『シャドウ・オブ・ウォー』レビュー。キャラクター自動生成機能「ネメシスシステム」は「物語」をいかに生みだすか?

「Middle Earth」シリーズにおけるキャラクター生成機能「ネメシスシステム」とは、一つのゲーム体験としてのストーリーの中で「物語の巨釜」と「料理人」の役割をどこまで「自動生成」に肩代わりさせることが可能なのかという、ビデオゲームだけではなく「ストーリーテリング」という概念そのものに関わる非常に重大な挑戦である。

普段あまり意識しないことだが、人間の生活は「物語」と密接な相関関係にある。人はフィクションとして創作された「物語」と「現実」を明確に区別しているようで、自然と自分の人生に物語性を付与しているものだ。たとえばこんな話を聞いたことはないだろうか。ある女性が日常生活を送っているうちに、ある男性と様々な場所で偶然にも出会い続ける。一回は偶然で済む話だが、二度三度と回数を重ねるごとに偶然とは考えられなくなり、その偶然は脳内で運命に変換される。ネクタイを締めている時にいい結果がでる、右足から玄関を出ると悪い結果がでるなどのゲン担ぎも、偶然に意味を持たせているという意味で同様の精神作用といえる。それらが単なる偶然の積み重ねだとしても、人はそこに何かの因果関係という物語を求めずにはいられない。偶然起きた全ての結果に対して物語性をこじつけ、良くも悪くも人生を一篇のフィクションに落とし込んでしまうある種の業は、人間にとって「生きていくための知恵」であると同時に、「物語に縛り付ける呪縛」でもある。実は人にとって人生は、創作活動そのものなのだ。

「ホビットの冒険」「指輪物語」を著したファンタジーの大家J・R・Rトールキンにとって、「物語」とはすなわち「ファンタジーの世界 」である。言語学者であった彼が作り上げた言語体系に、神話的裏付けをつけるために創造された希代の傑作は、「現実」から徹底的に乖離することに極めて強い情熱を注がれたものだ。だが、「現実」と「物語」が密接不可分の関係であるのと同じように、「物語」と「現実」も完全に切り離せるものではない。高度に構築されたハイファンタジーは、現実とはまったく別の世界を読者に信じさせる魔力を持つが、その世界にはやはり文化、歴史、風俗、社会構造、そして言語がある。それらが現実社会のそれとまったく違ったとしても、人間がそれを読んで理解し共感するだけの「現実社会との重なり」が必要だ。そして物語にはそこで起こる事象への恣意的な選択と意味づけが不可欠であり、その役割は「準創造主」である作者にその全権が委ねられている。

トールキンはまた、「ファンタジーの世界」 の創造に関しては、“古来から煮え続けてきた大鍋に無数に投げ込まれてきた物語の素材から出来上がるものである”という主張をしている。つまり材料は、もともと未整理のまま散らばった「お話」「場面」「人物」などが存在しており、作者である「料理人」のディレクションによってその形をなす。トールキンにとって「物語」の文法は、つまりそのようなものだ。

そして端的に言えば『Shadow of Mordor』『Shadow of War』(以下、シャドウ・オブ・ウォー)と続いた「Middle Earth(中つ国)」シリーズにおけるキャラクター生成機能「ネメシスシステム」とは、一つのゲーム体験としてのストーリーの中で「物語の巨釜」と「料理人」の役割をどこまで「自動生成」に肩代わりさせることが可能なのかという、ビデオゲームだけではなく「ストーリーテリング」という概念そのものに関わる非常に重大な挑戦である。それは神である「創造主」ではなく、人間である「準創造主」でもない、「準準創造主」というべきシステムがどういった夢をみるかという観点から検証すべき、一種の壮大な実験だ。

当然のことだが、『シャドウ・オブ・ウォー』にはトールキンが十年以上の歳月を費やして創造した「中つ国」という精緻で巨大な骨格をもつ設定を基にしたメインストーリーが存在する。前作から引き続き、エルフの幽鬼ケレブリンボールの力で不死身となったモルドール人のレンジャー「タリオン」が、冥王「サウロン」の軍勢と戦う。「ホビットの冒険」「指輪物語」の世界観を補完する時系列での物語だ。

ストーリーラインの流れは本質的にシンプルなものであり、モルドールの砦ミナス・モルグルの陥落という劣勢状態から、オークの支配する砦を攻略、傘下に加えつつサウロンを追い詰めていく「戦記もの」の体裁を採っている。それと同時にいくつかの派生サブクエストを追いかけることで、世界観に対する理解を誘導するというゲームデザインは、モダンなオープンワールド風ゲームのテンプレートだ。それは決して悪い意味ではなく、前作から評価の高かった戦闘システムもほぼ踏襲しながら完成度はブラッシュアップされており、全体的に高レベルで爽快感を感じるものとなっている。これらの要素だけで一つのゲームとして完成されているかといえば、完成されていると答えることができるレベルだ。

