『FF14』「黄金のレガシー」パッチ7.0、メインストーリー感想。「ストーリーが面白いMMORPG」として浮かび上がる課題
ハイデリン・ゾディアーク編が完結し、『ファイナルファンタジーXIV(以下、FF14と表記)』新章として発売された「黄金のレガシー」であったが、その現行バージョンの物語に関して、筆者は良いものとは思えなかった。なぜなら、作中にて表現したいであろうテーマに対し、内容がまったく追いついていないのである。この原因としては、『FF14』の仕様によるところが大きい。本作のジャンルはMMORPGではあるが、その仕様と物語のテーマが噛み合わず、結果として表現が伴っていない。MMORPGであることが弊害になってしまっているのだ。
※本稿は『ファイナルファンタジーXIV』ハイデリン・ゾディアーク編および、「黄金のレガシー」のネタバレが多く含まれているので留意してほしい
『FF14』が「ストーリーが面白いMMORPG」である理由
MMORPGに限らず、集団行動を楽しむマルチプレイがメインのゲームと、内省的な体験を通して、自身の情動を楽しむ一本道なストーリーテリングの相性は、昔から良いものとは言えなかった。体験の性質がそれぞれ大きく異なるため、想定するユーザーの傾向がバラけてしまい、せっかく用意したコンテンツが邪魔扱いされる危険性があったり、マルチプレイが面白さの頂点になるようゲームデザインがなされている都合上、物語を味わうという個人的な体験を表現する際に、システムを活用できない場合があるからだ。
そのため、今日までに多種多様な工夫が施されてきた。たとえば『モンスターハンター』シリーズは、マルチプレイという仕組みに世界観上のフレーバーを付与したり、近年ではNPCとの協力プレイを通じて、マルチプレイを行いながら物語が進行することに、違和感がないようにしている。『Call of Duty』シリーズのように、専用のゲームモードを用意する作品も多いが、『League of Legends』のようにマルチメディア展開を通じてストーリーテリングを行っているものもある。
『FF14』の場合は、作品の根幹となるアクションシステムがエンドコンテンツであるレイドバトルに最適化されているため、物語描写についてはテキストとカットシーンを用いた「受動的」な手法を採用している。加えて、プレイヤーを「光の戦士」と設定することにより、個人のロールプレイを超越してストーリーに関わらせる強制力を生み出している。プレイヤーはどのような個人であれ、世界を救わなければならない。後に設定を追加し、レイドバトルが物語の中に組み込まれるようにもしている。
これは言い換えると、レイドバトル以外のプレイを通じ、自分から世界に介入することで当事者としての没入を生む「能動的」な語り口が採用できないことを意味している。そこで本作は、プレイヤーのストーリー外での行動を暗に物語へ取り入れてきた。それはサブクエストの攻略状況いかんによって、会話中の選択肢が増えるというだけでなく、「他者とのコミュニケーションを通じた喜び、悲しみ」という、マルチプレイを通じて発生するプレイヤーの情動を、各大型拡張におけるストーリーのテーマに結びつけてきたのだ。(「新生エオルゼア」はゲームリメイク後の作品として世界観説明に終止する必要があったため、他の拡張と物語のテイストが異なっている。)
プレイヤーは物語の中でさまざまな人物と出会い、交流し、互いに影響をもたらす。まるでMMORPGのように。『FF14』は会話劇を通じ、普段のマルチプレイと個人で楽しむ物語の擬似的な接続をなすことで、語られる内容に強い共感を生み、体験に「独特な厚み」を持たせてきた。本作が「ストーリーが面白いMMORPG」として知られるようになったのは、この作品構成によるところが大きいと筆者は思う。
「ストーリーが面白いMMORPG」であり続けるために
