『魔界戦記ディスガイア6』レビュー。伝統と革新の狭間で揺れる「史上最凶やり込みシミュレーションRPG」

シリーズ最新作である『魔界戦記ディスガイア6』レビューをする。『魔界戦記ディスガイア6』のプレイを通して感じたものは、作品の面白さ以上に、開発陣の苦悩であった。

伝統と革新。この2つの要素を常に両立させることは、背負うものが大きいほど難しい。初作から18年の重み。シリーズファンが持つ期待。さらなる新規顧客の開拓。私が『魔界戦記ディスガイア6』のプレイを通して感じたものは、作品の面白さ以上に、開発陣の苦悩であった。


『魔界戦記ディスガイア6』は、日本一ソフトウェアが手がけるシミュレーションRPG『魔界戦記ディスガイア』シリーズにおける6番目のナンバリングタイトルだ。新たな要素として、戦闘をすべて自動でこなすオートバトルシステムを導入。加えて、最大レベルが9999万9999に上昇したことをはじめ、ステータスの大幅なインフレーションが発生。過去作とは比較にならないスケールを持った「やり込み」を売りにしている。そして2Dだったキャラクターが3D モデルへと一新。立体的に可愛らしい仲間たちと共に、最弱ゾンビ・ゼットの強さを求める旅路を描く。

※本レビューは、日本一ソフトウェア提供のPS4パッケージ版をもとに執筆

『魔界戦記ディスガイア』シリーズにおける「やりこみ」とは


「史上最凶やり込みシミュレーションRPG」。これはシリーズ初作となる『魔界戦記ディスガイア』のキャッチコピーである。2003年に生を受け、現在に至るまで実に18 年。『魔界戦記ディスガイア』シリーズは「やりこみ」を作品の至上命題としてシミュレーションRPG界に独自のアイデンティティを築いてきた。だがそもそも「やりこみ」とは一体何か。単にステータスの最大値が他作品より1つや2つほど桁が違うという事象が、どうして評価されたのか。最新作の実態に触れる前提として、シリーズの核であり、旋風を巻き起こした「革新」からやがて「伝統」となった、「やり込み」の正体について触れておく必要がある。

本シリーズにおける「やり込み」は「時間」を燃料にした「2つの軸の相互作用」によって構成されている。

一つは「謎解き」だ。私が思うに、『魔界戦記ディスガイア』シリーズという作品群は一様にして、壮大な「謎解き」である。用意されたあらゆるシステムの存在意義を読み解き、その機関すべてを「最大効率」で稼働させつつ、同時に膨大な時間を注ぎ込むことで理論値を追い求める数学的学問。真理の探求に明け暮れるプレイヤーの姿は、まるで求道者のように映る。先述したように、本シリーズは他のRPGをはるかに上回る規模の最大ステータス値が存在し、それを売りにしている。だが、それは証明における命題の提示に過ぎない。最終形を想定しながら自らの手を絶えず動かし、メモをとり、時間をかけて試行錯誤を繰り返す。思い描いた理想が、費やした努力が、等号をもって目前に結実する。それはまるで一つ大きな山を登りきったところに広がる、大パノラマを見渡したときのような、独特な達成感と充実感をもたらしてくれる。

そして『魔界戦記ディスガイア』シリーズは「壮大な謎解き」であると同時に、「キャラクターを愛でるゲーム」でもある。本筋となるパロディ成分たっぷりのコメディタッチなストーリー群は、原田たけひと氏がデザインを手がける愛らしいキャラクターたちに、内面にも唯一無二の個性を与えた。彼らは、自身がまばゆい魅力を放っているだけではなく、システムとの相互作用も生み出している。

本シリーズのシステム上、性能が優秀なネームドキャラクター(特に主人公格の人物)は必然的に育成対象となり、ゲームを終えるまでプレイヤーと共に長い時間を過ごすことになる。成功体験を共有することになるわけである。するとどうなるのか。フェティッシュが生まれるのである。

――「フェティッシュ」という概念がある。実在する物質に神秘性を見出し、崇拝する信仰の一形態である。日本で言えば富士山信仰や付喪神といったものが有名だ。

『魔界戦記ディスガイア』シリーズにおいてもこれに似た現象が発生する。キャラクターの強い個性と長い時間連続する成功体験とが結びつき、対象の裏にプレイヤー独自の人物像が見いだされ、そして形成されていく。愛着の二文字では収まらない親愛の情がキャラクターに対しプレイヤーから惜しげもなく注がれる。この現象はキャラクターが登場する創作物全般で発生するものではあるが、時間と成功体験の相乗効果による発生率という点から考えると、他作品とは比較にならない高さを誇るのではないかと、私は考える。


