PinballDays -2017年のピンボール-
第三部 ピンボールウィザードと呼ばれる伝道師が見つめ続けた数十年の推移 前編

第二部では大阪府大阪市心斎橋の「SILVER BALL PLANET」を関西のピンボールスポットとして紹介したが、かつては関東にもピンボールプレイヤーの聖地「ゲーム ネバーランド」(東京都日野市/以下:豊田ネバーランド)があったことを事実として残しておかなければならないだろう。

第二部では大阪府大阪市心斎橋の「SILVER BALL PLANET」を関西のピンボールスポットとして紹介したが、かつては関東にもピンボールプレイヤーの聖地「ゲーム ネバーランド」(東京都日野市/以下:豊田ネバーランド)があったことを事実として残しておかなければならないだろう。

アミューズメント機器の修理、販売を行う株式会社吾妻が運営していたネバーランドには細かいところにまでメンテナンスが施された良好な6台のピンボールがプレイヤーを待ち受け、さらなる活性を促すべく定期的にマシンを入れ替えるといった惜しみない営業努力を見せていたが、残念ながら2016年の8月に閉店。1997年からの営業に幕を下ろした。

このキーマンとなった人物は、1990年代のピンボールシーンにおいて大手だったWilliamsやBallyに引けを取らないマシンを世に生み出していたデータイーストに所属していた堀口昌哉氏だ。他社に先んじて積極的に映画やテレビ番組をモチーフにし、日本においては「デコピン」という愛称で日本のプレイヤーたちに親しまれていたデータイーストのマシンは、版権を使用した受けの良さだけではなく、堀口氏がルールや遊び方をマシンごとにわかりやすく説明した「プレイングマニュアル」を製作・配布することでピンボール人口を広げるための努力と功績を残している。

堀口氏は豊田ネバーランド閉店後、株式会社吾妻に引き続き勤務されることになった。また仕事とは別に1977年よりピンボールに関する情報収集やピンボールの普及と発展を目指す愛好家団体「東京・ピンボール・オーガニゼーション(以下:TPO)」の副代表も務められており、かつて日本ソフトバンク(現:ソフトバンク)から出版されていたムック『ピンボールグラフィティ』にはTPOのメンバーとともに原稿の執筆を手がけた以外にも、漫画家・とよ田みのる氏の描いた『FLIP-FLAP』のシカゴ取材協力に携わられている。

ちなみに『ピンボールグラフィティ』の数年後には続編『ピンボールデイズ』の企画の呼び掛けを受けて原稿の執筆も進めていたのだが、企画側の事情によって残念ながら出版には至らなかったという。今回の企画名『Pinball Days』は筆者がこのエピソードを以前から堀口氏からお聞きしていたため、その名を残すことにした。

また、株式会社吾妻はピンボールのレンタルやリースも行なっており、新宿高島屋にて2014年と2015年の2年連続でゴールデンウィーク中の4日間に行われた「ピンボール ワンダーランド」というイベントでは協力として約20台ものマシンを貸し出し、堀口氏も全日現場に張り付いて多くの来客の応対に飛び回った。

株式会社吾妻の行なう事業のうち、アミューズメント部門の主業務は2017年3月をもって関連会社の有限会社アズテックコーポレーション(2005年設立)へと移行されることになり、現在は主要リース先である群馬県太田市にある「SALOOON」に人気の高い機種を並べているほか、都区内ではお台場「デックス東京ビーチ」内にあるゲームセンター「一丁目プレイランド」などに販売もしている。「吾妻」の名で作り上げた伝統が今後は「アズテック」としてさらなる発展を見せることに期待ができるだろう。

第三部となる今回は、長いキャリアと様々な立場でピンボールの実状を目にしてきた堀口氏がピンボールに触れ始めたきっかけからTPOの設立、データイーストへの入社、そして豊田ネバーランドで勤務されていた様子を前編・後編に分けてご紹介する。

 

