『エルデンリング』DLC「SHADOW OF THE ERDTREE」レビュー。高速消費が流行る今だからこそ異彩放つ、フロム・ソフトウェア流リバイバル

『エルデンリング』DLC「SHADOW OF THE ERDTREE」レビュー。「SHADOW OF THE ERDTREE」はフロム・ソフトウェア流のリバイバルであり、同時に今と未来を指し示すものでもあると感じた。

時代を経ても変わらないものがあれば、時代とともに変わるものもある。たとえばソウルシリーズで継続されていた「ゲームとプレイヤーの対等な関係性」は、『エルデンリング』にて変質した(その理由は後述する)。フロム・ソフトウェア産の死にゲーが持つ、独特な作品理念を受け止めてくれるファン層の開拓のためだろう。しかし興味深いことに、DLCというお題目にかこつけて、それを揺り戻そうという動きが見られた。「SHADOW OF THE ERDTREE」はフロム・ソフトウェア流のリバイバルであり、同時に今と未来を指し示すものでもあると感じた。

※本稿はフロム・ソフトウェア提供レビュー用コード(PS5版)でのプレイにもとづき執筆。ストーリーや特定のボス戦に関するネタバレはなし


変わらないものと変わったもの


DLCについて語る前に、まずは『エルデンリング』がどのような作品だったのかについて紹介しておこう。『エルデンリング』はフロム・ソフトウェアが『デモンズソウル』の頃より探求し続けている、死にゲーRPGの現状最適な表現形態であり、集大成的な作品でもあった。

ソウルシリーズと『Bloodborne』(以下、両者をまとめてソウルシリーズと表記)は長年ある問題を抱えていた。「探索と、その果てにあるボス戦」を作品の肝となる体験としていたものの、入り口から出口に向かって進み続ける建造物――つまりダンジョンをメインの遊び場として採用していたため、本来なら縦横無尽な行動を意味する探索という言葉が指し示すだけの自由を、作品の中に表現し切ることができていなかったのだ。たとえばNPCイベントやアイテム回収のために、世界が滅びを迎えるなか、一度通過したはずのダンジョンに戻る行為や対人マルチプレイにふける姿は、表現として自然な状態ではなかった。また、ボス戦を強みにしている都合上、倒すことができなければゲームそのものが完全にストップしてしまう危険性があった。

『エルデンリング』はオープンフィールドを導入したことでこの問題を解決した。次々とダンジョンをクリアしていくリニアな構造から、オープンフィールドを起点に拡散していく、それこそ作中のモニュメントである黄金樹のように、幹と枝葉の関係性を採用したことで、攻略段階がコントロール可能となった=縦横無尽な探索が可能となった。NPCイベントやオンラインプレイのあり方が自然になり、ゲームからリタイアされる危険性も減った。

また、こうした研鑽の結果として、オープンワールドRPGにつきものである、プレイヤーの誘導が「わざとらしく」なりがちという問題も解消している。分かりやすくも世界には不自然なアイコンを宙に浮かせ、定点移動を強制させずとも、優れたレベルデザインと物語設計の技術があれば、広大なフィールドを自発的に動き回らせることができると証明した。『エルデンリング』は1つの理念を探求し続けたことで、世界の常識を変えたのだ。


だが時代の変化とともに、ソウルシリーズの頃から「変わった理念」もある。時代に合わせた、と表現したほうが良いかもしれない。「SHADOW OF THE ERDTREE」は時代に合わせたことで一時的に変更した作品理念のある部分を、DLCという大義名分を通じ、より色濃い形で再び表現したものとなっている。その「ある部分」というのは、「ゲームとプレイヤーの関係性」である。

ソウルシリーズは『デモンズソウル』の頃より、「世界は人知の及ばないものである」「ゆえに探求、探索を行う」「登場するボスは人知を超えた強敵」というスタンスを明確にしてきた。ステータスと武器強化の詳細な仕様や、ボスの弱点、マップの詳細構造、物語のあらすじ、NPCイベントがどの場所、どのタイミングで進行するのか、といった情報をプレイヤーに与えなかった。これらの現代で言う不便さが、世界の雄大さという物語演出の一部となっていただけでなく、プレイヤーがゲームをより深く知ろうとするための原動力になっていた。サービスやエンターテイメントとしてゲームがプレイヤーに奉仕するのではなく、ゲームとプレイヤーが対等な関係にあり、プレイヤーがゲームに対し根気強くコミュニケーションを試みることではじめて、攻略が可能となっていた。同時に、ソウルシリーズが人を選ぶタイトル群であるという評判の理由にもなっていた。わざわざ作品に問いかけないと何も仕様について教えてくれないゲームは、現代において既に一般的な形ではないからである。このスタンスは『デモンズソウル』から『ダークソウルIII』まで続いた。 

