『Days Gone』レビュー。一人の男と共に考える終末の過ごし方
朝定刻に鳴るアラームによって目を覚ます。昨日の疲れを緩やかな重みとして四肢に感じながら、いつもどおりニュースを耳に流し、決まった動作で食事を胃に含む。身支度を整えたらスイッチを切り替えいざ仕事へ。代わり映えのない日常。繰り返しの毎日―――『Days Gone』はそんな作品である。
『Days Gone』はSony Interactive Entertainmentより4月26日に発売されたオープンワールドサバイバルアクションゲーム。「フリーカー」と呼ばれる理性を剥奪された感染者たちの大量発生から2年後のアメリカ・オレゴン州を舞台に、ある事件によって自身の全てを失った主人公ディーコン、そして彼の相棒であるブーザーを中心とした、生存限界という極限状態の中で、文字通り死に物狂いで「生」にすがる人間たちのドラマが描かれる。
【UPDATE 2019/05/13 16:00】記事内の「モンタナ州」を「オレゴン州」に訂正
本作は決してゾンビもののパニックホラーでも、人類VS人外の激闘を描いたものでもない。あくまでフリーカーは舞台装置であり、追い詰められた人間たちが見せる一挙手一投足こそが見どころであることを予め明記しておく。
※本記事内には『Days Gone』に関するネタバレが含まれている可能性があります。また本記事内には「CERO:Z(18才以上のみ対象)」に該当する表現は含まれません。
人間を多角的に掘り下げようと試みるストーリー
日常とは、おしなべて空虚でありながら濃密で、画一的ながら多面的、浅薄に思えつつ深層性に満ちたものだ。本作のストーリーは『Days Cone』の表題そのままに、ポスト・アポカリプスという特殊な環境下に生きた人々の日常、そしてそこから見えてくる人間という存在、その本質を完璧では無いにしろ、描き出すことに成功している。
突如発生したフリーカーのパンデミックによって法も秩序も崩壊した世界、善も悪も無く、誰もが藁にもすがる想いで生にしがみつく世界の有り様を、プレイヤーはディーコンというフィルターを通して観測することになる。旅の中で出会う人物は一様に歪んだ信条やある種諦観に似た思想を抱いており、眼の前に横たわる絶望に対し抵抗することはなく、むしろ友人のように受け入れた上で、彼らはみな生存という一つの目標に向け前進するための方法を各々模索し続けている。皆笑顔で敵を排除し、惜しむ言葉もなく同胞を見殺しにする。
傍から見れば狂っているように思える彼らだが、思考を放棄したフリーカー、そんな奴らに憧れるカルト集団「リッパー」、外側の組織である「NERO」と対比すると至って人間らしく見えるのだから面白い。規範も財も失われた中で人が人であるためには、自らの心に掲げた信条にすがるしか無いのだろうか。眼の前の問題に悩み、もがき、苦しむ姿こそ、人が人であることの証明なのではないかと、「狂うこと」こそ人の特権なのかと、幾度もこのゲームは問いかけてくる。
そうしたキャラクターたちによって描かれる物語は「日常」という題材もあってか部分的なドラマ性には欠け、絵としては地味な場面が続く。ゲームプレイの内容としても後述するようにルーティンワークに近いものがあり、日々の不変性を演出してはいるものの、単調と言ってしまえば単調ではある。
しかし、それは所謂「凪」と呼ばれるような状態が長続きしてしまうものではない。わずかではあるが確かに風は吹き続けており、風は小さな波を生み、ディーコンらを乗せた船を少しずつ前進させる。やがて風は嵐となって全てを飲み込むことだろう。だがやがて嵐は時と共に過ぎ去り、その先には美しい虹が待ち受けているものだ。こうして日々は過ぎ去っていく。画一的な風景の中に少しずつ違和感を織り交ぜていき、それらが溜まりきった頃合いで一気に回収していく物語構成は、日常というテーマを表現するにあたって上手く機能しており、「単調」ではあるが決して「退屈」な内容とはなっていない。
また、一本の物語を直線距離で語るのではなく、あえて要素を分割し「ストーリーライン」という連続性のある物語の枠組みを複数設定するという本作独自の手法は、「日常」だけでなく、「人間の本質」という題材を描く上で非常に噛み合っている。人間とは本質的に多面的で混沌とした存在であり、その場その場において周囲に見せる表情は異なるものだ。そしてこの事は主人公であるディーコンも例外ではない。
