「博物館化していくゲームセンター」第二部 前編
第一部では、県の公共施設でアーケードゲーム(※家庭用も一部含)の展示が行なわれた事例として「あそぶ!ゲーム展 ステージ1」をご紹介した。第二部となる今回は、筐体を個人所有されている方々が、新たな遊び場を提供する活動に焦点を当てて特集する。
ゲームセンターで100円の収益をあげるために世に出されたアーケードゲーム筺体・基板は、その役目を終えてしまえばスクラップされるか、もしくは中古流通業者(ディストリビューター)を介して、ほかのゲームセンターや個人の手に渡るというのは前回でも説明したとおりだ。
しかし、ディストリビューターから筐体を「現状渡し」を条件に購入した場合、それが完動品であるとは限らない。たとえばレースゲームであればハンドルやペダル、シフトレバーなど、プレイヤーが直接的に操作する部分は酷使され、ほとんどボロボロの状態で渡されることも少なくないという。このような場合はもちろん修理せざるを得ないのだが、すでに保守用パーツが生産中止となっていたり、代替品のストックが枯渇していることから、動態保存させることはさらに難しくなっている。特にブラウン管モニターは国内での生産が完全になくなったため、ここ数年で代替え需要が一気に上がったという。
プレイヤーの操作に合わせて筐体が動く「大型体感ゲーム」においては、可動部のモーターやコンプレッサーの劣化・故障が顕著である。筐体そのものが残っていることは確かに貴重ではあるが、可動することによってその面白さがさらに加味されるため、ただ単に遊べるだけではやはり物足りなさを感じてしまう。
そのほかにも、カビやサビといった劣化を防ぐための温度・湿度管理や、保管場所として借り入れた倉庫代の支払いなど、さまざまな苦労は絶えない。
だがそれでも「いろんな人に遊んでほしい」という願いを持って、限りなくゲームセンターに近い遊び場を個人で提供している事例から、今回は「UGSF-WEST 有志団体アーケードゲーム博物館計画」と「バック・トゥ・ザ・アーケード」を特集。これまでの活動を振り返るとともに、一個人という立場で運営を続けていくための具体的な目標などをうかがった。
すべては『ギャラクシアン3』からはじまった
――開放活動を始められたきっかけをお教えください。
有志団体アーケードゲーム博物館計画代表 伊藤桂 氏(以下、伊藤氏):
1990年代中盤、ナムコ(現・バンダイナムコゲームス)の『ギャラクシアン3』(※)にハマっていた仲間で集まって、「こういう大型ゲームはいつかなくなってしまうから確保して将来的に遊べる場を残しておきたい」っていうところからスタートしたんです。当時『ギャラクシアン3』は新品だと1 200万円、中古相場でも700~800万はしたんですが、とてもそんな額は出せないので、廃棄寸前でもいいから出物があれば教えてほしいといろんな方面に話していたんです。そしたら、当時のメンバー13人で共同購入できるぐらいの金額で購入できるお話をいただいて即、購入したんです。
※ 大阪府大阪市で開催された「国際花と緑の博覧会」(1990年に)で初出展された、28人同時プレイ可能な3Dシューティングゲーム。他にも16人版や、ゲームセンターでも設置稼働できるサイズに収められた6人版(通称シアター6)がある。本作のゲームシステムを踏襲してリリースされたのが『スターブレード』である。
――UGSF(※)のファンサークルとしての活動はどのようなものだったのでしょうか?
伊藤氏:
「こういった経緯で筐体を入手しました」という活動報告をまとめたものを本として作り、コミケなどで出したんです。設定考察をされているサークルは他にも多くありましたし、攻略本を作るにしても全国的に台数がない状況だったんですよ。なので、攻略本を出してもただの共通認識としてで終わっちゃうので、プレイヤーの裾野が広がらないんですよね。そこで読み物形式にして活動の裾野を広げるようにこころがけました。
※United Galaxy Space Force(銀河連邦宇宙軍)の略称で、バンダイナムコゲームスの異なる作品同士で世界観や設定や共通する一連のシリーズ。ハイスコア争いをはじめ、設定考察をまとめた同人誌やグッズ制作など、数多くのファンサークルが実在していた。
――開放活動を開始された頃の時代背景はどのようなものだったでしょうか?
