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秋を忘れて時は過ぎ去り気づけば年の瀬迫る11月。『あつまれ どうぶつの森』(以下、あつ森)に最後の無料アップデートと有料DLCが実装され、私もまた一年ぶりに本作について筆をとる運びとなった。既に2度にわたって記事を書いているにもかかわらず、今もこうして私に文章を書く動機を与えてくれる『あつ森』という作品が持つポテンシャルの高さよ。1年中遊べるゲームという理念は伊達ではなかったということだ。

第一弾では『あつ森』発売に合わせて、プレイ開始からスタッフロール到達までのインプレッションを書いた(関連記事)。シリーズのテーマである「スローライフ」を、デイリーで発生するイベントとクラフト要素、そして現実の時間とリンクさせたアンロックのシステムによって見事実現しているという感想を述べた。生活とは機械的なルーティンでありながら、同時に創造的なインタラクションに満ちている。それはようやくゲームとして成立したのだということを。

第二弾では、長期的なプレイを通じて読み取った『あつ森』の「本当の面白さ」について考察を行った(関連記事)。絶妙な塩梅で現実を抽象化した『あつ森』世界は、プレイヤーのクリエイティビティを刺激し、オブジェクト1つとってもさまざまな解釈を想起させること。その上でほかのプレイヤーとのマルチプレイを行うことにより、コミュニケーションを通じ複数人の世界解釈が重なることで、あたかも「現実で遊んでいる」かのような高いリアリティと没入感、幅広く、それでいてコクのある面白さを生んでいること。そのため、現実で遊び、別れ、そのまま『あつ森』で再会することに違和感がないこと。

『あつ森』は私達の現実の延長線上にあり、現実を拡張する。これは私達の現実に対する認知が、共通認識ではなく個々人で異なる解釈の重なりで成立していることも意味している。その一方で、本作はスローライフという名分を維持し、プレイヤーをマルチプレイに誘導するためか、あえてシステムに不便な部分を設けているところが多かった。

本稿では最終無料アップデートと有料DLCを通じて『あつ森』のこの不便な点はどう改善されたのか、ゲームプレイはどのように変じたのかを論じていく。

マルチプレイまでを舗装するアップデート


結論から言えば、大枠としてのゲームプレイに関しては特に変化していない。互いの解釈を重ね合うマルチプレイを面白さの頂点とし、ソロプレイがその事前準備にあたる構図は変わっていない。しかし、準備そのもの、つまりソロプレイがさらに充実した体験になっていることは確かである。

まず触れたいのは有料DLC『ハッピーホームパラダイス』についてだ。クライアントの求めに応じてインテリアデザイン業務を繰り返し続けるこの新たなコンテンツは、普段のプレイ中につけられた枷からプレイヤーを一時的に解き放つ清涼剤だ。お気に入りの家具を揃え、配置し、鑑賞して、それらを用いた生活様式を自分なりに解釈する。インテリアデザインは通常のプレイでも楽しむ事のできる、それこそ歴代シリーズに共通した醍醐味ではあるが、味わうにはかかる制約の大きいコンテンツでもある。

ゲーム本編では、部屋に何を置けるかは、その時々におけるプレイヤーの資産やコレクション、ローンの返済状況に左右される。自身の居住スペースという前提条件があるため、部屋数に余裕がなければ「工事現場」や「プロレスジム」などコンセプチュアルな空間づくりには手を出しにくい。そもそもコレクションの収集速度が、スローライフというコンセプトにより大きく低下してしまっている。せっかく優れた外観とインタラクト要素をもった家具を所持していても宝の持ち腐れになってしまったというシリーズプレイヤーは多いことだろう。

『ハッピーホームパラダイス』ではそうした制限を外し、ある程度自由に、庭を含めたインテリアデザインを楽しむことができる。「ある程度」と評したのは、クライアントの要望に応える必要があるということに加え、ゲーム中に使用できる家具や部屋の大きさについては最初からすべてを使用できるのではなく、ゲームの進行状況に伴う段階的なアンロック方式になっているからだ。とはいえ、アンロック方式によって毎回のゲームプレイに変化が生まれ、飽きにくい仕様になっている。