例えば、自身の過去にまつわるラインと、現在共にいる仲間に関するラインとでは、彼が私たちに見せてくれる態度はまるで違う。普段はその境遇故に独善的に振る舞うディーコンではあるが、親友であり兄貴分でもあるブーザーの前では不器用ではあるが思いやりを見せ、幸福に満ちていた過去を振り返る際には一転不安定でセンチメンタルな状態に陥る。
通常、一本の物語において人物描写を丁寧に行おうとすると、心情や背景といった設定周りの説明に終始し、現在発生している出来事=本筋それ自体のテンポを失ってしまいがちではある。だが一つの側面を強調しつつ展開するエピソードを複数用意することによって、キャラクターを掘り下げつつ物語の進行を可能にしている(そもそもとして日常という題材が、テンポの良い物語進行をあまり必要としていない)。更に日常という題材によって、ライン毎に語られる主題が異なっていても「ある日の出来事」として表現できるために物語自体のまとまりを失ってはいないのだ。本筋に関係する情報を能動的なゲームプレイを通して小出しにしていくというやり方も、あくまで「ディーコンという、ひとりの人間の日常」がこのゲームのテーマであることを私たちに強く印象づけると共に、先述した「いつもの風景に潜む違和感」というフックを提示する方法として機能する。
違和感は違和感を呼び、ゲームプレイを促進させ、作品に込めた理念をプレイヤーに伝える。プレイそのものは単調であるがゆえに、ゲームそれ自体が障壁になることは少なく、なおかつ「日常」という題材と乖離しない。このストーリテリングの手法はゲームという媒体、そして『Days Gone』ならではの興味深いものであると言える。
そして「極限状態における日常から人間の本質を描く」という試みにおいて、縁の下の力持ちの役割を果たしているのが、卓越した声優陣の演技である。先述したとおり、本作は視覚的に動きを魅せる場面が少ない。加えてストーリーラインを用いた演出により、人物の感情表現に物語の旨味を寄せていると言っても過言ではない。故に声優陣のただでさえ素晴らしい演技がさらなる光を放つのだ。敵味方含めて様々なキャラクターが登場する本作ではあるが、筆者のお気に入りはディーコン役を務めた祐仙勇氏の演技だ。割り切ろうとしても割り切れず、非情に徹しようともどこか甘く、冷静で勇猛果敢な一面を持ちながらもどこか不安定で頼りない部分もある、そんな終末に生きる一人の男の生き様を見事に演じきっている。
ぐらつく世界の屋台骨
作品に込められた理念を、私たちが普段目をそらし続けているものをまざまざと見せつけることに見事成功している本作ではあるが、本稿の冒頭で述べた通り、ツメが甘いと言ってしまえばそのとおりである。要するに「世界観の作り込みが甘い」ということだ。終末における日常、人間模様を題材にしているのにも関わらず、総じて今生きている人間の生活に関する描写があまりにも乏しいのである。
まず言及したいのはNPCの台詞に関して「使い回しが多い」という点だ。本作には主要登場人物以外にもNPCとして災禍を生き延びた人たちが生活拠点をはじめ数多く登場する。NPCの存在は世界を構築するうえで欠かせないパーツである。彼らの「普段」が存在するからこそ、主人公たちの「突飛な行動」が際立ち、より説得力を増すのだ。しかしながら、彼らの話す内容は何処へ行っても同じだ。確かに娯楽が少ないとは言え、キャンプへ帰るたび繰り返し、耳に嫌でも入ってくる、内容が固定された井戸端会議は、終盤の頃になると最早ノイズでしか無くなってしまっていた。
本作における一部コレクションアイテムに関しても疑問を呈したい。『Days Gone』には実に10カテゴリに及ぶ膨大な収集要素が備わっており、世界観を補強するための重要な役割を果たしている。
内容は主要人物の背景を掘り下げるものや、リバタリアンによる陰謀論ラジオなど様々だ。しかし、あくまで個人的にではあるが、平和だった頃のオレゴン州をいくらコレクションというモノを通じて紹介されても「へぇ」以外の感覚が沸かなかった。提供される内容と、ゲームプレイとの連続性が全く感じられなかったのだ。記念碑や過去形のテキストだけが残されても、それがどのようにかつて繁栄していたのか、では荒廃した今はどうなっているのかということが疑似体験できなければ、ゲーム内の1要素として存在する意味が無いだろう。せっかくオレゴン州を舞台に据えたのだから、独自の文化や魅力を伝えたかったということは理解できる。ただフリーカーうごめく荒野の中で、孤独に残された石碑を通して観光地案内を受けたところで何の感慨も浮かんでこない。