「黄金のレガシー」では、上記の「独特な厚み」を成立させることができていない。この原因としてまず挙げられるのは、作中のテーマが本作の仕様と噛み合っていないことだ。「黄金のレガシー」のテーマは、新たな冒険であり、「生きる」ということである。ウクラマトの視点を通してさまざまな生き方を観察しつつ、キーキャラクターたちが各々の生き方を鑑み、確立し、協調することもあれば、相いれぬゆえに対立もする。「多様性と尊重」が叫ばれる現代の世相に切り込むテーマであり、今語る必要性を持たせている。
一方で、本作の仕様といまいち噛み合っていないテーマでもある。なぜなら、本作は仕様の都合上、「多様性のある生き方」を「ゲーム中に」実践する機会がほぼ無いのだ。MMORPGは「社会の中における個人」を楽しむジャンルである。冒険するにしても、生き方を考えるにしても、その内容は必然、個々人によって異なり、それが尊重されなければならない。しかし、それをプレイヤーが表現するだけの自由度は本作にない。どのプレイヤーも等しくメインストーリーを踏破し、アイテムレベルを上げ続けなければならない。ウクラマトの味方にならないという選択肢がゲームから提示されることはない。『FF14』における自由度の大きさは遊べるコンテンツの多彩さであり、コンテンツを通じて自主的にイベントを開催したりなどは可能だが、トライヨラのペルペル族のように商人ができたり、強盗プレイができるというほどではない。ゆえに、プレイヤーが獲得するゲーム内の経験と、ストーリー中で語られる多様な生き方の接点が生まれず、没入感に乏しい、ただ教科書を読んでいるような軽薄な体験になってしまっている。
筆者としては、他者の生き方、ひいては文化というものは完全に言語化できるものではなく、実際に当事者と交わり体験することではじめて、自身の生き方や文化と接続し、比較や内省が可能になると考えている。これをゲーム上にて表現している近年の作品としては、『龍が如く』シリーズや『ファイナルファンタジーVII リバース』、『原神』などがある。いずれもミニゲームという形式を通じ、世界に対し「能動的に」関わることで、その世界の風俗を非言語的な情報含め体感することができ、それが冒険という感触に昇華される。しかし、「黄金のレガシー」では能動的な場面はほとんど見られない。ハヌハヌ族のお祭りに参加したり、料理対決では料理をすることができない。画面を眺めることしかできない。戦闘システムを活用できる「スニーキング」のミニゲームや、最終盤の演出など、アクションを通じた没入感のあるストーリーテリングに否定的ではないことは伺えるが、全体的に不足しているのが現状である。
そして、全体的な描写の乏しさが体験の軽薄さに拍車をかけている。これも本作の仕様によるところが大きい。たとえば「黄金のレガシー」における主人公はウクラマトであり、プレイヤーは彼女の保護者、ボディーガードのような立ち位置となっている。しかし、プレイヤーが保護者として存在感を放つ場面は多くない。プレイヤーが喋るとウィンドウを用意し、選択肢を出さねばならないため、語りのテンポが崩れる。ゆえにウクラマトへ真っ先にアドバイスをするのはフルボイスの仲間キャラになってしまっている。さらに主人公の立場にないことで、必然的にプレイヤーがNPCに与える影響が減少し、逆にNPCがプレイヤーに与える影響も減少する。NPCがNPCとのコミュニケーションを通じて成長するなか、プレイヤーはひとり浮いている。本作がMMORPGというコミュニケーションのゲームであることを活かしきれていない。
細かい部分を見ていくと、まず作中序盤における王位継承権の争奪戦では、「競争」を表現できていない。体験のカジュアルさを標榜する本作において最優先されるのは、ゲーム内時間ではなくプレイヤーのリアルなライフスタイルであり、ゲームがプレイヤーを急かすことができないからだ。他陣営との対立描写もほぼない。主人公陣営に突っかかってくるのはバクージャジャくらいであり、作中で暗示された他の暁メンバーとの戦いはなかった。人気キャラクターに対する悪感情を抑えることが難しいと判断したのだろうか。ボスとなるヴァリガルマンダは、背景設定の割に暴れまわる描写が無く(終盤のゾラージャ襲撃と内容が被るからだろう)ほぼおまけ扱いである。部族の紹介の中に能動的な語り口がないことは先述したとおりだ。