単なる一本の苗木が大樹へと成長し、人々のランドマークになり、やがては御神木として神体の機能を見いだされるように、体験を味わい尽くすに永い時間を要するゲームのあり方が、既に強い個性をもったキャラクターたちに思い出という名の新たなエッセンスを付与する。大勢の人間から愛されるための偶像が、私の隣に立ち続けた相棒に変わるのである。

その一方で、物語性を持たない汎用キャラクターたちは単なる数合わせの駒でその役割を終えるのかと言えば、決してそうではない。物語性をあらかじめ持たないからこそ、愛情を注ぎ込むための器としてはネームドキャラクターよりも底が深く、優れている。彼らの能力は主人公格と比較しても役割がはっきりしており、得手不得手が激しい。だからこそ積極的にゲームシステムを活用し育て上げる必要がある。すなわち、主人公格たちに向けた以上の熱量が、彼らに注ぎ込まれることなるわけである。やがて内包された膨大な熱量はより膨大な思い出という物語へと醸成されていく。新しくナンバリングタイトルが発売されるたび、色あせぬ七色の個性を獲得する彼らの存在は、シリーズを象徴する存在として欠かせないものだ。

この「愛着が湧く」という現象が何を意味しているのかというと、「コマンド採用のRPGはデータ=ゲーム的な観点を重視するために、登場人物やロールに没入できない」という風説の否定である。俯瞰的視点からゲームをシステマチックに捉え、理を重視してのめり込んでいくほどに、極めて主観的な、個人的な作用として、より一層のキャラクターへの情愛(没入)が発生する。逆にキャラクターへの情愛があるからこそ、ゲームをより深く探求し、解明しようという動機が生まれる。「壮大な謎解き」とプレイヤーが注ぐ「キャラクターへの愛(没入)」。一見相反する両者の相互作用こそ『魔界戦記ディスガイア』シリーズが誇る「やりこみ」の正体である。シリーズを重ねるたびに「システムの相関図」は育成だけでなく装備や戦闘の領域まで広がり、愛すべきキャラクターの人数はますます増えていったのだった。


時代と伝統の狭間で


さて本題に入ろう。ナンバリング6作目に至った史上最凶やり込みシミュレーションRPGは、シリーズが積み上げてきた伝統に、「やり込み」のあり方に大きくメスを入れることを試みた作品である。

『魔界戦記ディスガイア』シリーズには大きな弱点があった。それは「やり込む」――用意されたシステムをすみずみまで理解し、キャラクターに経験値と愛情を注ぐ――ためには膨大な拘束時間が薪として必要であるという点だ。エンタメがあふれ人々が多忙を極める現代においては、この点は大きな弱点であると言える。しかし待ってほしい。長時間プレイヤーが遊び続けることを前提とした作品は、現在でも数多く人気を集めているではないか。彼らと『魔界戦記ディスガイア』シリーズ、いったい何が違うのか。

それは「変化の可否」にある。長期プレイを推奨するゲームは多くの場合、結果に至るまでのプロセスにさまざまな手法でもって「変化の要素」を組み込んでいる。繰り返しのプレイの果てに得られるものが、大枠としてすべて共通しているとしても、プレイの内容そのものを恣意的に、不規則に変化させることによって、一回一回の挑戦を唯一無二の体験にする施策である。集団という乱数が発生するマルチプレイの実装や、昨今流行しているランダムダンジョンとローグライクなシステムの組み合わせはその典型だ。連続する唯一無二によって、過程そのものに結果以上の魅力を持たせ、飽きを防ぎ、プレイの継続を誘引するのである。

だが『魔界戦記ディスガイア』シリーズはこの施策をあえて採用しなかった。なぜなら先述したように、本作の醍醐味はシステムの最大効率活用を通じた理論値の探求にあるからである。理論値の探求及び効率化とはすなわち、無駄=揺らぎの排除。変化の否定だ。公式どおりの出力がなされなければ理論値の追求はままならない。さらに、ウォーゲームを先祖に持つSRPGというジャンルそのものが、連続するゲームプレイに大きな変化を盛り込みにくいことは言わずもがなだ。ゆえに他シリーズは物語のルート分岐などを盛り込むことでボリューム増加と体験の大きな変化の両立を図っている。

つまり、同じプレイを長時間続けゴールを目指すという形態が非常に人を選ぶということである。この特徴を「弱点」としてフィーチャーするには6作品目に突入したシリーズとして今さら過ぎないかという声もあるだろうが、理由としてはおそらく時代の変化によるところが大きいだろう。日常的に要求されるマルチタスク。多様化する娯楽のあり方。常に五感を通して脳へ流れ込む情報の渦。可処分時間をめぐる企業間戦争が勃発し、収束の目処が立ちそうもない現状において、一つのコンテンツに長期間拘束され、個人による同じ内容の繰り返しを良しとするゲームデザインが、現時点のトレンドにそぐわないものだということを開発陣が認識したからだと私は考えている。加えて、代を重ねるごとにゲームから提示される「謎」……システムの相関関係もより複雑になっていく傾向にあり、これもまた本シリーズが人を選ぶタイトルであることの要因になっている。

