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『鬼武者 Way of the Sword』を遊んで、時代劇が“翻訳”される瞬間を目撃した。「世界のミフネ」を通して紡ぐ、“あなただけの殺陣アクションドラマ”があった
時代劇が地上波のゴールデンタイムから去り、15年ほど経つのだそうだ。本作には、そんな時代劇から受け継がれている何かを感じる。

『水戸黄門』、『暴れん坊将軍』、『必殺仕事人』……
私が子供の頃は、地上波のゴールデンタイムでこれらの時代劇が毎日のように流れていた。両親が共働きだった私は、よく祖父母の家で遊んでいた。そのため、祖父がよくこれらの時代劇を観ていたことを憶えている。
ところが、この時代劇が地上波のゴールデンタイムから去り、15年ほど経つのだそうだ。
2011年12月19日、TBS系列の看板時代劇『水戸黄門』が42年の歴史に幕を下ろした。
1969年の放送開始から実に1,227回。平均視聴率は20%を超え、1979年の放送回では43.7%という日本のドラマ史上でも屈指の数字を記録した番組である。その『水戸黄門』の終了をもって、地上波ゴールデンタイムに定番として存在していた時代劇は、事実上姿を消すことになった。
小学生だった当時も、『水戸黄門』において御老公が印籠を取り出す瞬間を心待ちにしていた記憶がある。あの独特の間、殺陣の様式美、勧善懲悪の爽快感。当時は当たり前に時代劇が身近であったことから、特に何も思わなかったが、今思うと時代劇というのは日本が生んだ唯一無二のコンテンツであると感じる。
そんな時代劇に対する懐かしい感覚を、私は『鬼武者 Way of the Sword』に感じた。
2026年9月4日に発売された『鬼武者 Way of the Sword』(以下、鬼武者)は国内外を問わず評価されていると聞く。

本作はシリーズ約20年ぶりとなる完全新作。江戸期の京都を舞台に、主人公・宮本武蔵が鬼の力を宿した篭手を手に、魔性の怪物“幻魔”と戦うダークファンタジー作品である。
では、なぜ本作に時代劇の懐かしさを感じたのか。
時代劇とアクションゲームでは、メディアとしての形も、届け方も全く違う。それでも私は、本作の中に「時代劇という文化は、メディアを超えて、ちゃんとバトンが受け継がれているのだな」と感じた。
それがどの辺りだったのか。今回は、その点を紐解いていきたい。
※以下の内容は一部ネタバレを含むので、ご注意ください。
フェイシャルが支える“脳筋”武蔵の成長物語
『鬼武者』の主人公・武蔵は、物語の序盤、正直かなり“脳筋”なキャラクターとして登場する。理屈よりも先に刀が出る、力こそ正義といった佇まいだ。
しかし物語が進むにつれて、彼は静御前や阿国、小野篁(たかむら)といった人物と心を通わせ、時に泥だらけになりながら、誰かのために強くなろうと変わっていく。よくあると言えばよくある成長譚かもしれない。
私がそんな物語に没入した要因の一つは、間違いなく表現豊かなキャラクターたちのフェイシャル(表情)だ。

本作のキャラクターの顔の芝居は、率直に言って“ずるい”レベルで作り込まれている。
本作の武蔵は熱血漢で、単純な男だ。そのため、表情も豊かである。
例えば、私の好きなシーンのひとつが大江山での酒呑童子との戦い直前の一コマ。酒呑童子への貢物を揃えた武蔵だったが、生贄のための女性がいないということで思案する。こっそり付いてきた阿国が代役として名乗りでて、「酒呑童子なんざあたしの魅力で…」と言い放つシーンなのだが、その時の武蔵の表情がこちら。

