PS4/Switchで発売予定の『ラ・ムラーナ2』はなぜ難しくなったのか、そしてなぜ易しくしないのか
『LA-MULANA2(ラ・ムラーナ2)』というゲームのコンシューマー版発売を控えているインディーゲーム開発集団NIGOROの楢村という者です。
今、『SEKIRO』が盛り上がっているらしい。インディーでも『Hollow Knight』や『Dead Cells』など難しいゲームがキてるそうだ。我々が前作『LA-MULANA』をWiiでリリースした頃には「ゲームは誰でも手軽に遊べる優しさが必要」なんて言われていたことを考えると、流行りや主流などは変わっていくもんなんだなと思う。「ゲームなんて電車一駅の間に手軽に遊べるように作るんですよ。」と言ってたあの人、今何してるかなぁ。
そんな中、高難易度インディーの先駆け(のはず)である『LA-MULANA』は『LA-MULANA 2』になり何を変え、何を残し、いや、何を頑なに変えようとしなかったのか。……なんて事を書いてみないかとAUTOMATONから依頼を受けた。そう、つまりこれはPR記事だ。自分で書くPR記事だ。『LA-MULANA 2』、6月27日にNintendo Switch/PlayStation4/Xbox Oneにて発売開始だ。SwitchとPlayStation 4はパッケージ版の予約が始まっている。買え。
フロム・ソフトウェアは『SEKIRO』に限らず高難易度のゲームをたくさんリリースしている。フロム・ソフトウェアの人とは話したことはないが、多分自分と同じ考えだろうと思う。難易度の高いゲームが面白い、その面白さを知っている。だから面白いと思うものを作っているにすぎないと。時代に逆らってとかニーズを狙ってとかではなく、この難易度が面白いと思う人たちが作っているのだろう。
難しくしたのではない。こだわったのだ。
先に結論を出してしまうが、我々は我々が思う理想を形にしているだけ。『LA-MULANA 2』はこの難易度が面白いと思って作っているだけなのだ。「高難易度にしよう」というよりも「こだわりを持って作った」が正しい。
だから外せないものは誰に言われても外さない。テストプレイヤーから「ゲームの導入ならルートを示す矢印をつけたりガイドを増やしたらどうか」とか「調べられる所や入ることができる場所には目立つようにサインを出したらどうか」と言われていたが、考えた上で結局採用しなかった。だってせっかく作り込んだ遺跡の雰囲気が壊れるじゃないか。
それだと初めて遊ぶ人が迷う?『LA-MULANA』は迷った上で試行錯誤して遊ぶ人自身が学習を積み重ねてクリアしていくゲームだ。見事にそのチュートリアルになっているだろう。そもそも今時、導入が長い長いチュートリアルなんてゲームまだあるのか?あるの?へぇ~。
しかしこれでまとめてしまっては記事が終わってしまう。PRにならない。もっと記事を長くするには、自分がなぜこのような考え方をするに至ったのかを説明せねばなるまい!
こだわりのルーツは、幼少期にある。
これは自分が育ったゲーム環境が、世間様一般とずれているからだろう。ウチは子供の頃ファミコンは買ってもらえなかった。親父の同級生が電気屋なもんで、ホームパソコンMSXを買ってくれた。そう、マリオやリンクで育たず、パラメーターうじゃうじゃ。難易度もルールもメーカーでまちまちなパソコンゲームを遊んで育った。
Bボタンを押しながらAボタンでジャンプなんていうグローバルスタンダードな操作はやったことがない。『スーパーマリオ』は今遊んでも1-2で全滅する。おっと、高難易度ゲームを作っているからといって作っている人間ならゲームが上手いなんて思わないほうがいい。当時のパソコンゲームはターゲットが子供ではなかったので難しいものが多かった。ルールも操作も複雑なものが多かった。でも自分はそれで育った。
ゲームを始めると何の説明もなく草原のど真ん中に放り出される感じが好きだった。使用できる文字数が少ないためアイテムの説明も英語だったが、辞書を見ながら楽しんだ。ゲームを遊ぶ前に説明書を熟読するのは当たり前。もちろん、それを読んだところで序盤の進め方なんて書いてない。ゲームのルールさえ、自分で手探りで理解していくのが醍醐味だった。
我々NIGOROはこんな育ち方をした者だけが集まっているチームだ。ファミリー層がメインのWiiで前作をリリースするときも散々ターゲット層を考えろと言われた。今でも『LA-MULANA 2』に低評価をつける人にはヒントのない理不尽な謎解きなんて言われる。まぁ、すべての人が楽しめるように作っていないだろうと言われれば、その通り。このゲーム好きになれんという人がいるのは当然でしょう。
