ゲームクリエイター「飯野 賢治」が残したもの 友人ジェームズ・ミルキーが語る奇才の人生
See also: Kenji Eno: Remembering a Friend | Interview with James Mielke京都で開催されたインディーゲームイベント「BitSummit 2013」に参加したことがあるだろうか。このイベントには、”インディーゲームのソウル”を持つとの理由で、ある人物が参加する予定だったが、残念なが らステージ上に登壇することはなかった。彼の名前は「飯野 賢治」。『Dの食卓』や『エネミー・ゼロ』など、特に1990年代に多数の名作、怪作を生みだしたゲームクリエイターだ。このイベントが開催される3週間 ほど前、飯野氏は高血圧性心不全により、この世を去ってしまった。
「BitSummit 2013」の主催者であるジェームズ・ミルキー氏は、飯野氏と親しい友人の1人だった。彼の死から2年が経ったいま、グローバル版AUTOMATONのライターAki Darwichが、あらためてミルキー氏とともに飯野氏を思い起こしている。
飯野 賢治、有名TVゲームデザイナーであり類まれなき知識人、心臓発作により、2013年2月20日に死去。
この時、彼は42歳だった。
1970年5月5日、東京都荒川区に生を受ける。飯野は若くしてTVゲームと音楽の世界に強い関心を抱いていた。高い知力を有し天賦の才を持った子ども時代を過ごした飯野は、義務教育を終えたあと、小企業の日系ゲームデベロッパー「Interlink」に入社した。自身のプロジェクトをよりクリエイティブにコントロールできることを求め、彼はすぐにInterlinkを退社し、「EIM Ltd.(Entertainment Imagination and Magnificence)」 を起業した。1994年、多様な業界で様々な仕事をするかたわら、彼はもう1つの会社を起業した。「WARP」として知られるこの会社には、才気ある新人社員が集まっていた。『ワンダと巨像』や『Ico』の上田文人氏、 『ファイナルファンタジーVII』や『アドベントチルドレン』の野末武志氏など、のちに日本のアーティスト・デザイナーの次世代を率いた彼らもその中にいた。ゲーム業界での波乱万丈の経験を経て、次に彼はTVゲームから携帯電話まで多岐に渡るデバイスを対象としたあらゆる冒険的事業、プロジェクト等に従事した。
1995年発売の『D』や、その続編である2000年の『D2』、1996年の『エネミー・ゼロ』といったサバイバルホラーゲームから、コカ・コーラとの共同事業や彼自身の創作音楽まで。飯野は日本において幅広く認知されただけでなく、彼の型破りなアイディアを崇拝する熱狂的な信者まで生みだした。また、彼は出来るかぎりのことを一生懸命に、自分の人生を生き抜いた。彼は自分の時間を大事にし、そして思い描いたことをすべて実現してきた。そうして創作したあらゆる作品を愛した。彼はおそらく、多くのデザイナーと比較してリスクの大きい選択をしたと思う。そして、その選択が彼の人生や仕事を、安定よりむしろ波乱万丈のものにしたのだろうが、彼はチャンスを手にした人間の一人として知られてい る。
彼の死から二周忌がたった時、我々は ジェームス・ミルキーと対談した。飯野賢治の元同僚であり、親しい友人でもあった彼は、飯野の人生、遺産、そして生前最後に手がけたプロジェクトを知る人物の一人でもある。『KAKEXUN』は、宇宙、愛、そしてその狭間に紡がれる、ありとあらゆるものをテーマにしたゲームである。ミルキーは、自身が個人的に所有する写真の中から、飯野と一緒に写った写真をいくつか我々に見せてくれた。
――では、まず始めに自己紹介をしていただけますか。
ジェームズ・ミルキー:
みんな私のことを「ミルキー(Milky)」と呼びますが、正確に言えば私の名前は「ミールケ(Mielke)」です。ジェームス・ミルキー、私はかつて、Ziff Davis Mediaという出版業者の前線で、GMRやEGM 、1UP.comといった雑誌の編集に携わっていました。長年のキャリアであらゆる経験を積んだ後、私はなんと無謀にもゲーム開発の世界に飛び 込み、Q Entertainment、Q-Gamesにて働きました。Q-Gamesに居た時代には、日本のインディーゲームフェスティバルとされる「BitSummit」を発案しました。しかし、最近になって私は家族と近い場所に居られるようにと、ニューヨークに戻ってきました。
――飯野賢治氏との出会いのきっかけは何だったのでしょうか?