「終末期の日常」を題材にしたゲームで私が感じたかったのは、その地に生きていた住民たちの息遣い、その残滓であり、どこそこになにがあったという情報を知りたかったわけではないのだ。これ以外にも「主人公たちがフリーカーに感染しない理由が明示されない」、「肉を採取する狩猟が資金稼ぎ以上の意味を持たない」など、世界観構築に関する不備は枚挙に暇がない。
確かにこれらの問題は「だってそういうゲームだから」の一言で片付くものだろう。だがゲームだからこそ拘らなくてはならない部分ではないのか。ポスト・アポカリプスにおける日常という題材を選択し、体験を伴うゲームという媒体でもって表現しようとしたのだから。しかもオープンワールドという小さな世界を敷いて。その意味を、表現者としての想いを、十全に理解させてほしかった。画竜点睛を欠く。メインとなるストーリーは素晴らしい出来だったからこそ、その屋台骨の出来が疎かになっているという事実は誠に残念である。
代わり映えの無いゲームシステム
では肝心のゲームシステムの方はと言えば、能力強化のため箱庭の中に点々と築かれた、似たような敵拠点を黙々と攻め落とす、オープンワールドゲームに慣れ親しんだゲーマーにとっては日頃とても馴染み深い、いわば単調でありきたりな内容となっている。目を見張る革新性は無く、かといってオープンワールドゲーム群に脈々と引き継がれてきた伝統をブラッシュアップしている気配もない。初見プレイ開始時にはまるで月曜日の次に火曜日が来るような虚しさが筆者を襲ったものだ。しかし不思議と最後まで飽きずにプレイ出来てしまった。それが何故かと言えば、食卓に並べられた卓上調味料が如く、自身のゲームプレイに自分で味付けを行えるような工夫が本作には備わっていたからである。
率直に言うと、攻略という部分において『Days Gone』の難易度はかなり緩い。少なくとも筆者がプレイした「ノーマル」の難易度は思った以上に易しめであった。不足すると予想された物資は意外と世界に充満しており、リスポーンによる補充の間隔も早い。敵の攻撃一打一打は痛いものの、体感時間を引き伸ばしエイムを安定させる「フォーカスモード」や、掴まれた場合にカウンターで一撃死させることができるスキルの存在により、反撃は容易い。重装備に身を固めた人間はもとより強大に進化したボスクラスのフリーカーでさえ、爆発物で動きを止めその場で脳天を数発ぶち抜けばいとも簡単に「処理」できてしまう。
本作の醍醐味とされた大群との戦いも、とれる行動が限られたゲーム序盤から中盤こそ苦戦したが、装備が整うゲーム終盤以降は思考放棄した一方的な殲滅が可能。例えば爆発物を限界まで投げたあとにマシンガンを用いれば楽に一掃できる。しかも対大群の機会はゲーム後半以降に多く設けられていることもあって、あまり印象には残っていない。ステルスや戦略が必然的に介在するのは序盤のみであり、ゲームが進行するほどに極限状態というローケーションの実在性は薄れ、殺るか殺られるかのスリルは何処へやら、賞金稼ぎとして淡々と仕事をこなすことを求められる。本作はそんなゲームバランスとなっている。
一応、賞金首とのバイクチェイスが独自要素として存在しているが、ゲーム側が行うプレイ内容の変化に関して言えば、終盤になってはじめて周回コースの難易度が少し高くなる程度だ。機体を順当に強化していればクリアに困ることは無い。
だがゲームプレイの内容が単調で簡単であることがゲーマーにとって「悪」であるとは限らないことは、読者の皆様もご存知だろう。私たちが真に悪と断定すべきは「最後まで遊ばせる気の無い」システムであり、『Days Gone』はその点で決して「悪」に堕ちてはいない。なぜなら「本作は自らゲームプレイを画一化させることをプレイヤーに要求してはいない」、言い換えれば、「プレイ内容を画一化させるかどうかはあくまでプレイヤー次第」という方式を採用しているからだ。最終的にあらゆる重火器やあるゆる刀剣、あらゆる戦法が最適解になるのであれば、最適解が無いということと同義である。昼夜・天候を選択し、気分にあった武器を手に取る。野党にフリーカーの群れをぶつけてもいい。罠を張り巡らせるのも楽しい。如何に単調と言えど、単調なりに細かな変化をつけることはできる。行動に伴う結果が全て似たような目標の達成に収束するとしても、到達するまでの過程の内容が「退屈な内容」になるのか、「いつもよりちょっと楽しい道程」になるのかは人それぞれになるよう本作はデザインされているのだ。