一方で、本作は興味深いことに、メインストーリーだけでは内容的な意味で絶妙に“薄い”構造になっている。つまりゲーム体験の半分を開発者「通常のビデオゲーム」として作成し、残り半分を「ネメシスシステム」というランダム性の強いシステムに委ね、プレイヤー一人一人に対する独立した物語の提供を模索している。「物語」を開発者 とシステムの共作で作り上げるというこの実に魅力的な試みが、はたして成功しているのか失敗しているのか。それこそが本作に対する評価軸であり、成否の分水嶺だと断じて構わないだろう。

『シャドウ・オブ・ウォー』の「ネメシスシステム」は、登場キャラクターの自動生成をその基礎としている。対象は敵の主力であり、同時に支持者と呼ばれるプレイヤーの配下でもあるオーク(ウルク)のみに限られるものの、設定されている要素は多岐に及ぶ。略奪と宴を好むマローダー、冥王の信奉者であるダークなどの特色を持つ「部族」が7種。さらに、常に配下を従えるコマンダー、敏捷なトリックスターなどのクラスが10種類。二つ名や台詞の種類は無数に存在し、その上レア度もそれぞれ違う。弱点や耐性、特性、兄弟関係やライバル関係も含めると、同じキャラクターが出現する可能性は極めて低い。プレイヤーはその個性豊かなオーク達を相手に戦い、あるいは支配下においてその地域の砦を攻め落としていくことになる。限定的だが同じキャラクターが出てこない世界。それは「ネメシスシステム」の面白さの一側面であり、ゲームシステムそのものを語り部とするデザインの素地ではある。しかし、同一キャラクターの不出場は、プレイヤー独自の世界に関するオリジナリティの演出効果はあるが、「物語」を直接形成する要素とは微妙に違う。重要なのは、その多彩なオーク達が「何をする存在」として、「何をしない存在」として設定されているのかということだ。

通常、マップ上をうろうろと移動している小隊長オークは、各々の行動原理に基づき別の小隊長と決闘をしたり、グールを狩ったりしている。プレイヤーはその行動に干渉しながら砦の陣容を調査、あるいは探索することになる。各オーク達はタリオンとの因縁を覚えており、タリオンがそのオークに敗れたことも、逆にオークが敗走したことも覚えている。それはおもに台詞と二つ名の変化、ランクや部隊内での地位にも影響する。倒したはずの相手が復活して突如奇襲をかけてくることも、恥をかかせた相手が錯乱して狂ってしまうこともある。あるいは、何度も倒した相手が強力かつ醜悪な姿に変化して再び襲い掛かってくる。

「断続的に続く関係性」は、プレイヤーとその相手との間に小さな物語を発生させる一つの要素だ。軍団長の護衛を支配下に入れて間諜として放っておけば、突如その軍団長を裏切ることもする。 あるいは気分屋のオークが、こちらを裏切って攻撃してくることもある。さらにモブのオークすらタリオンを打倒することによって小隊長に昇進し、物語の中に突如切り込んでくることすらある。唯一、ゲーム上のオークは主人公タリオンと“恋愛関係”になるようには設定されていない。これは実にバカバカしく思われるかもしれないが、ランダム生成された個性が「何をしない」のかは、その世界の色合いを決定づける重要な要素である。『シャドウ・オブ・ウォー』では、あくまでもキャラクター生成の指標は戦闘、あるいは戦争につながる段階の性格付けに留まる。それはつまり、物語を乱雑な形成にさせないために神が指し示したタクトの方角であり、ゲームプレイ上よく機能している。

ただし、例示したランダムな個性の出現と行動は、その一つ一つがミニマムな、あるいは一局面の物語性を付与するには足るものだとは言え、それを切り取って眺めてしまえば、物語の中核を成立させるまでの大きさにはなり得ない。それらは小さなイベントの一つであり、互いに関連性を持たないイベント同士は、衝突もしないが融合もしていないのだ。つまり相関関係のまったくない偶然起こった出来事と偶然起こった出来事でしかない。しかし冒頭で述べたように、人間という生き物はそのことに耐えられない奇妙な性質を持っている。

筆者のプレイ中にあった出来事だ。本作には死に際にタイミングよくボタンを押すことで復帰できる「ラストチャンス」というシステムがあるのだが、連続で瀕死になる、あるいは「無慈悲」のスキルを持つオークの攻撃により、それが発動せず死が確定することがある。プレイヤーであるタリオンにとって、「死」は時間のロールバックを意味せず、局面は確実に不利に動くため、それは非常に緊張感が走る瞬間だ。