ミルキー:
私が初めて賢治と出会ったのは、アトランタで開催されたE3のショーフロアでした。たしか1998年のことだったと思います。彼が「WARP」の開発チームにいたころ、私はというと、彼が世に出したゲームの大ファンでした。なので、腰まで長く伸ばした黒髪をゆるませて、ショーフロアを歩むこの大きな男性を見た時は、すぐに彼だとわかりました。私はすぐさま彼に近づき、自己紹介をしたのです。彼はなんとも温かい心の持ち主だという印象でした。次に彼に会ったのは、私がGamespotでエディターをしていた時で、ドリームキャストで発売された彼の作品『D2』についてインタビューをした時のことです。私があまりにも彼の経歴を知っていたものだから、すごく驚かれていました。しかし、『D2』が実際に販売されるようになると、彼はゲーム業界からそっと姿を消し、5年か6年の年月が経ちました。
それから、2006年のE3まで彼に出会うことはありませんでした。私が、フィゲロアホテルでのZiff DavisのパーティでDJをしていたときのことです。彼の髪はなんと短く刈られ、驚くほど痩せられたようでした。なので、シェイン・ベッテンハウゼン氏 (当時はEGMに在職、現職はSony)が私に、パーティのどこかに飯野さんがいると言ってきてようやく、最後の30分ほど私の操作するDJブースの目の前のテーブルについている方が賢治だったとわかったのです。
――お話のなかで、数回、彼のことをお褒めになられましたね。それは彼の作品によるものでしょうか、それとも個人的な付き合いからくるものでしょうか?
ミルキー:
始めはもちろん、彼の作品でした。正直に言えば、彼の作品は必ずしも最高のゲームだったわけではありませんが、独特の視点でとらえた小さなアトリエの作品だということは断言できます。その個性が技術的に足りない部分を補っていたのだと私は思います。私はそういう面で彼の作品を尊敬していました。彼のことを知って、おたがいに分かったのです。私たちは様々な面で共通点があるのだと。それから、気の合う関係が出来上がったのです。個人的に彼のことを知るようになってから、私の敬愛は更に強くなりました。ついには、今まで構築してきた人間関係の中で兄弟に近いほどの強い結びつきを彼ともつことができました。私たちは年齢で言ってもたった数か月しか離れておらず、音楽やポップカルチャー等でも同じジャンルに夢中になる傾向があったので、彼はよく私に自分の気に入ったものを教えてくれていました。
ただ、私が強く心を打たれたのは、なんといっても彼が非常にオープンな性格だったことです。周りと自分のことを共有しようという性格や、一対一で時間を一緒に過ごすのが好きな所など、本当に特別だと思います。FYTOスタジオにいる彼をよくおとずれ、何時間も音楽について話しあったものです。時にはレストランに、時にはクラブに一緒に出かけたりもしました。時々、私が来ると、彼は私にチェックさせたいDVDを何枚も積み重ねて渡してきました。私が楽しむだろうと考えてのことだったと思います。彼は、本当に素晴らしい友人でした。
彼が若くしてこの世を去り、私の心には、ぽっかりと大きな穴が開いたように思います。私が彼の訃報を知ったのは、共通の友人がTwitterに投稿した内容を読んでです。今日では何でも知りたいことは、このメディアに頼るのが早い方法ですね。彼の葬式に参列するため東京をおとずれた時、彼の墓参りで多くの方々が参上したことに驚きました。飯野は、人生の中で本当に多くの人々に触れあったのだと思います。夜、寒さの中、そこに立って何百という人が彼の墓参りをしている様子を見て、なんとも経験したことのない、しめやかさを感じたものです。私はいまだに彼の笑い声が聞こえてくる気がします。
――彼が生前最後に手がけたゲーム、『KAKEXUN』についてお話していただけますか?