しっかり呆れているのである。そして鼻や口角はピクピクと動き、失笑が漏れ出ている。
ほとんどがシリアスな展開となる本作において、貴重なコミカルシーンであるが、微妙な表情に思わず、こちらもくすっとなってしまう。
最も感情が揺さぶられたのは、武蔵の宿敵・源義経の表情だろう。
台詞のトーンは静かなのに、目元と口角のわずかな動きだけで「こいつは本当に何を考えているか分からない」という不穏さがにじみ出てくる。ゲームの敵キャラクターというと、どうしても記号的な“悪役顔”になりがちだが、義経に関しては、そうした記号を一段飛び越えた生々しさがあった。

また、追加で絶賛しておきたいのは、それぞれのキャラクターを担当した声優陣の名演である。武蔵役の細谷佳正さん、巌流役の岡本信彦さん、義経役の三木眞一郎さんの演技は必見(必聴?)である。これら声優の名演なくして、今回の没入感はなかったと思う。特に三木眞一郎さんの悪役は鮮烈だった。三木さんといえば、飄々とした人物を演じることが多い印象だが、今回の義経がプレイヤーにとって憎たらしく思えたのは、三木さんの演技があってこそだと思う。
主要キャラクターたちが会話の中で見せる、ふとした苛立ちや戸惑い、そしてわずかな照れ。こうした細かい表情の積み重ねがあるからこそ、「脳筋侍が人のために強くなろうとする」という、言葉にすればシンプルな成長の軌跡に、説得力が生まれている。プレイヤーは武蔵の言葉だけでなく、彼の“顔”を通して物語を追体験させられているような感覚に近い。
人間ドラマを深めた三船武蔵の起用
もう1点、表情の話に触れておきたい。いや、表情ではなく顔というべきか。
今回の主人公・宮本武蔵には、故・三船敏郎氏がフェイスモデルとして起用された。まもなく50代を迎えようとしている私ですら、三船氏をリアルタイムで観たことはない。私の父親の世代ともいうべきスターだ。
三船氏といえば、黒澤明監督とタッグを組み、『七人の侍』や『羅生門』、『用心棒』など、歴史的ヒット映画に主役として出演している。そして、その多くが白黒映画である。私は白黒映画には多少の抵抗があった。画面の色味も、テンポも、今の映像作品とは違いすぎて、どこか敷居の高さを感じていたからだ。
ところが、三船氏主演の『七人の侍』を初めて観たとき、その先入観は粉々に砕かれた。1954年の映画だというのに、画面から伝わってくる緊張感、殺陣の生々しさ、そして三船氏が演じる菊千代の“型へのはまらなさ”に、ただただ驚かされたのを覚えている。

なぜ多くのゲームプレイヤーにとって、馴染みのないであろう三船氏が起用されたのか。本作のゲームディレクターを務める二瓶氏がインタビューで語っていた(GAME Watch)。三船氏の起用について、「侍らしさとは何か」を突き詰めて考えたとき、行き着いたのが泥や血にまみれながらも必死にもがき、勝つためには手段を選ばない、という人物像だったと説明している。そして、その人物像に最もふさわしい俳優として名前が挙がったのが三船氏であり、なかでも1954年の映画『宮本武蔵』をはじめとする「三船敏郎版・宮本武蔵三部作」での演技が、直接的な参照点になったという。
史実の剣豪・宮本武蔵ではなく、“三船敏郎が演じた武蔵”を主人公に据えるという狙いは、確実に本作でハマっていたように思う。そしてこの点が、私が感じた時代劇の懐かしさの要因であるように思えた。
前述したとおり、私は三船氏主演の『七人の侍』を鑑賞している。それ以外に、『用心棒』と『椿三十郎』を観た。これら作品では、命が簡単に奪われる時代、身分による理不尽な時代において、「生きることへの泥臭さ」を極限まで描いているように思う。つまり、時代劇とはそういった時代の鬱屈を描き出した物語であるべきなのではないだろうか。
本作『鬼武者』も異界から現れた幻魔によって、簡単に人の命が奪われる。
武蔵は人としての強さを否定され、眼の前で散っていく命に苦悩する。そこにはまさに多くの時代劇で描かれた共通のナラティブ(物語)が存在した。
そして、それらを三船敏郎という偉大な俳優の顔が、時代を超えてリンクさせているように私には思えた。

