『真・女神転生Ⅴ』レビュー。強烈な風刺画として登場した、ほかでもない「今遊ぶべきRPG」

『真・女神転生Ⅴ』レビュー。強烈な風刺画として登場した『真・女神転生Ⅴ』は、ほかでもない「今遊ぶべきRPG」であった。また、システム面では総合的なユーザー体験の向上がみられる。



およそ5年ぶりの新作として発売された『真・女神転生Ⅴ』は、あくまでも今遊ぶことに意味があるRPGである。

日本の首都「東京」。それは秩序立っていながら、混沌としており、時に枷として人を縛りながらも、時に翼として人を天高く舞い上がらせる。孤独と孤独が出会う場所。固く結んだ縁を手放す場所。天使と悪魔の顔を持つ場所。トウキョウ。『真・女神転生』からおよそ20年近く、アトラスはこの二律背反の象徴のような街の崩壊を通じ、今生きている人間の内面をさまざまな角度から画面上に描き出すことを試みてきた。それはある種、年代ごとに街を捉えた風景写真のようで、その時々にしかない人間の顔を浮かび上がらせていたように思う。では、2021年におけるわたしの顔は一体どんな姿をしているのだろう。


歴代最高の品質に至ったゲームシステム


JRPGであることの弱点は、JRPGであることだ。JRPGは「コマンド式のターンベースな戦闘」をゲームに組み込むことそれ自体が作品の理念より先立つジャンルであるがゆえ、発展性に乏しい。「コマンド式のターンベースな戦闘」である必要性は作中で語られる物語の中にはなく、JRPGとは、その戦闘方式を楽しみ、遊びたい消費者の需要に応えるための形態であると言える。

だが、世に評価されたJRPGタイトルはさまざまな手法でもってそれぞれ高い個性を持つことに成功している。たとえば『ファイナルファンタジー』シリーズは、アクティブタイムバトルの採用によって「コマンド式のターンベースな戦闘」という概念を再解釈し、ゲームスピードをゲーム側がコントロールする、それによって没入感が生まれる、アクションゲームの特性を取り込んだ。『ポケットモンスター』シリーズは、初作から一貫して戦闘システムの大枠は変化していないが、ポケットモンスターという膨大な数のキャラクターを活かした特徴的なミニゲーム群を用意することで個性を演出している。戦闘以外の異なる楽しみを毎作用意することにしたのだ。

では『真・女神転生Ⅴ』はどうしたのかといえば、「ストーリー」で過去作との差分を強く演出し、システムに関しては過去作からの変化を抑え、遊びやすさの追求に舵を切っている。総合的なユーザー体験の向上がシステムコンセプトの特徴であることが読み取れる。

ならば『真・女神転生Ⅴ』はJRPGに対する挑戦を諦めてしまったタイトルなのか。いや、それは違う。そもそもとして、『真・女神転生』シリーズはその攻略難易度の高さというアイデンティティと先鋭化されたシステムにより、ゲームクリアまで至るプレイヤー人口が多くないという極めて大きな問題をはじめから抱えていた。高難易度と大衆受けを両立する作品は世に多いにも関わらずだ。

また、本作のシステムをひとつひとつ確認していくと、かつて挑戦の証として登場したものの、残念ながら散ってしまったものが再登場しているケースも見られる。『真・女神転生Ⅴ』は決して戦いから「逃げ」に走った作品ではない。かねてより持たれていた「遊びにくいイメージ」という最大の敵に対し果敢に挑戦した作品である。


本作における特徴としてまず挙げられるのは、『Ⅳ』がリリースされたニンテンドー3DSからNintendo Switchへ、ハードウェアの変更に伴う美麗な各種3Dモデルの導入と、画面拡大を利用した戦闘及びメニュー画面におけるUIおよびUXの大幅な改善だろう。

