『ネクロバリスタ』を、同作に影響を与えた『ファタモルガーナの館』開発者がレビュー。ジャンルの新境地を開いた「静と動」の表現
PLAYISM注:
PLAYISMは2020年7月22日、Steam、GOGにおいて3Dビジュアルノベル『Necrobarista(ネクロバリスタ)』の配信を開始させていただいた。本作を知ったのはたしか二年前の夏、シアトルのゲームイベントPAX Westでのことだった。会場内でたまたま見かけたそのアニメのような映画のようなビジュアルノベルに一気に目の覚めるような心地がして、日本語版をつくるつもりなら、ぜひ手伝わせてくれないかとその場で頼み込んだのだった。
それから後に知ることになるのだが、実は開発元であるRoute 59のディレクターとPLAYISMチームのデザイナーが幼馴染だったり、我々と交友のあるCoconuts Island Gamesが中国語版パブリッシャーになったりと、とかく縁を感じるタイトルで、そしてついにその縁がつながって、日本での販売を実際に我々が担当することになった。
驚くべきことに縁はそれだけで終わらず、本作リードアーティストのNgoc Vu氏に影響を受けたタイトルを尋ねたところ、『ファタモルガーナの館』であることがわかった。これは、2013年5月31日からPLAYISMストアでも取り扱っているタイトル、それも同ストアにとって初のビジュアルノベルで、ますます何か奇縁のようなものを感じたのだった。
さて、今回はその『Necrobarista』が影響を受けたという、『ファタモルガーナの館』を開発したNovectacleの代表、縹けいか氏にぜひ本作の感想を聞いてみたいと考え、AUTOMATONへのレビュー寄稿を依頼したものである。もちろん、同氏はレビュワーではなくクリエイターなのだが、この強引な依頼をご快諾いただき大変感謝したい。では、よろしくお願いいたします。
※PLAYISM:AUTOMATONを運営するアクティブゲーミングメディアのパブリッシングブランド
2020年の夏、ビジュアルノベルの旨味をエスプレッソしたような作品が世に放たれた。目も覚めるような一杯を、あなたは既に味わっただろうか。もしもまだ口にしていないのなら、『Necrobarista』と検索してみるといい。Steamなら一発だが、この際Googleでも、Yahooでも、どこでだって導いてくれるだろうし、さらに言えばあなたが生きていても死んでいても関係はない。両者に等しくカフェ「ターミナル」の扉は開かれている(加えて言うなら、あなたがメルボルンに住んでいなくとも、だ)。
ところであなたは死が恐ろしいだろうか?
今の、わたしたちの、死
『Necrobarista』の舞台となる「ターミナル」は彼岸と此岸の中間に存在し、死者の停留所でもあり、ふつうのカフェでもある。『Necrobarista』の主人公・マディは、冒頭、ターミナルに訪れた死者・キシャンに対して、今いる9人の客のうち4〜5人が死者だと告げる。文字通り半数が死人なわけだが、ターミナルはゴーストがよりつく不気味な雰囲気のカフェというわけではない。オーストラリアのメルボルンにある美味しいコーヒーを提供する、おしゃれでごく一般的なカフェだ。生者であろうと死者であろうと、彼らは同じ客であり、それぞれがコーヒー(酒の場合もあるが)を片手に一休みをし――そして次の目的地へと向かう。
それは生者であれば自宅や仕事場だったり、駅であったり図書館であったりするのかもしれないが、死者の「次」は彼岸となるのだろう。両者の向かう先が異なりはせよ、ターミナルで行うことは、どちらも「次」へ向かう準備だ。腰を落ち着けて一呼吸し、準備をすることで、我々は「次」に進みやすくなる。それが死の準備であったとしても。彼岸へ旅立つ前に停留できる場所があるというのは、おおきな希望であり救いのように私は思う。
作中で描かれる死者の「次」についても、霊魂が消えてなくなるわけではない。たしかに生者の前からは消えるが、それは消滅ではなく、あくまで「次」への一歩なのだ。
霊魂の旅路における途中地点となるカフェ「ターミナル」は、救いの場として描かれているように感じる。押し付けがましく誰かに介入し、救いという名のおせっかいをかますのではなく、存在を肯定され自分自身であることを許される――そういう場を用意する、という意味での救いだ。