しかしその瞬間に支持者のオークが敵のオークを倒して救出してくれることがある。4章クリアまでの間にそれが2回。その後、序盤に自分を助けてくれたオークは、護衛として活躍するも瀕死常態で放っておいたところ、突如タリオンを裏切った。しかも支配を拒む「鉄の意志」スキルが付き、最終的にはレジェンドになるまで育ってしまう。能力的にも、厚意に報いなかったというこちらの心理的な負い目という点でも、倒すのに非常に苦労した。それは一つのイベントでしかないが、筆者のゲームプレイはそれ以降、支持者の瀕死を決して見捨てないプレイに変化した。そして終盤の攻城戦、ほぼ勝ちが確定している場面で油断により死ぬ瞬間、新参の支持者に助けられて勝利を収めた。その後、その砦の首領に新参の支持者を指名した。そんな顛末があった。

どういう理屈をこねまわそうと、一回目の救出と二回目の救出は個別に出現している独立したイベントだ。相関関係などあり得ない。しかし、やはり人間の業は無関係な偶然のあいだに必然、つまり極めて独善的な「物語」を創り上げる生き物なのだ。筆者は最初のオークの救出と裏切りを「自己の不徳が呼んだ最悪の結果」と考え、その後のプレイスタイルを変化させ、二回目の救出を「行いの変化がもたらした良い結果」だと捉えた。オークへの論功行賞もその作用だ。人の心が小さなエピソード群を大きな一つの教訓と成長の「物語」へと変化させた訳だ。何度も言うが、それはランダムに作られた個性のランダムな行動でしかない。本作は人が持つ逃れられない物語性への欲求をすこぶる有効に活用して、そこに各人独立した「物語」が発生する可能性そのものを創り上げている。特筆すべきは、ネメシスシステムはあくまでも可能性を提示しているだけであるということである。それは筆者と同じ「物語」を他のプレイヤーが追体験しないだろうという確信でもあり、同時に他のプレイヤーにはまったく別の「物語」が発生しているかもしれない、あるいは「物語」が発生していないという可能性が完全に並列して存在しているという点だ。

しかしながら、さらに踏み込んだ言い方をすれば、本作で発生するシステム依存の「物語」は、同時に個々のプレイヤーの想像力に依存している。ビデオゲームというものは本来的にアクティブな精神作用を必要とするものだが、本作ではそれが異様なほど際立つ。完全に効率を追い求めたプレイング、あるいはゲームが非常に上手いプレイヤーが死なないプレイをすると、物語性が薄まるかもしれない。簡単に言えば、絶対に死なないプレイをしてしまえば「救出」のイベントはそもそもあり得ず、モブに倒されなければ突如それが小隊長として戦線に投入されることもない。隙がないプレイに物語は生まれづらく、逆に言えば「故意に死ぬ」「故意に敵を逃がす」「故意に不利な状況を作る」ような「縛り」に近いプレイをした方が、物語が生まれる可能性が高い。

つまり本作において「開発者」と「システム」での共作を模索した壮大な「物語作成」の実験は、人間という生物が持つ普遍的な性質への慧眼によって成功に近い場所まで辿り着きながらも、独自の物語を成立させるための「プレイヤー」の想像力と努力への依存という要素をぬぐい切れていない。言い換えれば『シャドウ・オブ・ウォー』は、攻城とそのための軍団という要素を加えてその割合は劇的な変化をしてはいるものの、本作は「開発者」「システム」と「プレイヤー」の共作であり、目指すべき地点とはまだ少し離れた場所に着地している。成否の判断をすれば、「部分的成功」にとどまると言わざるを得ない。惜しい。だが、同時にまだ遥かに遠い。

前述のようにトールキンは神を「創造主」と呼び、物語の作者を「準創造主」と呼んだ。そして人間に設定されたシステムはやはり「準準創造主」と呼称されるべき存在なのだろう。しかし、それは決して人間の下位の創造的可能性という意味ではない。むしろこの自動生成への挑戦は、自分の人生ですら虚構の手垢に沈めてしまう存在である人間には決してできない、「恣意」や「寓意」を取り除いたピュアな物語生成への可能性を強く感じさせるものだ。2作を通じて「中つ国」を駆け抜けたタリオンとケレブリンボールの物語は終焉を迎えたが、ネメシスシステムの物語はまだ一歩を刻んだばかりだ。個人的にはこの「分」を超えた野望に対し、賛辞と快哉をこめてその旅路を「準創造主」を超えるためのものではなく、「創造主」への不遜な挑戦だと呼びたい。

Nobuhiko Nakanishi
Nobuhiko Nakanishi

大学時代4年間で累計ゲーセン滞在時間がトリプルスコア程度学校滞在時間を上回っていた重度のゲーセンゲーマーでした。
喜ばしいことに今はCS中心にほぼどんなゲームでも美味しく味わえる大人に成長、特にプレイヤーの資質を試すような難易度の高いゲームが好物です。

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