『パラッパラッパー』。1996年に国内で初代PlayStation向けにリリースされた、七音社開発のリズムアクションゲームだ。主人公「パラッパ」は、想い人である「サニー・ファニー」のハートを射止めるため、カラテや料理といったさまざまなジャンルの先生から教えを習う。先生のお題に従ってボタンを入力しラップを歌っていくそのゲーム性は、当時はジャンルとしては確立していなかった「音楽ゲーム」の走りとなり、後に『パラッパラッパー』は同ジャンルの始まりの作品として認知されていくようになった。
それから20年ほどが過ぎた2017年4月20日、最新ハードであるPlayStation 4向けに、『パラッパラッパー』がリマスター版として戻ってきた。当時ジャンルとしてけっして確立されていなかった、いまでこそ「音楽ゲーム」と呼ばれるものを創りあげた『パラッパラッパー』。同作のゲームデザイン・音楽を手がけ、七音社の代表取締役として開発を引率してきた松浦雅也氏は、20年の時を経て「パラッパ」をどう思っているのだろうか。ソニー・インタラクティブエンタテインメント(以下、SIE)のオフィスビルの一室にて、松浦氏と『パラッパラッパー』開発の背景に迫った。
音楽への没頭、かたわらにあったゲーム
――初めての音楽との出会いは?
松浦氏:
こないだ整理するために実家の古い写真を見ていたら、自分とうちの家のオーディオセットが写っている写真がすごく多かったですね。子供のころ、2歳とかのころですね。当時のサラリーマン世帯の三種の神器って、洗濯機、テレビ、冷蔵庫ですか?オーディオセットってその中に入ってないですよね。でもうちの家にはオーディオセットがあって、親父がレコードを聞いたりしてるっていう記憶はすごくありますね。テレビを見てた記憶もあるけど、なぜかテレビと写ってる写真はないんですねえ。そういう音楽が溢れている家庭でしたね。
――ご両親がもともと音楽が好きだった?
松浦氏:
そうですね。親父も大学のころにはバンド活動をしていたみたいです。ちょうどそこの駅(品川駅)からここ(SIE本社)に来るあいだに、米軍の施設が戦後あって、そこで演奏していたそうですよ。レベル別にクラブがあって、将校クラスのためのクラブと、もうちょっと部下の人たちと、さらに部下な感じの3段階があったらしいです。演奏しに行ったらコーヒー飲んでいいよって言われて、横にお砂糖がおいてあって、戦後なんで砂糖なんか見たことないから、山ほど砂糖を入れてドロドロにして飲んだって言ってましたね。そんな時代ですね。
―― 一方でビデオゲームとの出会いは?
松浦氏:
それはけっこう実はあとなんです。自分がプレイヤーとしてゲームと接したのは、高校生ぐらい。『PONG』とか『スペースインベーダー』なんですよね。近くにボーリング場があって、そこのロビーみたいなところですごいやってましたね。みんなやってましたね。
――子供のころの生活で、音楽とビデオゲームが占めた割合は?
松浦氏:
音楽は間違いなく大きかったですね。でもビデオゲームはなんだろう。けっこう変化も激しかったし、家庭用とかパソコンとかいろんな環境があったので、僕の頭のなかではけっこう長いあいだ、ビデオゲームっていう1つのカテゴリとしてユニファイ(一つに統合)されていませんでしたね。最初の『スペースインベーダー』や『PONG』にしても、ボーリング場のロビーにあったからプレイしてたんですよね。ほかの遊びもしていたから、友達と一緒に遊ぶ空間のなかにある遊技機の1つみたいなイメージだったと思う。僕が最初に買ったコンピュータは「Apple II」ですけど、それでゲームをやることも、「Apple II」で何かをやるっていうことの一環の中にちょっとゲームがあったというね。だから独立したゲームとしてのイメージがあったかというと、あんまりなかった気がしますね。
――ビデオゲームを1つのカテゴリとして認識されたのはいつごろからですか?
松浦氏:
『パラッパラッパー』のあとですね。
――では『パラッパラッパー』を出された頃というのは……?