殺陣の取り込みとアクションゲームとしての進化
もうひとつ時代劇を感じたと思える明確な要因が、時代劇の殺陣をゲームシステムへうまく落とし込んだ点だ。
そもそも本物の日本刀は1kg前後の重さがあり、本来は両手で扱うのが基本だったとされる。そこから、見栄えを重視する歌舞伎の舞台演出を経て、テレビ時代劇へと受け継がれていく過程で、片手で刀を振ることや鍔迫り合いといった様式が定着していったのだそうだ。
本作はこの歴史的な系譜を、驚くほど律儀にゲームメカニクスへ翻訳している。発生の速い弱攻撃は片手で、隙は大きいが威力の高い攻撃は両手に割り当てられている。ゲーマーからすると当たり前のことかもしれないが、この緩急だけで、殺陣特有の“間”がプレイヤーの指先に宿る。
ただ、殺陣のアクションは単に片手と両手斬りで成立するわけではない。これだけのシンプルなアクションであれば、観客である私たちは代わり映えのしないシーンに直ぐに飽きていたかもしれない。
例えば、映画「るろうに剣心」シリーズ(主演:佐藤健)などはワイヤーアクションを使った殺陣に挑戦している。私が子供の頃にテレビで観た時代劇アクションとは全く異なり、驚いたものだ。
時代劇におけるいわゆる「チャンバラ」は、今も進化し続けている。それは、殺陣というアクションには様々な動作が組み込まれており、基礎といえる土台が存在するからではないだろうか。
例えば、構え。構えには、正眼の構えから上段・下段の構え、八相の構えなどが存在する。
思い返して欲しい。剣豪と呼ばれる侍同士のシーン。いきなり斬り合ったりはしないケースが多いのではないだろうか。まず、対峙する。そして、刀を抜き、仕掛けるタイミングを待つ。この独特の様式美こそ、時代劇のアクションの一部なのだ。

そんな様々な構えから繰り出される動作も多岐にわたる。
自ら斬りかかるのか。斬りかかる際も、構えが上段であれば上から、下段であれば下から刃が相手に飛ぶ。
それとも、相手の攻撃をまず避けて、斬りかかるのか。(宮本武蔵の「後の先」である)
あるいは、刀で受け流すのか。
ちなみに、本当の真剣勝負では破損や刃こぼれを避けるために、相手の攻撃を刀で受けることはよっぽどのことがなければ行わなかったらしい。鍔迫り合いも歌舞伎の中で生まれたものなのだそうだ。
このように殺陣は幾つもの動作の組合せによって成立し、それによってアクションの幅を広げている。では、ゲームである『鬼武者』の中ではこの殺陣がどうなったのか。
まず「受け流し」。剣道の世界には「いなす」という言葉がある。相手の打突を竹刀で真正面から受け止めるのではなく、力の向きをそらしたり和らげたりすることを指す技術だ。本作の「受け流し」は、まさにこの「いなす」を体現している。
本作の受け流しは相手の刀を弾き返すような動きではなく、流れるような動きで相手の攻撃を反らし、体勢を崩す。これはまさに「いなす」の運動理論そのものだ。
一方で、「弾き」は別に存在する。
「弾き」は、簡単に言うとパリィである。本作には、体力とは別に力動というパラメーターが存在する。この力動がなくなると、相手は立つことができず、プレイヤーは致命の一撃を入れることが出来る。