伊藤氏:
90年代後半はまだ一部のゲームセンターには古い筐体がけっこう残ってたんですよ。店の端っこのほうとかで細々と稼働してたので、うちらが集めるほど危惧するようなことはなかったんですよね。でも、2005年ぐらいから一気にバタバタっとお店がなくなった状況が進んで、ふと振り返ってみたら「あそこで遊んでたものがない!」っていう情報が入ってきて、これは本格的にまずいんじゃないかと思い始めたんです。
かつて遊んでいたアーケードゲームの数々が徐々に姿を消していくことに危機感を覚え、『ギャラクシアン3』を共同購入したことをきっかけに、自分たちで遊び場を提供しようと活動をスタートした伊藤氏。だが、倉庫の問題にはかなり振り回されたという。
2度に渡る移転と、タイトーからの援助
――これまでに及ぶ開放活動はどのようなものでしょうか?
伊藤氏:
2007年に埼玉県の熊谷市にあるテナントを借りた第1期の展開の期間は翌年1月までの3か月ぐらいですね。テナントが入っていたビルの解体が決まっていたので、オーナーさんからも「それまでの間だったら好きに使っていいよ」と言われてまして改装から全部ひとりでやりました。第2期は、2012年までの4年間を埼玉県の久喜市で展開しましたが、ここは第1期のスペースの3、4倍じゃ効かないぐらい広かったですね。この頃はコナミの『チェッカーフラッグ』やセガ(現 セガ・インタラクティブ)の『アウトラン』を個人で所有されている方から寄贈していただいたり、ナムコの『プロップサイクル』『エアーコンバット』『レイブレーサー』などを購入しました。アクセスは不便でしたが、開放日には多くの方にお越しいただいたことで名前が少しずつ広まっていきましたね。
――そして現在の第3期、タイトーさんの熊谷倉庫に繋がるわけですね?
伊藤氏:
第2期で借り入れてた施設が古かったので建て替えるという話が出まして、物件の情報を急いで求めたんです。たまたまうちの状況を知ったタイトーの社員の方から「熊谷の倉庫で展開してみたらどうですか?」っていうお話をいただきまして。本当に偶然で、すごくいいご縁をいただきました。
オークションや閉店したゲームセンターからの買い取りによって筐体の導入数が一気に増えたという大きな転換を迎えた第2期。そしてタイトーからの申し出によって第3期として再開を始めたが、運営方針はこれまでとは変わっていないという。
「アーケードゲームに目を向けてもらえる場所」としての開放
――無料開放というのは当初から決めていたことなんですか?
伊藤氏:
第1期のころから全台フリープレイのカンパ制でお願いしてます。本当はゲームセンターのようなコインオペレーションでやりたいんですが、風営法(※)の申請をするのにも費用がかかりますし、毎日営業するわけではないので、それでペイできるのかっていう問題もあったんですね。それならば完全にフリープレイにしてしまって、気持ちとしてカンパを頂戴するということに決めました。
※風俗営業法の略称。客に一定の設備で遊興させるゲームセンターの営業には、第8号が適用されており、各都道府県の公安委員会から許可が必要。
――開放日に来られる来場客はどういった年齢の方々が多いですか?
伊藤氏:
中心的なのは30代から40代が多いですね。最近は親子連れが多かったり、若い世代だと20代の方もけっこういらっしゃるんです。うちをきっかけに、ゲームセンターに足を運んでくれるお客さんがひとりでも多く入ってくれることを望んでいますね。まずはアーケードゲームに目を向けてもらえる場所として、我々の運営目的をわかっていただければいいなという感じです。
――運営をするうえで心がけていることなどはありますでしょうか?