松浦氏:
“PlayStation”っていうものがゲーム機として世の中に出るらしいということで、たまたま自分が所属していたレコード会社がCBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)だったので、身近な印象はありました。けど、どういうゲーム機なのかなって、よくわからなかった。その当時、僕らはMACとかを使って、CD-ROMを自分で焼いてみたりとか、そんなことをやってましたから被る部分もあるんだけど、違う部分もあったりして。あまりはっきりしたイメージがなかったですね。
――学生時代に音楽やビデオゲームの自作活動などはされましたか?
松浦氏:
音楽は大学に入ったころからアマチュアの活動みたいなのはやってましたね。そこそこ時間も費やしました。ゲームだと、「BASIC」を使ってプログラムする友達とか知り合いとかがいて、そういう人と一緒になにか作ろうとしたことはありましたね。完成しなかったですけど。
――当時はどのような音楽活動をされていたんでしょうか?
松浦氏:
それね、なかなか端折りづらくて、話すと長くなります(笑)。とにかくデビューしようとしてたので、デモテープ作りみたいなのをずっとやっていました。それと同時に音楽を作る仕事っていうのは、もう始まってましたね。学生なんだけど、音楽作ってそういう仕事をして稼いでいたし、ただ自分の作品としてアピールできる状況ではなかったという。
――その後、「PSY・S」を結成されるまでの経緯は。
松浦氏:
「PSY・S」は僕とチャカさんというボーカルの女性の2人のユニットですね。まあ2人のユニットっていうこと自体がすでにおかしい、普通はバンドとかやろうと思ったら3人はいないとアンサンブルにならないんですけど、僕はコンピュータで音楽が作れると思っていたから、音楽の方は僕やります、チャカさんは歌ってください、っていう感じで2人で活動してたんですね。
活動してたっていうのも、実はあんまり正しくなくて。僕は学生時代に、大阪にあるFMラジオ局でアルバイトのようなことをしていたんですよ。そのとき担当していた番組のDJがアメリカ人女性だったんですけど、僕がスタジオに出入りしているうちに、「ちょっとちょっと」って手招きするんですよ。アメリカのDJって自分でコンソールを操作しながら自分でマイクも喋りレコードも掛けてっていう感じで、1人で全部やるんです。で、僕をコンソールの向こう側に座らせて、いきなりマイクを向けて(笑)。オンエア中、生ですよ。それでいきなり英語で話しかけられたんですよ。僕は「えーっ!?」ってなっちゃって、そのパニくったのが面白かったらしくて、毎日のように呼ばれるようになっちゃった(笑)。そんなことやっている内に、僕が音楽を作っているというのがわかって、その音楽持ってきて掛けようよみたいな感じになった。じゃあちゃんと作りますといって、たまたま知り合いにチャカさんっていう英語で歌えるボーカルがいたんで、お願いしたんです。で、英語で歌ってもらったものをオンエアしてもらった。それがたまたま、なんかまとまって、当時CBSソニーのディレクターさんに届いて、デビューしたんです。なので、普通のミュージシャンのバックグラウンドとはちょっと違うんですね。
――あれよあれよという間に話が進んでいきましたね。
松浦氏:
いきなりということはなかったけど、地元のライブハウスで活動してみたいなのは全然ないんですよね。すごい特殊でしたね。
――その前の、打ち込み音楽を始められたきっかけを教えていただけますか。
松浦氏:
それはハッキリ覚えていますね、中学3年生ぐらいですね。その時に、先日亡くなられましたけど冨田勲さんとか、そういうシンセサイザーを使って音楽表現をされる方が多く出てきて、それを聴いてびっくりしてですね。これすごい面白いと思って、のめり込んでいっちゃいましたね。そこがスタートですね。で、そのあとに「Apple II」にいってるから、シンセサイザーとの出会いが先ですね。そのベーシックは今も変わりませんね。自分は電子音楽をベースに音楽を作る人なんだっていうのは、ずっと変わってないと思います。
ポジティブではなかった七音社設立
――七音社を設立され、その後「PSY・S」は解散されたとお聞きしましたが、その経緯を教えてください。
