『ゴースト・オブ・ツシマ』レビュー。オープンワールドによる表現の地平を切り拓く、新時代の時代劇
ゲーム開始前、正直私は飽き飽きしていた。また本筋と関係ない「お使い」をこなし、拠点を潰すことになるのかと。オープンワールドといえばいつもコレだ。別に嫌いではないし、むしろ好きではあるが、問題がひとつ。コントローラーを握り続けていると、何を遊んでいるのかわからなくなる時がある。本来の目的を忘れさまざまな遊びにふけっているとき、ふとこれでいいのかと考える瞬間がある。私は思うのだ。オープンワールドに物語を持ち込むべきではないのかもしれないと。だが『ゴースト・オブ・ツシマ』は成し遂げた。散逸的なゲームプレイとナラティブの融合を。映画をゲーム化するのではなく、ゲームを映画化するという、前代未聞の挑戦を。
『ゴースト・オブ・ツシマ』は13世紀の日本において2度に渡り行われた蒙古(モンゴル帝国)襲来、うち1274年に起こった「文永の役」の数ある戦地のひとつである対馬を舞台に据えたオープンワールド・アクションゲーム。発売日は7月17日。開発を手掛けたのは『INFAMOUS〜悪名高き男〜』などで知られるSucker Punch Productions。PlayStation 4用タイトルであり、販売をソニー・インタラクティブエンタテインメントが担当している。主人公は小茂田浜の惨劇から生き残ってしまった武士「境井仁」。一度戦場に死んだ「冥人(くろうど)」として、名誉も誇りも捨てた、ただ敵を殺すために磨かれた技を武器に、自由と勝利のため対馬を駆けることとなる。
*本稿はソニー・インタラクティブエンタテインメント(以下、SIE)提供レビュー用コードでのプレイにもとづき執筆。
映画をゲーム化するのではなく、ゲームを映画化するという作品コンセプト
平成30年4月。『ゴッド・オブ・ウォー』という作品がSIEより発売された。シリーズから刷新されたゲームシステムの素晴らしさはさることながら、彼の者が携えるカットシーンを一切挿入しない演出技法は、情緒ある物語のすべてをシステマティックなプレイングと融合させることに成功し、Game of the Yearの頂へと登りつめるに至った。まさしく天下を取ったのだ。そして時は流れて令和2年7月。彼と真逆の存在が高らかに産声を上げようとは。『ゴースト・オブ・ツシマ』は時代劇をゲームとして再現することをコンセプトとしている。つまり、ゲームを映画化する。すべてのゲームプレイに物語性があるよう錯覚させ、カットシーン同等の情報量に置き換えようとしているのだ。
だがこれまでにも「映画」をモチーフにしたゲームは世に数多く誕生している。映画に入り遊ぶ『ビューティフル ジョー』シリーズはもちろん、『アンチャーテッド』シリーズは映画をゲームにした作品として最たるものだろう。映像内のワンシーンをまるごとゲームとして操作できる内容に仕上げたという点で、当シリーズに匹敵する作品は両手で数えられるほどしか存在しないと私は思う。しかし『ゴースト・オブ・ツシマ』の場合はその根本的な前提が異なる。映画をゲーム化するのではなく、ゲームを映画に変換する。なんてことない徒歩移動や雑魚との剣戟。ミッションの始まりと終わりを告げるタイポグラフィーや、ワンクリックで交わされるNPCとの会話。プレイヤーがキャラクターを操作し行う一挙手一投足を後に一つの映像としてまとめ上げたとき、それは一本の映画として成立する作品に仕上がるよう設計されている。これをリニア型のゲームではなく、オープンワールドという形でやってのけているのだから驚異的である。
視聴時間の経過と共に物語が進行する映画というメディアには、オープニングからエンディングまで物語が一方通行であるリニア型の相性がよく、映画をモチーフとする作品の多くはこちらを選択する。オープンワールドでは散策要素が存在したり、プレイヤーが主人公を自発的に目的地へ移動させてから、物語が展開する仕組みである都合上、キャラクターが動かない時間が存在したりと、プレイ内容に一貫性が生まれにくく、結果としてストーリーラインとゲームプレイが別個のものとして分裂してしまうことが多い。世界が滅びようとする火急の事態にも関わらず立ち止まって風景を楽しんだり、エンディングが目前に迫る中、レベル上げのためNPCに頼まれたペット探しの依頼を解決する、なんて事態に身に覚えがあるプレイヤーも多いのではないだろうか。だが『ゴースト・オブ・ツシマ』はこの問題を完全に解決……とまでには至っていないにしろ、凄まじい熱量と工夫によりコンセプトの実現へと導くことに成功している。