でもね、自分がレトロパソコンゲームを遊んでいたのは30年年以上前かもしれないが小学生だった。小学生でもそれが面白いと思った。30年でゲームはすごい勢いで進化したかもしれないが、人間が面白いと思う、驚く、壁を乗り越えて嬉しく感じるなんて感情まで変化しているとは思わない。長い人類の歴史の中のたかが20年だ。今は高難易度を乗り越える楽しさを味わえるゲームがない、触れる機会が少ないだけだろう。だから今の時代でも『LA-MULANA』のようなゲームを面白いと思う人は必ずいると信じて作ってきたのだ。
ちゃんと締めるべきところは締めている。
もちろん、何でもかんでもレトロゲームの高難易度・理不尽さまでコピーしたいなんて思っていない。あの頃のゲームの酷いところもたくさん知ってるし。我々が作っているのは今リリースする最新のゲームだ。独特の挙動とは言われるが気持ちよく操作できるように調整を繰り返しているし、メニューも階層を深くしない、どのメニューからでもキャンセルボタンで離脱できるといった快適さの部分もこだわっている。
逆に「昔はこのぐらい敵がいっぱい出て難しかった!」と敵キャラを配置してみたところ、改めて当時のゲームを見てみたら3匹程度しか画面にいなかったり。こういう部分は記憶やイメージの方を優先してしまっているのだろう。これもこだわりといえばこだわり。
前作をリリースして遊んだ人からの意見を聞いて、改めて気づいた部分もある。プレイヤーの操作感は随分ゆるく変更した。前作では一度横にジャンプすると距離の調整こそできるが後ろに下がることはできなかった。しかし今作ではジャンプ後にも若干後ろに戻ることができるように仕様変更している。
ジャンプアクションゲームはジャンプの挙動こそがそのゲームの特徴であり、すべてのジャンプアクションゲームが同じジャンプ挙動である必要はないと思っている。作ったジャンプの挙動に合わせてマップの迷路を作っているのだから変更できない。しかしあまりにもこの飛んだら戻れない仕様が今の時代にマッチしないらしく、「本当にジャンプ後に後ろに戻れるとマップは破綻するのか?」と自問自答した上で、「ジャンプの自由度を上げた上で成り立つマップの迷路にする」と頭を切り替えた。
それでもジャンプ頂点からの落下はゆっくり目、「ふわっとジャンプ」はそのまま。ある有名実況者に「あのふわっと感が苦手なんですよ!」と言われてもそのまま。これもやはりマップの構造やボスとの戦闘と深く絡んでくる要素だからだ。このふわっとゆっくりとした落下であればこそ、「落下中に下の段に飛び移ってリカバーする」といった判断と操作が間に合うと思っている。それを利用した地形もある。
この他にも今のゲームとして改めたところ、それでも変えなかったところはたくさんある。前作は自由な攻略ルートを序盤から作れることが売りのゲームだったが、今作では序盤の序盤は一本道にした。これは前作でメイン舞台の遺跡にすら到達せずにゲームをやめている人がいたからだ。そんなことはこっちも望んでいない。マップの難所の前にセーブポイントが来るように設計したり、強いボス戦のリトライをやりやすくした。……これはただ前作があまり深く考えていなかったからだが。
度合いにもよるが、全然ゲームオーバーにならないゲームは、それはそれで退屈する。変化がなく、ハラハラすることがなくなるからだ。これも度合いによるが、挫折や困難があるからクリアした喜びも大きくなるのだ。逆もまたしかり。6冊もほのぼのした恋愛を続けた後だからこそ上杉克也の死が重く引き立つのだ。タッチ理論だ。
迷う時も、あった。
ここまで「難しいのではない、こだわりなのだ。」と偉そうに書いてきたが、人間そうそう気持ちを強く持ち続けられるものではない。なんせこのゲーム、4年以上かけて作っている。
会社を持たないインディー開発者は自宅で作業をする。そう、4年間自宅に引きこもりっぱなしなのだ。「死ななきゃ大丈夫」が座右の銘の自分も少々ネガティブになる年数だ。SNSには同時期に始まったKickstarterプロジェクトの完成あるいは挫折などがニュースとして流れ、大きなゲームイベントのストリーミングを見てみたら巨大プロジェクトで観衆が大いに沸いている。「もうインディーなんてやってる場合じゃないのでは」と不安になるのも仕方あるまいよ。こうなると偉そうに語ってきたこだわりとやらも不透明なものに見えてくる。自信がなくなってくるのだな。