松浦氏:
実はラジオの番組を手伝っていた大学3年生の時に、デジタルシンセサイザーっていうのがあるらしいっていう話を聞いたんです。それが今で言うサンプリングマシーンだったんだけど、それがすごいかっこよかったっていうか、めちゃくちゃインパクトがあったんですよ。それを大阪にある楽器輸入業者さんが取り扱うことになって、手に入れたいよねという話になったんだけど、お金ないよねと。それが実際いくらだったかっていうと、当時の1500万円ぐらいだったんですね。
そんなの買えるわけないじゃんって話ですけど、たまたま……公官庁系のイベントがあって、そこにシンセサイザーのデモンストレーション演奏をしてくださいみたいなオファーがあった。その現場にオスカー・ピーターソンさんっていうジャズのピアニストと、こないだ亡くなられたローランドの創業者の梯郁太郎さん、それとコシノヒロコさんだったかな、あと小松左京さんっていうSF作家の方と、そういう人たちが呼ばれて、その末席に僕がいたんですね。その時に、たまたま1500万円のデジタルサンプリングマシーン、「フェアライト」っていう名前なんですけど、その「フェアライト」っていうのがあって欲しいなあという話をしていたら、小松左京さんが「喜んで」ではなかったけど、僕が保証人になってあげるって言ってくれたんです。小松左京さんという保証人を得ることによって融資を受けられるようになって、受けた融資で会社を作った、それが大学3年生のころ。
――学生のころに立てられたんですね。
松浦氏:
そうです。それでちょうど4年になったぐらいの時に会社ができて、師匠と2人でやってました。師匠も数年前に亡くなりましたけど、大学卒業するころになって、両親がそろそろ心配するじゃないですか。「どうするの?」って。そんなある日とつぜん、「僕もう就職しましたから」って言った。そしたら「えー!?」みたいな、どういうことなのって(笑)。
――かっこいいですね(笑)。
松浦氏:
だから僕は就活ってものをしたことがない。そのまま卒業しちゃったんです。で、その会社を師匠とずっとやっていたんだけど、ちょっと師匠と経営の方針とか運営で意見が合わなくなっちゃって、僕はその会社を出るんですね。その出るきっかけになってるのが、実はインタラクティブな領域の音楽との関係みたいなものを、もっと積極的にやっていきたいっていう理由がひとつ大きなトリガーになってるんですよ。で、師匠はもっとコンサバな音楽の世界の人だったから、そういうところで意見が合わなくなってしまった。それで飛びだしてできた会社が七音社なんですよ。それが1993年だったかな。だから『パラッパラッパー』の開発が始まるタイミングですね。
――おふたりが別れる前はどういうお仕事をされていたんですか。
松浦氏:
作った会社のなかに「フェアライト」があって、そこで「PSY・S」のアルバムを10枚作ったわけですよ。ほかの仕事もしてましたけどね。
――おふたりが別れた理由を詳しくお聞かせください。
松浦氏:
師匠がインタラクティブな音楽やコンピュータプログラム上での表現みたいなのに理解がなかったわけでは全然ないんですよね。でも実際にはもっと難しい問題がいっぱいあった。七音社を作る前、もう1つ別のベンチャー企業があったんです。起業家が声を掛けて、僕もひっくるめて何か新しいコンピュータ上の表現したい人たちを集めてつくった会社だったんですね。その中で僕らは師匠とともに、わりとリーダー的な立ち回りを求められていた。どうしてかっていうと、音楽の分野がインタラクティブな領域とかコンピュータメディアの中で、すごい重要な位置づけにあったんですね。まだインターネット前夜ですから、CDであるとか、デジタルオーディオの技術などは、メディアとしてすごく重要な役割があった。映像の人たちにも当時すごい技術はあったけども、やっぱり彼らは放送とか、最初からストリームベースっていうか、そういう感じのビジネススキームだったから、ぜんぜん僕らと成り立ちやバックボーンが違ってたんですね。だけど、やっぱりインタラクティブな作品として形のあるものを作りたいよねっていう意識だけは共有できていて、そうなるとやっぱり音楽畑の僕らの方が、その部分をリードしていかないと、なかなか形にならないという側面があった。
