「見えている地雷」など存在しない

「見えている地雷」という言葉をご存知だろうか。いうまでもなく地雷とは本来土中に埋めるなどして見えないようにしておくのが重要な兵器だが、それが見えている状態――あからさまに、誰の目にも危険があきらかであることを指して使われる言葉である。ゲームの場合は、公式から発信される発売前情報、PV、あるいは雑誌のレビューなどで、なんらかの問題や質の低さが見出されているタイトルがこう評されることがある。逆に「発売前の評判や期待に反して発売後の評価が低い」というようなタイトルはたんに「地雷」と評される。

さて、私がしばしば人から聞かれる事のひとつに「なぜあんな見えている地雷を買ったのか?」というものがある。いわく「雑誌レビューで不評だった」「あのトレイラーはヤバすぎる」「発売までゲーム画面がほとんど公表されなかった」等など。「見えている地雷」として認定される条件には各人のブレがあるものの、おおむねこのような理由に分類されるのではないだろうか。

さて、そうした質問についてだが、私はこう答えるようにしている。「見えている地雷など存在しない」だ。

 


自分で踏んでいない

 

たとえば、私の購入予定に入っているタイトルがあるとする。どうやらレビューの評価はおよそいまいちであったらしい。では私がその事実を知ったとき、そのタイトルの購入を取りやめるだろうか。もちろん答えはノーだ。私がそのレビューと同じ感想をいだくとはかぎらない。どのようなレビューであれ、あるいはMetacriticのスコアであれ、それはそのゲームをプレイした人間の目を通した一つの意見・評価にすぎず、ということは人間がかわれば評価がかわる可能性もある。自分にとっての良作が誰かにとってのクソゲーであることはよくあることだ。

もっとも、これは「他人の評価を全く信用しない」などと言っているわけではない。実際にそのゲームを遊んで出てきた意見であるなら、どのような内容であれ私は尊重するし信頼する。ただし、私にとってそうした他人の意見が価値を持つのは、むしろ自分で遊んでみた後のことだ。とくに自分で面白さが見いだせなかった場合などは「なにか遊び方を間違えているのではないか」と、高評価を下している意見を参照しにいくことはしばしばある。そして、それで正しい遊び方や楽しみ方を知るということも少なくない。

ただ、買ったり遊んだりする前から、そうした誰かの意見に自分の意見や意思が影響されるかというと、やはり答えはノーである。いかなるゲームも自分で遊んでみるまで、自分にとって良作か駄作かはわからない。

 


自分で見ていない

 

だから「見えている地雷」など本当は存在しない。私は駄作であることを期待してゲームを買ったりはしないし、遊んでみなければ自分にとっての評価はさだまらない。他人の評価がそのゲームのすべてを丸裸にしているなどというのは幻想だ。それは弊誌のインプレッション記事なども例外ではない。どんなレビューもトレイラーも、あるいは誰かのプレイ動画でも、自分のワンプレイにまさる評価基準にはなりえない。遊んでみなければ地雷だったかどうかすらわからないし、そして当然ながら地雷であれば遊んだ時点で破裂する。結局、知りたければ買って遊ぶしかない。

私にとって一番つまらないのは、いわゆる地雷タイトルを買ってしまうことなどではなく、地雷をおそれるあまり自分にとっての良作タイトルを遊びそこねてしまうことだ。だからゲームを買うときに「そのゲームが地雷である可能性」など基本的には考えないし、購入前に海外レビューを積極的に閲覧するようなことも普段はしない。見えている地雷など存在しない。そこには誰かが立てた「地雷あり」の立て札があるだけで、そこに本当に地雷が埋まっているかは別問題だ。

 


例外: 「事実」がある場合

 

ただし例外は存在する。評価とはまた違う「事実」というベクトルだが、私に購入の決断を曲げさせるファクターというものは存在する。それはバグだ。ゲームが進行しない、挙動がおかしい、そもそも起動しないなど。とくにPC向けのタイトルではAAAクラスのものでもしばしばやらかすこうした不始末のまえには、踏む踏まない以前の問題として私の購入意欲も雲散霧消してゆく。あきらかな未完成品や動かないexeファイルにお金を出すほど私は裕福ではない。

タイトル名を出してしまうが、直近でもっとも印象深かったのは昨年発売の『シムシティ』だ。有志のwikiなどに掲載された不具合一覧と、公式からの情報やパッチノートのすさまじい長さと内容はまさに「見えている地雷」と呼称するにふさわしく、私のOriginの購入ボタンを押す指を確実にためらわせた。あれを目の当たりにした当時の私はシムシティが「完成品」であることを信じることができなかったのだ。結局購入したのは2014年に入ってからだった。

もし本当に「見えている地雷」というものが存在するのなら、それはこうした「事実」が備わっているものを指すのだろう。まともに動かないという事実。まともに遊べないという事実。誰かの意見や意思の介在する余地のない、純然たる不都合な事実がゲームの上に横たわっているのであれば、それはたしかに「見えている地雷」と呼ぶに値するだろう。残念ながら『シムシティ』はその要件を満たしていた。

とはいえくだんの『シムシティ』ですら、不始末が発覚したのは発売後のことだ。発売前にプレイヤーがその「事実」を知るのは非常に難しい。そもそも事実確認が不可能だからだ。とどのつまり、だれかが遊んでみなければ事実すら確認しようがなく、すくなくとも「発売前から見えている地雷」などは存在しないという私の考えに変わりはない。

 


「地雷」そのものは存在する

 

最後に断っておくが、私は「地雷タイトルなど存在しない」などと主張したいわけではない。2014年内だけでも「これは踏んだな」と断言できるタイトルはすでに十指に余るほどである。ただ発売前から、あるいは遊んでもいないのに地雷だのハズレだのとのたまうようなことをしてほしくないだけだ。「見えている地雷」の定義と、私がプレイした作品の品質が実際にどうであったかはまた別の話である。

それにゲームでの地雷なら、たとえどんなに強烈な威力であったとしてもせいぜいご飯が喉を通らなくなる程度のダメージですむし、来週発売するゲームに気持ちを切りかえて生きてゆける。

見えている地雷など存在しないし、私は地雷を恐れない。「予約時には全額前金」が合言葉だ。

Rokurou Eyama
Rokurou Eyama

ビデオゲームとアメコミとバイク(盗難被害遭遇済)をこよなく愛する30台前半。レトロゲームも最新ゲームも等しく同じ大切なプレイ対象である。

幼少期に出会った『マーブルマッドネス』の衝撃でビデオゲームに目覚め、なぜか実家に転がっていたMSX2+に親しみ、バーチャルボーイに立体視の未来感を植えつけられゲーム人格が形成されていった。STGからRTSまでどんなジャンルも遊んでみるが女の子がいっぱい出てくるゲームは苦手。

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