ミルキー:
言葉にするのは非常に難しいです。飯野のゲームは、いつもアバンギャルドなところがありました。誰がビジュアル無しで音声のみをつかってゲームを製作しようとするでしょうか。彼だからできたことです。『リアルサウンド』はおかしなアイディアに見えたかもしれませんが、『エネミー・ゼロ』に続くゲームで、音に頼ることでそれが生き延びるチャンスに繋がるのです。これは本当にコンセプトの自然な進化といえるものでしょう。
このこともあって、『KAKEXUN』が数学や別世界、宇宙の歴史を紐解く宇宙論を扱ったゲームであるということは、なんら驚きを覚えることではありませんでした。非常に難しい話のようですが、ゲームはオリジナル性がなければ価値がないのです。
――KAKEXUN についてはどうして知ることになったのですか、また、プロジェクトに関わることになったきっかけは何でしょうか。
ミルキー:
飯野が亡くなってすぐ、彼の前職であるWARPやFYTOの同僚たちが、彼が手がけていたこの最後のゲーム製作を飯野への手向けとして世に送り出そうと声をかけてきたのです。実際、2度目のBitSummitで私も江口勝敏氏と情報交換をし、ほんの少しでも構わないからその全体プロセスの一端を担いたいと彼に話をしたのです。そのおかげで、私も友人の最後のプロジェクトを形にする手伝いをすることができました。彼は私を仲間にむかえ入れることに同意してくれました。もちろん、私も自分の貢献できるところでは積極的に助言をし、クラウドファンディング活動にも参画しました。
――飯野氏が残念なことに亡くなられ、 『KAKEXUN』が遺されたのですね。誰がそれを抱き起し、日の目を見られるようにしたのでしょうか。
ミルキー:
江口勝敏です。FYTOに在職する彼は、飯野のビジネスパートナーでした。ほかにも、WARPの初期メンバーの一員である佐藤直哉氏や、飯田和敏といったゲームデザイナー(『巨人のドシン』のデザイナー、他にも多数製作)が、このゲーム開発を始めるにあたって大きな第一歩を踏み出すと決意したメンバーたちです。
――『KAKEXUN』の主要チームメンバーには、プロデューサーである飯田和敏を筆頭に才能にあふれた人材が集まりました。どのようにしてチームは出来あがったのでしょうか?
ミルキー:
このチーム結成にいたった経緯というのは詳しくは知りませんが、飯田さんは飯野が褒め称えていた物で、私が知るところでは、彼がチームに引き抜かれたのは組織的な動きがあったように思います。
――『KAKEXUN』は、一般向けベータ版をリリー スするため、Indiegogoのキャンペーンを利用して資金集めしたと把握しています。目標達成のために、悪戦苦闘したようですね。キャンペーンが、もともと予定していた10万ドルを集めきれなかったわけですが、これからどうなるのでしょうか。
ミルキー:
今は締切もとうに過ぎており、残念なことに資金集めの努力は目標達成に近づくことなく終わりましたが、挑戦する意義があったと思います。飯野さんの主要作品が世に出てから、すでに長い時間が経っていましたから、彼は西でも長いこと世間の注目を集めていました。コンセプトを言い表すのが難しいゲームと結び付けられたということは、つまりゲームの資金を公的に集めるということも、同様に険しい丘を登るように難しいということです。ですが、ゲームの開発は続きます。ただ、チームに必要な予算があった場合と違って、ゆっくりと進む、ただそれだけのことです。大丈夫です。誰も金儲けしようとはしていません。非常に限られた人員でする奉仕活動といってもいいでしょう。
――今後どこかの時点で、『KAKEXUN』の宇宙の拡張パックやアップグレードを見られる可能性はありますか?