3DS時代は小さい画面の中に隙間なくギチギチの密度で情報が詰め込まれていた。携帯端末を通じて悪魔を操るという世界設定に合っているように思えたが、目をどこに置いていいかわからず視認性が良くなかった。特に戦闘に関しては視認性の悪さに加え、すべて一枚絵と簡易なエフェクトで表現されるため迫力が薄いという問題もあった。これは特にボス戦において顕著であり、盛り上がる物語や豪華なBGMとのギャップが大きく、興奮や没入を削いだ。凄まじい書き込みによって描かれたイラストは画面に大きく映るだけで迫力があるのだが、筆者としては不十分だった。

『真・女神転生Ⅴ』は画面の大きなNintendo Switchにハードを移したことで、余白がUIの中に生まれ、色以外の視線誘導が可能となり視認性が大幅に改善された。3Dモデルと美しいエフェクトの導入は戦闘における体験をよりリッチで充実したものにしている。特に攻撃の属性によって異なるトドメの演出は非常に凝っており、炎で倒せば焼き消え、氷で倒せば凍りモデルが砕け散る。HPを削りきる作業感ではなく、敵を自らの手で倒した実感が湧く良い工夫である。

『Ⅳ』シリーズで効果的な働きを生み出せなかった新たなダンジョン形式がスケールアップして登場したことも見逃せない。ジャンプとダッシュの実装に伴い、本作のダンジョンは上下階層を強く意識する広々とした構造となっており、美しいモデルも相まって、ポストアポカリプスに相応しい情景を作り上げている。加えて、プレイヤーを見つけた途端、とにかく接近してくるエンカウントシンボルの仕様も過去作から変化し、フィールドに登場する悪魔とのレベル差が大きければ、何をせずとも自動的にプレイヤーを避けるようになった(レベル差がなくても避けてくれるようになるスキルもある)。これらの仕様によってある程度余裕をもって探索をすることが可能となり、目的の強化アイテムを無駄なく取りに行くこれまでの形から、簡単な観光目的での周遊まで楽しむことができるようになっている。


肝心要の戦闘と育成については「プレスターンバトル」を軸に、高難易度をいかに快適に楽しんでもらうかというコンセプトのもと、さまざまなシステム群によって構成されている。まず前提として「プレスターンバトル」とは、『真・女神転生III-NOCTURNE』から登場し続けているターンベースの戦闘方式である。弱点をつくたびにターン内における自分の行動回数が一回ずつ増え(プレイヤー側は最大8回行動が可能)、逆に敵に有利な行動をとると、行動回数は減ってしまう。これは敵側の行動においても適用される。端的に言うと弱点を突き続ければ自分のターンが伸び、弱点を突かれ続けると敵のターンが伸びるという仕様である。

そしてこの戦闘システムの面白い点は「自分のターンを伸ばし続けるだけでは勝てない」という点にある。ただ敵の弱点を一方的に突き続けても、ステータス差や技のバリエーションで押し負ける。そのため、敵のステータスを下げる技や防御技を使う、もしくは、自らのステータスを向上させる技を用いなければならない。そしてこれらの技を用いてもターンは伸びない。「ここは補助に専念して次のターンに力を開放する」「本当なら攻めたいが、敵の弱体化が解けそうなので我慢する」「固定ダメージを与えるアイテムで弱点をつき確実にターンを伸ばす」といった、相手の使う戦法に合わせて的確な押し引きができなければ戦いに勝つことはできない。この傾向はザコ、ボスに共通して当てはまり、レベリング中であっても油断すれば簡単に負けてしまう。戦闘における緊張感は凄まじいものになっている。

その上で、前作では戦闘中のランダム要素として「パートナー」「ニヤリ」が実装されていたが、本作では続投ならず。代わりに発動タイミングを任意でコントロールできる強化要素として「マガツヒスキル」が実装された。発動にゲージを貯める必要があるが、ターンを消費することなく発動できる強力なスキルであり、強敵攻略の要として機能する。いつ使用するのかという部分で戦略の幅も広がる。これは敵も同様に使ってくるが、「次のターンに使いますよ」というアナウンスが予め入るのがありがたい。個人的にターンベースな戦闘の優れた点は「ゲームスピードを完全にプレイヤーがコントロールできる」「ランダム要素が少なく、戦略をほぼ確実に遂行できる」点にあると考えており、それを崩すことのない「マガツヒスキル」の仕様は前作よりも良いものであると感じる。