ではSucker Punch Productionsが目指した、映画というメディアとは一体何か。哲学的な問いにも見えるが、私が推測する答えはいたってシンプルだ。少なくとも映画とは、「動画」である。言い換えれば、「静止画」ではない。オープニングからエンディングへ向けて、常に物語として「意味のある絵」が一方向に流れ動き続けなければならない。だが『ゴースト・オブ・ツシマ』はオープンワールド・アクションゲームである。NPCとの会話時をはじめ、不規則に乱れるゲームスピードがやがては0となり空間が冷えこむ瞬間はどうあがいても避けることはできない。ゆえに彼らは背景を常に情報で満たし動かすことによって解決を図った(もちろん、この技法は動画を撮影するときに使われるものでもある)。
本作の舞台である対馬は、晴天、曇天、雷雨、そして昼夜にかかわらず、柔らかな光源に包まれ、常時空間には日本の四季を象徴するイメージが漂っている。それは緋色舞う紅葉であったり、新緑奥ゆかしい青葉であったり。夜になれば霧の中にホタルが輝き、海辺に寄れば波が打ち寄せる。風吹けば名馬のたてがみの様にススキが揺らめく。色鮮やかな紫や藍の花々は、目でわかる動きを伴わずとも、生命力あふれた躍動感を演出するのに一役買っている。その光景はまるで印象派絵画をそのまま映像化したかのような動的な美しさを放ち、剣戟の隙間からこぼれ落ちる赤黒い雫は、生の鼓動脈打つ画面の中に絶妙な死のアクセントとして映えている。遊び手に興奮を抑える契機を喪失させる。
この背景効果を助けているのがシネマティックなカメラワークである。本作は特に引きの絵を重視して多分に使用している。こうすることで躍動感あふれる背景がプレイヤーの視界に映り込み、なんてことはない場面がグッと印象的なシーンに変貌する。本作の演者は人間ではなくCGであるため、どうしても生々しい演技を魅せるには限界がある。そういった点を補うためにも機能している。
戦闘システムには視点誘導を伴うロックオンをデフォルトで導入しないことにより、敵と主人公を水平に置き、望遠レンズのような視点から、時代劇中に行われる殺陣のカメラワークを普段のゲームプレイの中で演出することに成功している。キャラクターモーションも秀逸であり、武器を振るう姿だけでなく切られ崩れ落ちる様子まで、制作陣がおこなった綿密な取材と剣戟に対するこだわりが全面に現れている。回復に関するモーションを最小限にしているのも良い。アクション映画に治療シーンなんて無粋である。
『ゴースト・オブ・ツシマ』の物語は、悪を持って正義となす、ピカレスク・ロマンの王道を征く素晴らしいものだ。武士の存在こそが規範であり正しさとなる時代のもと、不意に訪れる、異なる価値観や手段を持つ人間との対峙。彼らとの出会いによって、力不足ゆえに大切な人を救えなかった過去や、自己の存在意義に悩み、ひとつの答えを見つけ出すというストーリーラインが、誉の象徴である武士としての戦闘アクション、そして暗器を駆使した冥人としての戦闘アクション、それぞれと関連付ける形で美しく展開していく。
この力強い幹を取り巻く枝葉となるサブクエストの多くは「対馬救済のために働く」という点で一貫している。アビリティ入手のための強化用クエストも同様だ。戦争という特殊な状況によって常識という概念が狂ってしまった世界と自身の姿、武士と平民からみたそれぞれの世界の姿を文量は短いながらも鮮明に描いており、決して主題から浮くことはなく、本筋の合間合間に遊んだとしても、自然と繋がるような中身となっている。その一方でロケーションから謎解きを行ったり、アクションを求められるにしても敵の殲滅から完全ステルス、アスレチックをこなすことまでその内容は多岐に渡る。俗に言う退屈な「お使い」に陥らない充分な内容のバリエーションが揃っている。