しかし『エルデンリング』ではレベリングがしやすくなったことをはじめ、多種多様なアクションやアイテムの組み合わせを採用できるようになったことで、ゲームをクリアするにあたり、作品を研究する必要性は薄れた。強い組み合わせを作ることができれば、そのままエンディングまで押し通ることがわかりやすく可能になったからだ。また、アップデートを通じてNPCの場所が分かるようになったり、アイテムを入手順で表示するようにしたなど、作品がよりゲームであることを強調する施策を導入した。

これはシリーズを通して長年続いた「ゲームとプレイヤーの対等な関係性」が変質したことを意味している。筆者としてはこの変化に驚きを隠せなかった。今までの変えなかった経緯から、それまでの仕様は制作陣にとって、ある種の美学や不変のポリシーになっているのだと認識していたからだ。結果、『エルデンリング』はフロム・ソフトウェア産の死にゲーRPGの中でも1番遊びやすいタイトルになったと筆者は感じている。そして、これは明らかな方針転換であるとも感じた。作品理念を受け入れてくれるファンだけでなく、可能な限りより多くの人々に受け入れられるRPGを作ろうという方針に至ったのだと。

「長時間のやりこみ」を奨励するゲーム体験


そうした方針の転換に対し、名残惜しさのような感情が、開発陣のうちに眠っていたのかは定かではないが、DLCである「SHADOW OF THE ERDTREE」は、『エルデンリング』が採用した「転換」とは真逆の方向性を採用した内容になっている。攻略にあたって、ゲームの仕様に関する知識や、時間をかけた検証と研究を大いに重視するデザインに仕上がっており、この作品態度が結果的に、コンテンツの高速消費を奨励する昨今の風潮の中で異彩を放っている。

本DLCを語るにあたってまず取り上げたいのは、追加コンテンツという文言が当てはまるのかよく分からなくなるほどのゲームボリュームだ。本DLCは単純なゲームボリュームアップを主な目的として登場している。しかしながら、その追加量は「本編のオマケ」としては凄まじいものだ。体感で本編の約1/3程度はあるであろう、巨大なフィールドの中に、本編の要素が揃いも揃って高難易度化し再登場している。基本的にはボリュームアップのために存在するため、分かりやすい新機軸の体験を提供しているわけではないものの、レベルデザインや、アートを通じた物語表現といった、ゲームを作る上での基礎とも呼べるモノが優れているため、プレイヤーに既視感を抱かせることはない。むしろ新鮮味すら感じさせるものがある。

なかでもサブダンジョンとなる地下墓や洞窟は、数を絞ったからか本編のものよりも複雑化しており、レベルアップのために行く場所という位置づけから脱しているのが嬉しい。新武器種を通じた新しいアクションはコンテンツへの到達難易度も相まって非常に強力かつ、応用しがいのある内容になっている。なかには過去の自社作品をセルフオマージュした武器やアクションもあり、「集大成的作品のオマケ」というDLCにふさわしいファンサービスも仕込まれている。ストーリーについてはネタバレを避けるため詳しい内容に言及しないが、NPCイベントに関して、分岐を重視した作りになっているのは興味深かった。「一度きりの体験」を強調する作りであり、あくまでオマケの範疇であるゲームボリュームを、体験の濃さでカバーする仕組みになっている。


体験の肝となるボスたちは、第一印象こそ攻撃力の高さや苛烈さに臆してしまうが、自分から長時間ゲームを研究してみれば、試行錯誤のしがいがあることに気づける内容に仕上がっている。基本的にどのボスも有効な戦法がはっきりしており、かつ複数ある。それを自分のビルドや仕様に関する知識、ロールプレイ上の拘りとすり合わせていく……。

