『龍が如く6 命の詩。』レビュー。「桐生一馬」という男の圧倒的存在感による功と罪
洋の東西を問わず、全ての「物語」には主役を担う特徴的な存在が必要だ。その人物(あるいは擬人化された何か)は、人知を超越した能力を必ずしも持つ必要はないが、少なくとも物語の世界に登場する一般人とは絶対的に違う部分を持っていなければならない。
古くは「ギルガメッシュ叙事詩」におけるギルガメッシュや、「ラーマーヤナ」におけるラーマなど、いわゆる「英雄譚」に類型される物語の中では、主人公は「ヒーロー」であることが必要になる。ヒーローと言っても、聖人君子であることは必要とはされない。たとえばギルガメッシュとラーマを比較すれば、前者が暴君と仁君の二面性を持つ英雄であるのに対し、後者は模範的で規範的な英雄として描かれている。ただし、その「傑出した強さ」「圧倒的な影響力」は、どの文化圏の英雄譚でも、どの時代のヒロイックストーリーでも、必要最低限な要素として表現される。人々がそれら英雄譚に求めるものは、主人公達の「人格」ではなく、全てを吹き飛ばす力を持つ暴風のような存在への畏怖や憧憬、さらにはそれらを根源とした人間心理である。つまり「ヒーロー」あるいは「英雄」とは、時代をどこまでさかのぼっても、その強さを絶対的な拠り所とする一種の「現象」であると言い換えることができるわけだ。
そう考えれば、『龍が如く』シリーズは「桐生一馬」というヒーローが織り成す一種の英雄譚だ。2005年の『龍が如く』発売以降、知名度、売り上げ共に看板タイトルとして「SEGA」のブランドを支えるIPに育ったのは、主人公「桐生一馬」の持つ非常に優れたキャラクター造形と、それを最大限に生かす物語があったからといってもよいだろう。『龍が如く』にて描かれてきたのは、ヒーロー「桐生一馬」と人間「桐生一馬」の間の相克の物語である。登場時点から「暴力団構成員」「人殺し」の汚名を被った一人の男が、世間から許容されるのか否か。あるいは血の繋がりの無い家族である澤村遥と彼との「擬似的な親子関係」の行き着く先はどこなのか。虚像と実像、日本社会と犯罪者、親と子という普遍的なテーマを、龍の刺青が今でもしっかりと彫られた「桐生一馬」という男の背中を通じ、時にシリアスに、そして時にコミカルに浮き彫りにしてきた。『龍が如く』は、まさしく「桐生一馬」という存在の大きさなしでは意味を成さない物語だったといえる。
桐生が抱える“矛盾”と、プレイヤーとの“溝”
「桐生一馬最終章」という謳い文句と共に、シリーズの区切りとして発売された『龍が如く6 命の詩。』の注目点は、まさにその「桐生一馬」の英雄譚の決着につきる。シリーズで語られてきた物語のテーマにどう決着をつけるのか、今までの話にどう折り合いをつけるのか。だがそこに触れる前に、「桐生一馬」というキャラクターの造形についてもう少し深く掘り下げたい。
その風貌、経歴、言動から、一見すると能動的でアグレッシブに話に関わっていく存在に見られがちな彼だが、意外なことに桐生一馬が自分でメインストーリーに積極的に関わっていく場面はほとんどない。ほぼ最終局面に至るまで、物語は彼自身が常に大きな陰謀や謀略、権力闘争に翻弄され続ける形で進んでいく。桐生一馬は、自分の意図しないトラブルに巻き込まれながら無自覚にストーリー形成に大きく関わっていく、いわゆる「巻き込まれ型」のヒーローである。この「巻き込まれ型」は日本では非常に一般的なキャラクター造形だ。有名どころで名を上げれば「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」などは典型例と言え、「るろうに剣心」あるいは「仮面ライダー」なども初期は自分の意思で戦う訳ではないという意味では非常に近い。ゲームシステムにもそれは現れており、『龍が如く』シリーズではモブとの戦闘でさえ表面上は自分から仕掛けることができない。あくまでも「向こうから喧嘩を売られる」のだ。往来を道ゆく人に攻撃を仕掛けることなどできず、街に対する破壊行為も一部を除いてできないようになっている。シリーズ最初期は技術的な問題などあったかもしれないが、それから11年間続いたシリーズで「自由な暴力」が不可能であり続けたのは、制作者の意図するところであったのではないだろうか。