そんな物語の舞台となるオープンワールドは当時の対馬を忠実に再現するのではなく、日本映画の舞台として相応しい世界を描く、日本が持つ四季折々の自然美や文化を堪能してもらう、という方向性でデザインがなされている。作中の対馬は南部と北部で大きく気候が異なるほか、ときには大和絵ではなく浮世絵チックなイラストがアイテムとして登場したりと、時代すら超越した要素も垣間見える(そもそも対馬は印象派絵画の中に入ったような光景が広がる場所ではない)。仮にも時代劇の舞台としてどうなのかという意見もあるだろうが、本作はあくまで文永の役という歴史的事件を元にした伝奇ロマンであるため、たいした問題はない。
フィールドには観光を意識したであろう高さを強調するロケーションが数多く存在し、さまざまな場所から対馬の姿を鳥瞰することができる。俗に言う経験値稼ぎ用の敵拠点やサブクエストの量は多からず少なからずという具合。コレクション要素に関しては蒙古由来の品をはじめ数多く、周遊の動機づけには充分である。中でも鉢巻を手に入れることができる「歌詠み」は、完全に普段のゲームプレイから隔絶された内容ながら、本作を構成する上で欠かせない要素のひとつだ。極限の状況の中、悪鬼羅刹に堕ちる寸前で踏みとどまり続けた境井仁の心理状態を、自らの手で描写、創造し、装備品として我が物とする。要するに、境井仁というキャラクター像を(多少ながら)自らの手で作り上げることができるシステムである。
またHUDをギリギリまで画面から削ぎ落としている点にも触れておきたい。特に注目したいのは、インタラクティブスポットの案内を風やきつね、小鳥にさせるという、ゲームらしさを取り除きナラティブ面を強めるための工夫である。「この先目的地まで500m」というナビゲーションマーカーを主体とせず、対馬に生きる自然によって主人公が導かれていくという手法は、それ自体が直接の興奮や面白さをもたらすものではないが、物語と物語の間にある余白を埋めるシーンを生み出す機能としては充分だ。拠点間移動という5文字の単語が「不思議な狐に導かれるままたどり着いたその先には、その愛くるしい姿と瓜二つの像が立つ、小さな稲荷の社があった」という連続性のあるセンテンスへと早変わりする。通常、本筋には取り込まれない無味乾燥な強化作業が、物語るには欠かせない境井仁の軌跡へと変貌するのである。
つまるところ、『ゴースト・オブ・ツシマ』は本筋を進めつつ自己強化のためにサブクエストをこなし、ときにコレクション集めや世界観光を楽しむという、オープンワールドならではの散逸的な遊びが、そして遊びの間に挟まる「移動」という行動が、物語という視点から俯瞰したときに序破急の構成要素としてすべて一本の線につながっているよう錯覚できる仕組みが整っている。動的な背景や対馬の自然によるポイント誘導。一貫性を追求したメインストーリーとサブクエストの関係性。殺陣を強く意識した戦闘仕様およびキャラクターのモーション。徹底的に施された「意味のある絵」を生み出し続ける演出と、シネマティックなカメラワーク、そして歌詠みによって、プレイヤーは唯一無二の作品を自らの手で撮り下ろすことが可能となるのだ。
堅実にまとまったゲームシステム
ここまでは本作が主にナラティブ面の工夫によって、作品コンセプトを実現するに至っているという内容であった。つまり魅せ方の話である。では肝心の中身―――ゲーム部分は如何様か。『ゴースト・オブ・ツシマ』のゲームシステムは、良く言えば堅実。悪く言えば凡庸。誕生から何年にも渡り積み重ねられてきた、三人称アクションゲームの文法を忠実に踏襲している。まずメインとなる2種の戦闘アクションについてだが、オリジナリティという点に関して、システム自体にこれといった新鮮味を抱く機会は少ない。
作中では誉の象徴として紹介される武士のアクションは、4種類の敵に合わせて4種類の構えを随時切り替えながら、攻撃ボタンを押して戦うというものだが、あくまでモーションが切り替わるだけであって、入力コマンド自体やプレイヤーが採用する戦術が大きく切り替わるものではないため、プレイフィールは戦闘開始から終始一定のまま、変動をもたらすことはない。また敵の一撃が重たい中、受け流すべき攻撃と回避すべき攻撃を見極めつつカウンターを決めに行くという、本作の基本的な戦闘スタイルは、ボスクラスの敵を含め色の有るモーションが少なく、攻略のしがいがないという点を浮き彫りにしている。つまり「選択」という、プレイヤーの積み重ねと直感を発揮するための土台が組み上がっていない。システムを充分に活かしきれていないのだ。特徴的な敵といえば、それこそ宿敵たるコトゥン・ハーンくらいである。