僕も師匠もそういうことをやろうとしてたんだけども、師匠は年齢がちょっと上だったから、どうしても僕が現実的にやってることと師匠のやってることが、上手く噛み合わなくなってきてしまったんです。それで、他に一緒にやってた人たちが「お前のところの師匠だろう」「なんとかしろよ」みたいな感じになってきちゃって、仕方なく、僕が元々所属していた会社を離脱することになった。まあ、ベタな言い方で言うと詰め腹を切るっていうんですかね。そういう形で責任を取ることにしたんですね。なかなかけっこう複雑な話で、それによって僕もすごい傷ついたし…結局、全員傷ついたんですよ。だけど、そのことによって自分の中の退路がなくなったっていうか。退路がなくなるってことは、こんなに自分が強くなれるんだってことを、初めて経験したっていうかね。変な自信がつきましたね、その時に。それが七音社の最初のスタートでしたね。
『パラッパラッパー』の始まり“困難5パーセント”
松浦氏:
『パラッパラッパー』のスタートもややこしくて、師匠と袂を分かった僕が新しい七音社って会社を作ろうとする前に、ベンチャーで作っていた組織内で作ろうとしてたんですよね。ところがですね、僕が企画を書いて、これをソニー・コンピュータエンタテインメント(以下SCE/現SIE)さんに持って行って通してくるからねって言ったら、みんな「ふーん」って感じで(笑)。「がんばってねー」みたいな(笑)。
でも実際進みそうになってきたら、それまでのアバウトなCD-ROM作りとは違って、SDKがどうした開発の基本契約がどうした、いろんな難しい条件がデベロッパーには求められる。だんだん敷居が上がってくるわけですよ。そうすると、みんなだんだん顔色が変わってきちゃって、「この『パラッパラ―』っていう変なゆるい企画みたいなの、うちでやって大丈夫なのかな」みたいな感じになってきた。それである日、そんな空気の中、代表に「松浦くん、悪いんだけど、うちではできないから」って言われたんですよ。で、仕方がないから、僕は七音社を作ることになったわけ。だからぜんぜんポジティブな理由じゃないんですよ。
そのベンチャーの会社があった江坂の近所、電車の駅の反対側ぐらいにちっちゃなマンションの一室を借りて、そこに自分たちに近かった若いスタッフとか、『パラッパラッパー』を絶対にやりたかったのに、という人を借りてきて、にわかなチームを作って、会社として七音社を作った。そんなことやっている内に、企画がグリーンライトされたんです。
――そんなすごい状況下で企画が通るとは……。
松浦氏:
綱渡り感がすごいよね。相当マズい感じだったから、きつかったですねえ。
――ちなみに当時会社の人数というのは。
松浦氏:
たぶん5、6人ぐらいだったんじゃないかなあ。
――お話を聞いていると、もともと音楽をメインにやられたと思うのですが、プログラマーの方とかはいらっしゃったんでしょうか?
松浦氏:
そうそう、だからいなかったんですよ。ベンチャーの会社にはいたんですけど、七音社の方には来てもらえなかったから。知り合いとかをたどって「なんとかできる方法がないか?」っていろいろ探って、やっと見つけました。
――立ち上がりから非常に困難だったようです。
松浦氏:
いや、困難はたぶんこれで5パーセントぐらいかな(笑)。
――5パーセント(笑)。
松浦氏:
まだいってないぐらいかな(笑)。
『パラッパラッパー』を創造した“音楽の技術”
――ベンチャー企業のころに立ち上げられた『パラッパラッパー』の企画ですが、当初はどのようなコンセプトでスタートしたんでしょうか?あるいは企画立ち上げの動機ですとか。
松浦氏:
動機はね、SCEさんからインプットされてる部分がありましたね。PlayStationが100万台いくかなというころで、当時SCEさんはソニーの人たちとCBSソニーの人たちが半々ぐらいいる組織だったんですね。それで僕はCBSソニーから来た人たちの方が近かったわけですよね。その彼らが、音楽のバックグラウンドを使った独自なものを作れないかっていう模索が続けられていて、そういうことに積極性のある人たちに声が掛かっていたということですね。
――『パラッパラッパー』の登場までに、音楽を利用したビデオゲームやソフトウェアは存在していたと聞いております。そういったものはプレイされましたか?