プレイヤーごとに異なるビルドの強みで勝負をしかける本編の応用編とも表現できる、RPGらしい独特な面白さがある。敵の攻撃属性はなにか、弱点属性はなにか、パリィは効くのか。バフを戦闘中にかけ直すタイミングはいつにするか、似た体格の敵に通じた戦術は今回も採用可能か……。攻撃力の高さで倒されやすくなっているぶん、そこにたどり着くまで時間がかかるといった印象である。この倒されやすさをカバーしてくれるのがDLC専用の育成要素ではあるが、こちらも「長時間ゲームを研究して」世界を探索することではじめて効力を得られる。

これは言い換えると「自分から長時間ゲームを研究しなければ」作品の面白さを十分に理解できないことを意味する。本DLCは過去作のように、ゲームとプレイヤーの立場がフラットな関係にあり、プレイヤーが自分のライフスタイルをゲームに合わせる必要もあるのだ。「本DLCは難しすぎる」という意見が挙がっているが、筆者としてはこの「ゲームのやりこみをなかば強制される」作品態度が理由の大部分を占めているのだと考えている。先述したように、本編がある程度「ゆるい」作りになっているため、普段やりこみプレイをしない消費者、特に本作からフロム・ソフトウェア産の死にゲーをプレイする人はこのギャップに首をかしげてしまうのも理解できる。

ただ筆者としては、この作品態度を旧態依然なものとして批判するつもりはない。作品とコミュニケーションを重ね、友人関係を結ぶことで得られる感覚というのは、現在でもプレイに長時間の練習を要する対戦ゲームを中心に、唯一無二の輝きを放っているし、何より、絵画を観るため時間を取って美術館に行くように、映画を観るために映画館に行くように、制作者の意図に合わせて、鑑賞者が自分のライフスタイルを変えるのは自然なことである。鑑賞とは非言語コミュニケーションだからだ。むしろコンテンツの高速消費が尊ばれる現代の世風の中で、堂々と「自己満足しか得られませんが、時間をかけて遊んでください」というコンテンツを送り出したことに、私は敬意を覚える。


ここまで本DLCの良い点を述べてきたが、残念な点もある。それはフィールドの各地で得られる装備の強化素材が低グレードであることだったり、ボス以外の敵を倒した際に獲得できる経験値の量が少ないことだったり、ただ広いだけのエリアがフィールド中にチラホラ見られるといった点である。

本DLCは全体的にダンジョンやボス戦、新武器とアクション、それらを演出するアート群など、体験の中心的な部分こそしっかりと作り込まれているが、それ以外の細かな部分に関しては詰めの甘さを感じてしまう。あくまでオマケであると言ってしまえばそれまでではあるものの、中心部の作り込みが凄まじい分、周囲の甘さが悪目立ちしている。また、これは極めて個人的な印象だが、追加された新しい武器に比べ、新しい魔法や祈祷の内容が見劣りしているように感じられた。魔法や祈祷は本編時点で凄まじいバリエーションと強さを誇るがゆえのデザインなのだと推測するが、魔法剣士や信仰戦士を楽しんでいる筆者からすると残念である。


総じて、「SHADOW OF THE ERDTREE」は「高難易度ゲームのほぼクリア後に遊べる追加コンテンツ」という大義名分を用いることによって、本編成立時に変更したゲームとプレイヤーの関係性を限定的に揺り戻し、凄まじいボリュームやボス戦を中心に「長時間のやりこみ」という過去のプレイスタイルを奨励した、本編の発展形となる面白さを形成することに成功している。物語体験の内容と合わせて、フロム・ソフトウェア流のリバイバルと解釈することもできるだろう。

そしてこの作品態度が、結果的にコンテンツの高速消費が尊ばれる世風の中で異彩を放つことになったのは、現代の超大作ゲームにおけるデザインの方向性であったり、ゲームという娯楽に触れる消費者層の広がりを端的に示している。同時に、「長時間プレイを奨励するスタイル」はゲームクリア級の進行度を前提にしたDLCぐらいでしかやれない、という解釈もできる。とすれば、フロム・ソフトウェアの提供する「高難易度」は今後どういった形に変化していくのだろう。次回作の内容が非常に楽しみとなる追加コンテンツであった。

Takayuki Sawahata
Takayuki Sawahata

娯楽としてだけではなく文化としてのゲームを知り、広めていきたい。ジャンル問わず死にゲー、マゾゲー大好き。

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