片や「この世のものではない」と称される冥人の戦闘アクションに関しても、武士のそれと同じく、いやそれ以上に本作独自の体験というものを覚える機会はない。一撃必殺のステルスアクション、多種多様な暗器を使用した中距離戦。爆発物や、無差別攻撃を行う猛獣を利用するステージギミック。一つ一つの要素が非常に古典的であり、世のゲームにありふれたものだ。隠密を行うためのレベルの内容に関しても、別段新規性のあるものはなく、これ以上に何も言うことはない。では2つのアクションを組み合わせた場合、何か相乗効果や独特の体験が生まれるのかというと、決してそうではなく、別に噛み合っていないというわけでもないが、2つがそこにあるだけというのが現状である。
ただ戦闘自体が決して「面白くない」わけではないということには留意してほしい。本作の戦闘システムはオリジナリティこそ上手く出せていないが、古典的、すなわち過去評価された内容を引用しているため、先述した魅せ方も相まって、充分面白いことには面白いのである。武士のアクションは集団戦であれば時代劇さながらの大立ち回りを自らの手で簡単に再現することが可能である。搦手が一切使用できない真剣勝負では攻略の楽しみこそ薄いものの、敵の一撃が重いため、スリルあるせめぎ合いを体験することができる。冥人のアクションに関しては言わずもがな。『アサシン クリード』シリーズや『ヒットマン』シリーズに代表される、同系の三人称ステルスアクションゲームに一度でも触れた経験がある方であれば、充分楽しめる内容となっている。2つがただそこにあるだけという状態に関しては、見方を変えれば「一粒で二度美味しい」と捉えることもできるだろう。たがその美味しさに新鮮味はあまりともなわず、視覚や聴覚に対する演出、武士と冥人の物語というシステム外の部分へ大幅に依存しているという点は否めない事実である。
ロープアクションを取り入れたアスレチックもまたありふれたシステムではあるが、戦闘アクションと対比する形であれば、カンフル剤を提供するという点においては機能している。中身に関してもただ飛んで崖を跳ね回るだけではなく、適度に道が分かりづらく作られており、ある種迷路を踏破するような楽しさを含んでいる。このほか、細かなファストトラベル機能や強化できる武具が存在する場合に表示される通知など、利便性の向上に関する機能が一通り揃っていることは評価したい。フォトモードも優秀で、欲しい機能が一通り揃っている。
総じて、本作の主だったゲーム部分は、あくまで作品コンセプトの根幹を担うナラティブを補強するために存在するという印象を受ける。アクションシステムそれ自体は他作品の二番煎じではあるが、境井仁の物語を表現するという役割を引き受けたことで、本作には必要不可欠な存在へと相成っている。ただシステム自体もオリジナリティを持った、さらに良い中身にする余地があったことは確かであり、それが実現しなかったことは甚だ残念である。
新時代の時代劇
筆者の個人的な感覚ではあるが、昨今の類似作品を鑑みるに、オープンワールドという形式を用いて表現できる意図の幅というものは、限界に来ているのだと思いこんでいた。お使いをして、コレクションして、散策ついでに拠点を潰す。無理矢理にパッケージングされた、ベクトルが異なる遊びをこなす中で、作品が持つテーマやプレイ開始時の動機を見失うこともあった。そもそもとして題材を物語るという一方通行な行為と自由なプレイは相反する概念であり、ストーリー主導のゲームにはオープンワールドを用いないほうが良いとさえ考えていた。世界は人間にとってあまりにも多様性に満ち、広すぎたのだと。だが本作の登場は私の認識が浅はかであったことを証明した。システム面が常識の範囲内に収まったことが無念ではあるものの、『ゴースト・オブ・ツシマ』は高品質な日本舞台のオープンワールドを作り上げたことそれ以上に、さまざまな体験を一人の人生としてまとめ上げ、まだ見ぬ表現の地平を切り拓くことに成功した、新時代の時代劇であった。