ビデオゲームで日本語を学ぶ一番健全な理由

近年、デジタル配信サービスの躍進により、日本語へとローカライズされていないゲームに触れる機会が増加している。英語やロシア語のゲームをプレイして、特定のフレーズやワードを覚えたゲーマーも少なくないだろう。翻訳の際に発生してしまう表現や意図の変化も存在するのだから、たとえ翻訳されたダイアログが用意されていても、オリジナルの言語で直に読むことは重要だ。

Shehzaan Abdullaは、日本国内のゲームやカルチャーに通じるライターだ。英語版AUTOMATONでは、日本のテキストアドベンチャー『428 封鎖された渋谷で』に関する記事も記している。そんな彼が、英語圏のゲーマーとしての視点から、日本語を学ぶ上での障害、それを乗りこえるためのビデオゲームの重要性について語っている。

 


英語話者が忘れやすい「カルチャーショック」

 

数ヶ月前、GameSpotは「Kotoba Miners」に関する記事を掲載した。日本語を学びたい人向けに作られた学習ゲーム用追加プログラム、『Minecraft』のMODについてだ。しかし、気になったのは、ゲーム自体ではなく、ゲームに寄せられた反響の大きさだった。言語を学ぶには低レベルの動機だと毒づいたり、中国語、フランス語、スペイン語やクリンゴン語など、すぐに使える言語がもっとあるだろうという理由で日本語を学ぶのをやめさせようとしたり。多くのコメンテーターがそのどちらかだった。公平に言えば、そういう言い分も有意義ではある。だが、それは違うのではないかという印象はぬぐいきれない。

このようなコメントをする人たちは、日本語をサクッと学ぼうと飛びついて、お手上げ状態になった人たちが多いということをお忘れなきよう。ビデオゲームは、言語を学びたいと思わせるほどの十分な動機にはならない。これがかれらの結論だ。でも、この中で、最初のステージを実際にクリアした人たちのコメントって、どれくらいあるんだろうか?ふむ……。

 

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やはり、脱落者の勉強に関するアドバイスは、まったくあてにならないということだろう。日本のビデオゲームが大好きで日本語を学びたい初心者と、言語学習じたいが好きで、やる気を高める重要な要素の1つがビデオゲームである人との間には違いがある。前者は、数年にわたる入門期間をさっさと終わらせたいと、イライラしながら過ごすことになる。一方、後者は、ゲームに向かうたびに徐々に霧が晴れて理解が深まるというプロセスを通じて、自分が週を追うごとに進歩している手応えを感じられる。日本語をきちんと使えるレベルにまで到達する可能性、たとえば日本のRPGができるくらい、が前者にはまったくない。なぜなら、始める前から失敗するに決まっているからだ。でも、後者にはその可能性がある。反対意見はここのところを見過ごしているようだ。

だが、否定的なコメントは、英語しか話さず、言語を文化と切り離して考えがちなアングロフォン(英語話者)グループという予想外の人たちからも発信されていた。誤解しないでほしいのだが、このグループの人たちに、言語と文化は表裏一体だという概念がまったくないというわけじゃない。ある程度抽象的でしかなくとも、その関係性を認識している。というか、知っている。

英語は、アメリカやイギリス、そしてインドやシンガポールにいたるまで、大きく異なる文化で使われている言語であり、本質的にひとつの文化をそれなりに形成していることに注意したい。その結果、英語だけを話す人たちは、カルチャーショックが、強力で破滅的ですらある影響を言語学習にもたらすことや、それを克服する上でビデオゲームが独自の役割を果たせることを忘れやすい。

 


日本語を学ぶ上で避けることのできない「日本への幻滅」

 

「カルチャーショック」に対する一般的な解釈が、その実、カルチャーショックにまったくあてはまらないため、それによる影響にはほとんど目が向けられていない。自国とまるきり違う異国の有り様、言葉、街の匂いに驚くのは、カルチャーショックではなく、カルチャーサプライズ(驚く)なのである。同様に、反射的なおじぎや、名刺交換や、箸を上手に使うなど、機械的な対応スキルを身に付けたとしても、それはカルチャーショックではない。それは、カルチャーの入門であり、映画の『はじめの一歩」である。

実際、カルチャーショックは「異」文化とはほとんど関係がなく、これまで見えなかった文化そのものの構造に対峙するときに受けるショックのことを指す。自分のまわりの人間が同じ内容を話し、同じ意見を持つ。このショックが大きければ、自発的というよりも事前に口裏合わせをしたせいで画一的なのだと言っても、納得してしまうかもしれない。そして、この人間味に欠けているように見える文化を持つ人たちに憤るようになる。微に入り細に入り文化規範に従う、「ロボット」以外のなにものになれるっていうんだ?