そんな難しい戦闘とは対象的に、下準備に関しては歴代と比較しても非常に快適なものとなっている。攻撃のダメージ量に直接関係するレベルこそ上げづらくなっているものの、クエストナビの存在によって消費アイテムや通貨であるマッカは時間をかければ簡単に集めることができ、それによって回復やショップの利用が容易になり、悪魔合体の自由度も増した。悪魔合体は手持ちの仲魔からおこなう場合と、過去に仲魔にしたものを有料で素材にしておこなう場合があり、後者は高額なコストがかかるため気軽に使用することは難しかった。だが本作では楽にマッカを稼げるため費用を惜しむことなく使うことができる。

悪魔合体と言えば、「逆引き合体」の実装により組み合わせと結果の確認が容易になったほか、自由に特定のスキルを獲得できる消費アイテム「写せ身」(これは『STRANGE JOURNEY』における「デビルソース」の入手方法をより簡単にしたもの)と「スキル適正」の続投によって、思い思いの個性的な悪魔を作り出すことがさらに簡単になった。

主人公のカスタマイズについてはポイント消費で獲得できる常在バフ「神意」(『Ⅳ』シリーズにおけるバロウズアプリに相当するシステム)と、レベルアップに伴うステータスの振り分け、「写せ身」を通じたスキルや耐性の組み合わせという、かなりシンプルかつ頭を悩ませるものへと落ち着いている。

総じて本作のゲームシステムは、核となる面白さを「高難易度な戦闘」と設定し、難易度が直接変動してしまうレベルの上昇速度こそ抑えつつも、過去作からの学びを活かした快適なゲーム体験を支柱に据えることで、シリーズの伝統である難しさと、幅広いプレイヤーが楽しめるような遊びやすさを両立している。『真・女神転生Ⅴ』は持てる知恵すべてを振り絞らなければ遊び尽くすことは難しい。だが難題を出して投げっぱなしにするのではなく、プレイヤーに対し努力を自然と促す設計がなされているのである。ゲームにおける難しさとは不快さを喜んで受け入れることではないということを証明してみせたのだ。


これは物語ではなく風刺画、そして選挙権


クオリティアップに全力を注いだシステムに対し、制約の大きいJRPGとして過去作と差を生むべく紡がれた『真・女神転生Ⅴ』の物語は、物事が時間の経過により推移していく「流れ」を楽しむコンテンツとしては薄味、淡白な中身になっており、素直に楽しむことは難しい内容となっている。キャラクターやバックグラウンドに関して掘り下げ描写が乏しく、結果、世界観に対する魅力があまり感じられないばかりか、衝撃的な展開を用意していても、遊び手としては物事が展開する理由がわからず、突拍子のないものに感じられてしまう。結果、全体的にカタルシスに欠ける。秩序と混沌を同時に内包した場所として、東京を作品の舞台に据えた意義こそ感じられるものの、学校や寺などのロケーションに関しては完全に色のない舞台装置化しており、登場させる意義が感じられない。これは『Ⅲ』以降のシリーズ作品においてどこか共通する「作風」でもあるのだが、筆者としては改善してほしい点である。

一方で、作品が持つ「テーマ」――物語という絵筆を使って描きたい一枚絵――に関しては歴代作品のテーマを覆す、興味深い内容になっている。統一された規範に守られる/虐げられるかつての時代から、多様性の時代に突入した現代の世情を、私達の普段に即した形で的確に風刺し、本作がシリーズ最新作であり「今遊ぶべきゲーム」であることに強く意味を持たせている。

※以下『真・女神転生Ⅴ』のストーリー(エンディング含む)、ならびに歴代シリーズの内容に関する多大なネタバレが含まれています。

















本作のストーリーにおける大きな特徴は、まず物語の前提として唯一神による支配が最初から崩壊していること。おそらく本作は『真・女神転生III-NOCTURNE マニアクス』における通称「アマラ深界END」の続編のような場所に位置するのだろう。悪魔が天使の驚異に怯えず、伸び伸びと生活している。