広いようで窮屈なバイカー体験
単調な話に、単調なゲームプレイ。東から昇る太陽が西に沈むように、代わり映えのない遊びの中で、唯一と言っていいほど随時エキサイティングな体験を提供してくれるのが、ディーコン第2の相棒たるバイクである。独特の慣性と操作方法に慣れる必要はあるが、リアルタイムで変化するオレゴン州を愛機に跨がり駆け回る体験は、清涼剤の役割を果たしている。簡単でシンプルなプレイングが続く中で、操作技術向上という目に見える「変化」は、明確な成長体験としてプレイヤーに満足感を与えてくれる。
しかし、思っていたほど「自由自在、縦横無尽」とはいかないのが悲しいところだ。ゲーム内を数十時間共にするこの愛機、とかく燃費が悪く脆いのである。補給用の燃料や修理用の資源に関しては先述したように、そこら中とは言わずとも特定の場所で確実に発見できるため問題はない。任務中いざという時に困ることは筆者の場合一度もなかった。だが燃料の減りの速さは実在の縮尺を考えても悪すぎる。バイク自体もかなり脆く、岩壁に衝突するのならまだしも、水に浸かった瞬間にここは中世の毒沼かと勘違いしてしまうほど機体が消耗していく。まともなバイカーライフが送れるようになるのは、機体のアップグレードにより快適さが増す、ゲーム終盤である。
以上を読んで「すぐにバイクを修理できるのならば別にいいだろう」と考える方もいるだろう。「燃料や資源を考えながら遊ぶのが醍醐味では」と問いたい方もいるだろう。こうした指摘に対して筆者が言いたいのは、バイクに長時間乗れないこと以上に、オープンワールド自体やそれを活かしたシステムが腐ってしまっているという事実だ。例えば拠点間をワープできる「ファストトラベル」。長距離を移動するにあたって、リアリティの追求とワールド探索を優先させるためプレイヤーに対価を求める作品は数多く、本作も例に漏れずファストトラベルにあたって燃料を消費するが、上記の燃費の悪さによって形骸化している。望んだ場所に行くには補給のため中継地点をワンクッション挟む必要があるという本末転倒具合だ。
また、自由な散策ができないという問題もある。余計な行動が取りづらいと言い換えたほうがいいかもしれない。補給そのものは容易いが、資源補給が可能な場所は特定の地域に限られているため、移動の際には計画を立て、必ずその点をルートに組み込む必要がある。故に、広大な世界を前にして気兼ねなくブラブラと散歩することは叶わず、一つ一つの行動に目的意識を持つことを強制されてしまう。一日一日を大切にしろと言っても、人には何も考えず風に吹かれる時間が必要だと筆者は考える。繰り返しになるがバイクの操作それ自体は非常に楽しい。移動という体験に密着したフォトモードというシステムも欲しい機能が一通り揃っており優秀だ。それだけに「題材とゲームが喧嘩しているという状況」はよくあることではあるが、実際惜しいものである。
本作で語られる話は一見地味で、作りは粗雑。プレイ自体もつまらないものに思えるかもしれない。だがほんの少し視点を逸してみれば、題材を活かした秀逸な演出群や魅力的なキャラクター、素晴らしい役者の演技、自由度の高い拠点攻略といった、異なる側面が見えてくる。”事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである”とはよく言ったものだ。
朝少し早めの時間に家を出てみたり、通い慣れた道から一本路地を外れてみたり。ただひたすらに享受するだけではなく、勇気を出して自分から求めてみれば、また違った日常が見えてくるはずだ。いつも見知った風景にほんの一滴色を刺す。ただ一方的に過ぎ去っていく無色なる日々の虚しさを、次々と向かい来る無垢なるキャンパスに変えることの大切さ。『Days Gone』はそのことを暗に示しているのかもしれない。