カフェの現オーナーでありバリスタであるマディも、彼女なりの辛辣なジョークはあるものの、基本的なスタンスは相手を肯定することだ。キシャンに対しても、大丈夫、という言葉を多く使っている。なお彼女のバリスタとしてのスタンスは、むしろ彼女の師匠であり前オーナーでもあるチェイのスタンスを受け継いでいるのだろう。普段、他者を否定せず受け入れる言動を取るのはむしろチェイの方だ。作中でも、マディのチェイに対する尊敬は見て取れる。
こういった他者に寄り添うような共感性は、とても20年代的だと思う。多様性のあるキャラクターたちがいること、生と死が混在するのがあくまでも一般的なカフェであること、そこで描かれるのは日常的なものであること、人生や死に対する許しの描き方――それらすべてが非常に現代的だ。『Necrobarista』の物語自体は普遍的なテーマを扱っていると思うが、受け取る感覚として、まさに「今」やるべきものだと感じる。
ここにあるのは、今の、わたしたちの死の価値観なのだ。
死に対する扱いも、物質的な恐怖よりも精神的な恐怖(喪失感とも言える)に比重を置いている。カフェに訪れた死者はその時点で死んでいるのだから、肉体的な痛みが描かれていないのは当然かもしれないが、彼らの心を描くために敢えて省いたのだと取れる。キシャン以外にも死者が描かれるが、彼らが「なぜ、どうやって、どんなふうに」死んだのかは描写されず、本作では重要なファクターでもない。これは死を迎えた彼らの今生との決別、そして生者の自立の物語だからだ。
死が主軸にある作品だが、全体的にあたたかい雰囲気という印象を受けるのも、ここがカフェという場であり、コーヒーというアイテムがそばにあるがゆえだろう。カフェインの効果に「霊魂を鎮める」という項目も追加した方がよさそうだ。
死への恐れ
なぜ死が恐ろしいのか――その問いに戻る。死に際の痛みを想像して恐ろしがる人もなかにはいるだろう。確かに大体の死は安らかなものではなく、苦痛を伴う。そのときのことを思えば、恐ろしいのも当然だろう。
しかしそれよりもなお強いのが、喪失の恐怖ではないだろうか。
己という存在が消えてしまう恐ろしさ、あるいは他者との繋がりが絶たれる孤独感――それらは肉体的な痛みに比べて明確に言語化できるものではなく、非常に感覚的なもので、だからこそ私達の心と霊魂を支配する。物質的な恐怖よりも精神的な恐怖が、死をより恐ろしく感じさせるのだ。
『Necrobarista』での霊魂の描き方は、ソクラテスの説いた霊魂の不死性に近いものを感じる。
「パイドン」の一節でソクラテスは「哲学にたずさわるものは、つね日頃、死ぬこと、死者であることを稽古している」と述べている。哲学と死は切っても切れない関係だろう。人間が行える死への唯一のアプローチが哲学だとも言える。死は不可逆的で一方通行だ。こちらからあちらへ行くことは出来ても、あちらからこちらへ行くことは出来ない。臨死体験という言葉もあるが、結局はそれも生者の範疇で起きることだ。ゆえに哲学者はあらゆる思考で死を解明しようとした。霊魂の立証、死後(冥府)の世界について、死とはどういう状態を示すのか。それは、未知でありながらも我々が必ず到達する死への知的欲求でもあれば、死に対する根源的な恐怖への対抗でもあっただろう。フィロソフィオス(愛知者、または哲学者)として、ソクラテスは、死を嫌がることはありえないと説く。なぜならば哲学者は、上述のとおり、死者であることを稽古し続けてきた――言い換えれば霊魂を善きものとして研鑽し続けてきた――もっとも死に近い存在だからだ。もしも嫌がるのならば、その者は知を愛する者ではなく身(または財産、名誉)を愛する者だと。
ソクラテスは霊魂の実在とその不死性を説き、霊魂とは肉体の消滅によりちりぢりに消えゆくものではないと立証した。霊魂は死体から離れ、冥府と、さらにその先へ向けて旅立つのみなのだ。思考し、対話し、議論したこの霊魂――私という存在――はあなたの前から立ち去るが、消えるわけではない。
肉体の滅びは何ら恐れることではなくなったのだ。
彼が証明した霊魂の不死性は、彼の弟子や周囲の人々はおおいに納得したが、もちろんそれは万人の共通理解にはなっていない。再三となるが、生きている者は誰も死を経験していないからだ。だが少なくとも、彼のように死の思索にふけることで、多くの人への希望となるだろう。
だから、あなたも想像してみてほしい。
もしも――もしも霊魂の不死性が、共通認識だったら?
理論上といった言葉ではなく、実際にそれがあるのだと明確な価値観を我々が持っていたら?