中盤で訪れる荒野はアメリカの西部開拓時代をモチーフとしており、そのまま活用するのであれば、ギャングと法、そしてネイティブ・アメリカンとの関係性など、「生きる」というテーマを表現するには最適な舞台である。しかしながら中身がまったくない。現実においては法の台頭によって、地元のルールを押し通していたギャングの立場が「アウトロー」に追い込まれてしまったり、開拓者たちにネイティブ・アメリカンが殺戮されるという事件が起こっていたが、作中では何故か法と地元のルールが共存することになり、原住民との軋轢もない。グローバルに展開している作品ゆえの配慮とみられるが、だからこそプレイヤーがその土地に与える影響は薄く、印象のない体験になっている。
終盤はNPCがみなNPCとのコミュニケーションを通じて成長するため、感動はするのだが、プレイヤーが空気になっている。最終決戦はウクラマトを操作した方が自然に思えるほどであり、ゆえに本作の中核となるラストバトルを物語体験に活かせていない。ウクラマトが戦いに介入する演出を経て、メインストーリーはMMOであることやめ、彼女を主人公とした「シングルプレイのJRPG作品」という形で幕を閉じる。
要するに、「黄金のレガシー」の現行メインストーリーは、『FF14』がテキストとカットシーンメインで物語を進行するという方式を採用していることや、MMORPGというコミュニケーションのゲームであることを活かしきれておらず、物語のテーマ設定時点で失敗している。もしくは、スニーキングのミニゲームや、時間制限つきの運搬作業などが続投していることを鑑みるに、表現したいテーマに『FF14』の仕様が追いついていないのだ。結果としてサイドクエストを巡るほうが、仕様に最適化された物語体験を味わうことができている。
だがなぜ、こういったテーマ選択に至ってしまったのか。その理由にはハイデリン・ゾディアーク編の内容が関係していると筆者は推測する。ハイデリン・ゾディアーク編は、メインストーリー以外の活動も含む、数々のコミュニケーションを経て、MMORPGのあり方を肯定する=社会と人間を肯定するという決着に至った。しかし、この着地にピンときていないプレイヤーもいるのではないだろうか。
なぜなら、この決着は『FF14』を「さまざまなコンテンツを通して多様なコミュニケーションを楽しむ」ゲームとして遊ばないと共感や納得をすることが難しいからだ。昨今の『FF14』は、ユーザー数増加のために「一人でも」遊べる仕組みを導入し続けている。結果、チャットを通じて他プレイヤーと喧嘩したり、笑い合ったりといった密なコミュニケーションを経験しないユーザーも増えた。「ストーリーを駆け抜ける」という文言がSNSにて見られるようになったのが印象深い。「黄金のレガシー」の内容は単純に前章とのネタ被りを避けるだけでなく、運営方針に伴うユーザー層のバラつき……本作を「社会と私の関係性」を楽しむRPGとして遊ばない、「光の戦士」というキャラクターの物語を目的とするユーザーに対応するためのものではないかと筆者は推測している。
いずれにせよ、「黄金のレガシー」の現行ストーリーにおける問題は、エンドコンテンツへ楽に辿り着くためにシステムが設計されている『FF14』の仕様によるところが大きい。本作は「ストーリーが売り」ではあるが、システムの構造上、あくまでエンドコンテンツの前座という立ち位置に収まっている。
だが、本作はさまざまなユーザー層が遊ぶタイトルに成長したがゆえに、「あくまで前座」という言い訳は使い物にならなくなっている。メインストーリー専用のインタラクティブな仕組みの実装に慎重となるのは理解できるが、今後さらなる10年を目指すのであれば、適切なテーマ設定はもちろん、「能動的な」語り口を積極的に採用し、表現の幅を広げてほしいと私は願う。本作がMMORPGであることを活かすにしても、活かさないにしても、エンドコンテンツの前座に収まらない物語体験をより洗練させていってほしい限りだ。