『あつまれ どうぶつの森』は生活シミュレーションではなく現実そのものだった。発売から半年を経て見えてきた真の姿

『あつまれ どうぶつの森』は、生活シミュレーションではなく現実そのものであった。ヴァーチャルに再現された生活ではない、現実そのもの。

読書の秋、食欲の秋、運動の秋、『あつまれ どうぶつの森』(以下、あつ森)の秋。皆様いかがお過ごしだろうか。時の流れは早いもので、私が『あつ森』のコラムを本誌に掲載してから既に5か月が経過した(当該記事)。前稿において私は本作に対し、シリーズのテーマである「スローライフ」を、デイリーで発生するイベントとクラフト要素、そして現実の時間とリンクさせたアンロックのシステムによって見事実現しているという感想を述べた。生活とは機械的なルーティンでありながら、同時に創造的なインタラクションに満ちている。長きにわたりシリーズが辿った変遷の果てに、ようやくそれはゲームの中に実現したのだと。だが更に4か月間ゲームをプレイし続ける中で、また異なる感覚を抱くに至った。本稿は「現実を拡張する道具」として真の姿を見せる『あつ森』とその現状に関するインプレッションを語るものである。『あつ森』はヴァーチャルに再現された生活ではない。現実そのものだったのだ。

『あつまれ どうぶつの森』は現実を拡張する道具だった


最初のコラムを書いてから1か月が経ったころ、5月。私は『あつ森』に対し、ある種の違和感を抱き始めていた。作品の完成度という観点から眺めてみると、全体的に何かが欠落しているように見て取れたのだ。それは、本作の世界がゲームであることに由来する住民の反応バリエーションの限界だったり、クラフティングのレシピや商店で売られる家具がダブってしまうことの容認と放置であったり。効率的な生産を阻害する方針もそうだ。プレイヤーが持つ創造性に対して首輪をかけることは、確かに年間を通じあくまで「スローライフを過ごす」ことを想定する本作の消費速度を抑えるため効果的に機能しているが、プレイ時間を重ねるほどに、現状に対する理解よりも不満の感情のウェイトが高くなっていくことを感じた。不便なものはどうやっても不便なのである。なぜダブったモノを新規のモノに交換できるようなシステムを設けなかったのだろうか。採集道具を一律でまとめて制作することができればどんなに捗ることだろう。

また、プレイヤーや住民がとれるアクションの少なさに関しても違和感を覚えた。直近のタイトルであるスマートフォン用ゲーム『どうぶつの森 ポケットキャンプ』(以下、ポケ森)と比較すると明らかに乏しいのである。たとえば『ポケ森』には風呂に相当する家具が存在し、設置すると住民は心地よさそうに湯に浸かる。『あつ森』にも同様に風呂は存在するが、用意したところで住民は浸かろうとはしない。このほかにも『ポケ森』で採用されているが『あつ森』では採用されていないアクションは多い。このことは主に『ポケ森』の独自性を出せていることと同時に、家具をはじめとする本作のオブジェクトが、プレイヤー個人の解釈を重視するデザインを施されていることに起因するのだろう。確かに想像力でもって欠落を埋めることは可能ではある。だが個人の解釈力はまばらで限界があるし、一度行った解釈が定期的に更新されるというわけでもない。


何かが違う。何かが足りない。これがシリーズ最新作の在り方なのか?そう考えていたちょうどその矢先、私の友人たちが本作を目当てにNintendo Switchを購入。時々マルチプレイをして遊ぶことになった。するとどうだ。上に書いた欠落が綺麗に埋まっていくではないか。物々交換を通じてアイテムの問題が解決されるのはもちろんのこと、機械的ではないリアルなコミュニケーションを通じ、複数人の異なる世界解釈がモニターの中で一つに重なっていく。他者の存在で補強された空想は確かな厚みを持ち、(理想化されてはいるが)目の前にある現実を拡張する。住人の定型句には新たな意味が付与され、見慣れた日常は一変した。新たな日常が提示されたのだ。

私は友人たちとのプレイングを通じて観光を行い、そのつど島内や自宅の内装にそれぞれの意見を出し合った。ただベッドに寝転がったり、フィールドを駆け回るといったアクションそれ自体に、さまざまな遊びが付与されることになった。夏になれば海開きを楽しみ、花火を見た。これらの経験は「現実に集まって」談笑したときのそれと極めて近しいものだったのだ。またあるときは、島の自宅で美術展を開いているというプレイヤーの元へ赴き、作品を画面越しに眺めるのではなく、「鑑賞する」ことができた。カブやマイル旅行券の売買を通じた架空のマーケットを体験したこともある。


ここまで読んで、「それは単なるロールプレイではないか」「実在の人間とコミュニケーションを取っているのだから現実に近しい感覚を抱くのは当たり前だ」と考える人がいるかも知れない。プレイングを通したプレイヤー間のゲーム内コミュニケーションは、特に『ファイナルファンタジー14』や『ファンタシースターオンライン2』といった、仮想世界を舞台とするMMORPGにおいて一般的な事柄である。だが『あつ森』にて行われるコミュニケーションは、「生々しさ」「リアリティ」という点で他作品から頭一つ抜けているのだ。

