私(40歳)と息子(11歳)は『スーパーチャイニーズ』で夢の競演が出来るのか
「この人と、いつまでも一緒にいたい」。そう願うのは、人の性だ。本来ヒトという生き物は、個体では生きていけず、社会というものを構成することで初めて活動出来るようにデザインされている。特別な感情が生まれる対象もいる。友人、恋人、クラスメート、同僚。とりわけ「家族」「血族」は特別なものだろう。なんせもう地球には70億ものヒトが存在している。さまざまな関係、繋がりがあって当然だ。
ヒトとの繋がりとは何だろうか。お互いの思い出があれば「繋がっている」と言えるのか。より多くの繋がりを持ってさえいれば勝ち組なのか。人類史上、この問いに対して明確な答えは出ていないと思う。輪廻転生を無視して考えるなら、ヒトはいつか死に、もしくはその前に記憶の忘却というドライな儀式を経て、繋がりを喪失する。小学生時のクラスメートを、我々は何人記憶し、また忘れているだろうか。ヒトは残酷にも、他人との繋がりを忘却することで、次なる何かを埋めるための余地を確保しているのだ。だからこそ、我々は「今」を大事にし、「今」繋がりたいと考える他人との時間を愛おしく感じるのだ。
息子もこの4月で晴れて小学6年生となった。当たり前だが1年後には中学生だ。思春期という自我に目覚める時期にもさしかかっている。私自身がそうであったように、息子も自分自身の人生を考え始め、そして親離れしていくのだろう。ようやく立てるようになり、歩けるようになり、私と目が合い、ニチャニチャと笑顔を浮かべながら私の元へヨタヨタと歩み寄って来た日はもう昔の話だ。小さく、軽い息子を抱きかかえて動物園へ行ったり、風呂に入ったりしたことも、もう過ぎた話だ。少なくとも息子にとっては忘却の日でしかない。私と息子の繋がりは、失われていくのか。変化として捉えるべきものなのか。
「今、息子に何をすべきか」ではなく、「今、息子と何をすれば、繋がりを実感できるか」。それが私の率直な想いに近い。
カートリッジを差し込み、電源を入れる時の緊張感
さて、前回述べた通り、今回息子と遊ぶ環境は8bitマシン、複数タイトルを用意することとした。幸い、コレクターの方のご協力もあり、ファミリーコンピュータの互換機と、カートリッジ4つを拝借して頂けた。
・『ダウンタウン 熱血行進曲』
・『ツインビー3 ポコポコ大魔王』
・『スーパーチャイニーズ』
息子とは事前に「春休みどこかでガッツリとファミコンで遊んでみようぜ」と約束をし、とある日に夕食を早めにとり、この4タイトルに挑んだ。息子も互換機とはいえレジェンドなゲーム機と「カートリッジ」という代物は実際に目にすると斬新だったようで、「おお、これが初代ファミコン……」と多少の感嘆を漏らしていた。
結果、この4タイトルの中から『スーパーチャイニーズ』を二人でガッツリ遊ぶことになったのだが、各タイトルでのプレイレポートも簡単に挙げさせていただく。
・『マリオブラザーズ』
「下から叩いて、蹴とばす」というシンプルなルールは息子もすんなり理解したものの、すでに昨今の『スーパーマリオブラザース』シリーズを散々プレイした息子にとっては、当タイトルの独特の慣性法則(というかジャンプ後の制御が不能)にはほとんど対応出来ず、かつ私一人の力ではいかんともし難く、なんとか7ステージに到達が限界だった。
・『ダウンタウン 熱血行進曲』
このタイトルに至っては私も遊び方をほとんど忘れており、むしろ息子の方が「連打でダッシュ出来るんじゃないこれ?」など、順応が早かった。『クロスカントリー』で親子仲良く3位・4位フィニッシュで残念ながら断念。
・『ツインビー3 ポコポコ大魔王』
『ツインビー』シリーズは私個人として思い入れが強く、このタイトルも当時ソロでクリアした記憶もあり、強化アイテムであるベルの扱い方や、縦・横の合体攻撃など、いろいろ教えながらプレイしよう、という想定だったのだが……。「あれ、ツインビーってこんなに難しかったっけ……」と漏らさずにはいられないほど、二人揃って残機をガリガリ減らしていった。「あっ手が無くなってる(笑)」「あ、それね、上から救急車みたいの出てくるからそれで治るよ……って俺も死んだ(笑)」「ベルが全然取れない(笑)」といった具合に、高難易度と独特のコミカルな世界観と相まって、息子をして「このゲーム無茶苦茶だ(笑)」と言わしめ、アッサリ2人で匙を投げる結果となった。しかし笑いの密度は一番高かったと思う。
