現在さまざまな場所で話題を呼んでいる『崩壊:スターレイル』。職業柄、そして一人のゲーマーとして、筆者もまた本作を遊び続けているプレイヤーの一人だ。だが正直に言うと、リリース初期のゲームプレイを通じて得られる体験に関して、ピンときていなかった。というのも、作品の構成要素が点でバラバラのように感じられていたからだ。

体験の柱となるストーリーと、それをとりまく世界観。タクティカルなJRPG風の戦闘システム。最近流行りのローグライク型コンテンツや、キャラクターとの通話コンテンツ。どれもこれもがシナジーを形成していないように思え、作品を理解することができなかったのだ。しかしピノコニー編を通じて、本作が伝えたいことが理解できるようになってきた気がするので、この稿をもってその理解の過程を綴る。なお、本作にはピノコニー編(バージョン2.2)までのストーリーのネタバレを軽微に含んでいる。

たとえばメインストーリーに関して、本作は「さまざまなあり方を持った神たちが、互いに影響を及ぼしあっている」という乱世な世界観を展開しているが、この神々の戯れ自体が物語の主軸になっているわけではない。「宇宙を壊滅させたい神」の所業を止めようという最終目標のようなお題目が掲げられているものの、神関連はせいぜいオチの添え物と言ったところで、作中で展開されるのは人間ドラマである。

かたやサブクエストは世界観の掘り下げを担当しているものの、主題となるのはやはり「その星に生きている人間たち」だ。本作は広げた風呂敷の大きさに対し、物語のスケールがコンパクトではないかと思う。宇宙を股にかける銀河鉄道の旅をテーマにしているにもかかわらず、旅の景色として映るのはいつだって大地の上の”ちょっとした”出来事である。

リリース後より実装されてきたヤリーロⅥ編、および羅浮編の内容が、いわゆるゲームプレイのチュートリアルであったり、主要キャラクターや世界観の顔見せという印象が強かったのも、この感覚に影響している。戦闘を中心に置いたゲームシステムに関しても、トレンドのパッチワークである以上の感想を抱くことはなかった。ゲームの高速化を前提とした映像演出や、キャラクターのシナジーを活かした戦略性が優れていることは分かるのだが、それだけだった。


新章の旅路を通じて得られるものがなければ、継続プレイを止めようかーー拭えぬ疑念と共に、なかば惰性に近い感覚で、私はピノコニー編を開始した。結論から言えば、ピノコニー編の経験を通じ、今後も本作をプレイしようと決心した。『崩壊:スターレイル』がプレイヤーに伝えていきたいことを理解できたような気がしたからだ。”宇宙を股にかける銀河鉄道の旅をテーマにしているにもかかわらず、旅の景色として映るのは大地の上の”ちょっとした”出来事である”。筆者が作品内容に対しピンとこない部分としてあげたこのポイントこそが、本作の醍醐味なのだと私は感じたのだ。

宇宙と命の物語


ピノコニー編の内容は簡単に言うと「夢の中で行われるサスペンス劇場」である。「生命体はなぜ眠るのか」をテーマに、生と死、そして開拓の物語が語られる。このピノコニー編において特筆すべきは、本作における「運命」という概念が非常にクローズアップされた内容に仕上がっていたことだろう。先述したように、『崩壊:スターレイル』の世界は神々が戯れる乱世である。そして神々の在り方は「運命」という形で生命体に押し付けられている。ほとんどの人間が何らかの神様を信仰している世界、と言い換えたほうがいいだろう。

たとえば作中では、不死化などを通じ、とかく生命を繁栄させる神様と、それを阻止するべく宇宙を巡って狩猟を続けている神様が対立している。各々の信仰派閥もまた敵対関係にある。と壁を作って宇宙を護る神様を信仰する人間たちは、企業という形で利益を獲得し、それを壁用の建材として捧げ続けている。本作の世界は神によって、個人の生き方が大なり小なり縛られてしまう世界なのである。