言い換えると、「ショック」は、文化の「異国的」要素によるものではなく、皆がわかりやすい文化的な行動規範を頑なに守ることができ、またそれを実行することに対する反射的な拒絶反応によるものである。そして、自分自身も、はからずも自己の行動規範にずっと従って生きているということに思いが至らない。自文化でのはみ出し者と自分が思っていても、これが事実だ。自分が思うほど、規範から逸脱しているわけではない。もちろん、あなたもね。

現実に向き合い、自分も他人と変わらないと自覚するかわりに、あいつらは変なわけのわからないやつらだと、異文化のせいにすることで葛藤を解決する。日本の場合このような現象は倍増する。排他的な独自性の高い文化的アイデンティティを生み出そうとする不毛な試みの中で、自らの声のこだましか聞こえないメディア環境に閉じ込められた文化を持ち、嫌なくらい露骨な自身の文化規範に従わせようとする文化だからだ。これは、ゲームクリエイター小島秀夫が自作のゲームソフト『ポリスノーツ』で満を持して取り組んだ問題である。

 

小島秀雄監督のアドベンチャーゲーム『ポリスノーツ』。非公式の英語化Modが存在するが、海外でローカライズ販売はされていない。 Shehzaan Abdullaは、同作が「日本の文化的な内向性と傲慢」を警鐘している作品だと、過去に記している。
小島秀雄監督のアドベンチャーゲーム『ポリスノーツ』。非公式の英語化Modが存在するが、海外でローカライズ販売はされていない。Shehzaan Abdullaは、同作が「日本の文化的な内向性と傲慢」を警鐘している作品だと、過去に記している

 

文化そのものに向き合うことは、多くの人たちを熱狂的な日本イズムから幻滅と人種差別へと駆り立てるような、精神を消耗するプロセスだ。カルチャーショックを受けると、実践的な方法で言語を使う能力は別に必要ないと思ってしまい、持続的な言語学習へのやる気が起きなくなる。結局、憎しみの対象となった文化と国民の言語を学び続ける理由は何なのか?自分の文化と決定的に異なる文化と触れ合うときには、遅かれ早かれこのつまずきポイントにいたる。それは事実上、通過の儀式である。

日本語の学習のまだ最初の段階にいるのであれば、あるいはまだこれから学び始めるのであれば、日本とはまだラブラブな時期だろう。日本に移住しようとさえ思っているかもしれない。日本と日本人は飽き飽きした皮肉屋以外の何ものではない、その恋も冷めてしまうと諭されても、その考えをすでにはねのけてしまっているかもしれない。しかし、「いつ」ではなく「であれば」という質問であっても、全員が間違いなくそれを経験する。

 


幻滅期から抜けだすための「ビデオゲーム」

 

重要なのは、健全かつ前向きな考えをもって、幻滅期から抜けだすことだ。幻滅を感じてしまった日本人とのコミュニケーションで一番やる気になるというなら、ここから抜け出すチャンスはゼロである。そして、かれらの言語を学び続ける意思があるのなら、かれらを永遠に憎むことなどできない。そもそもなぜ日本語を学びたいと思ったのか、日本人とコミュニケーションする以外で、できればその理由を思い出させてくれるやる気の源に目を向ける必要がある。これこそが、カルチャーショックを克服する上で、ビデオゲームが示す独自の役割である。

日本語を学ぶ以前にビデオゲームに恋してしまったら、日本への不信感があなたのビデオゲームの評価に影響する可能性は低い。日本人と交流するのとは違い、ビデオゲームが課す異文化間のハードルは、傍観者から見れば、受動的であっても普通に克服できる。日本の文化規範を理解し、ゲームを楽しむだけでいい。現実の世界で期待されるように、その規範におそるおそる中途半端に合わせようとしなくてもだ。

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ビデオゲームは、今までずっと物理的に傷つかずに世界とつながることのできる安全な方法であったし、ゲームの中で、文化を外側から好奇心の赴くままに探ることができる。これは、現在の日本の高校を舞台にしたRPG『ペルソナ』シリーズや、ヨーロッパを舞台にしたアクションゲーム『ベヨネッタ』や、近未来を舞台にしたサードパーソン・シューティングゲーム『VANQUISH』など、欧米でもお馴染みのジャンルのゲームをプレイしている場合にも当てはまる。

はっきり言って、音楽、ドラマ、映画、アニメ、あるいはハマっているものなら何でも、やる気を取り戻す同様の助けとなる。とはいえ、好きなバンドの新作アルバムは、最後の曲の演奏が終わるとそれでおしまいだし、ドラマや映画は、内容がわかっていようがいまいが最後のエンドロールで完結してしまうし、アニメを放送時間にちゃんと見るのは想像以上にキツい。しかも、ボックス入りはあきれるほど高い。

ビデオゲームは、そうではない。ビデオゲームの難易度は、とりわけ文字数の多いゲームの場合、言語スキルによって異なる。それでも、一度もプレイしたことがないゲームをプレイしてみて、内容の一部しかわからないにしても、ドラゴンを倒すのに必要な剣をどこに行けばゲットできるのか、宿の主人が教えてくれることを突き止めてみよう。そのドラゴンは、言語スキルがなければ決して倒すことのできなかったドラゴンだ。ドラゴンをやっつけると、経験値とゴールドが少し増えて、日本語を学び続ける新たなやる気が生まれる。ビデオゲームを理解することが、言語学習の最終目標から、毎週のセルフチェックを継続するバロメーター、すなわち日本との関係を修復する際に歩を進めるための長期的なやる気へと変わる。

ビデオゲームを理解することは、日本語を学ぶ低レベルの理由とはかけ離れた、こつこつ継続する習慣が必要な言語学習のための、一番健全で地に足のついたモチベーションの1つなのだ。それには、ビデオゲームを理解することが最終目標ではなく、言語学習を補助するものであると、素直に理解していることが前提だ。そうすれば、体験したいと願っていた「カルチャーショック」に対する一番頑丈なシールドを手に入れたことになる。

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