また、クライアントの要望そのものに関しても「可能な限り緑色の家具で統一してほしい」「高級トイレを作って欲しい」「雪が降る別荘で暖かく子育てがしたい」とユニークかつプレイヤーの頭を程よく悩ませる内容ばかりが揃っている。ここに、自由な解釈を生み出す外観を持った家具の存在が合わさることにより、彼/彼女はこの別荘で一体何をして過ごすのだろう、この家具があれば生活には困らないだろうなと、プレイヤーはクライアントの生活状況を一生懸命想像しながら仕事に励むことになる。深い没入を伴う作業はそれだけで本当に時間が吹き飛んでいく。関係者がかけてくれるねぎらいの言葉が骨身に染みる。


なかでもゲームプレイのマイルストーンとして要求される学校や病院、レストランなど「施設」のデザインに関しては、利用者が複数人、利用風景が明確に描写されるという前提が置かれるため一筋縄ではいかず、通常プレイからの発展形もしくは応用問題としてやりごたえ十分。施設を完成させると、プレイヤーのデザイン機能を拡張するイベントが発生することがあるほか、通常プレイでは出現しない訪問者が訪れるといったシリーズファン向けのサービスもある。

インテリアデザインが済むと業務記録として写真撮影を行うことになるが、これもまた非常に楽しい。舞台セットを用意して住民と撮影を行うシステムは、既に「パニーの島」として実装済みではある。しかしこのパニーの島には、わざわざローディングを挟んでまで現地に赴く必要があり、端的に言えば利用するのが「めんどうくさかった」。だが『ハッピーホームパラダイス』の場合は業務進行の流れでシームレスに撮影へと突入することができる。撮影現場をいじることはできず、撮影対象も自由に変更できないなど、さまざまな制約はあるものの、これまでよりも自然な形で、どうぶつたちと写真撮影を楽しむことが出来る。

ここまで読んだシリーズプレイヤーの中には、過去作である『ハッピーホームデザイナー』の単なる移植品なのではないかと考える方もいるかもしれない。確かにコーディネートの幅は広がったものの、プレイングの内容に関してはほとんど同じである。だが、総合的な体験としては過去作と比較してよりリッチで、充実した内容になっている。この理由としてはグラフィックの進化による部分が非常に大きい。本作のオブジェクトに共通する「写実と抽象の絶妙な塩梅によって生まれた解釈を生み出すデザイン」によって、プレイヤーが顧客の提案に対して持つ生活のイメージが広がり、仕事に対する没入の深度が格段に増したのだ。以前と比較して別物、とまではいかないが、純粋なバージョンアップ版であり、独立作品として発売されても遜色ないほどのクオリティに仕上がっている。


そして本DLCには、あくまで『あつまれ どうぶつの森』というスローライフの延長線上にあることをプレイヤーに意識させる、足に枷を嵌めて歩みを牛歩にするギミックも用意されている。それはプレイヤーへの直接的な報酬を小出しにし、内容をすべて日替わりにすること。これは給料「ポキ」で購入できる家具だけではなく、通常プレイでは入手困難なヒカリゴケやツルの自生状況の更新、浜辺に打ち上がるメッセージボトルも含んでいる。上司であるタクミが「今日はもうあがれ」とプレイ中に促してくることも合わせ、コンテンツの消費速度をかなり抑えようとしているのが分かる。単にコンセプトを遵守するだけでなく、本DLCの実装に合わせた復帰プレイヤーを、クリア(エンディング到達)に合わせて手放さないようにするためのものだろう。DLCだけ遊んで終わるのではなく、普段のゲームプレイにおける日課の一つに組み込むことを狙いとしていることが読み取れる。

この仕様に関してひとつ気にかかるのは、DLC内で報酬として入手可能な家具が、通常プレイでも入手可能なものがあるという点である。非購入者との差を広げないための工夫ではあるのだが、店売りの家具とDLC内の報酬がダブついてしまったとき、損をしたような気分になる。追加の有料コンテンツということで、筆者としてはすべて限定にしたほうがお得感という点でよかったのではないだろうか。そのほうが普段のルーティンワークにも組み込みやすい。


さまざまな要素が追加された最終無料アップデートに関しては、コレクションアイテムの大幅な追加と共に、「マルチプレイで解決できない問題」に関してのアプローチが目立つ内容となっている。かっぺいの離島ツアーは季節の制約を多少緩和し、バニーの島に新設されるショップは、他プレイヤーとのトレードでは入手限度のある家具のカラーバリエーション収集を解決。デイリーイベントによる制限の緩和も行った。非日常を提供する純喫茶「ハトの巣」はamiibo機能の拡張を行っている。一人称視点の実装と食事風アクションの追加は、プレイヤーがとれる解釈の幅を広げ、プレイヤーも現実から参加できるラジオ体操の存在は継続的なゲーム起動の動機として強く機能し、『あつ森』自体が個人の生活の一部になる。