またヒーロー「桐生一馬」は、たとえ内面的に「受動的」であったとしても許されない、彼ならではの特殊な事情を持っている。「彼がヤクザである(あった)」という事実と、「少なくとも世間的には殺人を犯している」という過去、これ以上ないほどに「社会悪」を体現している2つの事情だ。確かに紆余曲折ありながらも、彼はナンバリングの初期段階でヤクザ社会から足を洗っている。しかし、それでも彼は白に近いグレーのスーツにワインレッドのシャツ、蛇皮の靴の着用をかたくなまでに変えようとしない。背中の龍の刺青が残っていることも気にしていないどころか、むしろ誇りに思っているようなフシすらある。彼はシリーズを通して延々と勘違いしているが、世間一般から見た「ヤクザ」とは、「暴力団に名義が存在している人物」ではなく、「眼光鋭く周りを威圧するような格好で街を闊歩する人物」という、視覚的に恐怖を感じる存在の方を指すのである。シリーズを通じて、彼の性格や性分は受動的であるのだが、その存在そのものが能動的かつ攻撃的であり続けているのだ。プレイヤーはそれを全て理解しているが、唯一「桐生一馬」だけがそれを知らない。そこに造形としての「桐生一馬」の魅力と矛盾、そして時にユーモアが混在している。
『龍が如く3』以降、沖縄で孤児院を営み始めた頃から、彼は完全に極道社会から明確に距離を置く努力をしはじめる。自分にとって大切なのは「澤村遥」であり、「孤児院の子供達」という擬似家族を築こうとする。しかし彼がどう努力しようと、ストーリーの最終局面では「堂島の龍」として闘う状況に追い込まれる訳だが、それは巧みな表現による詐術でしかない。本当は、「桐生一馬」は自覚して「堂島の龍」の顔を剥き出しにするのだ。もう誰も解決できないほど複雑に絡まった物語を、彼一人の拳で一気呵成に、無理やりに壊す「究極の暴力装置」として。プレイヤー的には物語の終盤を飾るその場面こそが、ゲームプレイ中で最も大きなカタルシスを感じる瞬間ではある。「現象」としてのヒーローが「圧倒的な力」で他をねじ伏せる場面は、見るものに生理的な爽快感を与える。ただ、一個人としての「桐生一馬」はそうは思わない。彼は物語の終わりで楽しげな顔を見せたりしない。達成感など感じていない。何故なら彼は自分のやったことを常に後悔しているからだ。「澤村遥」や「孤児院の子供達」にとっては、マイナスでしかないことをやってしまった。何回繰り返せばいいのか、どうすれば良かったのか。その自問はプレイヤーにも伝わる。大きな矛盾を抱えながらも、その矛盾を彼自身が解決できないでいるからこそ続いていく『龍が如く』という物語。ヤクザとしての桐生一馬にカタルシスを感じる「プレイヤー」と、ヤクザであることを悩む「桐生一馬」の間にある埋まらない溝。その複雑さこそが「桐生一馬」というキャラクターが愛される理由であり、『龍が如く』シリーズを支えてきたもっとも大きな柱は間違いなく彼自身の魅力なのだ。
溝が埋まりゆく中で桐生は“諦観”する