「難しすぎるのではないだろうか」「もっと市販のゲームのように派手なエフェクトを盛り込まないと」「ヒント増やしちゃおうかな」などなど、実行されればそれはそれで完成した作品になるかもしれないが、まぁ間違いなく開発は混乱する。ディレクターとしてこんな精神状態を決して悟られてはならない。ゲーム内に気配としても残してはならない。しかし1度だけ、先に書いた「遺跡の入り口には矢印でルートを示す」をこっそり採用してしまったことがある。証拠も残っている。
誰にも何にも報告せずに実装したのだが、ヘルプで来てもらっていたプログラマに「採用しちゃったんですか?ガッカリですよ。」と言われて速攻で消したのだった。そうだった。俺はこんな人間じゃなかったはずだ。なんだ、プレイヤーを親切に誘導してあげようだなんて。目を覚ませ。
ほかにも開発期間中に「ボスキャラの攻撃のネタが尽きた」ことをきっかけに、『LA-MULANA』と似たようなサイドビュージャンプアクションのインディーゲームをいくつか遊んだ。あぁ、みんなこだわりの塊だね。難しいのなんの。誰だ、このゲームを作ったのは!こうしてさまざまな出来事や仲間たちの作品のおかげでネガティブな思考からも脱することができた。常日頃他人に無様なところを見られたくないという思考で生きてきたおかげでプロジェクトに大きな傷が残る前に持ち直すことができた。全て自分のおかげだ。なーに、序盤のステージで迷ったからって俺が困るわけじゃない。「(俺が)死ななきゃ大丈夫」だ。
嘘はつかないようにした。
このようにこだわって作ったのが『LA-MULANA 2』であり、あの難易度になっているのだ。自分たちが面白いと感じる難易度に仕上げ、その面白さを伝えるために必要な要素、邪魔になる要素などを取捨選択している。ゲームを作るなら当たり前のことをやっているだけだと思っている。世間様とは外れているのかもしれないが。
こんなテーマを与えられたらまだまだ書きたいことはあるのだが、ここまで長々と書いてきたのは『LA-MULANA 2』がどんなゲームかを知ってもらいたいからだ。前作の頃から宣伝コピーにも気を使っている。Wiiで売るからといって「誰でも遊べるよ!」なんてコピーは身内の意見だろうと排除してきた。たくさん売るためには邪魔になると言われようが、自分から「人を選ぶゲームです」と言い続けた。だって嘘をつくことになるからね。
例えるなら『LA-MULANA』は大学参考書だと思って作っている。「ウチの中学のマサルちゃんが、訳がわからないと怒っているザマス!」と言われても知ったことではない。よく調べた上でご購入してくださいと。さらに例えると、日本の百名山全てが車やリフトで頂上まで登れるように整備されていたらどうなるだろう。山登りってこんなもんかと飽きちゃった人はそこで山登りをやめてしまうだろう。3日かけて北アルプス制覇とか修験者の道を使って紀伊半島縦断とか、さらに上の難関があればこそ山登りにどんどんのめり込む高齢者も出てくるのだろうさ。
だからゲームにもそんなゲームがあっていいはず。「こういうのがやりたかった!」という人がいるはず。ゲーム人口全体から見れば少ないかもしれないが、こんなこだわりが心に響く人はまだまだいるはずだ!そう、この記事を読んで興味を持ったあなただ!そんなあなたにこそこのゲームを手にしていただきたい!ただいまSwitch/PlayStation4版パッケージ予約受け付け中です。買って。
だから買ってくれ。
強いこだわりというのは商売理論を超えて人を動かすことがある。PC版の発売の際に『LA-MULANA』に関する恋文をもらった。この業務の一環としてしたためられ、執筆者の所属媒体を介して届けられた恋文は、どのPR記事よりもアクセスがあったようだ。ゲームに限らず熱意のこもったものは何かしら人に伝わるし、ニーズはある。自分の方は、この恋文を出した本人に会っても礼はしてない。彼はライターというプロの技で想いを伝えてきた。だからこちらもゲーム制作というプロの技で、作品で返す。この人には(次のゲーム内でも)死んでもらう。それが俺の愛だ。他にも俺の愛が欲しいヤツはいないか?
つまり結局何が言いたいかというと、『LA-MULANA2』コンシューマー版、Switch/PlayStation4版パッケージ予約受け付け中ってことだ。買いやがれください。