この時点で既にプレイヤーには2つの選択肢が存在する。
「受け流し」で相手の体勢を崩し、こつこつ体力を削るのか。それとも、「弾き」で力動を減らし、致命の一撃によって大ダメージを与えるのか。
ただ、これで終わりではない。「見切り」という戦い方も存在する。
剣術の世界で「見切り」とは、相手の太刀筋をぎりぎりまで見極め、紙一重の動きだけでかわす技術を指す。大きく飛び退くのではなく、最小限の動きで急所を外す。まさに「達人の証」とされる技だ。相手の攻撃にタイミングを合わせることで身をかわし、反撃にでる。
そして「一閃」。これが本作における最強のカウンター技である。正確なタイミングで入力が完成すると、相手が回避不能な斬撃を発動する。
「見切り」はそれほど難しくはない一方で、「一閃」はとてつもなく難しい。受け流しよりも受付時間が格段に短く、敵の攻撃モーションを完全に見極めることが要求される。成功したときの快感は格別だが、アクションゲーム上級者でなければ初見では対応できない。まさに達人の選択なのである。
このように、『鬼武者』においてはどのアクションを使っても相手を倒すことができる。様々なアクションが用意され、プレイヤーに選択が委ねられているというのが、大きな特長だ。
では、このシステムによって何が起こるのか?
それは、あなただけの殺陣アクションドラマが実現するということだ。
本作をプレイしていれば、どのプレイヤーも佐々木巌流とは必ず対戦する。
しかし、その戦い方はプレイヤーによって異なる。終始、攻撃を受け流して勝利してもよい。一方で、弾きでどんどん力動を削るのもいい。可能なら、一閃を狙ってもいい。
私も他のプレイヤーの動画をみたが、完全に同じプレイという人は、まずいなかった。つまり、同じ『鬼武者』というタイトルをプレイしながら、個別の体験を、自らの選択によって得ることができるわけなのだ。
これこそが、本作『鬼武者』の魅力であり、最も皆さんに楽しんでほしいポイントである。

当初は、なぜ人によってこんなにも戦い方が変わるのかと不思議に思ったものだ。
ただ、よくよく考えると、それは本作のアクションの多様性にあり、それを実現しているのが時代劇から脈々と受け継がれている殺陣アクションだと考えると、納得がいくものである。
開発陣による時代劇への深い理解が根底にあるからこそ、本作のプレイ体験に幅が出ていることは間違いない。
バトンは渡された――時代劇のエッセンスを継ぐゲームというメディア
ここまで、フェイシャルによる感情移入、三船敏郎という顔が背負う説得力、そして殺陣を翻訳した戦闘システムについて書いてきた。振り返ってみると、私が『鬼武者』に感じていた興奮は、単に「アクションゲームとしてよくできている」という一言では片付けられないものだったと思う。
一閃を決めた瞬間の爽快感は、間違いなくアクションゲームとしての快感だ。だが、それと同時に湧き上がってきたのは、幼い頃にブラウン管の前で時代劇を観ていたときの、あのワクワク感だった。悪役の一挙手一投足に息を呑み、主人公の一太刀に胸がすく。
2011年に地上波のゴールデンタイムから時代劇が姿を消してから、15年が経つ。テレビの前に家族で座って印籠が出てくるのを待つ、という体験そのものは、もう戻ってこないのかもしれない。しかし、その根底にあった「殺陣を観る快感」「一匹狼の剣豪に憧れる気持ち」「間合いを制する緊張感」といったエッセンスは、決して消えてなくなったわけではなかった。それらは、かつて時代劇に夢中になった世代の開発者たちの手によって、ゲームという全く別のメディアの中に、確かな形で受け継がれていたのだ。
そして、単に受け継がれたというだけではなく、ゲームというプラットフォームで進化をみせた。プレイヤーがそれぞれの殺陣アクションを繰り広げることで、ひとりひとりの体験として特別なものへと昇華されていくことになったといえる。
三船敏郎という昭和のスターの顔を借り、剣術の間合いをボタン操作に翻訳し、フェイスモーションで登場人物の心の機微まで描き切る。『鬼武者』を遊んでいて感じたのは、こうした一つひとつの選択が、単なる懐古趣味やオマージュではなく、「時代劇という文化を、次の世代にどう手渡すか」という開発陣の格闘の跡だったようにも思う。時代劇に対する愛と、ゲームクリエイティブの奥深さをみたような気がした。
もしまだ本作に触れていない読者がいたら、ぜひ一度、プレイしてみてほしい。画面越しに感じるあの感覚が、時代劇に思い入れのある世代にも、そうでない世代にも、きっと何かしらの形で届くはずだ。
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