――まずはじめに堀口さんがはじめてピンボールを遊ばれるようになったのはおいくつのころだったのかお教えください。

堀口氏
小学校の3年生か4年生のときなので1970年前後ですね。「面白いものがあるよ」と友達に誘われて隣駅にある「ニュー八王子シネマ」へ行ったんですが、そこの一階にピンボールがズラリと並んでたんです。そこから完全にピンボールへのスイッチが入ったのは小学5年生のときで、八王子に行かずとも地元の豊田近辺でもピンボールを置く店が見られるようになったので、短い時間でも友達と気軽にピンボールで遊ぶようになったんですよ。いま豊田駅前にマクドナルドがありますが昔は「ディンドン」っていうゲームセンターで、10台前後は並んでいたのはいまでもはっきりと覚えていますね。

――中学、高校に上がられてもピンボールを飽きずに楽しまれていたんですね。

堀口氏
飽きるどころかますますハマっていきましたね。高校は八王子にあったんですが、中学校から一緒に上がったピンボール仲間もいたし、新しい友達もどんどん誘って遊んでました。時代的に娯楽が少なかったというのもありますが「好きな人だけが遊ぶ」っていう意識もなく、ピンボールを遊ぶというのはそれほど珍しいことではなかったんです。

――ピンボール仲間と一緒に楽しまれていた活動がTPOを結成するまでの布石となったんですね。

堀口氏
高校2年のときにピンボール仲間としての集団ができつつあるときにスイッチがまたグッと入ったのが1977年8月1日で、TPOの創立記念日になっているんですよ。仲間内で遊ぶ以外にも高校の同級生や後輩に「こんなに面白いのがあるんだよ」って誘って、15人ぐらいのグループになったのがTPOの前身です。ピンボールを知らない人たちにもフリッパーさばきや台揺らし、マシンごとのルールを紙に書いて「面白いから遊ぼうよ」って勧めるように考えたのは、のちにデータイーストへ入社してからも、豊田ネバーランドで勤務するようになってからもずっと続いているものですね。

――日本においてピンボールの普及や発展を目指す活動をTPOではされているとのことですが、設立されてから一番の功績はやはり『ピンボールグラフィティ』への協力になるのでしょうか?

堀口氏
『ピンボールグラフィティ』の出版は大きな実績だと思いますね。プレイヤーという立場でも、ピンボールの愛好家は日本にもいるということを世界に向けて知ってもらうきっかけとして1990年以降に世界選手権等でTPOの精鋭メンバーが活躍したり、毎年秋にシカゴで行われている「Pinball Expo」にブースを出展したりしたことは小さなことではなかったはずです。そのような活動の延長として「Pinball EXPO」の開催が十周年や二十周年と節目を迎える際には私が晩餐会で祝賀スピーチをさせていただくことがあるのですが、それは個人のためでもTPOのためでもなく日本ピンボール界全体の存在アピールになると思って臨んでいます。

2014年に開催された「Pinball EXPO」30周年の晩餐会では堀口氏が登壇して祝賀スピーチを述べたほかにもTPOとして作製した表彰楯をエキスポ主催者やStern社に贈呈した。

――ピンボールに長く親しまれている堀口さんの人生において、1978年以降には『スペースインベーダー』をはじめとするビデオゲームの誕生を目の当たりにされていると思いますが、やはりある種の脅威に感じられたのではないでしょうか。

堀口氏
当時、新宿などのゲームセンターでだんだんとお店からピンボールが減っていくのも脅威として目の当たりにしていて、よく「『スペースインベーダー』は地球じゃなくて空間(スペース)を侵略してる」と言ってました(笑)。それこそ昨日までピンボールが置いてあったところにズラッとテーブル筐体が並んでいたこともありましたし、床に台の足がめり込んでいた跡や日焼けしてない壁の一部分を見たりすると「ここにあったんだよな」なんて思ったりして。高校生~大学生で時間もたっぷりあったし、ピンボールだけでなくビデオゲームにも魅力を感じて遊んでいたので、深刻に落ち込むということはなかったですけどね。

――リアルタイムで経験していない身としては、リレーやモーターによる回路で作られていたEM(エレメカ)機からCPUを用いたSS(ソリッドステート)機へとピンボールが形を変えていく間にどんどん進化するビデオゲームには勢いを取られていた印象があります。

