『バトルフィールド 1』がシングルプレイヤーキャンペーンで描いた「戦争を終わらせるための戦争」
プロローグ「鋼鉄の嵐」
ハーレム・ヘルファイター部隊
概要: 大戦終結直前(ミヒャエル作戦と思われる)、第一次世界大戦に参戦した部隊の中で恐らくもっとも賞賛されたアフリカ系アメリカ人のみで構成された部隊と、ドイツ軍の決死の攻防を描く。
TIPS: アメリカ参戦とアフリカ系アメリカ人部隊
当初アメリカのウィルソン大統領は「モンロー主義」を貫き、ヨーロッパの戦乱に参入しないことを明言。静観していた。だが、1915年に始まったドイツUボート部隊の「無制限潜水艦作戦」により、アメリカ人も乗客として乗り込んでいたイギリス船籍の客船を撃沈させたことによりアメリカの世論が反ドイツに傾いた。また、アメリカは当時続いていたメキシコによる反米工作の動きをドイツが支援しているとして、第一次世界大戦への参戦を決定した。ただアメリカにとっては、イギリスとフランス側の連合国が仮に戦争に敗れるような事になると、アメリカから両国に貸し付けていた膨大な戦争資金の回収が難しくなるため、それを防ぐために参戦するという打算も大きかった。
ともあれ1917年2月、アメリカはドイツに、次いで4月にはオーストリアに宣戦布告。最終的には210万人ものアメリカ外征軍が投入された。だが軍指令であるジョン・パーシングは自軍の疲弊を極端に嫌い、指揮権を連合国側に渡すことを拒み続けた。アフリカ系アメリカ人のみで編成された部隊がフランスに貸し出されたのはその折衷案である。いまだ差別が根強いアメリカとは違い、フランスは彼らを歓迎した。そのことに彼らは非常に驚いたという。その当時、アメリカ軍では有色人種の戦闘能力は低いという常識がまかり通っており、ほとんどのアフリカ系アメリカ人の兵士は後方支援の仕事しか与えられなかったからだ。
その後、ドイツ軍とアメリカ軍の直接的戦闘を経て、アメリカ軍も本格的に戦闘に参加していくことになるが、特筆しておくべきは、
1: アメリカの参戦によって膠着状態だった西部戦線の膠着が大きく動いたということ。これにより戦後、世界におけるアメリカの発言力は大きく高まることになった。
2: 当初錬度が低く使い物にならなかったアメリカ軍が実践を経て世界最高峰の軍隊へと成長したこと。ことにフランス製軽戦車「ルノーFT 17」を、塹壕への火力ではなく機動力とみなしたこと。大戦の最末期に空軍、戦車隊、歩兵隊を連動した一つの部隊として動かしたのはアメリカ軍の考案であり、その後の局地戦における部隊戦術の転換点となった。
この2点は第一次世界大戦でアメリカという国が果たした歴史的役割としてもっとも大きなものである。アフリカ系アメリカ人部隊「ハーレム・ヘルファイター連隊」は、アメリカ軍の勲章を貰ってはいるものの、アメリカ軍はフランス軍に対しあまり同部隊を優遇するなと釘を刺しており、やはりアフリカ系アメリカ人の権利伸張を危惧するきらいはあったようだ。2015年になり、バラク・オバマ大統領によって連帯員の一人ヘンリージョンソンへとようやく名誉勲章が贈られた。
エピソード1「血と泥濘の先に」
ダニエル・エドワーズ
概要: 終戦間際、連合国大攻勢の流れの中、イギリス軍はカンブレーへ兵を進める。補充兵として「ブラックベス」と名づけられたMarkVの運転を任されたダニエル・エドワーズは、戦場に新しく発生した概念「戦車戦」の死線を潜り抜けることができるか。
TIPS: 戦車の出現と運用方法