松浦氏:
何回かプレイしたことあります。雑誌の連載を書いてたときに、編集スタッフの人たちが「こんなのあるんですよ」って持ってきてくれたんです。その中に、今でもはっきり覚えてるんだけど、プラスチックのギターのペリフェラル(周辺機器)でPCにつないで、画面のタイミングに合わせてギターのボタンを押すっていうのがありましたね。でもね、とにかく面白くなかったの(笑)。やってることだけ聞いたら『ギターヒーロー』みたいなんだけど、とにかく楽しくなかった。なんでこんなに楽しくないんだろうって、不思議になるくらい。
――なぜ面白くなかったか?
松浦氏:
それはわからないですね。でも、この面白くなさ感はないよなっていうのは、『パラッパラッパー』の企画を考える上での1つのヒントにはなったと思います。
――ほかにも『パラッパラッパー』のコンセプト段階で固まっていたことはありますか?
松浦氏:
実はPlayStation以前の、CD-ROMプレイヤーの技術をベースにしている部分がかなりあってですね。CDを使ったインタラクティブメディアのハードウェアはほかにもいくつか種類があって、そういう中ですでに実験ができていたものもあるんですね。そのなかの1つが、リアルタイムにオーディオを切り替えるという部分。『パラッパラッパー』では、GOODとかBADとかゲームのコンディションによってトラックが切り替わるようになっているところに応用されているんですけど、それはCD-ROMの「XA」っていうフォーマットの技術で、PlayStationよりも前にあった技術ですね。そういうインタラクティブにオーディオの中身をミックスに切り替える実験はやっていたので、使えるなって思っていましたね。
――評価で曲が変化する、というのがコンセプト段階からすでに1つあったと。
松浦氏:
そうです。もう1つは「フェアライト」の話から続くんですけど、それまでサンプリングして色んな音楽を作ってたんです。たぶん、みなさんサンプリングの音楽で一番よくご存知なのは「アート・オブ・ノイズ(1980年代から1990年代に活躍したエレクトロミュージックグループ)」とかかなあ。ありものの音楽を切り貼りして、サンプリングしてはコラージュして音楽にするっていう。そんな中で、自分でやってみて一番面白かったのが人間の声を使うことだったんですよ。ですので、人間の声を使ってプレイするゲームってことも決まってました。
――なるほど。ではラップに繋がったのはそういうところから。
松浦氏:
そこからですねえ。当時はサンプリングの遊びっていうのは、せいぜい子供向けのおもちゃのキーボードじゃないですけど、1種類サンプリングして遊ぶのが普通だったんですね。それじゃ楽しいものにならないよねっていうことで、もっと長い文節をサンプリングして、それで遊べるように成り立つ方法を考えようと。
――『パラッパラッパー』は音楽の技術的な部分からも始まったんですね。
松浦氏:
だけとは言い切れないですけどね、そうですね。
夏にエアコンなしの現場、2度
――苦労した部分5パーセントとのことですが、ほかに記憶に残っていることは?
松浦氏:
私が知っている部分だけを語ると、実際には俺もこんな苦労したのにって言ってる人が、画面の向こう側にいるなという感じがすごいしますね(笑)。
当時はCGをデザインするのに、パソコンじゃなくてワークステーションを使わなくちゃいけなくて、すごい電気を食うしファンもうるさいし、大変なマシンだったんですよ。値段も値段でした。それを手に入れるっていったって、SCEさんから提供される制作費の中のどのぐらいの部分がワークステーションに消えていくのかなみたいな計算すると、辻褄があわないぞみたいな、そういうところから始まりました。
なんとか準備できて、開発を始めるぞって段階になったときに、マンションにマシンを設置しようとして、ぜんぜんブレーカーの電圧が足りないじゃんということになったの(笑)。マンションの一室しかないのに(笑)。どうするって話になったときに、工事に来てくれた電気屋さんが1つだけ方法があるんだけどって言って、なんですかって聞いたら、エアコンの電源を無理やり流用すればなんとかなりますよって言われて。それしかないよなあ、わかりましたって言って、そのエアコンの電源をマシンのために使ったんですよ。なんとなく、まあ次の夏ぐらいまでには開発は終わるんじゃないってすごい甘いこと考えてて、じゃあ開発が終わったころにエアコン付けられるようにすればいいよねっていってたら、そのまま夏を2回パスして(笑)。2回エアコンがない夏の現場でしたね。