堀口氏
1980年代初頭はピンボールにとって辛い時代で、新作が出てもゲームセンターの中での注目度は下がっていたと思います。ピンボール好きな私でさえビデオゲームで遊ぶ時間が増えてしまったのですから、それだけ次々に面白いビデオゲームが登場していたということでしょう。ピンボールメーカーもビデオゲームを作るようになりましたし、当時のマーケット全体で考えるとビデオゲームの開発には人材もお金も投入していたでしょう。そうなるとピンボールには力を入れにくい時代だったのかもしれませんが、そんな状況下でも試行錯誤は続いていたと思います。ところがピンボールを作る側に焦りがあったのでしょうか、ピンボールの本質から外れるようなゲテモノっぽい機種もいくらか見られたなというのが個人的な感想です。

――それでも堀口さんがピンボールから離れられなかったのは、よほどの思い入れがあったとお見受けします。

堀口氏
大学生の懐事情からすると一回100円のビデオゲームに比べて、ピンボールのほうが安く遊べたっていうのもあるかもしれませんね。それこそ上手い人であればクレジットを15とか20とか貯められるので、そういう面ではメリットが大きかったのかもしれません。あと、大学を卒業して社会人になると遊ぶ時間がぜんぜんないので、ピンボールもビデオゲームもとはいかなくなっちゃったんです。それで1983年を境にビデオゲームを一切やらないことを自分自身で決め、今一度ピンボールと向き合って専念することにしました。それから2~3年経って『HIGH SPEED(※)』が出たときは夢中になりましたね。あの台は本当に革命的で、リアルタイムで経験している人とそうでない人ではこの台に対する思い入れがぜんぜん違うでしょうね。この台があったからピンボールがいまもまだ残ってると思います。スタンダードかつ、時代にあった魅力を持たせればいいんじゃないかというところで『HIGH SPEED』が決定的な路線を出したんじゃないかなと。

 

メーカーへの就職

――データイーストに入社されるまでにどういった経緯があったのでしょうか?

堀口氏
TPOの面々でアミューズメントマシンショーへ行ったときにデータイーストのブースでピンボールをガンガン遊んだことがきっかけで、のちに「こういうところをアピールするといいですよ」と販売促進のやりとりを繰り返していたら、窓口の人から「堀口さんみたいに詳しい人がもしうちに来てくれたらとても助かるんです」なんて話をされて、人にピンボールを教えるのは好きだったので27歳のときに入社したんです。1988年の4月ですね。当時は日本のデータイーストの子会社であるデータイーストUSAがシカゴに新しい工場を作ってピンボール事業に乗り出し、それを日本でも輸入して売ることが始まったばかりでした。営業や宣伝の人たちはピンボールのことはあまり詳しく知らなかったようで、知識を得ようとみんなが努力していました。そこで私にその核とも言える役割が与えられた訳です。じつは私個人は教員志望だったのですが、もしも順調にそっちの道に進んでいたら――つまりデータイーストに入らなかったら――日本のピンボールの歴史は違う道をたどったでしょうね。

――いま一度確認のためにお聞きしたいのですが、データイーストがピンボールに着手した背景には1984年に業界から撤退した旧Stern(※)の流れを汲んでいるんですよね?

堀口氏
データイーストピンボール社の中心人物であるGary Sternのファミリーネームがそういう印象を与えるのでしょうが、旧Sternの流れを汲んでいるとは言い難いと思います。Garyたちの「新たにメーカーを作るためにどこかに資本を出してもらおう」という考えとデータイーストUSAの事業計画方針が結び付いて、シカゴに新しく工場を作ることになったようですね。基板の設計面など開発の基礎部分を補うというところで、ビデオゲームの開発にも携わっていた日本のスタッフもけっこうシカゴに出向いてるんですよ。その他には、かつてはセガ社に在籍し、ピンボールに深く携わっていた石川隆さん(1930-2013)という方がいたのですが、数ヶ月はシカゴのピンボール工場で作業者に半田付けなどの基本から教えたりしたそうです。その後も日本のデータイーストでピンボールのために尽力された石川さんの存在は絶対に知ってもらいたくて、豊田ネバーランドでは生誕月の4月と亡くなられた10月に「石川隆記念」という大会を催していたんです。

