難病とそれを取り巻く環境の理解への一歩としてADV『ヒラヒラヒヒル』を多くの人々にプレイしてほしい。かつて医療福祉現場にいたライターとして思うこと
私は現在ゲームライターとして活動しているが、その前は社会福祉士資格を取得し医療福祉の世界に長い間従事してきた。そんな私は『ヒラヒラヒヒル』をプレイすればするほど、福祉職だった頃の後悔と歯がゆさと向き合い代弁してくれる、ある種の懺悔のような気持ちを抱いた。
作中で描かれていたのはまさしくあのとき私が体験した過去であり、現在まで続いているだろう患者と介護者、家族と部外者という関係そのものだった。今回本稿の筆を執る理由としては、本作に込められた社会的意義の感触を医療福祉の現場経験者である私であれば、解像度を劣化させないままに伝えられるのではないかと考えたからだ。なお、本稿には『ヒラヒラヒヒル』の核心的ではない軽微なネタバレを含んでいる。購入を検討している方は、まずプレイしてほしい。
「風爛症」という架空の難病を扱った物語
『ヒラヒラヒヒル』は、アニプレックスのノベルゲームブランド「ANIPLEX.EXE」がSteam/DMM GAMES/DLsite向けにリリースしたタイトル。舞台は架空の大正時代、風爛症と呼ばれる「死んだ人間が蘇る」事例が古来より起こっていた。罹患した人間は、徐々に認識力が衰え交流が難しくなるのと同時に、肉体も腐敗していくという症状を有し「ひひる」などと忌避の対象になっている。近年ようやく疾患として認識されるようになったが、人々の差別意識は根強く残る。本作はそんな風爛症を取り巻く現実を描いているのが特徴だ。
風爛症の本質は、「発症前と比べて別人だと感じるような変化」という点にある。症状に個人差はあるが、多くの患者は知性が低下し、生活能力すらも失っていく。だからこそ生前とのギャップに自身や周囲が苦しみ、それ故の悲劇も起こり得る。“死んだ人間が蘇る”という属性に気を取られがちであるが、その現象そのものではなく、風爛症という難病を抱えた人間の生活変化と、それを取り巻く社会を描くゲームである。
主人公は2名。風爛症専門の医師「千種正光」と学生「天間武雄」を起用し、2人の視点を切り替えながら物語は進んでいく。千種は医師として風爛症患者を自宅に閉じ込める私宅監護を廃止するべく、師である加鳥周平の指示のもと地方に赴いて、日本における風爛症の実態を調査している。一方、天間は当初は風爛症に関わりのない学生として、“部外者”の立場から風爛症が存在する世界を描写する役割を持ち、下宿先の常見親子との日々の交流が描かれる。
前述したように本作においては風爛症―――ひいては現実にも通じる困難を抱えた患者たちが、いかに生きづらいかに焦点が置かれており、その描写の仕方が生々しい。たとえば作中では風爛症患者は、私宅監護での劣悪な環境に置かれ皮膚や目玉が崩れ落ちているケースも多く、人間として扱われていないことも多い。過去にはまとめて処刑されていたという話が描かれ、症状が軽く社会に参加できている患者も、健常者とトラブルになれば殺されても誰も顧みない。女性であれば特有の白い肌が客受けすると娼婦として売られることもしばしば。
メインキャラクターである野村朝も画家として活動しているが、「誰も見たことがないような世界を描くが、それが“ひひる”にしか感じられない世界なのではないか」と評される場面がある。本人の血のにじむような努力も作中で描かれるが、「風爛症患者が描いた絵」として付加価値をつけられているのが皮肉である。このように、本作では難病を取り巻く社会課題が徹底的に描写されている。
描写はこれだけに収まらない。シナリオの中盤以降、千種であればある出会いを介し、その後自身にも変化が現れること。天間であれば親友が懇意にしていたひひるの娼婦を殺害するか逡巡し、その後より深く風爛症に巻き込まれていくことだ。本作の白眉な点はこの風爛症に対する視点の転換である。当事者・部外者・患者・介護者側から描写を行い病気に対する描写の公平さを保っているのと同時に、風爛症に対してどこか他人ごとだったプレイヤーを身近にある現象として引き込むことに成功している。
本作を取り巻く社会を丹念に描くことにより、プレイヤーの中で風爛症への理解が徐々に進み、忌避感や過剰な同情といったバイアスが解きほぐされていく。風爛症患者が抱えているものは私たちの近くにもあるのだと、現実における普遍的な生きづらさを描く作品なのだと思い当たったとき、「みんな、普通の人間なんだ」という本作のテーマに腹落ちするのだ。
現実を切り取る『ヒラヒラヒヒル』の描写
本作は淡々とした読み味でルポ作品や、ドキュメンタリーに近いと思うかもしれない。それもそのはず『ヒラヒラヒヒル』は、近代日本の精神医学の流れを下敷きにしている可能性が高いからだ。⾵爛症患者に対する制度を整えようとする加鳥周平は、日本の精神医学の父とも言われる呉秀三をモチーフにしていると思われる。
明治時代のころには、精神病者監護法のもとに座敷牢に精神障害者は閉じ込められており、政府も「私宅監置(参考ページ)」として患者の家族が患者を「保護」することを義務づけていた。その状況を憂いた彼は加鳥と同じく門下生を各地に派遣し、1918年「精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察」という実態調査を取りまとめた書物を出版。その後精神医学の世界を動かす波を作り、1950年私宅監置制度の廃止まで漕ぎつけている。つまり本作のストーリーは現実を汲んだイフなのだ。