マンションは大阪にあったんだけど、僕の活動は東京が中心だったんで、そこには常駐していませんでした、無責任にもね(笑)。それでもたまに行くじゃないですか。ある日行ったら、昼間なのに真っ暗なんですよ。人がいるのかどうなのかもわからなくて、でも入っていったら人は全員いてですね。全員下着状態になってるんですよ、男性も女性も。すごい状態になってて、手ぬぐいとか肩から掛けたりして、部屋の中はめっちゃ暑い。そういう苦労はすごいしてましたね。だからスタッフはしょっちゅうシャワー浴びていましたね。そういう計画のミスとかもありました。
――すごい現場ですね……(笑)。
松浦氏:
あとは、メインプログラマーの方が…読んでたらごめんなさいねなんだけど。その人はオフィスで1人で仕事をしていて、1人で仕事するってけっこうキツいじゃないですか。だから差し入れを持って行ったりとかしてたんですけど、ある日もう形相が違っちゃってた。PlayStationのCDライターで、ライトワンス(上書き不可能な記憶媒体のこと)を焼いてるんですよね。それで出来上がったライトワンスをデバッキングステーションに入れて、立ち上げて、動かない。またカタカタカタって書き直して、また焼いて、動かない。で、3枚目ぐらいについに、オフィス家具の足元のところにライトワンスを立てかけたと思ったら、いきなり足でガーンって割ってるの(笑)。うわーと思って。そのストレスをどうしてあげられることもできなくて、すごく辛かった記憶がありますね。
――確かに5パーセントでしたね(笑)。
松浦氏:
あはは(笑)。でもここまでで15パーセントかな(笑)。
――暗い話ばかりですとアレなので、明るい話も。たとえば開発途中、こういったアイディアを思いついてゲームに組み込めた、ということはありましたか。
松浦氏:
この開発のチームで面白かったのは、青山にあった事務所の会議室で、シナリオライターとラッパーとディレクターとでテーブルを囲んで「これってどういう話なのかなあ?」っていうのを模造紙とかを開いて考えてたんですね。ブレストをすごいしてた。その時に「この主人公はこの時はこういう風になるんじゃない」とか、その時にラップではどういう風に言うのかなあとか、みんなが持ってるノウハウみたいな知識を一緒に机上に乗せて話すっていうことをやっていた。お陰ですごい全体がどんどん面白くなっていく。ただ今あらためて『パラッパラッパー』のお話を自分なりにレビューしてみると、かなりお行儀悪い部分もあるし、みんなちょっとハメ外しすぎたという部分もあるかなと思いますけどね。でもそういう楽しいディスカッションはすごくありましたね。
――個人的には「ステージ5」がすごく気に入ってるんですが、あのトイレステージ誕生秘話を教えていただければと……。
松浦氏:
それはすごい単純な理由なんです。当時バンダイさんが「ピピンアットマーク」っていうハードを作っていて、その「ピピン」のために音楽を使ったソフトを作ったんですね。ボタンを押したら音が出るみたいな、簡単な音楽のインタラクティブソフトみたいなのを作ったんですよ。その中に色んなキャラクターの顔が出たら面白いよねっていう。なんか人の顔がいっぱい表示されたり、動物の声とか、ちょっと低年齢層向けって感じでね。その中に、たまたまトイレを流す音っていうのと、トイレットペーパーを引っ張り出す音っていうのがあった。それをみんながすごい面白がるってことがわかったんですよ(笑)。なんでこんなものがこんなに受けるのかなって、すごく不思議な受け方をするのがわかったので『パラッパラッパー』をやる時にも全員に共通する面白さみたいなのは盛り上がるんじゃないかって言ったら、それがそのままどんどん勝手に進んでいって形になっていったという。
――あのステージは、先生が1人ずつ出てきて、そのあとに全員がまとめて出て来るっていう構造ですよね。そういう集大成的なステージにトイレを持ってくるのって、すごいセンスだなと(笑)。
松浦氏:
あはは(笑)。それがちょっとね、お行儀がよくない(笑)。話のなかでは、パラッパがサニーちゃんに全然気に入ってもらえないんだけど、お腹痛くなったときの表情だけ気に入ってもらえたっていうところが、なんかお話の重要なカタルシスになっている(笑)。それが関わった人達が大好きな部分でしたね。
『パラッパラッパー』との奇妙な関係
――ちなみにですが、松浦さんが『パラッパラッパー』で一番好きなステージやキャラクターは?
