『あつまれ どうぶつの森』は「生活そのもの」を変えた。シリーズの課題や変化に迫る

『あつまれ どうぶつの森』は「生活そのもの」を変えた。シリーズの課題は常に、機械的な反復行動をいかにリアルで、ファンタジーなライフ――理想的な人の営みへと昇華させていくかであった。

春は桜の季節。皆様いかがお過ごしだろうか。私はというと、まもなく大型イベント「イースター」が大詰めを迎えようとする中、ようやく「島クリエイター」の認可が降りた。ゲームはひとまず(チュートリアルの)エンディングを迎え、島内整備の真っ最中だ。プレイに一区切りがついたということで、『あつまれ どうぶつの森』は旧シリーズからどのような変化があり、どのように作用しているのか。そうした点に着目した、軽いコラムをまとめておきたいと思いたち、寄稿に至った。普段私が掲載させていただいているゲームレビューのような、がっつりとした内容では無いが、最後まで読んでいただければ幸いである。

 

こなす生活から創り上げる生活へ

『どうぶつの森』というゲームシリーズの課題は常に、機械的な反復行動をいかにリアルで、ファンタジーなライフ――「どうぶつの森らしさ」を損なわない、理想的な人の営みへと昇華させていくか。という点が中心にあったと考えている。ただ元より生活というフローは、設定された行動の 繰り返し である。起きて、食事を取り、身支度をして仕事にでかけ、帰宅して再び食事を取り、入浴したのち床に着く。行動の合間合間には他者とのコミュニケーションが必ずと言っていいほど挿入される。私達は生きている限り、このサイクルをなんどもなんども繰り返す。生きるため逃れることのできない、極めて受動的なサイクルこそ生活なのだ。しかし、生活にはもう一つの側面がある。フローの主体が自分自身であることによる可変性。睡眠や食事といった主要パートこそ避けられぬものではあるが、中身自体は幾らでも自らの手によって、足によって変えることができる。食事のメニューを変える。通い慣れた道から一本ずれた路地に進んでみる。気分によって衣服をチェンジ。隙間時間でショッピングに、勉強。トレーニングもいい。寝る時間をずらす……夜ふかしだって勿論そうだ。全てが受動的で、全てが主体的。模倣的で創造的。そ れが「生活」である。

『どうぶつの森』シリーズはこれまで、受動的なサイクルこそ再現できていたものの、生活が持つもうひとつの側面、すなわち「可変性」に関してはシステムとして上手く落とし込むことができていなかった。『あつまれ どうぶつの森』以前のシリーズにおけるシステムは、一貫して2つの大枠によって構成されている。ゲームから与えられる遊びを「こなす」生活パートと、自己表現としてのインテリアコーディネート、ファッション、およびマイデザインだ。そのうち生活パートに関しては、釣りや昆虫採集をはじめ、さまざまなアクションを絡めた収集要素と個性豊かな住人とのコミュニケーションによって構成されている。だがその中に、自発的な可変性は組み込まれているとは言い難い。コレクションは時間経過と共に移り変わる四季を享受するためにあり、コミュニケーションは設定された性格ごとにパターン化され、好きなキャラクターと会話することそれ自体は楽しいが、変化や発見に乏しい。商品とカブ価のチェックから始まり、散歩がてら化石を採掘、住人と簡単な挨拶を交わしつつ、採集を楽しむ。旧来の『どうぶつの森』シリーズにおける「生活」はゲーム側から用意されたロジックをただただなぞることに終始している。クリエイティビティに欠けているのだ。一応、イベントと言う形のカンフル剤は導入されているが、それは普段からのゲームプレイを大きく変動させてしまうものばかりだ。強制的なルーティンからの逸脱はすなわち非日常であり、生活の再現には至らない(もちろん、非日常があるからこそ生活の魅力は成り立つし、その逆も言える)。ゆえにプレイヤーの中には自ら時を飛ばし季節を変えたり、開発中の施設を竣工させるなど、ゲームコンセプトから外れた自発的な変化を求める人がいるのも致し方ないと言える。