第一次世界大戦下で開発された兵器で「塹壕戦」を意識していないものはない。「戦車」もその中の一つである。水輸送車「Tank」という名で秘密裏に開発されたこの陸上兵器は、1916年、ソンムの戦いにおいて初めて戦線に投入された。「MarkⅠ」は当初60台投入される予定だった内の18台しか稼動しなかった。その威圧的な姿により多少のあいだドイツ兵を混乱させ、一部の戦線を後退させるなどの限定的な効果はあるにはあったが、装甲の薄さが露呈すると機関銃の格好の的となった。また当初開発された戦車は住環境の劣悪さもあり、エンジン部分からの匂いや熱によって失神する兵士もいたという。キャタピラによって悪路を突き進むという発想は軍事上優れたものではあったが、開発された当初の戦車に期待されたカタログスペックを持ち合わせておらず、時に嘲笑の対象になった。
その後、各国の開発競争により多様な戦車が登場するが、大戦後期にフランスのルノー社が画期的な一台を開発する。それが「ルノーFT17軽戦車」である。第一次世界大戦での戦車と言えばまずこの名が挙がる。この戦車の画期性は、その後の戦車には一部を除いて必ず実装されている仕様である「回転砲塔」を初めて搭載したということに尽きるだろう。それまでの戦車はその形状から左右に砲塔がついているものが多く、余計な人員が必要であることと、かつ俯角がとりにくいという欠点があった。ルノーFT17の回転砲塔はその欠点を克服することに成功するとともに、車体は軽量化され小回りも利くようになっており、たった二人の人員で稼動可能となっている。もちろんイギリスの「MarkⅠ」も改良を重ねており、エピソードの主役機である「MarkV」は装甲の厚さ、居住性ともに格段の進歩を遂げているが、菱形形状の戦車は戦車の歴史から早々に脱落していった。結局の所、第一次世界大戦時では「戦車」そのものが戦場の花形にはなり得なかったと言える。歩兵と共に塹壕を突き進むことが可能になった時点で、もう大戦はほぼ終わっていたのだ。しかし、ジョン・パーシングが注目した「機動兵器」としての戦車は、第二次世界大戦当初、ナチスドイツによる電撃戦での活躍によりヨーロッパをまたたく間に席巻、戦場の主力となった。
エピソード2「高き場所の友」
クライド・ブラックバーン
概要: ギャンブラーでお調子者のアメリカ人であるブラックバーンは、本来乗る予定だった操縦者を騙して新鋭航空機に勝手に乗り込み、相棒のウィルソンと共に見事な戦果を上げるが…….。
TIPS:航空機の運用方法の変遷と各国のエースパイロット達
ライト兄弟が1903年に12秒の飛行を記録してから、たったの10年余りで第一次世界大戦は始まった。当初戦争にもっとも戦力として航空機を有効活用したのはドイツ帝国側であったが、それでも空からの偵察任務をもっぱらとしていた。東部戦線、タンネンベルクの戦いにおいてロシア軍相手に大きくアドバンテージを得ることができたのは、航空機の力によるところも大きい。航空機の戦場での有効性が認知され始めるにつれ、航空機は敵航空機の妨害をするための機体である戦闘機と、おもに地上兵の支援を目的にした爆撃機に分化していくことになる。1916年当時には戦場の新しい陣地争い「制空権」も加わることになるが、第一次世界大戦当時、「戦車」と同じく「航空機」も戦場での勝敗を決定づけるものにはなり得なかった。
航空機は当時あまりにも新しい兵器であり、運用上の信頼性も極端に薄い上、パイロットの生存率などという概念すら存在せず、ほとんどのパイロットがパラシュートをつけずに出撃することになり生還率は非常に低かった。ただ、航空機パイロットは身体の頑強さを比較的必要としない面もあった。航空機パイロットの中には歩兵の兵役検査をパスできなかった兵士もいたし、その中にはエースパイロット(5機撃墜で与えられる称号)になるものもいた。パイロットは危険ではあったが、悲惨な塹壕戦を経験しないですむのは、ある意味恵まれていたともいえるし、そのスマートさによってプロパガンダ的スターに祭り上げられるものも少なくなかった。各軍には有名なエースパイロットがおり、アメリカ軍ではエディ・リッケンパッカー、フランス軍ではジョルジュ・ギンヌメールやルネ・フォンク、イギリス軍ではカナダ出身のウィリアム“ビリー”ビショップ、ドイツ帝国では後にヒトラーの片腕として国家元帥にまで登りつめるヘルマン・ゲーリングなども、エースパイロットの一人だった。