『龍が如く6 命の詩。』の物語は冒頭、桐生一馬が今までの行いの落とし前をつけ、綺麗な身体になるために入った刑務所から出所する所から始まる。しかし自分のための禊の期間は「澤村遥」「孤児院の子供達」にとっては単純に保護者不在の期間でしかない。その間に澤村遥は失踪、彼は物語が始まった瞬間から自分の軽挙のツケを払わされる訳だ。プレイヤーはそこにいつもの『龍が如く』(=桐生一馬と自分の視点のずれ)を感じる。この既視感が『龍が如く』だと。ところが話が進むにつれ、話が中盤、終盤に入ると、プレイヤーは徐々に「桐生一馬と自分との間の溝が少しずつ埋まっている」ということに気づかされることになる。それは『龍が如く 2』以降、物語の本筋に大きく絡むことがなくなっていた「澤村遥」が再び物語の中心に据えられ、プレイアブルキャラクターが複数人から桐生一馬ただ一人に原点回帰したことによって、作中での彼のこれまでの行動を省みる場面を非常に作りやすくなっていることに起因する、狙いすました演出効果だ。遥の親代わりとして常に行動してきた彼だが、果たして今まで自分がしてきた行動は誰かの親としてふさわしい行動だったのか、遥の行方を追っていくストーリーテリングの中で桐生一馬は自問し続ける。親の愛情というものを知らずに育った孤児である彼が、見よう見まねで作った家族。常に頭の中心を占めている「はず」だった遥への愛情の向け方、育て方が正しかったのかどうか。現実問題としてそれが成功したのかどうかが問題なのではなく、過去の行動に確信が持てなくなった桐生一馬という男が、齢48にして感じる「家族」に対するとまどい。人間なら誰しも感じたことのある過去への疑念。そこにいたり、常にズレが存在していた桐生一馬とプレイヤーの視点が重なり合う瞬間が生まれる。結局、元暴力団で殺人者の汚名を被った男を、世間は永遠に許したりなどはしない。自分がどんなに子を思おうと、その子は自分の思い通りの未来を描いてはくれないのだ。そして、彼がどんなにそれを否定しようとも、彼の背中の刺青は「堂島の龍」として、彼の存在を期待する新宿という街の「希望」として、彼自身が持ったそもそも生まれ持ってきた天性の「暴力装置」としての業からは逃げられない。最終章にして彼がようやく持ちえたある種の諦観は、プレイヤーの認識とシンクロし、感覚的にこれが最後の物語だと実感できる作りになっている。
物語の大筋としてはかなり賛否が分かれるであろう挑戦的な内容となった今作ではあるが、だからといって、その「生き方を選んだ」のではなく、「それしかできなかった」不器用な無敵のヒーロー「桐生一馬」の英雄譚。その終章を飾るのに、これ以上ふさわしい締め括り方は存在しなかっただろう。
“あえて”選ばれた桐生の戦闘
物語としての完成度は非常に高い反面、桐生一馬の成熟とともに成熟したとは言えないのが、そのバトルシステムである。アクションアドベンチャーというゲームの性質上、バトルシステムはどうしても作品のゲーム体験としての楽しさ、面白さを左右する非常に重要な要素であるが、最終的に『龍が如く6』のそれは未完成と思えるものだった。一対多人数における戦闘システムは、『Batman: Arkham』シリーズの「フリーフローコンバット」で一つの完成形を見ている。「ガード」という概念を排除した「カウンター」と「攻撃」というシンプルな基本操作。「敵との距離」「敵との角度」をある程度システム側がフォローすることによって、多人数相手にも流れるようなムーブメントで映画のようなアクションを可能にしており、しかも簡単でありながら奥深く、アクションゲームにおいて非常に重要な要素である「上達の喜び」をしっかりと実感させてくれる。一方、『龍が如く』シリーズも回を重ねるごとに「ガード→反撃」「スウェー→反撃」「捌き→反撃」「カウンター」など、要素的には「フリーフローコンバット」のものを揃えてきてはいたものの、入力のシビアさや行動成功時のリターンの少なさから、効率的な意味でどうしても単純な強行動の繰り返しに頼らざるをえなかった。その上、今作に至ってはヒートストックの使用で発動できる「アルティメットヒートモード」という、スーパーアーマー効果が付与され被攻撃時のひるみをある程度無視して攻撃し続けることができる新システムが追加された。前作でも一部主人公で使えたこの能力のお陰で、戦闘は今までよりも一段と大味になった。しゃがみこんでいる敵にも攻撃が当たるようにモーションが調整されていたり、わざわざ能力強化せずとも基本的な技は最初から揃えられていたりと、ストレス軽減のための工夫は感じるのだが、それ以上に一部技の汎用性があまりにも高い。物語が進み能力値が上がることにより「強くなった」という感想を得られたとしても、「上手くなった」という手触りがないバトルシステムは、このゲームのアクションパートを確実に退屈なものにしている。その点では同社が過去に発売した『シェンムー』の捌き、避けを基本ににした戦闘システムの方が、完成度を別にすれば先進性と「上達の実感」という意味では優れている。