ミルキー:
その可能性はあると思いますが、なにか新しいコンテンツが着想される前に、まずチームは現行のゲームを完成させる必要があります。とは言え、これは支援の上で成り立つタイプのゲームなのです。
――ひょっとしたら、飯野氏は、現代版なルネサンス的教養人と言えるのかもしれません。彼は音楽や映像、TVゲームなど、思い浮かぶありとあらゆるものを創作してきました。その中で、あなたが個人的に一番気に入っている作品を教えていただけますか?彼の作品のなかで何が一番好きですか?
ミルキー:
彼の才能の中で私が一番評価しているのは、音楽的才能の部分だと思います。私が彼のオフィスをおとずれると、時々彼は所有するシンセサイザーのそばに座り、着手していたゲームの素晴らしい音楽を弾いてみせました。才能ある人たちのそばにいると、なんともアイディアを掻き立てられるようです。別に彼は特別に練習を受けたというわけではありませんでした。彼は独学タイプの人間で、とにかく才能があったということです。音楽が、彼の成してきたことすべてを物語っていました。彼が着手したiOS系のプロジェクトでさえ、豪華なサウンドトラックを備えていました。彼は「イエロー・マジック・オーケストラ」とそのスピンオフである「ヒュー マン・オーディオ・スポンジ」等にかなりの影響を受けていました。
彼に対する称賛はそれだけではありません。彼は色々なことによく気がつきます。そして、したいことを独創的に実現するその能力が、称賛に値するのです。 日本のお菓子会社のバイラルメディアキャンペーンの取組み、TSUTAYA向けタッチスクリーンインターフェースの製作、はたまた日本の自販機向け電子決済システムの開発であっても、彼はみずから引き受け、完遂しました。彼のそのたぐいまれなる才能が、私を居心地のよい空間から脱して、新しい物事に挑戦する気にさせたのです。
――いま、たくさんの奇抜なアイディアを挙げられましたね。一番はTSUTAYAのタッチスクリーンインターフェースでしょうけど、まさか本当に世に出たんですか?あなたが聞きおよんだなかで一番ユニークなプロジェクトだったんでしょうか。彼が参加していたのを目の当たりにさえしていたということでしょうか。ですが、それがユニークであると考えるのはどうしてですか?
ミルキー:
ええ、本当にあったことだと思います。というのも、TSUTAYAには今ストア・ナビゲーション・システムが実在していますし、彼がFYTOにいたころ着手していた様々なプロジェクトの一つだったからです。また、彼は自身の技術部門における権威を持っていたこともあって、Twitterが日本のメインストリームに参入する手助けもしました。彼が取り掛かっていたおさるのマスコットキャラクターで有名な日本のお菓子会社Pinky のウェブキャンペーンを見せてもらった日のことを思い起こします。そのとき、彼は自分のしたいことは何でも実現する人間だと気づかされたのです。ですが、 簡単なことではありませんでした。WARPの後、上手くいかない年もあったようで、彼は成功をおさめられるかわからないと言っていました。しかし、彼は技術分野で著名な権威者からの助けもあり、FYTOを軌道に乗せることができました。それからの彼は、まさに止まるところ知らずでした。
――飯野氏は自身でプロジェクトを多く手掛ける中で、 日本のロックバンド GLAYのHISASHIが目玉の音楽グループ「NORWAY」も活用しましたね。NORWAYが絡む彼の作品をまとめたアルバムがリリースされるかどう か、そうした計画についても何かご存知ですか?