しかし第一次世界大戦中最も高名なパイロットは、「レッドバロン」と呼ばれた撃墜王マンフレート・フォン・リヒトフォーフェンであろう。赤い機体のフォッカーを駆り、連合国と同盟国に所属するパイロットたちの中でもトップエースであった彼は、自機の赤い色を使った囮戦術で知られているが、1918年に撃墜され戦死した。敵であった英国は彼の亡骸を自国の兵士と同様に埋葬したとの逸話が残っている。「戦争中であっても人を殺せば殺人だ」という彼の言葉は、時代を超えて人々の心に響くものではないだろうか。
エピソード3「サヴォイアに栄光あれ!」
ルカ・ヴィンチェンツォ・コッキオラ
戦争終結後、イタリアのとある家庭で娘に老人が語る。オーストリア・ハンガリー帝国の雌雄を決する戦い、かつて弟と一緒に精鋭部隊「アルディーティ」として出撃したアルプス登頂戦の結末とは。
TIPS: オーストリア・ハンガリー帝国の没落による小国家群立
ヴィットリオ・ヴェネトでの壊滅的打撃を受け、同盟国側のオーストリア・ハンガリー帝国はその歴史に終焉を迎える。国王カール一世はスイスに亡命。元々が小国家の寄せ集めであったオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビア・ボスニアヘルツェゴビナなどに再細分化される。オーストリアは戦前の国土の26パーセントに削り取られ、その後の歴史において大国とはみなされない存在になった。そもそも南に位置するオスマン帝国(イスラム勢力)の侵攻を防ぐ名目で連合国家となっていたオーストリアは、その脅威がゆらいだことで民族主義が台頭し、内部分裂の危機が加速度的に強まっていた。元をたどれば第一次世界大戦の発端である「サラエボ事件」の主犯も、強硬なセルビア民族主義組織「黒手組」の構成員であるガブリロ・プリンツィプである。その文脈上で考えれば、皇太子暗殺という全ヨーロッパでみれば話題には上らないような事件(アガサ・クリスティーは「セルビアで皇太子が殺されたといって、別にどうということはない。バルカン半島では暗殺など日常茶飯事なのだから」と述べている)が宣戦布告にまで発展したのは、内側からの崩壊の危機の流れを戦争により食い止めるためだったとの見方もあながち深読みしすぎとはいえない。
エピソード4「ランナー」
フレデリック・ビショップ
概要: 第一次世界大戦でのノルマンディー上陸作戦と呼ばれる「ガリポリの戦い」で、イギリス軍の指揮下に入ったオーストラリアの英雄に与えられた試練。
TIPS:オスマン帝国参戦の経緯とスエズ運河。連合国、同盟国以外の参戦国家
第一次世界大戦、ヨーロッパ内での支配権争いである連合国と同盟国の争いがさらにに広範囲に戦火を広げていくなかでも、オスマントルコの参戦(1915年)はもっとも象徴的な出来事である。参戦の理由は、第一にオスマン帝国に対し南進の野望をいくどとなくぶつけてきた仇敵ともいえるロシア帝国の存在だといわれる。オスマントルコは当時、政権中枢にいたエンヴィル・パシャなどの親ドイツ勢力の働きかけによって参戦を決意。大戦でロシアの勢力が伸張するのを恐れたのと、ドイツの軍事力を借りてロシアをバルカン半島から追い出したいという思いもあったとされる。
一方、イギリス、フランスとしてもオスマントルコの参戦は無視できないものであった。オスマントルコの位置は流通の要衝である「スエズ運河」のすぐ隣であり、地政学としては大問題である。この一歩間違えれば国家運営の屋台骨を揺るがすトルコ参戦に対し、連合軍側は「ガリポリの戦い」で一気にコンスタンティノープルを落とすと目論むが、オスマントルコの戦力を過小評価していたことで充分な準備を怠ったことにより作戦は崩れ、連合国軍は敗走。トルコ軍を勢いづかせる結果に終わった。