そのため、『どうぶつの森』はシリーズを重ねる度に、根幹たる生活をよりよいものにするべく試行錯誤を重ねてきた。生活感あふれる住人のモーション追加、喫茶「ハトの巣」や親密度を通じたNPCのバックボーン解明と世界観の提示。島や街、そして商店街、オブジェ、公共事業の導入。モーションの追加とキャラクターの深堀りに関しては、生活感を演出するものとして非常に効果的な役割を果たしている。生活とはそれがどんな存在であれ、他者が生きていること抜きに成り立たないものだからだ。単なる生命活動と生活との違い。それは他者の存在にある。しかしプレイアブルな部分に触れるものではなく、よって可変性を生み出すギミックではなかった。『どうぶつの森+』と『街へいこうよ どうぶつの森』『とびだせ どうぶつの森』で追加された島や街、商店街の導入は、片や非日常の別世界、片やゲーム側から何かを受け取る、受動的なコンテンツばかり。村に物を置くオブジェや公共事業の導入はラインナップが固定化されていることもあり、店売りの品物を購入し家に並べるものと何ら変わらないように思えた。だが、確かな光明ではあった。

『どうぶつの森』シリーズにおけるクリエイティブは、生活パートではなく先述したようにインテリアコーディネートおよびマイデザインに委ねられていた。プレイヤーは自宅という箱庭の中でのみ、想像と創造でもって自らのユートピアを作ることができた。だがそこは一人ぼっちの楽園。模様替えという可変性はあっても生活圏ではない。他者が居ないからだ。ルーティンも生み出せていない。

ここで発想の転換である。2つを、1つにすればいい。舞台を全て我が家と同じ仕様にしてしまえばいい。既存のロジックに、模様替えの要素を組み込む。するとどうなるのか。無人島の開拓という、クリエイティビティそのものをコンセプトに掲げた『あつまれ どうぶつの森』では、公共事業の発展型として、島中に家具を置けるようになった。コーディネートを通じて、街頭や公衆電話の配備、道路の敷設といったインフラを整備するだけではなく、ルーティンの最中に立ち寄る公園やカフェを作ることも出来るし、温泉地や遊園地といった観光スポットを建てることも可能だ。取れるアクションの都合上、体験の大部分をプレイヤーの想像力に預けることになるが、ルーティンの最中に立ち寄る「気晴らし」のためにある施設を、自らの手で創り上げることができるようになったのだ。くわえて、置かれた家具はプレイヤーだけではなく、住民の振る舞いにも影響を与える。『あつまれ どうぶつの森』には旧作から引き続き住民の間に「流行」の概念が導入されている。くちぐせやマイデザインがそれまでの代表例として挙げられるが、本作からは新たにプレイヤーが置いた家具を通じてムーブメントが発生するようにもなった。流行歌である。今回の住民たちには個々人の性格とは別に、筋トレやかけっこ、ガーデニングや研究など、趣味とも言えるような行動の性質が備わっている。その中には歌唱を好む住民もおり、彼らのレパートリーは、プレイヤーがかけたトラックによって変化する。マイクを立てればそこで歌い始めたりもするのだ。私が現在確認できているのはこの「歌の流行」のみであるが、プレイヤーがわざと仕掛けることなく、目に見える行動の連鎖によってムーブメントが生まれていくという光景は、正に擬似的なコミュニケーションであり、生活圏の形成であり、文化の誕生とも言える(それまでの流行はアクションを伴わない、という点で機械的な伝染という印象が拭えなかった)。

さらにデイリーで発生するランダムなNPCの来訪は、より生活におけるクリエイティブな側面を引き立てている。話しかけることでスタートする彼らとのミニイベントは、ゲームプレイを大きく変動させることなく、日々の習慣を壊すことなく、昨日とは違う今日を自ら作り出すことができ、明日への期待をも生み出す。全てが受動的で、全てが主体的。模倣的であり、創造的。誰かが居て、私が居る。そんな「生活」が持つ性質を、完全とは言わずとも再現することに成功している。