歴代作品において唯一神の存在は非常に重要な意味を持っている。世界宗教であるキリスト教の神というイメージや、単純にほかの宗教と神々を蛮族の思想とそのイコンとして悪魔に貶める役割(バアルとベルゼブブなど)だけでなく、普遍的価値観やアメリカナイゼーション的な概念の象徴としても登場してきた。そしてシリーズ主人公は多くの場合、彼、もしくは彼に連なる存在を最終的な敵と捉え、討ち果たすことを目標としてきたのである(彼を尊重してさらなる絶対的統制が敷かれた世界を望む場合もある)。

だが『真・女神転生Ⅴ』においては既に唯一神がルシファーにより抹殺され悪魔=他宗教の神々が自由に殺し合う時代が到来している。すなわち、統一された規範に支配される時代から、多様性の時代に突入したことを意味しており、多様性を容認することは、さまざまなアイデンティティを持った存在が自由に意見を戦わせることを容認するということも意味している。宗教とLGBTQの両立に関する問題。表現の自由と個人の尊厳に関する問題。移民と自国の貧困にまつわる問題など、私達は一歩外に出れば毎日さまざまな闘争に出くわすようになった。多様性の時代とは、まさしく混沌の時代。互いに譲れないものを賭け、徒党を組み血で血を洗う闘争の時代だ。

そうした前提のもと紡がれるのは、シリーズ恒例「Law」「Chaos」「Neutral」の3属性をベースにした3種類の主張が織りなす物語である(なおNeutralの存在が明文化されたのは『Ⅳ』から)。だが前提が覆った結果、それに合わせて本筋のテーマも異色そのものだ。特に「Neutral」属性において主人公がキーキャラクターになっていないことが大きな特徴になっている。これまでのシリーズでは外伝含め「Neutral」こそが正道という印象が強く、「Law」と「Chaos」はきっちりと物語は締まるものの、あくまで前座という内容が多かった。それこそ前作である『IV FINAL』では主人公と「Neutral」がフォーカスされた内容であった。だが本作では「Neutral」用のキーキャラクターが前もって存在しており、主人公=プレイヤーは基本、均等に用意された3つの主張の中から1つを選ぶ形式になっている。主義主張が先行する淡泊な物語はまるでマニフェストを読んでいるかのような感覚を抱かせ、先日おこなわれた選挙を思い起こさせる。


「Law」 ―― 多様な正義に振り回された青年の主張は「普遍的正義よる絶対的な秩序」。リーダーシップを他者に求めていた人間が自らリーダーになる成長を描くと同時に、かつて自身を見失う原因となってしまった「正しさ」を押し付ける側=悪魔へと堕天してしまう悲哀を描いている。強烈なリーダーは規範となるが、コミュニティに規範を押し付けるということでもあり、それによって苦しむ人間は必ず出てくる。また、絶対的な秩序の存在は「(秩序の絶対性を維持するためならば)結果的に正しければそれでいい」という、なぜその規範が正しいとされているのか、本来の意義を見失う可能性もある。

「何が正しいのか分からない」「自分の意見が持てない、個性がなく、何も自発的な興味が沸かない人間の立場はどこにある」という太宰イチロウの主張は、多様性の尊重を通じて個性偏重の世風が吹き荒れる現代人の意見として非常に自然なものだ。私の友人には彼のように「昔は共通の流行に乗っていれば楽しかったのだが、今は趣味がなくて困っている」「言うべき言葉が見つからず部下の指導に困っている」という悩みを抱えた人が何人かいる。何かを自由に主張できる世界は、何も主張することがない人間の存在を消し去ってしまうのである。

