『Ghostwire: Tokyo』レビュー。リアルに描かれた東京は素晴らしくも、総体としては幽霊のように実体を掴めないゲーム
ゲームというメディアを通じてのみ得ることのできる体験というものは間違いなく存在しており、本作はそういった体験をユーザーに提供してくれる作品のひとつである。だが残念なことに、それだけだ。自身がゲームであることを投げ捨て、あまつさえ提供したい体験を与えるための工夫も十分ではない。『Ghostwire: Tokyo』は魂だけしかない、肉体を喪失した虚ろな幽霊のようなゲームになってしまっている。
『Ghostwire: Tokyo』はBethesda Softworksより発売されたアクションアドベンチャーゲームである。開発はTango Gameworksが担当している。また、『DOOM』(2016)においてアニメーションディレクターを務め、プッシュフォワードコンバットやグローリーキルといった、特徴的な戦闘システムを手がけた原慎一郎氏が開発に参加している。プレイヤーは謎の般若面の人物によって引き起こされた大規模な超常現象を通じ人々が消失した東京を舞台に、未知の存在と対峙しながら事件の裏に潜む真相に迫っていく。
※本稿はPS5版でのプレイにもとづき執筆
極上の東京鑑賞と簡易なシューティングアクション
『Ghostwire: Tokyo』という作品は主に、「3Dマップの探索」と「シューティングアクション」という2本の屋台骨によって支えられている。うち「3Dマップの探索」については、極上と言っても差し支えないほどの体験をプレイヤーにもたらしてくれる。現代の東京を舞台に探索可能とした作品は数多く存在するものの、圧倒的な質量と写実的な造形美を両立させている作品は本作のほかにそう例を見ない。まるで毛細血管のように細道と坂が張り巡らされ、近未来的な建造物と築数十年は超えるであろう歴史を持った家々が、まるで最初からそうであったかのように自然と混在する、「東京らしい」風景を現実味のある形で作り上げることに成功している。ディティールへのこだわりも抜かりなく、外壁に付着した汚れは絶妙に不潔感が漂い、紙や布、木材、石材といったマテリアルごとのテクスチャも素晴らしい。広告の小さな文字まで読めてしまうのも最高だ。レイトレーシングによって壁面や水面にぼうっと反射する看板の明かりは、夜の闇と相まって幽玄な雰囲気を醸し出し、世界が実在する感覚をより一層のものにしてくれる。
なかでも筆者が気に入ったのは世界のあちこちで散乱している衣服や日用品の数々だ。本作では冒頭の事件を通じて、東京から主人公以外すべての人間の肉体が消失してしまう。その場に残された数々のアイテムは、その人が消える瞬間に何をしていたのか想像させる配置になっている。スクランブル交差点にはファッショナブルな衣服が、ショッピングモールには家族連れと見られる衣服が、工事現場には作業服がまとまった形で転がっている。侵入可能な家々の内装もそれぞれ異なる。片付けができておらず汚い部屋もあれば、見るからに裕福な部屋もある。これらのアイテムの存在によって、たとえNPCがほぼ存在せずとも、在りし日の賑わいや都市の息遣いをプレイヤーの脳裏に想起させてくれる。この環境ストーリーテリングの技術は、数々のホラーゲームを作り上げてきた制作陣だからこそ為せる技であると言えよう。
また、本作はあくまで「アクションアドベンチャー」と名乗っているが、主人公の敵が幽霊や妖怪の類であるということで、ホラー風の視覚的な演出も度々登場する。日本を意識したモチーフとサイケデリックな演出が融合した映像美はおどろおどろしくもありながら、どこかクスリと来るユーモアを内包している。たとえば新聞社に潜入するクエストでは、スポーツ紙風の煽り文をコラージュした壁が主人公の行く手を阻む。緊迫した場面にも関わらず、ふふっと笑いが漏れてしまった。血液や彼岸花など国産ホラーにお馴染みの素材に頼り切らないのが面白い。敵であるマレビトのデザインにしても、学生服や仕事着をモチーフとして使い、日本人らしい悩みから生まれた存在に仕上げている。