Aボタンでパンチ、Bボタンでムーンサルトキック。シンプルな操作性で息子にも分かりやすく、難易度は高いもののサクサクと遊べた。また、当タイトルをプレイする際、ファミコンお約束のカートリッジの接触不良が起こり、タイトル画面が正しく表示されないというちょっとしたアクシデントに恵まれ(?)、お決まりの儀式(一度カートリッジを抜いて、ソーっと刺し直すあれ)を実施したところ、息子も「おお、コレが噂の……」と少し関心していたこともお伝えしておく。
1回目のプレイでは2-1に進んだあたりでゲームオーバーとなったが、上記3タイトルと合わせて一巡後、「さてどれをもう一度やろうか」と話した結果、ほぼ即答で『スーパーチャイニーズ』となった。
無駄にテンションが上がった「リー」と、それをニヤニヤ見ている「ジャッキー」と
小休憩を挟み、その間私はネットで概要やプレイ方法などをあらためて確認した。「1プレイヤーは「ジャッキー」(赤)、2プレイヤーは「リー」(青)」だと。ジャッキーチェンとブルースリーということか?これぞ世代を超えた共演、親子でプレイするに適した世界観だ。最も私のイメージではジャッキーが青、リーが赤だが……。
「なあ、俺(少し興奮すると私は一人称が「父さん」ではなく「俺」になる)次は2プレイヤーでやっていい?」「いいけど?」「1がジャッキーチェンで、2がブルースリーなんだってよ!」「そうなんだ(笑)」
「酔拳」「プロジェクトA」などを鑑賞済み(私が見せたのだが)の息子はジャッキーチェンは知っていたが、ブルースリーは未知の領域。それでも流石は約10年の付き合い。私が言わんとしていることは伝わったようで、ニヤニヤしながら快諾した。
気を取り直して再プレイ。ジャッキー&リーとなった親子コンビだったが、どうしてもワールド2の壁が越えられず、何度かゲームオーバーになった後、再度ネットで攻略方法を検索。いくつか重要なポイントを押さえた。「ボス等の強敵は無視、とにかく敵を倒した数でクリアになる」「ブロックをたたくとアイテムが出る」そして「タイトル画面でAボタンを押しながらスタートボタンでコンティニュー」だ。
息子もだんだんとコツを掴み、親子コンビは今までになく手際良く進んでいく。「父さん、コイツ(「ハカイダン」という敵キャラ。ぬりかべみたいなキャラで、取りつかれると厄介)どうするの?」「基本無視!倒すならキックかな」「OK!」そんな調子で、ワープゾーンの手伝いもあり(アイテム入手の観点からすると、結果的に良くなかったかもだが)4ワールドまで進むことができた。が、流石にここまでくると今日始めたビギナーと、約30年ぶりのロートルのコンビではどうにもならず、最高ステージは4-2で気力が尽きて終了となった。
私(40歳)と息子(11歳)は確かに『スーパーチャイニーズ』を楽しんだ。次は……
今回、特に『スーパーチャイニーズ』はリリース当時(1986年、私は小学四年生)と近しい雰囲気でプレイが出来たと感じた。難易度はさておき、十字キーとボタン2つというシンプルな操作スタイルはむしろ昨今のタイトルよりも息子にとっては理解に早かったようだ。「世代を超えて、一緒に楽しむ」というラインは突破出来た、と考えて良いと思う。『ファイナルファイト』のような寂しい空気もなかった。今後クリアを目指して再挑戦、も十分にあり得る。
強いて我々2人のプレイ体験の差分があったとするなら、やはりドット絵から得られる情報量と補完量だろうか。上記の通り、我々世代は8bit機のつたない(当時は最先端だったが)グラフィックが描きだすキャラクターから、さまざまなディテールを自分なりに補完していたと思う。私の動かす「リー」は、確実にあの怪鳥音を発していたのだが、それは息子には恐らく聞こえていまい(もっとも、当時でも『スパルタンX』ではジャッキーは発声していたが)。あのカクカク絵から、どんな世界観、ストーリー、主人公の戦う目的や感情、セリフなどを妄想するか。当時の少年は、意識・無意識に関わらず、そうやってひとつひとつのゲームタイトルを楽しんでいた部分があると思う。これはどちらが感性豊かなのか、という議論ではなく、映画館から活動弁士が消えたように、レコードクリーナーが必要なくなったように、技術の進化、環境の変異と共に退化していった感覚なのだろう。フロッピーディスクのアイコン、黒電話のアイコンは我々にとってはシンボルだが、彼らにとっては記号でしかないように。
逆に言えば、情報量が飛躍的に向上したリメイク版であれば、新旧問わず我々は世代を超えて、普遍的なゲーム体験を共有することは十分に可能だ、とあらためて感じた。
さて、2度に渡って親子で一緒にレトロゲームをプレイする企画を進めたが、次回こそが
「世代を超えて」というテーマの本題のもと、共同プレイではなく、あの国民的タイトルを息子にプレイしてもらい、「世代間での価値観の相違」を引き続き深堀りしていきたい。
[機材提供 鎌田 愼司]