松浦氏:
いやあ、どうですかね。残りの苦労した部分の85パーセントくらいを足して考えるとですね、そういう差はつけられない。最初のリリースから20年も経ってで、これだけいろんな人に可愛がられ続けている。それで、僕はこの世の中で一番『パラッパラッパー』っていうものをよく知っている人間にもかかわらず、なんだかよくわかんないんですよ。「これはなんですか」って聞かれたら、端的に答えることが非常に難しい。自分のなかで優劣みたいなのは、その瞬間瞬間にはあるんですけどね。今日はステージ4の曲が頭のなかで回ってるなみたいな、そんなことはありますけど、思い入れとして常に固定されるような、わかりやすい接点がないんですよね。すごく不思議なことなんだけど、意外と大事なことかもしれないですね。
――固定されていない。
松浦氏:
たとえば、最初にこのゲームがリリースされるタイミングになっても、まだ僕はこれがゲームだっていう風に思ってなくてですね。それは僕だけじゃなくて、当時のSCEのみなさんもほぼ100パーセント、これはゲームだとは誰も言ってなかったんですよね。インタラクティブななにか、みたいな感じで捉えられていた。だけどこれがゲームだっていう風になったのは、100パーセント間違いなくお客さんのリアクションによってなんですよね。お客さんがこれをゲームだって決めたので、その時点で僕がすでに勘違いしていたっていうことですよね。
――当時はゲームとして認識していなかった。
松浦氏:
そうですね。ただ、ゲームかどうかよくわからないという説明はしましたけど、実際の開発の途中では「これはゲームだな」って思えた瞬間もあるんですよ。たとえばプログラマーさんが、この『パラッパラッパー』の採点どうするんですかみたいな話になって、悩んでたんだけどある日突然、すごいシンプルな方法でこのゲームのインタラクションをぜんぶ数値化できる方法を思いついたんですね。それをプログラマーさんに伝えたら、プログラマーさんの頭上に電球がバーンって付いたのが見えた感じで、すごく喜んでくれて、これでこのゲームは採点できるって言ってくれた。その時に「これはゲームになるんだなあ」って、なんとなくおぼろげな印象を持ったことはありました。だけど、実際に完成してみんなが見たときには、まだそういう反応はなかった。
――ゲームとインタラクティブな作品、その境目が曖昧な状況で『パラッパラッパー』は開発されたと。あと当時、こういった作品(音楽ゲーム)はなかったと思いますが、そういう未開の分野に踏み込む怖さはなかったですか。
松浦氏:
それはね、不思議となくてですね。前出の困難の5パーセントのシチュエーションで相当怖いでしょう。だからもう先に進まないことが一番怖かった。先に進むんだったら、自分たちの思いの丈をもっとも表現したなにかになってなかったら、いずれにしても悔いを残すことになる。なんかそういうイメージしかなかったですね。
――『パラッパラッパー』が完成されたとき、達成感というのは。
松浦氏:
それはあんまりなかったですよ。「なんかGM(Gold Master、一番最後のマスター版のこと)通ったらしいよ」「へー」みたいな(笑)。でも通ったけど出ないとかあるんじゃないみたいな話をしてた記憶もありますね。これ出せないんじゃないみたいな(笑)、やっぱりやーめたとかあるんじゃないとか。
――『パラッパラッパー』の開発を今振り返って、どうですか。
松浦氏:
いまの自分への戒め(いましめ)という意味で捉えていただいてもいいと思うんですけど、当時『パラッパラッパー』のスタッフのみんなに、すごく共通していた重要な雰囲気があったんです。それはみんなが持ってるスキルやバックグラウンドみたいなものを越境しようっていうエネルギーだったんですよ。だって、ラッパーの人にとってもラップとしては変だし、ゲームって視点で見てもすごくゲームらしくないし、音楽畑の僕でいうとそれまで「PSY・S」でやっていた音楽の表現とはすごい違っている。そういう部分で、誰もこういうものに長けた人がいなかった。だけど自分たちのバックグラウンドを越境してなにかを作るんだっていう、そのエネルギーだけはすごくあったんですね。