そして本作をプレイすれば風爛症という設定は、過去における精神病・ハンセン病患者への扱い、そして現代の認知症・障害・難病などのメタファーであることが理解できよう。私自身、患者を福祉へ繋げていく過程で「正しい知識と金銭的余裕がなく、家族全員が消耗して限界寸前の家庭」や、「認知症同士の老夫婦が互いに介護しあっているが、手が届かず悪臭が漂う家」など本作に通ずる光景は何度も目にしている。これは医療福祉の仕事に就いていたからということではなく、周りを見渡せば必ずどこかで起きているものだ。そして私が関われていたということは、その家族がかろうじて社会に繋がれていた証左であり、把握できていないケースも多く存在するのだろう。
「私のためのゲーム」だと感じられた理由
私が2023年で一番プレイ後に考えさせられたゲームは、『ヒラヒラヒヒル』だった。最近遊んだゲームの中でもっとも「(他人ごとではなく)自分ごと」だと、あるいは「私のためのゲーム」だと思わされたからだ。冒頭で書いたように私は医療福祉の世界に生きていた、それではなぜ退職したのか。青く熱い「人の役に立ちたい」という信念を胸に足を踏み入れたはずが、そうではなかったからだ。実際に待っていたのは「人が消耗していく姿を見る」仕事であった。数日前まで一緒に話していた、顔見知りの人間の呼吸が頻繁に止まっていく環境。決して症状が改善することがなく徐々に衰えていく姿に、やりがいと気力を摩耗してしまったからであった。『ヒラヒラヒヒル』はまさしくそうした孤独感を想起させるゲームであり、同時に寄り添ってくれるゲームでもある。本作をプレイするごとに、あの時のやりきれなさとともに昔の情景が鮮明に蘇ってくる。
なぜやるせなさを想起させるのかというと、そうした現実を克明に描き“あの時”をフラッシュバックさせるからだ。なぜ寄り添ってくれるように感じたかといえば、「こうした過酷な環境を作品に乗せて多くの人々に届けてくれた」からである。あの時の無力感は時代を通じて産出され続けているものであり、そうした苦しさを味わっている人は世界中に存在する。その輪を広げて作品にすることで問題提起してくれていると考えると、ひとりではないと思わされる。ほろ苦くも温かい感情である。本作を通じて、難病や難病を取り巻く社会を現実に起こる問題として考える人がいれば、それだけで個人的に救われる思いである。本作はアドベンチャーゲームには珍しい、社会的な側面に焦点をあてた作品である。
シナリオライター瀬戸口廉也氏のテーマ性
社会派であるのは、本作のシナリオを手がけたのが瀬戸口廉也氏であることが深く関係しているだろう。瀬戸口廉也氏は人間同士のつながり、つまりは社会の在り方を見つめ続けてきたライターである。2022年にリリースされた『BLACK SHEEP TOWN』でも、特殊能力を持つ「ミュータント」という形で社会における病気や障害を持つ方のあり方を表現している。ミュータントにはサイキック能力を得る代償に「特質変異」と呼ばれる体の部位の欠損や外見の変化が発生する「タイプA」、強力な肉体を持つが幻視や妄想などの精神疾患を抱える「タイプB」が存在。そしてミュータントは、その特異な外見や不安定な精神状態から差別を受けたり、社会活動が困難だったりといった社会問題が描かれていた。
『SWAN SONG』
さらに遡れば『CARNIVAL』『SWAN SONG』という過去作でも、人間関係における相互理解の不可能性について描写してきた。瀬戸口氏の手がける作品は、ことさら“鬱ゲー”であると形容されることが多いが、地獄を書こうとして地獄を描いているのではないだろう。ただ公平に正確に世界を描こうとしているのであり、それだけ世の中には不幸や残酷さが溢れているということなのだ。だからこそ逆説的に立ち上がる、それでも他者に手を差し伸べ続ける行為の尊さが際立ち、そのテーマ性を私は美しいと思う。また丁寧な心理描写によって、あるいは思想を押し付けないメッセージ性にて、プレイヤーに内省を促す手法は特筆に値する。
本作に込められた想いを「自分ごと」に
私たちは自らが当事者とならなければ真に理解できないことも多く存在し、風爛症患者のようにそのときになってみなければわからないのだ。そういった意味で、本作は難病を取り巻く環境を複数の立場でより深く理解させる、といった点で没入感のある体験を届けることに成功している。私たちも明日事故にあったり、病気にかかったりして今までと同じ生活を送れるとは限らない。
だからこそ他人ごととは思わずに、相手の背景を理解しなければならないし、起こりうる症状についても受容していなければならない。実際に本作のような環境と隣り合わせで戦っている読者も多いだろう。作中の主人公たちも物語を通して風爛症を理解し、身近の風爛症患者にどう接していくかを問われている。ただ一人の人間同士として向き合って、尊重したい・悲しみを減らしたいと心に湧いた感情が、世界を少しずつ前へと駆動させていく。これは大正でも令和でも、フィクションでも現実でも変わらない。
本作はプレイ後に自らへフィードバックし、身近な人の病気や障害について調べたり、もう一度受け入れてみようと思わせたりする心を動かす力を持っている。本稿執筆時点(2024年1月10日)のSteamユーザーレビューの好評率は98%で、物語としての完成度もさることながら、筆者のような想いをもっている人間が少なからずいるという証明にはならないだろうか。いや、なるだろう。そう信じているからこそ、多くの人々に届くようにと筆を執ったのだ。
『ヒラヒラヒヒル』は、PC(Steam/DMM GAMES/DLsite)向けに配信中だ。