さらに言えば。
確実に存在する死者の霊魂と、生者が、まじわる場があると知っていたら?
とたんに、死が恐ろしいものではないような気がしてこないだろうか。
そういった世界を、『Necrobarista』は表現しているように感じる。
ビジュアルノベルの更に先へ
ところで、これは多くの人が認めることだろうけれど、『Necrobarista』は演出がとにかく良い。この作品についてレビューをしようとしたら、真っ先にそのことについて言及するだろう。真っ先にみんなが言ってくれるだろうから、ここでは後出しにしてみた次第だが、ともあれ触れないわけにはいかない。
トレーラーをご覧になればすぐに分かると思うが、『Necrobarista』は3Dをアニメ調に調整したハイセンスなビジュアルノベルだ。キャラクターが表示されて背景があってテキストウィンドウがあって――といったオーソドックスなスタイルではなく、すべてが映画のワンシーンのようにカットされる。実際にプレイすると本当に驚かされるが、いわゆる“汎用的な場面”が一切ないのだ。すべてがその一言のためのカットで、その一言のためのアングルで、その一言のための色合いで、その一言のためのテキスト表示となっている。どこでスクリーンショットを撮っても映えてしまう驚異的な力の入れ具合は、ただただ感嘆するほかない。テキストの表示ひとつとっても、カットごとに調整され、見やすさ、構図としての美しさ、話者の分かりやすさといったあらゆる観点から考え抜かれている。これらを試行錯誤しながらワンシーンごとに調整していくのは想像するだけで気が遠くなるような作業だ。
また、静と動の使い分けも見事だと思う。3Dで描画されているが、常に動き続けているわけではなく、止め絵的な演出が採用されている。たとえばコーヒーを淹れる場面も、マディがマシンでコーヒーを用意するまでは動的で、次からは止め絵が表示される(といっても完全な静止画ではなく、ライティングやパーティクル、水のゆらぎなど“空気感”は動き続けている)。ビジュアルノベルという文字を読むのが主軸となるジャンルの性質上、実のところ、常に画面が動いていると没入しにくい。とはいえ画面が動かないのも、それはそれで退屈になる。そういった課題を『Necrobarista』は解決したばかりか、ビジュアルノベルの進化を我々に見せてくれている。いちプレイヤーとしても楽しめる作品だが、同ジャンルの開発者として見ると、我々はこの作品から多くのことを学ばなければならないと感じた。
味わい深い会話劇は詩に近い
なるべくネタバレにならないようにテキストについての感想も書いておきたい。この項目については筆者の職業上、書き手目線となる箇所が多くなるかもしれないが、ご容赦いただきたい。
『Necrobarista』は「会話を楽しむ物語」だと感じた。特に主人公のマディは皮肉的で、彼女の言葉にはいつもスパイスが振りかけられている。たとえばこんなふうに。
「魂を肉体から引き剥がしてカウンターを磨くための雑巾にしてあげる
そうやって磨くとステキな香りが残るのよ
慰みになるでしょ?」
温厚で常に笑顔でいるチェイの言葉も、詩的で含蓄があり、200歳以上生きているという彼の設定が生きている。以下はチェイとアシュリー(カフェに住み着いた13歳の少女)の会話だが、スチームパンク風のメルボルンの港を見下ろす景色の美しさも加わり、とても叙情的だ。
「雨が降っているとどんよりする 外に行って 好きなこともできない
でも日が昇る前の雨の匂いはかけがえのないものだ」
「雨上がりの柔らかい匂い」
「そう。実は、かすかに魔力を帯びているんだ
前に話したかな?」
「100回くらいはね」
「ははは」
「101回目を聞いてあげてもいいよ」
それからテキストを読み進めていると、時折ハイライトされた単語が現れる。単語をチェックすることでその言葉の詳細が分かるというシステムだが、使い方が独特だ。こういった用語解説システムは、その世界観独自の単語の解説を、本筋の邪魔にならないようTips化して補完するというやり方が定石だろう。しかし『Necrobarista』では用語解説のために使われるのではなく――たとえるならばその用語で一句したためるような――独特な使われ方をしている(たとえで一句と書いたが、五七五というわけではない。詩的なテキストのときもあるし、笑えるときもある。いずれにせよ世界観を深めるテキストで間違いはない)。
たとえばある文章で「ポケット」という言葉がハイライトされていた時は、こうなっていた。
ポケット
――チューインガム、小銭、そわそわした時の自分の手。
そんな行き場のないものを入れるのにちょうどいい場所だ。
小粋なフレーバーテキストじゃないだろうか?