伊藤氏:
ゲームセンターっていうのは日本のゲーム文化みたいなものの根っこにあると思うので、その空間までを補完・再現できるような場所があるといいなと考えています。「昔あったよね」という感じで大型筐体をゲームの歴史として系統を立てるのが理想ですね。幸いにして私だけではなく他にも筐体を集めていらっしゃる方やゲームセンターがまだ多いので、何が何でもうちで全部集めようっていう気はないんですね。
ただ「博物館計画」を銘打つので、来ていただいたときに「面白かった」だけではなくて、何かひとつプラスアルファの知識や体験なりを持って帰れるような施設っていうのを作りたかったんです。
1プレイの料金や入場料をとらずに遊んでもらうことによって、知らなかったゲームへの興味・関心や、ゲームセンターに足を運ぶ若い人が増えてほしいという思いがそこには込められていた。また、当時を知る人たちが一堂に会し、童心に返って楽しんでいる光景を目にすることでやりがいを実感するという。しかし、運営においては来場者からのカンパによって賄われていることに不安はないのだろうか?
本当の「アーケードゲーム博物館」になる日まで
――個人で運営を続けるモチベーションのほどはいかがでしょうか?
伊藤氏:
メンテナンスにかけられる時間と費用が捻出できないのが現状でして、いまのところは月1回のペースで開放できてないんですね……。去年の12月にメンテナンスも兼ねて不具合を全て調べたんですが、これはちょっと開放できる状況ではないと判断したんです。ゲ博計画の活動理念のなかには「いま現役であるゲームセンターのゲームを遊びに行く」っていう考え方があるので、他に遊べるところがあるならもういいかなと思うこともあるんですが、遊べる場所を提供する楽しさや、旗を立ち上げたまま退くのはものすごく悔しいので、何かしら形にしたいっていうのはあるんですよ。そこが踏ん張りどころなのかもしれません。
――その具体例はどのようなものなのでしょうか?
伊藤氏:
全国の博物館をプロデュースされている知り合いの方から「こういう資料があるとモチベーションになるよ」と、スケジュールや用意する物、計画例などのプラン表を作ってくださったんです。いつかはそのプラン表に沿ってやりたいなと思ってるんですが……。友人知人、来訪された方々のおかげもありましてメーカーさんとの顔つなぎができるようになりましたし、以前ナムコさんの50周年記念イベントに機材資料協力できるなど、少しはゲーム史を紹介する一端を担えるようになってきてるのかなと思ってます。
個人の運営だからこそ、やはり金銭・時間的な問題には常に頭を悩ませられているという。だが、これまでの活動によってメーカーや大学、博物館などにも存在が認知され、協力を要請されることも数多いという。しかしながらそういった場では展示されるだけであって、実際に手で触れて遊べる形ではなかったことに伊藤さんはジレンマを感じ、「ゲームというのは遊ぶものである」をモットーに、これからも「アーケードゲーム博物館計画」の運営・開放も続けていくことも目標であると語っていた。興味を持った方は、次の開放時に是非とも足を運んでみてほしい。
次に紹介するのは主に90年代のアーケードゲームをメインに、「アーケードゲームギャラリー」と称して営業している「バック・トゥ・ザ・アーケード」。店舗としてオープンしようと思われたきっかけや、長く続けていくための目標・課題などをうかがった。
※後編に続きます
博物館化していくゲームセンター
「博物館化していくゲームセンター」第一部 前編
「博物館化していくゲームセンター」第一部 後編
「博物館化していくゲームセンター」第二部 前編
「博物館化していくゲームセンター」第二部 後編
1989年生まれ。
UNDERSELL ltd.所属。
ビデオゲームとピンボールをこよなく愛するゲームライター。
新旧問わない温故知新のゲーム精神をモットーに、時代によって変化していくゲームセンターの「いま」を見つめています。