これが何故かと言えば、前の記事で述べた「生活」を再現するシステムデザインを下地に、個人では感じ取れる面白さに限界があると評した、「解釈を重視したアートデザイン」がうまく融合しているからだと考えられる。制作陣が実際に世界へ施した技法に関しては、CEDEC 2020にて発表された資料で詳しく見て取れる(ファミ通.com)。対象を表現する際に写実と抽象の塩梅を調整することにより、あえてモチーフが持つ意味合いに余白を設けている。これを個々人の解釈が埋めるわけだ。

たとえば4人でマルチプレイを行った場合、ひとつの事柄に対し4通りの解釈が生まれるようにデザインされている。そしてこのゲームを遊んでいる以上、解釈の中身は「リアルな生活の疑似体験」という本作の理念を基盤にすることになるため、必然的に我々の現実に即した内容となる。異なる解釈同士が物事を補完しあい、世界をよりリアルで強固なものにしていく。解釈が構築する世界は決して実体験の構成要素における「本質」を提供することはないが、本質を取り巻く外郭をプレイヤーに与える。本質はまた解釈によって埋め合わせされていく。


たとえばカフェで食事をするという行為の本質は食事ではあるが、『あつ森』で食事はできない。だが店員が出迎えするカフェに入店し、食器が並べられた座席につくという目に見えて分かる外郭の部分は提供してくれる(この外郭部分もまた解釈で補強されたものだ)。食事の部分は一緒に遊んでいるプレイヤーとのコミュニケーションの中で育まれた、独自の解釈によって埋められていくことだろう。

おにごっこ、かくれんぼ、アスレチック、虫取り/魚釣り大会、ホームパーティ、友人とのバカンス……どれもこれもが昔経験したことから、いつかはやってみたいものまで、現実的な空想によって構築された世界は、我々の「日常の延長線上にある遊び」を創造する。メガネや車。道具とはおしなべて身体機能を拡張するために存在するが、『あつ森』は正に「わたしがいる現実」そのものを拡張するための遊び道具と言っていいだろう。花火が打ち上がる映像を友人と観て、「去年実物を観た時と同じように」夏を感じる。遊びを通じた現実の拡張。本作が目指した到達点はここにあったのだ。

現実を広げるための道具としての限界


この仕様を理解してか、企業はこぞって『あつ森』の世界に自身のプロダクトに関する広告を出展しはじめた。コロナウイルスの影響によって訪問客が減少した美術館を皮切りに、ファッション業界の有名ブランドや日本相撲協会をはじめとするスポーツ業界、食品業界など、多種多様な企業が『あつ森』を利用し、マイデザインなどを駆使して自社アピールを行ったのである。また、島を職員採用活動の場として使用したり、番組を制作するためのセットとして用いるグループも現れた。中には政治活動のフィールドとして活用した事例もある。アメリカの民主党に所属するジョー・バイデン候補が大統領選に『あつ森』を活用したことは記憶に新しい。

アイテムには先述したように、身体機能を拡張する働きのほかにも、所有者に属性を付与し、持たざる者との間に境界を生み出す作用がある。制服は所属を表し、宝石やブランド品の類は持つ者の身分を暗に証明する。さらに言うと、「フィクションに登場するアイテム」は存在世界がフィクションであり、所有者がフィクションの世界に登場する人物であることを示してくれる。特撮ヒーローがいい例だろう。今を生きる役者がどれだけ現実のセットの上で演劇を繰り広げても物語が持つフィクション性が損なわれないのは、変身ベルトや架空の武器といった、「現実には存在しない」という属性を持ったアイテム群が登場し、登場人物がそれらを携帯し続けるからである。逆に「現実に登場する」という属性を持ったアイテム、すなわち私達の生活を構成する上で欠かせない企業のプロダクトを登場させるとどうなるか。当然リアリティが増す。

だがフィクションに現実の属性を付与する性質を持つ、もしくは感じ取れるアイテムを持ち込んでしまうと基本的に浮いてしまう。これはアイテムから放たれるリアリティ=過去の経験や知識と照らし合わせた際に発生する共感と、対象が登場する世界に暗黙の了解としてある「これは現実とは別世界である」という認識との齟齬によるものだが(だから「設定」というものは作り込む必要がある)、『あつ森』はそうならなかった。逆にそれらを取り込んで、表現を構成するための血と肉に変えた。

実際の生活を支える営利活動が違和感なくゲーム内のコミュニティイベントとして溶け込んだことは、そして活動が機能すると判断されたことは、『あつ森』が数多くの人間にプレイされていることそれ以上に、本作が持つ「解釈によって現実を拡張する力」の大きさを物語っている。『あつ森』はすでに現実の一部なのである。