ただ、『龍が如く』シリーズでは、アクションパートにさまざまなアプローチをしてきた経緯も確かに存在する。特に『龍が如く4』での主人公である谷村正義の戦闘スタイルは、「一対多人数」のバトルをかなり意識して作りこまれた完成度の高いものであった。合気道をベースにした「捌き」による受け流しや「掴み」からの派生は、非常にスタイリッシュな「攻撃を食らわないこと」を前提にした戦闘を楽しむことができた(一応、今作にも捌き技の概念はある)。これはシリーズを通して秋山駿、冴島大河、真島吾郎、品田辰雄など数人の主人公を使い、新しいバトルシステムを模索してきたシリーズ中でも白眉の出来であり、当時は今後のシリーズ作品に新しい可能性を残していた。
それではなぜ、今までけっして新しいシステムに挑戦してこなかった訳ではない制作陣がそれでもなお、今回非常に古めかしい、悪く言えば乱雑な戦闘システムを桐生一馬の最終章で選んだのか。好意的に捉えるなら、やはりそれが「桐生一馬」だからなのかもしれない。何度も述べているように、『龍が如く』シリーズは桐生一馬という「絶対的ヒーロー」ありきの物語である。そして桐生一馬は決して捌きやいなしを主戦力としてスタイリッシュに戦ってはいけない存在でもある。なぜなら彼は本質的に「喧嘩屋」であり、攻撃を受けても受けても立ち上がり向かっていく漢(おとこ)だから。華麗に敵の攻撃をいなすくらいなら、攻撃を食らっても食らっても、それをものともせずに気合で立ち向かっていく方が、より「桐生一馬」らしいのは確かだ。その表現のためならバトルシステムが多少退屈でも構わない。という割り切った態度はある意味すがすがしさすら感じるが、なんの先入観なしにこのバトル部分だけを抽出して眺めた場合に高く評価できるものではないということも、無視できない事実である。「堂島の龍」の存在感はそのシステム面の進化を阻む縛りとしても強烈に作用してきた。
総評
総評すれば、桐生一馬の最終章である『龍が如く6 命の詩。』は、制作側の惜別の気持ちをふんだんに盛り込んだ、まさ「桐生一馬の桐生一馬による桐生一馬のための」作品と呼ぶべき一種の愛情の到達点である。ゲーム内の全ての要素を「桐生一馬」を表現するための舞台装置として利用し、「圧倒的な力を持つ現象」としてのヒーローを老境に差し掛からんとする一人の男として着地させた。一つのゲームとして考えた場合、進化した点もあれば、むしろ退化すらしている部分もある上、その決着のつけ方に対する賛否の意見も決して否定はしない。しかし齢「不惑(40歳)」をとうに越えて迷い続けた一人の男が、48歳にして急激に「天命を知る」に至る物語には、有無を言わさない煮えたぎる溶岩のようなパワーが確かにその底で息づいているのも間違いない。常に勝ち続けること、常に負け続けることを同時に運命づけられた、独特な彩色で輝きを放つ一匹の「龍」が、初めて感じる無力感と虚無感の果てに辿りつく場所がどこなのかは分からない。しかし、それでもまた歩き出すであろう桐生一馬という男のくたびれた肩にそっと手を置いて、「お疲れ様でした」と心の中でエールを送りたくなる。そんな作品ではあった。
余談になるが、本作品の主題歌である山下達郎の「蒼氓」。その題名「蒼氓」とは「生まれ、生き、そして死んでいく無名で、普通の人々」という意味を持つ言葉である。