『Stray』レビュー。猫になることで見えてくる、異種族とのつながりの尊さ

猫ADVゲーム『Stray』は、プレイヤーを「猫」という人間以外の種族に変換することによって、私たちの普段を異なる視点で描くのみならず、種の違いが何を意味するのか、異なる種族同士が結ぶ関係性について、丁寧にはっきりと描くことに成功している。

猫は人間ではない。人間は猫ではない。互いに声を掛け合ったところで、意味を持った言葉として伝わっているのか証明する手立てはどこにもない。だが私たちは、異なる種族との間に繋がりを感じる瞬間が存在する。それは願いであり、同時に確信でもある。『Stray』はプレイヤーを「猫」という人間以外の種族に変換することによって、私たちの普段を異なる視点で描くのみならず、種の違いが何を意味するのか、異なる種族同士が結ぶ関係性について、丁寧にはっきりと描くことに成功している。


作品紹介

『Stray』は、Annapurna Interactiveより発売されたアクションアドベンチャーゲームだ。プレイヤーは一匹の迷い猫として、ネオンきらびやかなサイバーパンク風の街並み、薄暗い裏路地を駆け回りながら、仲間のいる外界への脱出を目指す。開発を手掛けたのはBlueTwelve Studio。所属クリエイターの数よりも猫の数の方が多いチームだという。対応プラットフォームはPlayStation 4/PlayStation 5/PC(Steam)。

※本稿はPS5版でのプレイをもとに執筆


猫を動かすことを楽しむゲーム


今日に至るまで、動物をモチーフとして採用したゲームは数多く登場してきた。『AFRIKA』『nintendogs』のように観察と愛玩を目的としたものや、『TOKYO JUNGLE』『Maneater』のように、自身の肉体とは異なる構造を持った存在を動かすことを目的にしたものなど、その形はさまざまだ。なかでも『Stray』はプレイヤーに、イエネコの肉体を投影・操作することを通じて、人間の世界を異なる視点から描写し、改めて世界の複雑さ、美しさを能動的な形で認識させることをゲームの核としている。ヒトとペットの関係のように、人間の視点から猫を愛でることを主としたゲームではない。

よって、本作は「猫になって猫を動かす」ことを念頭にデザインされたゲーム内容に仕上がっている。作品は複数のチャプターで構成されており、チャプターごとに用意されたフィールドをイエネコとして踏破していくことになる。チャプター間はシームレスに移行し、カット演出などゲームらしい演出を極力使わないことで、オブジェクトを通じてフィールド中に存在する生活感であったり、主人公であるネコやロボットたちが生きているように感じられる雰囲気が崩れないようになっている。

フィールドにはじっくり探索可能な市街地から、アクションパズルが用意されている路地裏、逃走劇やスニーキングアクションが必要になる工場施設といったロケーションが実装されている。いずれも「キャットウォーク」を意識した、細くて長い足場の連なりを猫らしいジャンプアクションで飛び回り駆け回ることで攻略していく。また、フィールドによっては壁や絨毯を使って爪とぎを行ったり、前足で小物を床に落としたり、柔らかなクッションの上でスヤスヤと寝息を立てるといった、イエネコおなじみの行動を当事者として実際に行うこともできる。というより、これしかできない。

ともすれば物足りなさを覚えてしまう仕様ではあるものの、『Stray』は「これしかできない」事実に対して強い説得力を与えることにより、この問題を逆手にとって魅力に変換している。なかでも特に重要な役割を果たしている要素になっているのが、一級の品質をもったキャラクターモデルやアートワークの数々である。まずプレイヤーの投影先となるイエネコのモデリングに関しては、毛並みなど外観の写実的な描写よりも、骨格や筋肉の躍動など内部の描写に力が入っている。これによって、四肢をはじめとする肉体の可動域が自然とプレイヤーに理解でき、「ゲームプレイの幅の狭さ」や「できない(できることが限られる)」という事実が、「可動域を超える運動ができない=リアリティを高めるための表現」へ自然とプレイヤーの脳内で変換される。世界に存在する多くのオブジェクトにはネコが触れた際の動作に対するこだわりが見え隠れしており、思わず「ネコとして」触れたくなる仕組みになっている。


NPCである人型ロボットが多種多様な行動をとっていることも要素としては欠かせない。本作ではポストアポカリプス作品における恒例の描写として、文明崩壊前の文化を今の形で楽しむロボットたちが美麗さを伴いながら多数登場する。産業機械用ケーブルで編み物をしたり、飲み屋でオイルをしこたま飲んで泥酔したり、奇妙な音楽や服飾を楽しむロボットもいる。人間の真似事という範疇に収まることはなく、独自の文化圏を形成する寸前にまで至っている彼らの行動は、見ていて興味関心が尽きない豊かさを放っている。