だが現時点における「あくまでゲームであるがゆえの限界」というものも垣間見える。まず一番大きな課題として挙げられるのは「拡張された現実を体感するにはマルチプレイが可能となる環境が必須」ということ。すなわち、本作を遊び続けてくれる現実の友達の存在が不可欠であるということだ。このゲームは、解釈を通じたマルチプレイを楽しさの頂点としているのだから当然と言えば当然なのだが、問題の根本はその前段階にある。記事冒頭で記述したとおり、ソロプレイでは不便さが目立ち、本作の真価を味わうことが出来ない。むしろあえて不便であることを提示することでマルチプレイへ誘導したいという意図さえ読みとれる。

だがゲームを遊ぶ時間を考えると、本作はMMOではないため、割合としてはソロの方が圧倒的に多いのだ。ではソロプレイならではの体験を提供できているのかというと、島や自宅の模様替えという事柄以外ほとんどない。そして模様替えにも個々人の定めるゴールが存在する。いくら今日より明日が良くなるよう設計されていると言えど、ゲームはゲーム。上限が設定されている。ゆえに12か月間遊び続けられるゲームとして考えた場合、「飽き」を回避する工夫に乏しいと言える。仮に友達がゲームに飽き、継続的なプレイを終了してしまった場合、拡張された現実は連鎖的に消失してしまうことだろう。


もうひとつの大きな課題は、ハッキリしない任天堂のポリシーにある。任天堂は日本国内におけるニンテンドーアカウントサービス利用者に対し、自社のコンテンツを通じた宣伝、広告または勧誘(ただし、許可を得たものを除く)を禁止している。だが、先述したように企業による『あつ森』を通じたクリエイティブな広告活動は平然と行われている。中には表に出さずとも許諾を得た個人や企業があるかも知れないが、任天堂は大々的に動くことなく、黙認状態を貫いている。グレーゾーンの中にある“闇市状態”だといっていいだろう。なぜ黙認がなされているのか。やはりファンコミュニティの醸成に役立つということが考えられる。

筆者個人の意見としては、いつ後ろから刺されるのかというリスクを背後に忍ばせ、活動に制限をかける方針よりかは、許諾専用の窓口を設けるなど、任天堂の側から積極的にアプローチを仕掛けることで、よりゲームを通じた現実の幅を広げる方が良いと考えている。たとえば『フォートナイト』は、Epic Games側から積極的に企業へ向けアプローチを仕掛けることによって、優れたメタバースを構築することに成功している。他社IPとのコラボアイテムの導入や、アーティストによるゲーム内ライブイベントなど、オリジナリティの高い広告活動を積極的に展開することによって、シューティングや創作を楽しむだけではなく「とりあえず『フォートナイト』に集合」という、現実におけるパブリックスペースのような性質を獲得、強固なものにしている。だが現状『あつ森』における企業活動はマイデザインと模様替えの枠を飛び越えることができず、潜在的なリスクがあるため発展性に乏しい。より現実に近しい世界を創造した『あつ森』ならば、より興味深い物事が出来上がると私は思うのだが、非常にもったいない。

過去『とびだせ どうぶつの森』にて行われた、セブンイレブンとのコラボレーション家具のような、ゲーム内のシステムを超えた、企業によってリアリティを導入する取り組みが今後積極的に行われていくことを期待している。

現実と空想の狭間で


最後に、このゲームを語るには切っても切れない間柄にある、コロナウイルスによるパンデミックと現実を拡張する道具である本作に関して雑感を述べ、本稿を閉じようと思う。これまで述べてきたとおり、『あつ森』は解釈でもって中身を現実の拡張であるとプレイヤーに認知させることを、最終的な目標として作られたゲームである。筆者はそう考えている。そして面白いことに、パンデミックに覆われた現在を、私達は「非日常」「非現実的」だと捉えている。

この構造から浮かび上がるのは、現実と空想の明確な境界などないということ。わざわざ脳を電極につなごうとせずとも、人は最初から空想=解釈と共感の中に生きているのではないかという議論である。カントやショーペンハウアー、そしてニーチェなど、さまざまな哲学者によって語り尽くされたこの命題が意味するところは、真理や自然科学の否定などではない。ゲームソフトという表現にまつわる可能性だ。『あつ森』のように現実をゲーム化した作品が成立するのであれば、ゲームソフトを現実に導入する作品もリアリティの高いものとして成立し受け入れられるのではないだろうか。

既にゲーミフィケーションや位置情報ゲーム、専門家がゲーム内描写に現実的な言及をする動画、ARといった形でそれは実現しつつあるが、やはり依然としてゲームの世界と現実は別のものという認識が強く、フィクションという境界で区切られたままだ。これによって「ゲーム脳」をはじめとする無意味な偏見なども生まれてしまっている。より技術開発が進むであろう将来は、ゲームソフトがもたらす概念が趣味の枠を越え、生活の一部として浸透していくことを願うばかりである。逆に次の『どうぶつの森』はあいさつ回りとは無縁なテレワークがゲームプレイの主体となったりするのだろうか。それはそれでなんだか非現実的なイメージに思えて仕方がない。

Takayuki Sawahata
Takayuki Sawahata

娯楽としてだけではなく文化としてのゲームを知り、広めていきたい。ジャンル問わず死にゲー、マゾゲー大好き。

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