また、「きさらぎ駅」などのネット発怪談や、「令和」「新型コロナウイルス」(ゲーム内では「新型ウイルス」として言及)など現代の世相をはっきりと作品に落とし込んでいるのも興味深い。回復アイテムに日本料理を用いたり、東京の名所が渋谷風の名前となって登場しているのもあわせて、やはり本作はホラーではなく、日本の大都市における民俗をインタラクティブな形で紹介するゲームという趣が強い。
そうした高密度な「3Dマップの探索」の一方で「シューティングアクション」は非常にシンプルな作りになっている。4種の弾丸とジャストガードを駆使しての戦闘は、DualSense ワイヤレスコントローラーが持つアダプティブトリガーとハプティックフィードバックの機能を通じた没入感、鮮やかなエフェクトと『DOOM』(2016)の系譜を彷彿とさせるコア(敵の弱点部位)引き抜きの演出によって、夜に咲く花火大会のような賑わいを見せる。だが、内容としては非常にオーソドックスで単純だ。攻撃をタイミングよく防ぐか回避するかしながら、敵に弾を当て続ける。弾ごとの威力が直感的にわかりづらいため、射程距離によって弾丸を使い分ける必要性はあまり感じられない。
敵のモーションに関してもバリエーションが乏しいため、技術上達を通じた達成感は低く、少なくともノーマル難易度において、サポートアイテムを使う必要性もあまりない。こうしたシンプルな中身と低い難易度は「面白みがない」という評価を受けることもあるが、逆に「プレイヤーの障壁にしたくない」という解釈をすることもできるだろう。『Ghostwire: Tokyo』は戦闘を楽しむゲームではなく、日本の都市における民俗をゲームとして表現するために戦闘を組み込むことにした作品なの「かもしれない」。
幽霊のように実態がつかめない全体像
作品を評価する場において「かもしれない」などという文言は本来つかうべきではない。だが、私は最後まで分からなかった。この『Ghostwire: Tokyo』という作品が、最後まで「何をする」ゲームなのか分からなかったのだ。なお、「何をする」という言葉は「作品がプレイヤーに対し提示する課題や果たすべき目的」を指しており、「何を楽しむ」という意味ではないことに注意してほしい。楽しむという体験は、心理的な感覚ゆえ、誰かから与えられずともゲームとしての報酬体系の外に、能動的に発生させることが可能であり、だからこそただ山になる『Mountain』のような「課題の存在しない」ことを主題としたゲームが成立するのだ。
では「何をする」ゲームなのか分からないことがどういった問題を生むかというと、ゲーム側が用意する報酬体系――どのような課題を達成すると何が具体的なご褒美として待っているのか――をプレイヤーが理解できなくなり、「何がご褒美なのか」もわからなくなる。よって、ゲームが進行している実感を掴むことが難しくなり、本来あるはずの報酬体系の外側に楽しみを発見できなければ達成感や満足感を得られない状態になってしまう。ゲームとして用意したはずの行為が、人によっては単なる作業であると捉えられる危険性も考えられる。
そして、『Ghostwire: Tokyo』はプレイヤーの行動に対して得られる報酬が皆無だ。正確に言えば、報酬を与えられても、それが報酬であることが伝わってこない。散策やレベルアップを通じてスキルやアクセサリーを回収したとしても、まったくと言っていいほどプレイングに変化が起きない。せいぜい死にづらくなるくらいである。サブクエストにおけるプレイ内容のバリエーションに乏しく(ナラティブ部分についてはこの限りではない)、敵のモーションも少なめであり、苦労せず簡単にレベルを上げられる仕様であることがこの状態をより悪化させている。
