合上、制約されることなくバラエティ豊かである。
たとえば、コマンド入力による竹斬りはミニゲームに入る前後で何らかのアクシデントに見舞われるようになっており、ミニゲームの内容こそ同じではあるが、全体としては別個の体験になるようデザインされている。ここに前作から引き続き、爆速ローディングによるファストトラベルが加わることによって、現代のコンテンツ消費速度に耐えうるオープンワールドゲームが成立している。プレイヤーは絶え間ないアクティビティの提供を通して、映画の山場的な視聴覚演出の連発に飽きず、溺れ続けるのだ。

そして、肝心要となる物語体験そのものについては、素晴らしいクオリティだったと言える。『ゴースト・オブ・ヨウテイ』の物語は個人的な復讐譚であり、ホームドラマではあるが、徹底されたマカロニ・ウエスタン的な演出でもって、オープンワールドを駆け巡るという壮大なゲームプレイに耐えうる内容に仕上がっている。篤が剣を振るうたびに敵の四肢が飛び、血しぶきが硝煙の雲間を花吹雪のように舞う。印象派絵画をそのまま映像に起こしたような生き生きとした躍動感は前作からそのままに、派手に、外連味のある演出が目立つ。
ところで、先日IGNが「ここ最近のSIE販売タイトルは似たような物語を採用しがち」という記事を掲載していた(関連記事)。『ゴッドオブウォー』シリーズや『ラスト・オブ・アス』シリーズ、『スパイダーマン』シリーズ、『Returnal』、『デス・ストランディング2 オン・ザ・ビーチ』など、SIEが販売している作品には近しい存在の喪失、その克服をテーマにしたものがかなり多く、その採用理由について考察する記事だ。考察についてはさておき、確かに本作もまたSIEが販売している家族の喪失と克服をテーマにした作品の1つである。そのうえで、本作ならではの特徴をあげるとすれば、それは主人公と他のキャラクターとの間に終始横たわる距離感であり、オープンワールドそのものを活かした孤独の表現である。
本作の主人公である篤は内に燃えている復讐心と、孤独に生き延びたという運の悪さ、そして女性という性別由来の苦労が相まって、修羅道に堕ち、狂っているキャラクターである。何よりも個人的な復讐を最優先し、民草が寄せる信仰や各陣営が持つ自身への恐れといった、他人の評判など歯牙にもかけない(自分と似た境遇にある人間に対しては思いやりを見せる側面もある)。対して、彼女を取り巻く人々は非常に理性的であり、復讐以外にも大切なものがあり、彼女に復讐以外の生き方を諭す。この認識の違いは彼らとコミュニケーションを重ねるたびに明確になっていく。主人公がキャラクターたちと共に悩み苦しんだ前作とは対照的である。

この状況をより分かりやすく引き立たせるのが、先述した「オープンワールドを駆け巡らせ続ける」工夫だ。本作は極めて個人的な物語を扱いながら、壮大な蝦夷地を駆け巡らなければならない。馬一頭と、狼一匹、人間一人で。彼女の歩みには誰もついてこない。オープンワールドを探索して事を成し遂げる過程そのものが、復讐に身を焦がす彼女の孤独を直感的な形でプレイヤーに伝え、映像描写を補強。映像と探索の二枚看板でもって、使い古された題材を本作でしか味わえない新鮮な体験に押し上げている。特に作中の騒動において蚊帳の外にあるアイヌの人たちが篤を終始一人の人間として扱い、彼女の復讐に触れることなくあたたかく接してくれるという描写は、「よそ者が内乱を起こしている」というアイヌの状況と、篤の孤独を言外にわかりやすく表現している。
アクションゲームとしては未だ停滞している……のだが

以上、『ゴースト・オブ・ヨウテイ』は「オープンワールド時代劇ゲーム」というコンセプトにおいて着実に前進している。だが、オープンワールド”アクションゲーム”として進歩しているとは、残念ながら言うことができない。本作の特徴はあくまで、現代的なコンテンツの高速消費に対応したこと。そして、オープンワールドを探索するという形態と「孤独な復讐劇」を描くに必要な映像演出を合致させたことだ。探索を構成する個々のアクティビティについては、いまだ2010年代に留まり続けている。定点移動をしながら敵の拠点を潰し、アスレチックをこなしてキャラクターを育成する流れを、私はあと何年繰り返せばならないのか。
戦闘についても、特に本作らしい変化は感じられない。『ゴースト・オブ・ヨウテイ』の戦闘は相性差に応じて武器種を切り替える戦略性を提供しているが、技ごとのコマンド入力の多くは共通しているため、違う武器を振るっている感覚はそこまで大きくない。敵の多くは相性差が発生しない「刀」に持ち変えてくるため、戦略性についても機能しているとは言い難い。狼との共闘は楽しいがプレイヤー自身がめちゃくちゃ強いため効力を実感しづらい。攻略しがいのある特徴的なモーションを使ってくる敵もラスボスと武蔵くらいだ。『アサシン クリード』シリーズや『ヒットマン』シリーズの二番煎じであるスニーキングも含めて、アクション体験は大味になりがちである。
とはいえ、こうした仕様の実装意図は理解できる。映画的演出を採用している作品において重要なのは「撮れ高」の出現であり、それをプレイヤーが容易に実現できるシステムを構築する必要があるからだ。アクションが大味になりがちなのも、撮れ高をプレイヤーが認識しやすいという点で効果的である。たとえば、いきなり狼が現れて敵を一人倒していくという光景は見栄えがよく、プレイヤーが常に感じているであろう孤独感を癒やしてくれる。
しかし、システムから香る古臭さを映像演出を通じて消臭できているとは言い難い。ゲーム開始から中盤に至るまでにおいては、作品が持つ強烈なコンテンツ誘導機能とシネマティックな絶景によって誤魔化せてはいるが、絶景を見慣れてやることがなくなってくる終盤になると、ゲームプレイの内容が一定の繰り返し作業であることが浮き彫りとなり、強烈なマンネリ感を覚えてしまった(この認識はゲームの推進力に関して、総合的な物語体験よりも入力体験そのものを重視する筆者のスタンスによるところもあるだろう)。

総じて、『ゴースト・オブ・ヨウテイ』は現代的な需要に合わせる形で、オープンワールド時代劇の実現に向けて着実に進化している。探索から戦闘まで、あらゆるインタラクションが映像描写と前作以上に深く結びついており、大幅なパワーアップを遂げた物語体験を実現している。オープンワールドゲームに新風を巻き起こした作品の続編として、面目躍如といったところだ。
とはいえアクション面を中心に、伸びしろが残されていないわけではない。本作のプロデューサーによれば、『ゴースト・オブ』シリーズにおいて、日本を舞台にしたオープンワールド刀アドベンチャーという形式を止めるつもりはないという。現状、ここまでシネマティックであることに拘った映像表現と、自由度のある入力体験を両立したゲームは数えられるほどしかなく、中でも日本を舞台にした物語を提供するゲームシリーズは他に無いと思っている。気が早いことは自覚済みだが、続編が楽しみでしかたがない。