アンロックについて

DIYとマイレージを中心としたアイテムメイキングとアンロックのシステムは、「自分の手で何かを作る」というプレイングを通じ、先述した生活が持つクリエイティビティを促進させると同時に、創造力に首輪をかける形で、ゲーム内におけるコンテンツ消費の速度を抑止する役割を果たしている。スローライフという理念を体現したシステムとも言えるだろう。いろいろなモノを制作できるようになった本作のネックは、作品の理念が「スローライフゲーム」であるということだ。言い換えれば「クラフトゲーム」では無いということである。膨大なコンテンツ量があるとは言っても、本作の要であるクラフティング要素は多く見積もって作品全体の50%だろう。もしその全てがゲーム開始時点から作成可能であれば、人間の創造力によって瞬く間に消費されつくされてしまう可能性がある。それが意味するところは即ち、可変性の喪失。ゲームコンセプトの崩壊だ。ゆえに、開発側はプレイヤーにアンロックという制限を設けた。他ジャンルでは当たり前となっているシステムすら徹底して抑え込む異様さである。他でできていることができないという状態は単純に不便であり、場合によれば不快感すら覚えてしまうかもしれない。だが不思議とその状態に対し納得してしまうのがこのゲームの恐ろしいところである。本作に実装された複数のアンロック・ロードマップ。その塩梅、バランス感覚が絶妙なのだ。

まず大きなものとして、1年間を味わい尽くすという途方もないスケールの目標がある。具体的に言えば、月ごとに発生するイベントの体験(限定クラフトメニューの開放)であったり、季節ごとに追加・変化していくコレクション要素の獲得だ。移り変わる風景を鑑賞するということも含まれる。次に理想的な無人島の開発。理想的な我が家のコーディネート(に使用するための家具)。借金の完全返済。常用施設の建設と続き、チュートリアルの完了がある。最後にすぐにでも達成可能な目標としてマイレージが存在している。一日を過ごすことそれ自体が達成に近づくための手段である目標が設定されている一方で、すぐにでも報酬が与えられるタスクがある。継続的に習慣を続けることにより達成できる目標も用意されている。目標を達成すると、必ず何かが目に見える形で前に進む。 生活がより豊かになる。スケールの異なる複数の目標を細かく用意することで、リアルタイムに時間が進行することも相まって、その日の充実感、今の状況に対する満足感、そして明日は今日よりも良い日になるという確信がプレイヤーの中に生まれるようデザインされているのだ。このことは先述したコンセプトから逸脱したプレイングの抑止にもつながる訳である。

もちろん、このアンロックシステムをプレイヤーに納得させる上で、視覚表現とBGMが持つ役割を見逃すことはできないだろう。質感はよりリアルに、それでいて玩具のような可愛らしいデフォルメがなされたビジュアルデザインは、『あつまれ どうぶつの森』の世界が、生きた息遣いが聞こえてくるものであるような錯覚を抱かせつつ、どこかミニチュアのような、一歩離れた自由度の高い「ごっこ遊び」を促進させる作用を持つ。世界に流れる緩やかな空気感は癒やし効果も然ることながら、プレイングの速度を遅くしても、むしろ何もしなくても良いという雰囲気を醸し出す。時間経過でインタラクティブに変化するBGMは単純なアンビエントライクではなく、アコーステックでありながらほのぼのすぎることはない秀逸なもの。『あつまれ どうぶつの森』のコンセプトを支え、プレイングの速度を調整する弁の如き役割をもつ。

以上が、現時点で私が抱いている『あつまれ どうぶつの森』に対する感想である。ゲームプレイは理念を体現するため、より着実な進化を果たし、一見その代償とも思える不便さは、巧みな報酬体系の設定により上手くコンセプトの一部として落とし込まれているという印象を受けた。あくまで4月時点におけるインプレッションであるため、来月、再来月と時間が進むごとに、そして島が発展を遂げる度に抱いた印象は変わっていくかもしれない。期待を胸に、本論はここで幕を閉じるとする。

Takayuki Sawahata
Takayuki Sawahata

娯楽としてだけではなく文化としてのゲームを知り、広めていきたい。ジャンル問わず死にゲー、マゾゲー大好き。

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