プレイヤーに報酬が伝わらないため、何かを成し遂げたという達成感や充実感が沸かない。達成感や充実感が沸かないため、自分が意味のある行動をしているのかが分からない=何を目的としたゲームなのか分からない。だから変化の乏しさも相まって報酬が報酬であると伝わらない。という悪循環が発生している。果ては報酬がないことに由来する面倒臭さにより戦闘を避けるなどして、せっかく用意したシューティングアクションが腐ってしまう。筆者の場合はエンディングに到達した際、達成感よりも「いつの間にかクリアしていた」「コレで終わりなのか」という手応えのなさや、驚きのほうが先に来てしまっていた。
当然、先述したように「本作は東京鑑賞を楽しむことを目的としたゲームではないか?」という意見もあるだろう。仮にそうであるならば、シューティングアクションも、ストーリーも最初からいらないのではないかと私は思う。ユービーアイソフトが『アサシン クリード』シリーズの拡張コンテンツとして提供している「ディスカバリーツアー」のような形を採用したほうがいい。本作には「何をする」ゲームなのか、デザインの中に明確なビジョンが用意されていないため、シューティングアクションと東京鑑賞とストーリーが1つのゲームの中で綺麗にパッケージングされておらず、個々の要素がただ独立して存在するだけになってしまっている。内容を議論する以前に、なぜ実装しているのかも理解できないし、それぞれを結びつける必要性も感じられないのだ。特にストーリーに関しては、別途配信されている前日譚『Ghostwire: Tokyo – Prelude』を遊んでも、ちぐはぐなゲームプレイとの距離を通じて盛り上がりに欠け、イマイチな内容だと感じてしまった。
要するに、本作は「アクションアドベンチャーゲーム」として生まれたにも関わらず、「アクションアドベンチャーゲーム」になりきれていないため、用意されたガイドラインに沿って、ただ素直に遊ぶだけでは楽しみづらい中身になってしまっている。『Ghostwire: Tokyo』は、プレイヤーが自発的にゲームという枠組みの外にある要素に着目し(たとえば日本の都市における民俗や、背景の造形美のような)、独自の楽しみを発見して初めて、面白くなるゲームなのだ。
にもかかわらず、ゲーム側から「楽しみを発見する」ためのフォローに乏しいのが解せない。東京の名所に到着したり、新たな妖怪、マレビトに遭遇した際に、シームレスに開示される情報に乏しく、メニュー画面をわざわざ開いて読めるテキスト量も多くない。「日本語が理解できて」「東京に対する土地勘があり」「日本の民俗に興味がある」という、もともとゲームに関係のない素養のあるユーザー向けの中身になっているのは、大手パブリッシャーが世界の大衆向けに打ち出している作品としていかがなものかと私は思う。これでは本作の中身を空虚な作業であると認識してしまうユーザーが出現するのもやむなしである。
本作ではDualSense ワイヤレスコントローラーを用いると、主人公に取り憑いた相棒「KK」の声が手元にあるコントローラー内蔵のマイクから聞こえる仕様になっている。プレイヤーのそばでKKが東京案内や妖怪解説をしてくれたらもっと多くのユーザーが何か楽しみを見出すことができ、日本について興味を持ってくれるのになと幾度となく考えてしまった。
私達が普段生活している町並みを異なる人間の視点より描写することを通じ、改めて世界の複雑さ、美しさを能動的な形で認識させるという体験は、間違いなくゲームというメディアを通じてのみでしか成立し得ないものであると思う。事実、リアルに表現された渋谷風の世界を悠々自適に鑑賞できたことは、ほかでは味わえない体験だった。だが、やりたいことを実現させるために「アクションアドベンチャーゲーム」であることや、存分にやりたいことを味わわせるための「もてなし」それ自体がおざなりになってしまっては本末転倒ではなかろうか。目的と手段が逆転してしまっているように思える。『Ghostwire: Tokyo』は残念ながら魂だけしかない、肉体を喪失した幽霊のようなゲームになってしまった。霊感を持った限られた人間しか遊べないような現在から、今後アップデートを通じて、より多くの人に、面白く、日本の民俗を届けられる姿へ生まれ変わることを期待したい。