「ガリポリの戦い」で本エピソード主人公のビショップがオーストラリア初の外征軍の一員として参戦しているが、同時にニュージーランド軍やカナダ軍も連合国側として参戦していた。フランス軍には開戦当時よりフランス植民地からのアフリカ兵なども参戦していた。アフリカ植民地からの兵士などは、気候の違いから靴を履かずに裸足で移動しており、文化的に馴染まない部分はあったようだ。
また、大陸での動きには直接関係ないが、日本もまた連合国側として第一次世界大戦に正式に参戦している。当時、日本とイギリスの間に結ばれていた「日英同盟」をたてに、中国のドイツ租借地である山東省青島などを攻撃。圧倒的火力でドイツ軍を打ち破り、中国側に「二十一か条の要求」を突きつけたのだ。内容は山東省のドイツ権益を引き継ぐ、中国政府に日本人顧問の採用を求める、旅順、大連の統治など、参戦もしていない中国に対する無理強いな内容のごり押しであったた。その内16条が受理されるものの、かえって中国における反日感情を煽る原因となってしまった。その他にも第一次大戦にはタイやポルトガル、コスタリカやキューバ、ブラジルやボリビアなど多種多様な国々が小規模ながら参戦している。
エピソード5「記されざる言葉」
ザラ・グフラン
アラブ諸国に対して裏からの工作を続けていたTEロレンスと、それにしたがったベドウィン(アラブ遊牧民)女性のゲリラ戦。
TIPS:ロレンスとアラブ国家郡の反乱。そして現在まで尾をひく大英帝国の不実
大戦末期、イギリス軍はアラブ民族の助けも借りながらパレスチナ地方を占領、そのままオスマントルコ領ダマスクスに侵攻する。その立役者となったのがアラブの名門ファイサル家のファイサル・イブン・フセイン(後のファイサル1世)であった。そしてその補佐をしていたのが、本エピソードでも登場するトーマス・エドワード・ロレンスである。映画「アラビアのロレンス」でも有名なイギリスの情報将校は、「オスマン帝国に対するアラブ民族の蜂起を促し、それを支援する」という任務の中、民族衣装を身にまとってアラビア語を使い、その土地を愛したとされる。彼は実際にオスマン帝国を縦断するヒジャーズ鉄道網の破壊活動に従事しており、エピソード中のロレンスは少なくともその行動原理においては虚像ではなく実際に近い人物と考えられる。著書「知恵の七柱」において、「アラブ民族を力ではなく知恵を尊ぶ、人に対して誠実な民族」と賞賛している彼だが、母国イギリスはアラブ民族に対して誠実とはいえなかった。現在も中東の火種となっている悪名高き「三枚舌外交」である。まずイギリスは1915年に、オスマントルコ領アラブ人居住区の独立を認めた「フサイン・マクマホン協定」を策定するが、翌1916年に英仏露による中東の分割統治を約束する秘密条約「サイクス・ピコ協定」を結び、さらに翌1917年にはバルフォア宣言によりパレスチナにユダヤ人居住地を作ることを約束。結局、オスマン帝国が崩壊した後、シリアとレバノンはフランス領となり、イラクはイギリス領になった。反発を恐れたイギリスはイラク国王としてファイサル・イブン・フセインを擁立するが、ファイサル1世はイギリス、そしてロレンスを心底恨んだという。のちにイスラエルが建国されると、中東諸国とイスラエルは幾度も中東戦争を繰り返しているが、いまだ解決には至っておらず、大戦下の大英帝国の不実な行動は今も非難されている。ロレンス自身は生涯独身であり、戦争後も様々な活動に従事したが、46歳の時にバイクに乗っていて事故死している。
「全ての戦争を終わらせる戦争」がもたらした結末
開戦直後、ハーバード・ジョージ・ウェルズによって発表された「The war to end war」という言葉は、しばしば第一次大戦を馬鹿馬鹿しく捉えるのに使われる。1914年から1918年までの間、まるでブラックホールのようにひたすらに人命を飲み込んでいった「すべての戦争を終わらせる戦争」は、次の戦争や紛争への火種を延々と垂れ流しながら、それでも一応の終焉を迎える。