「Chaos」 ―― 東京のために尽くそうとする敦田ユヅルと越水ハヤオの主張は「多様性の導入による唯一神ではなく八百万の神々による統治」。多様性が何を意味するのかは先述した通りではあるが、ポイントは統治を人間ではなく神々に委託しているという点だ。間接民主主義と言えば聞こえが良いものの、彼の主張は「人間の力が及ばない神=住む世界の違う優れた存在が論争をすれば優れた判断が成されるだろう」という、エリート主義の肯定的な側面が強い。そしてエリートたちによる統治はエリートのための統治になる危険性を孕んでいる。そうなれば強い神と弱い神、そして神と人間との分断は加速し、分断はさらなる闘争を生む。多様性に端を発する混沌とした状況はますます混迷を極めていくことだろう。

「Neutral」 ―― 人間の可能性を信じているという八雲ショウヘイの主張は「神や悪魔がいなくなり、善い人間だけが存在していれば世界は良くなる」という非常にシンプルなものだ。主体的に善行をおこなえる賢い人間だけが存在すれば世界は勝手に良くなるということで、多様性を無理に促す悪魔や、秩序で人間の主体性を縛る天使を許さない。とうぜん両者を必要とする人間は愚者としていらない。あまりにも極端な思考回路であるが、同時にこれほどまで素朴な意見もそうない。

普段生活していて、誰かから迷惑を被った時、自然と「なんでコイツは存在しているんだ」と考えてしまったり、「個人として認識しない」ようにすることで心の安寧を図る人は少なくないだろう。「自分がたくさんいれば早く終わるのにな」という感覚を仕事中に覚える人もいるかもしれない。中には八雲のように、現実の行動に移してしまう人間もいる。気に入らない人間や悪事を犯した人間に対し暴言を投げつけたり、嫌がらせをおこなったり。結果として対象者が死んでしまってもお構いなしだ。私達はこんなにも自然に他者の尊厳を踏みにじることができる。

だがこの主張は最初から破綻している。「善いだけの人間」など最初からどこにもいないのだ。こんな主張をしている本人自身が、殺すべき悪魔を相棒とし続けていることがその証明になっている。

そして隠されたもう一つの「Neutral」……ほかでもない主人公の主張は、神魔こそ排斥しつつも、人間に関しては可能性を信じると共にありのままを尊重すること。ひいては秩序と混沌を同時に内包する東京という都市をまるごと手を加えずに受け入れることだ。尊重とは多様性と秩序の両立。これは言い換えれば、他人からの迷惑を受け続け、他人に迷惑を与え、さまざまな悩みを通じて苦しみ続けることに自覚的になり、決して何かに縋らず、決して手を出さず、その状態を許すことでもある。ラフムがいない樹島サホリはいじめられ続けるし、アブディエルと出会わない太宰イチロウは自信が持てず流され続け、コンスの助けがない敦田ミヤズは目標を見出すものの病気で死んでしまい、ユヅルは失意に暮れるだろう。彼らの未来は、彼ら自身にかかっている。

私たちはこの4つの主張から自分に合った意見を選んで投票しなければならない。合う者に投票するのもいいし、周回プレイでもコイツには絶対に投票しないというのもいい。ただ、権利を放棄することは許されない。現在進行系で発生している多様性に基づいた問題に対し、目を逸らさずに向き合い、自らのスタンスを改めて認識しなおさなければならない。


『真・女神転生』というシリーズは宗教的な題材を取り上げるその性質から既に政治的な属性を帯びたゲームタイトルであった。プレイヤーを今まさに目の前で発生している政治的な問題に直面させ、自発的な行動を強いるという点で本作はシリーズ中でも極めて高い政治性を誇っており、同時に単純な多様性賛美に対する痛烈な風刺画になっている。物語そのものの出来こそ残念ではあるが、歴代最高の品質を誇るシステムと合わせ、『真・女神転生Ⅴ』はシリーズ最新作として間違いなく「今遊ぶべきゲーム」である。

Takayuki Sawahata
Takayuki Sawahata

娯楽としてだけではなく文化としてのゲームを知り、広めていきたい。ジャンル問わず死にゲー、マゾゲー大好き。

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