それが今も『パラッパラッパー』に教えられることですね。たまたまみなさんによく知ってもらえるようなタイトルができたお陰で、自分がすごい仕事しやすくなった部分もありますが、そういうところに甘んじるっていうことに対しての、独特なプレッシャーというか。
――先ほどの好きなキャラクターやステージは決められないという話もありましたが、松浦さんと『パラッパラッパー』のあいだにはとても奇妙な関係性があるように思えます。
松浦氏:
自分に子供がいないので、あまりピンと来ないこともあるんだけど、たぶん親御さんと子供さんの関係なんだろうなって思いますね。『パラッパラッパー』が親かもしれませんけど(笑)。要するにわかってるようなんだけどわかってない、でもお互いに信頼関係があったり、それぞれに違う世界を持っていて、そういうものを共有しているみたいな感覚なのかなあと思いますね。そう考えると気持ち的に楽になるっていうのかな。
――七音社と松浦さんは今度どういう方向へ向かわれるでしょうか。
松浦氏:
そういうわけで、ゲーム業界のなかでいろいろなタイトルに関わるチャンスをいただいて、ここまで20年間、途切れることなくやれてるのは非常にありがたいなって思っています。これからも続いていくかなと思いますね。でもあらためて作られたものの価値というか、遊んでいただく環境というか、そういう部分で我々にしかできないことっていうか、あるいはもっとこう、よりみなさんに楽しんでいただけるもの、そういうのを作っていきたいというのはありますね。たとえば、小さくてもいいんですよ。すごいちっちゃいタイトルでもいいので、そういう果敢な実験みたいなことはやっていきたいなと思いますね。
――昨年スマートフォン向けに『古杣(furusoma)』も出されてらっしゃいましたよね。
松浦氏:
3人で作ったんですよ。
――松浦さんも込みでですか?
松浦氏:
はい。3人でどこまでやれるのかなみたいな、そういう普通ではない取り組みっていうか。
――いまだに挑戦心にあふれてらっしゃいますね。
松浦氏:
それを裏返すと、みなさん何を思って作ってらっしゃってるんですかって、逆に聞きたいけどね(笑)。自分の作ったものでなにかが変わっていく、自分自身もふくめて何か考え方や心持ちが変わっていく、そういうことの足しにならなかったら、やってる意味ないなっていうのは、すごく感じますね。
――今後、『パラッパラッパー』の世界に戻ってくることはあるでしょうか?
松浦氏:
それはありえると思います。たとえばこの20年のあいだでも、『パラッパラッパー』がリマスターされて再販されるなんてこと、まったく考えてなかったですから、こういうことをきっかけに『パラッパラッパー3』みたいなものが作れるのなら、それはそれでいいことだと思います。ただ、難しいと思いますよ(笑)。続編作ることなんて考えてませんからね、当時。そういうところで、いま当時と同じような越境感みたいなものをみんなでどれぐらい出せるんだろうって考えると、なかなか難しいなって考える部分はあります。
――エネルギーやモチベーション、それを誘発するきっかけなど、難しいなと思います。
松浦氏:
また同じでもだめでしょうしね。それはそれで新しい取り組みでなければいけない。
――『パラッパラッパー』のファンの方、またリマスター版をプレイされる方にメッセージをお願いします。
松浦氏:
20年前にプレイしたことがある方には懐かしい部分もあると思います。その当時知らなかった人たちには、新しいものとしてまた楽しんでいただけるのかな。新旧親子対決じゃないんですけど、ジェネレーションやバックグラウンドを超えたところで、一つのゲームを共有していただける体験みたいなものがあれば嬉しいなと思いますね。
――ありがとうございました。
PS4®『パラッパラッパー』
http://www.jp.playstation.com/software/title/parappa-the-rapper-ps4.html
©2006, 2017 Sony Interactive Entertainment Inc. ©Rodney A.Greenblat/Interlink