ミルキー:
正直なところ、よくわかりません。ですが彼らは自分たちのことを確かサウンドクラウドと呼んでいて、オンライン上での露出に積極的です。公式にリリースされるようであれば、私も是非欲しいですね。ですが、それがいつになるかは検討もつきません。バンド側はなにがしらの方法で NORWAYプロジェクトを記念したいと願っているのではと思います。
――AUTOMATONチームメンバーの何人かは、飯野氏の死後直後に開催された2013年のBitSummitに出席されていましたね。あなたは彼に敬意を表して、とても心のこもった素晴らしい追悼の言葉を述べていらっしゃいましたね。彼の遺物は今後どのように生き続けていくと思いますか?ゲームメディアの分野で彼の影響はどの ように作用するでしょうか。
ミルキー:
飯野さんへの賛辞として、急ですが、なんとか1UP.com以前からの友人であるライアン・オドネルと一緒に用意した言葉でした。その言葉をもってショーを締めくくろうと考えていました。長く忙しい日が続いた後、200人ほどの人の前に立ち、若くしてこの世を去ったばかりの大切な友人について話すなんて、自分の人生の中で、これほどまでに辛い出来事は無かったと思います。こんなにも辛いことに気持ちの整理をつけることは非常に難しかったですが、共通の友人は第一回BitSummitの公式フォトグラファーだったので、その時の様子を写真に収める役があったことから乗り切れたようです。
彼の遺産がどのように生き続けるのか、私には見当もつきません。ゲーム産業は慌ただしく変化し続けており、人は各々のメッセージボードのスレッドばかり気になって、ささいな妄想的苦情に囚われています。手厳しく聞こえるかもしれませんが、私には人が愚かなことで言い争い、時間を無駄にしている様に見えるからです。そのために世のなかの素晴らしい才能が無駄に終わっていくのは、なんと残念なことでしょうか。飯野のような人は、メッセージボードの言い争いなどに時間を取られることは、まずないでしょう。彼はいつでも創造性を最大限発揮して、何事においてもまるで時速100マイルの超特急で動き回るように、充実した人生を送ることに忙しい男でした。彼の生涯は比較的短いものだったかもしれません。ですが、これだけは言えると思います。彼は、自分が生きた時間の中で、 ほとんどの人が一生涯でするより多くのことを成し遂げたと。彼の遺産は友人やご家族、ファンといった関係する人々の中で、ずっと生き続けるでしょう。以上、 とにかく本当に大切なことを述べさせていただきました。
―― 『KAKEXUN』のIndiegogoキャンペーンが目標に達成することなく終わりを迎えて、実際に寄付をしてくださった方に伝えたいことはありますか?
ミルキー:
チームの仲間たちは『KAKEXUN』の開発に尽力し、完成まで見届けました。すこし時間はかかるかもしれませんが、実現させることを堅く決意しています。ゲームの開発について、進捗情報を毎週確認しているので、確かに進行中です。ですが、みなさんには辛抱強くお待ちいただければと思います。参画する者たちも余暇を割いてフル稼働していますので。
――そして最後に、重要な質問ですが、彼とのもっともいい思いでを教えていただけますか?
ミルキー:
たくさんありすぎて、一つに絞るのはすごく難しいですね。ですが、特別な思い出について話したいと思います。それがまだ終わっていないことというのも理由ですが。してみたかったプロジェクトがありました。東京メトロ日比谷線に乗って、女性の声の録音アナウンスが日本の電車に乗って聞く音声でも、とりわけ淑やかで素敵だなと考えていた時に閃きました。そこで、毎日電車に乗って仕事前にそのアナウンスの声を聞く、独りで寂しいバーテンダーのシナリオをま とめ始めました。そのうち、バーテンダーは遠隔でもその声の女性が誰か知り、そして会うことができればと考え始めます。映画『Her』が公開されるまでに、少なくとも8年ほどもかかったでしょうから、私はスパイク・ジョーンズに先を越された様でがっかりしました。
いずれにせよ、話が具体的になってきたので、私はバーテンダーを演じる人を選びさえしました。世の中に疲れたような面持ちの一方、それでもハンサムな友人です。彼は私がこの役柄に求めているすべてを持ち合わせています。撮影の監督には、私のためにと飯野に奉げるビデオを編集してくれた私の友人ライアン・オドネルを起用しました。そしてついに、飯野もサウンドトラックを手掛けてくれることに張り切って同意してくれました。私が、この短編映画のために楽譜を書いてくれるかいと尋ねたら、彼は「もちろんさ!」と言ってくれました。映画の長さは大体40分程度のものと考えていました。私たちは、これを世界中の映画祭に持ち込む計画でいたのです。
ミルキー:
もしかしたら、いつかこの映画の製作を実現させて、誰が飯野の代わりに映画の楽譜を書くことを正当に務められるか思いつくかもしれませんが、それって全く同じものになるとは言えませんよね。
[聞き手 Aki Darwich]