連合国側の勢いに飲まれた同盟国側は、2018年11月に国と共に体制も崩壊した。前述したようにオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝カール1世は亡命(その後退位)。ドイツ帝国においても水兵や民衆の反乱の中、皇帝ヴィルヘルム2世が失脚(11月9日に退位)。そして11月11日、フランス、コンピエーニュの森においてドイツは休戦協定に調印。同日11時に発効し、ここに4年の永きに渡った第一次世界大戦は終焉を迎える。
興味深いのは、開戦時に参戦していた国家郡イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・オーストリアの内、フランスを除いた内帝政の国(ロシア・ドイツ・オーストリア)が、体制を変えているという点だろう。大戦中に2度の革命を経験し、1918年初頭に第一次世界大戦から離脱しているロシアは、レーニン主導のもと社会主義国家への道を歩み始めていた。敗戦国であるドイツとオーストリアも、戦後は共和制に変貌する。それを専制君主制時代の終焉といえば聞こえは良いかもしれないが、共和制や民主主義だからといえ必ずしも良い結果を生むとは限らないのは、直後の歴史も証明している通りである。戦勝国たちは今後戦争が起こさないための枠組みとして「国際連盟」を設立、サラエボ事件からちょうど5年後にあたる1919年6月28日にはフランスのヴェルサイユ宮殿で、戦勝国と敗戦国ドイツの講和条約「ヴェルサイユ条約」が調印された。戦勝国が敗戦国に対して戦後賠償を求めるのは通例ではあったが、世界大戦のような損害が計り知れない場合に、それを適用するべきなのかという議論はあった。しかし結局ドイツに対して課された戦後賠償は莫大なものであり、あらゆる新たな紛争の火種を産み落としてきた「戦争を終わらせる戦争」は、これまででもっとも大きな火種を残してその幕を下ろした。
「ドイツ人など腹を空かせて貧困に喘いでいればいいという考え方なら、いつの日か必ず復讐されることだろう」-ジョン・メイナード・ケインズ-
総括「そして語り継がれるもの」
マルチプレイヤーFPSとして巨大IPとなった「バトルフィールド」シリーズだが、現在までキャンペーンシナリオの評価が良かったとは言えない。しかし第一次世界大戦をと題材にとった今作、オムニバス形式で主要な戦場でさまざまな活躍をする主人公達の群像劇を描く方法は図に当たった。プレイヤーは100年前にどのような戦闘が実際に行われたかの追体験によって新たな歴史的刺激を得ることができ、それがどのように悲惨であったかも推測することができる。ただ惜しむらくは、キャンペーンがその内容の濃さに反比例して、ボリュームは数時間で終わってしまうものであること。またすべての主人公が連合国側の視点に立っているということだろう。第一次世界大戦という「戦争をおわらせる戦争」などというキャッチフレーズに踊らされたかつてないほど大規模で無目的な殺し合いの連鎖は、結局の所両者ともに戦後の傷を深く残しただけなのであり、どちらの言い分が正しい間違っているの次元で語られるべきものではない。その意味で、視点の偏りはこの大戦をよく描いているとはいえ「描ききった」とはいえない大きな理由になっている。ただし、たとえ主人公達の立場が連合国側のみとはいえ、どちらが正義であるかというニュアンスをプレイ中に感じさせないのは、製作者サイドの意図するもののように思われる。個人的には追加DLCとしてロシア帝国での東部戦線での一幕や、ドイツ帝国視点のキャンペーンシナリオ追加などもプレイしたいと思わせるだけの説得力を持つ内容であり、今回のキャンペーンはプレイした人間の心を奥の部分から揺さぶるパワーを確実に備えている。