そして、当然ながらネコであるプレイヤーは彼らの文化的行為に対して干渉することができない。相棒のマシンがいなければ言葉も理解できない。というより、NPC側からするとプレイヤーであるネコが言語や記号の意味を理解しているか確証が得られないため、最後まで互いに完全な意思疎通ができているのか証明できない状態になっている。プレイヤーができることと言えば、せいぜい卓上の小物を散乱させたり、相手の膝にすり寄ったり、キーボードの上を歩き回るくらいだ。

この「世界の断絶」=「インタラクションできる対象の乏しさ」を通じて、プレイヤーは自らをヒトではなくネコであるとより深く定義し、同時に「世界とは自らと異なる視点や解釈の重複によって成立している」、「ヒトが世界の中心にあるわけではない」こと、そして世界の雄大さを改めて知ることができる。こういった「できない」を通じて高められたリアリティはやがて、私たちと共に生活している生物への願いにも似た、切なる想いと感動に昇華される。大事なあの子と心の底ではわかりあえていてほしい。互いに家族であると認識していてほしい。度重なる断絶の中で一瞬だけ生じる、相棒や住民との信頼を通じた偶然にも等しいコンビネーションを通じて、私たちは現実における人間とは異なる生物との関係性を振り返り、感慨にふけるのである。ゲームであるがゆえに存在する限界を通じ、作者の意図を表現する作品はさまざまなものがあるが、限界によって種の違いを表現するに至った制作陣の発想力には思わず舌を巻く。


ここまで「できない」ことがリアリティを生み、それを魅力に転換していることを論じてきた。では、「できる」こと自体の面白さはどうなのか。『Stray』の核は先述した通り「猫になって猫を動かす」ことにある。つまり、アクションによって生まれる結果や反応を楽しむのではなく、アクションそのもの=猫に自分を投影することを楽しむゲームになっている。だからこそパズルやスニーキングのギミックについては特に凝った作りになっていない。よって、猫に対する関心が最初からなければ、本作を楽しむことは難しい。逆に猫好きであれば、高いリアリティを通じて、残された「できる」ことを存分に楽しむことができるだろう。

そして「できる」ことの面白さを形作る上で、PlayStation 5が持つ、DualSense ワイヤレスコントローラーが果たしている役割は大きい。手元から聞こえるさまざまな愛らしい鳴き声や、研ぎ具合によって異なる爪とぎの感触。振動を通じて伝わる肉球で踏みつけたモノで異なる質感は、プレイヤーの視点をぐっとネコのもとへと近づけてくれる。コントローラーを通じ、画面内の存在と私達の肉体が接続されシンクロする。できるかぎりPlayStation 5を使用して本作をプレイすることを推奨したい。


良い意味で作用しているプレイ時間の少なさ


『Stray』はできることが少なく、同時にさまざまなことができない状態が作品の魅力につながっているため、個々人のプレイスタイルの違いを通じた遊びの応用も効きづらい。だからこそ、数時間でゲームが終了するようストーリーラインとプレイがデザインされている。大抵の場合、プレイ時間の少なさはユーザーの満足度の低さにつながることが多いものの、本作はそうなりづらい。これがなぜかと言えば、ユーザーに提供したいゲームの主目的がはっきりしており、なおかつ、プレイを通じて過不足なくそれをユーザーに伝えきれているからである。なぜこのゲームが生まれたのかプレイすることで分かるため、「物足りない」が「丁度いい」に変換されているわけだ。昨今ではコンテンツボリュームを意識したオープンワールドブームの揺り戻しが来ているかのように、予めボリュームをミニマムにしたゲームもまた評価される、期待される傾向にあるが、本作はその典型例といえる。

猫は人間ではない。人間は猫ではない。このあたり前の事実を丁寧に描写することを通じて、猫がもつ愛玩動物としての魅力のみならず、異なる種同士によるコミュニケーションの成立という、願いにも似た奇跡の成就を見事表現することに成功したのだ。『Stray』はきっと、今年を代表する作品の1つとなるだろう。BlueTwelve Studioの次回作はまだかと、早くも期待に胸を膨らませている自分がいる。

Takayuki Sawahata
Takayuki Sawahata

娯楽としてだけではなく文化としてのゲームを知り、広めていきたい。ジャンル問わず死にゲー、マゾゲー大好き。

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