こういったテキストが随所にちりばめられているから、ハイライトされた単語はつい見たくなってしまう。たとえそれが、誰もが知っている「ポケット」という言葉であってもだ。いや、むしろ、誰もが知っている言葉ほど、どう表現してくれるのか楽しみになる。
ひねりの聞いた味わい深いテキストを生み出すのは、実は簡単なことではない。読む側は一瞬で終わってしまうかもしれないが、書く側は数時間、もしかしたら数日、数か月、それ以上の時間を悩んでいる(時折スーパーモードになって一瞬で格好良いテキストが出てくるときもあるが、基本的に稀だ。それにそういうときはカフェインを異常摂取していたり、寝不足が極まってアドレナリンが出ていたりする。要するにまともじゃない)。
時間もかかるし精神も削られるが、それほど“言葉”と真摯に向き合っている証左だ。
こうして書いてきたように、『Necrobarista』が異常な熱量を持つ作品であることに間違いはない。その前提を踏まえた上で、ストーリーについて感じたことを、素直にいくつか書いておきたい。
会話劇ゆえの、背景のわかりにくさ
本作は基本的に会話で進められる。そしてその会話は「今」の時系列に沿っている。だから、彼らが自分たちの背景事情をべらべらと話さないのはリアルで理解できる。しかし彼らの事情がわからないと、感情移入できないのも事実だ。会話の節々から事情を察することはできるし、決してストーリーがわからないというわけではないが、彼らの過去を知らないがゆえに、どうしても置いてけぼりにされているような、傍観者として会話を読んでいるような気になってしまう。
主人公のマディとチェイの過去のことや、マディがカフェに来た四年前のこととか(これについては、マディがキシャンに語っているのだが、その部分はカットされプレイヤーには開示されない)、チェイとネッド(チェイと親しい人物)の若かりし頃の話とか、主要人物の背景はわかっていた方が話に入り込めただろう。特にマディとチェイについてはもう少し明かされるものだと思っていたので、ゲームが終わった時に物足りなさがあった。作品の熱量的に、けっして物足りなさを覚えるようなものではないはずなのだが。
また、モデリングもあって、一話をまるまると使いながらも、話の本筋に絡まないサブキャラクターの存在も気になった。カフェという性質上客がいるのは当然だし、マディがバリスタの仕事をするのも自然だし、彼らがいることに違和感はないが、本筋に絡まずに会話で終わってしまうのはもったいないと感じた。どうやら彼らのエピソードは今後の無料DLCで描かれるようなので、詳細が明らかになるのを楽しみに待ちたい。
サブキャラクターといえば、サブエピソード(プレイヤーが自由にカフェを徘徊できる時間で取得できるエピソード。ここではキャラクターのモデルは表示されず、小説スタイルで進む。読まなくてもメインストーリーを進められるが、読んだ方が世界観に詳しくなる。しかし対応するオブジェクトを発見するのが少しむずかしい)の「ビリヤード」で登場したブラッドとトーマスが印象的だったし、このエピソードはお気に入りだ。キャラクターも立っているし、なにより「生者と死者が同時に集う場」の特殊性がよく描かれている。エピソード単体として見ても、結末のひねり方が秀逸だ。むしろこのエピソードをメインストーリーに組み込んだ方が、生者と死者の出会い、必然的な別れ、そしてターミナルがどんなカフェであって、実際にどんなことが起きるのか――それらを体験できるため、本筋の物語がより深いものとなった気がする。
説明はしすぎると冗長になるし、ただ単にテキストで解説すればいいというわけではないので、さじ加減が難しいのは痛いほどよく理解できるのだが――全体的にもう少し内情を明かしてほしかったと感じた。
コーヒーと、わたしたちの「死」を想う旅路へ
上述のような箇所はあったものの、『Necrobarista』は非常に美しい作品だ。死をテーマにしながらも重苦しくなく(これは決して「軽い」という意味ではない)――「次」へ進む勇気を与えてくれる、やさしさに満ち溢れた一作だった。マディと共に命の旅路に付き添えたことは、あたたかい思い出として私の心に残るだろう。開発のRoute 59には『Necrobarista』を世に出してくれたことへの多大なる感謝を述べたい。
最後に、霊魂に染み渡るようなKevin Penkinの音楽に浸りながら、マディの言葉を引用させていただいて終わりとしたい。
元気を出して
これもただの一歩よ
片足ずつ前に出し続けないと
どこへ行こうともね
[執筆:縹 けいか(Novectacle主宰)]