その一方で、「マルチプレイで解決できる問題」に関してはあえて手を入れていないように見える。DIYレシピや店売り家具が結構な頻度でダブついてしまう問題や、住人との会話バリエーションの量に関しては変わっていない。住人は新たに自宅訪問を行うようになったが、内装に対する反応に乏しい。家の中を自由に動くわけでもない。そして先述した『ハッピーホームパラダイス』についても、自らの作った別荘を他人に公開し反応を受け取る、すなわち友人知人との交流というマルチプレイを面白さの最終着地点に設定していると言っていいだろう。可能な限りの不満を打ち消しつつ、ルーティン中の清涼剤となるコンテンツを増やしゲーム起動を習慣化させ、プレイの中で生まれた少ないストレスや物足りなさの解消を求めてマルチプレイを誘引する。他人とのコミュニケーションを楽しむゲームとして、現実を拡張する道具として、『あつまれ どうぶつの森』はさらなるステップアップを遂げた。

仮想現実とあつまらない自由


しかしながらソロプレイ自体を尊重するための工夫や、マルチプレイと同質の体験を望むソロプレイヤーの不満を解決するための仕組みは今もなお整っていない。ソロプレイのみでは本作の面白さの頂上にたどり着けないという状況は改善されていない。

前回私が執筆した『あつまれ どうぶつの森』に関する記事の感想に、以下のような内容を記したものがいくつかあった。

“友達や知人がいることではじめて「一番面白い」という「現実じみた遊び」ができるのなら、友達がいない自分は現実にいない、社会の一員にすらなれてないのか。自分はただ借金を返すだけ。資本主義という孤独が故の現実に虐げられる。この記事はそれを皮肉っているように思えるのだ”(要約)


メタバースの議論が盛んに行われている昨今。Facebookがその名をMetaに変え、すべてを飲み込もうと計画するなか、他企業は対抗するようにそれぞれの仮想世界の構築に熱を注いでいる。それと同じくして、人間の社会に対する参加の方法についても見直されているように思う。果たして私達は生活の舞台を仮想世界に移したとして、他者と談笑をし、同じ釜の飯を食べ、どこか遊びに出かけなければならないのだろうか。メタバースのイメージ映像に「1人で何かを楽しんでいる様子」が描写されることが少ないのは一体どうしてなのだろう。

世界や社会、コミュニティを構築するには確かに複数の人間が必要ではある。しかし全員が全員、交流の果てに「仲良くする」まで到達する必要はなく、(場所代を払う必要はあると思うが)他者との適切な距離感も個々人でさまざまだ。ハトのマスターくらいの距離感が丁度いい人もいれば、会話も遠慮したいという人もいる。そして、コミュニケーションをする相手は何も人間でなくたっていい。ペットでもゲーム内のNPCでも、それこそ自分だって良いのだ。たとえば1人で美味しいものを食べ終えて、「美味しかった。美味しかったなぁ」と改めてしみじみ味を噛みしめる。一時の感動を反芻し、客観的に分析したのち丁寧にまた自らの腑に落とし込むことも、自己との対話、コミュニケーションにおける一つのあり方だと私は思うのだ。

社会生活とコミュニケーションを作品の主題としてきた『どうぶつの森』シリーズではあるが、どうにもこの「コミュニケーション先は実の人間でなくていいし、仲良くしなくてもいい」「1人でいること、1人を楽しむこともまたコミュニケーションであり、社会活動のひとつだ」という視座が欠けていると筆者は感じる。見知らぬ他人とマッチングするシステムを実装していないことも含めて、現実の人と繋がり仲良く交流することをユーザーに強制しすぎていると思う。

もしシリーズに次があるのなら、「実在の人間」と繋がらなくても満足なコミュニケーションができるように、NPCとの会話パターンをアップデートで徐々に追加する、捕まえた魚や虫を「飼育する」、「お一人様での体験」をイメージできるようなキャラクターのモーションを実装するなどしてほしい。作品内で「孤独のグルメ」ごっこやソロキャンプごっこができたら、ペットの成長記録をつけられたら。「あつまっても、あつまらなくてもいい どうぶつの森」の発売を筆者は待っている。

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