それを憂いた黒幕は、夢の中に神=運命の干渉を受けない天国を築こうと試みた。生命は生まれながらにして運命に虐げられる弱者であり、ならば眠り=死の先に待つ楽園にて救済されるべきだと。この天国の姿……ピノコニー編のホームタウンとなる黄金の夢の外観が、アメリカ文化の入り交じるレトロな雰囲気を醸し出しているのは、中国のノスタルジーブームになぞらえる形で、現実における現地の激しい競争社会を風刺したものなのだろう(似たモチーフを採用して風刺を行った作品としてはアドベンチャーゲーム『完ぺきな一日』がある)。


これに対峙するのは、運命の先を開拓せんとする者たちだ。時計屋と志を同じくする主人公一行。虚無の向こう側を目指す、黄泉。魂を燃やして飛ぶ、ホタル。命をベットし続ける、アベンチュリン。地獄を自らの手で切り拓かんとする彼らの姿勢からは、宇宙の支配者は神ではなく原子であるという気概が伝わってくる。人間の幸福になろうとする意思によって夢から目覚めさせるという、事件解決へのアプローチも気に入った。人間は窮地に陥った時、楽園すら手放し、勝手に幸せになるのだ。

どれだけ宇宙が雄大でも、そこに生きているのはちっぽけな生命体である。旅をすること、ひいては生きるということ。それは生命体の特権なのだ。振り返れば、ヤリーロⅥ編も、羅浮編も、同様のことを語っていたのを思い出す。社会が上層と下層に分かたれてなお生にしがみつく人々。種の違いに翻弄されつつも、それは断絶ではないと信じ続ける人々。『崩壊:スターレイル』は宇宙の法則に振り回されながらも懸命に生きるちっぽけな生命たちの物語である。

ピノコニー編にて謳われる讃歌は、少なくとも私の心に強く響いた。先述した中国の現状もあるだろうが、日本においても、親ガチャという言葉の流行や、反出生主義など、未来に絶望し、生きることに憂いを覚える風潮は蔓延している。自らの手でレールを敷いて、旅を続けていく彼らの姿勢は、人生を開拓することに怯える人たちの背中をほんの少しでも押してくれることだろう。個人的には「銀河鉄道999」を読み返したくなったものだ。


「開拓する」というテーマは、遊びの中核である戦闘システムにも表現されていると言えよう。ロール=運命によって役割が固定化されたキャラクターたちを束ね、個人では実現できないさまざまな勝利の形を開拓していく。ローグライトなシステムを取り入れたエンドコンテンツ「模擬宇宙」は、このテーマをより強調した内容になっているし、キャラクターとチャット可能な今どきらしい要素も、宇宙と運命という巨大な背景があることで、物語上の意味が生まれている。筆者としては本作の構造に関してようやく腑に落ちた印象である。

ただ気になるのは、本作の直接的な関連作である『崩壊3rd』との繋がりだ。ゲームプレイ当初、筆者としてはこの関連性を単なるファンサービスの1つであると認識していたが、ピノコニー編を経たあとで、この認識が変わりつつある。というのも、劇中における山場の演出として、『崩壊3rd』のセルフオマージュを用いるだけでなく、関連性そのものが作中の重要な情報として開示されたからだ。もしかすると『崩壊3rd』の掘り下げを変則的な形で、本作が担当することになるのかもしれない。ピノコニー編の内容もまた、シンプルに数あるファンサービスの一環であると捉えることもできるが、『崩壊3rd』を直接の出典とするキャラクターがいるため、素直に判断できないというのが正直なところだ。


筆者に対して、作品の意義を明確に伝えてくれたピノコニー編。新たな年度のスタートを飾るにふさわしい物語だったと言えるだろう。今後、『崩壊:スターレイル』が長い年月を駆け抜けていくにあたって、作品のギアが1段階上がったような感覚を覚えた。次の星にはどんな生命が息づいていて、どんな形で生き抜いているのか。今後のアップデートが楽しみである。