(※)旧Stern――Williamsの共同経営者だったSam Sternが1977年にピンボールやエレメカ機を製作販売していたCHICAGO COIN社を買収して設立されたのがStern社で、1984年に氏が亡くなるまで営業を続けていた。Sternの歴史はここで一旦途切れてしまうのだが、Sam Sternの息子であるGary Sternをジェネラルマネージャーとして迎え入れ、データイーストがピンボール事業を開始。ちなみにGary Sternは現Sternのオーナーであり、親子二代にわたってSternというメーカーを現在までに残している。

――当時のお名刺には「コインオップ営業部 ピンボール販売促進担当」と書かれていますが、具体的にどのような業務内容だったかをお教えください。

堀口氏
マシンのデバッグにも取り組んでいたし、インストラクションカードやプレイングマニュアル(※)の製作に携わっていましたね。自分からこれをやりましょうと最初に言ったのは「スタートボタンはここですよ」と位置を示すステッカー作りですね。「コインを入れたけどスタートボタンがわからない」という一般の方が多かったので目印を付けたんです。日本国内向けにやっていたことをシカゴのスタッフが取り入れて逆輸入的に影響を与えたものもあります。データイーストとしては二作目になる『SECRET SERVICE』からプレイングマニュアルは発行されていますが、これはまだ宣伝課が中心になって企画したもので、三作目の『TORPEDO ALLEY』からは私に全てを任せてもらえました。

(※)プレイングマニュアル―― 専門用語やフィールド上にある装置の解説をはじめ、各マシンのストーリーやテクニック集をまとめたフリーペーパー形式のマニュアルで、新機種付属の販促物として全国のゲームセンターで配布されていた。また、アミューズメントマシンショーではテクニック集をまとめた「針球競技法開眼之巻」という巻物も配布していた(一時期は新機種にも付属されていた)。第二部で取り上げた大阪SBPの店内では、堀口氏が複製配布を承認したプレイングマニュアルが今もファンを増やすために一役買っている。

――プレイングマニュアルを製作・配布されるまでのいきさつは、まさに中高生だったころの活動と変わっていないんですね。

堀口氏
話の筋としてはまさにその通りで「面白いから遊んでみようよ」「遊び方はこうだよ」っていうのはずっと変わってないんです。プレイングマニュアルっていうのは画期的だったんですけど、インストラクションカードの充実や巻物などの紙媒体を自社製品の販促品として付けたりもしました。自分から発信する立場としていろんな人に伝わっていったので、東京以外にも関西や九州から「詳しいルールの説明書もあったのでとても面白くなりました」というお便りがハガキとか封書で来たことは嬉しく、励みにもなりました。メールのなかった時代のことです。

日本国内外でも好調だったデータイーストのピンボール事業だが、年間の生産台数は徐々に下降し、1994年にアメリカのセガによって部門ごと買収されることになる。90年代中頃はピンボール業界が縮小の一途をたどる真っ最中であり、全てのピンボールメーカーが苦難にあえいでいた。象徴的だったのは、1931年の創業からピンボールの歴史そのものとして歩んで来た老舗ブランド「Gottlieb」を受け継いでいたPREMIER社が、とうとう1996年に業務を停止したことだろう。

栄光から陰っていく激動の1980~1990年代、業界の最前線に立ち続けていた堀口氏の目にはどのように映ったのだろうか? 後編ではデータイーストからの退社と豊田ネバーランドでの勤務と閉店、そしてこれからの課題や願望などをお聞きしたものを掲載する。

Takuya Kudo
Takuya Kudo

1989年生まれ。UNDERSELL ltd.所属。ビデオゲームとピンボールをこよなく愛するゲームライター。新旧問わない温故知新のゲーム精神をモットーに、時代によって変化していくゲームセンターの「いま」を見つめています。

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