対症療法的な自動戦闘の導入


そこで『魔界戦記ディスガイア6』の開発陣が目指したと思われるのが、オートバトルシステムを中心とした新しいゲームデザインの導入による理論値到達への時間短縮。および育成システムの単純化だ。しかしそれだけである。弱点を克服しようとしただけ。新システムを活かした、本作ならではの魅力の提供はなされておらず、かといってシリーズの伝統である「やり込み」がさらなる進化を遂げたわけでもない。むしろ簡略化と単純化の施策に伴って既存要素が大幅に削ぎ落とされた分、ゲームを解き明かす楽しみのスケールは縮小してしまった。

まずオートバトルシステムの導入に関してだが、これは読んで字の如く、あらかじめキャラクターごとに組み込んだルーチン(魔心エディット)に沿ってステージ攻略と周回を完全自動で行ってくれるシステムである。言い方を変えれば、レベリングの自動化によって、理論値の到達までにプレイヤーがかける時間を「任意で短縮できる」ようにするという施策である。だが今しがた述べたように、これは単純にレベリングを楽にするものでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

なぜならオートバトルの本体である魔心エディットが、シミュレーションゲームらしい戦術を成立させるほどの指示バリエーションを内包していないからである。だがそれでもクリアできるよう多くのレベルがデザインされている。つまり傾向としてステージがギミックの少ないシンプルな内容へと落ち着き、シミュレーションRPGにもかかわらず知略を駆使する場面がほとんどなくなってしまった。すなわち「魔心エディットの底が浅い」→「ステージが簡単になる」→「魔心エディットをより活用する必要性が見いだせなくなる」、というジレンマが発生しているのだ。加えて、魔チェンジをはじめとする多彩な戦闘コマンドも魔心エディットを成立させるためか続投は見送られた。結果としてコマンド式RPGとしてもタイトルのスケールは縮小することになった。


キャラクターを上に重ねまくるタワーや、隣接ユニットとの連携。ステージギミックジオパネルなど、本作には『魔界戦記ディスガイア』シリーズ伝統の戦術システムが引き継がれている。しかし魔心エディットの内容が心もとないこと、そして全体的な低難易度化の傾向によって、少なくとも本編程度であればそうした戦術システムを意識して使う機会がほとんどなく、腐ってしまう。現にメインストーリーの中盤から後日談程度であれば、30回ほど転生したキャラクターを用意することで、完全な自動攻略が可能。魔心エディットもデフォルトで用意されたものを使えば十分。気づいたらラスボスが死んでいるほどの難易度である。

では元来の戦術が真価を発揮し始めるエンドコンテンツーー高難易度ステージの内容はどうなのかといえば、オートバトルを活かすのではなく、それがほぼ機能しない程度に複雑なマップと強力な敵配置がなされている。ここに至っても複雑な指示の追加や、オートバトル専用ステージなどはなく、ゲーム前半とは裏腹にオートバトルのほうがゲームの犠牲になる本末転倒具合である。ちなみに、任意とは言ったものの、オートバトルを使用しないことによる直接的なインセンティブはなく、育成という観点からすれば使用しない方が基本的に損となる設計がなされている。

本作の目玉はオートバトルである。後述の育成関連のシステムデザインを鑑みても、コレを軸に作品を形成していきたいという意図が読み取れる。もしそうであるならば、最初から最後まで一貫して探求しがいのあるシステムであってほしかった。万人が利用できる単純さ、謎と呼べるような奥深さを同時に成立させることは難しく、それを実現するには単純な部分と、複雑な部分とを段階的な状態としてパッケージングするのが常道であることは重々承知している。その結果として1周目の本編がシミュレーションRPGとして形骸化したことや、戦闘コマンドが削減されたことも理解はできる。

であるならば、埋め合わせ、いやそれ以上の魅力を、オートバトルを通じて打ち出すべきであった。確かに戦闘面に関する新規層取り込みのアプローチとしては、迷いの元となる選択肢を減らし、参入障壁を低くする意味で良いのかもしれない。だが、シリーズファンに対するアプローチとして優れているのかと問われれば、単純に規模縮小という認識が上回り、疑問が残る結果となった。

強さの意義を見失う効率化


続いて育成要素に関しては、オートバトルを基準とし、非使用が単純に損であることも含めて、自動でない部分にプレイヤーが触れる時間を極力へらす方針が採用されている(日本語としておかしいが、事実である)。本シリーズの育成要素は、ステータスリセットを繰り返しながら、能力上昇率ボーナスを最大値まで獲得し続け、ここに強化された装備品やステータス上昇補正を備えたアビリティ(魔ビリティ)を合わせることで理論値に到達することを目標としている。過去作では、理論値に到達するには先述したようにゲームそのものを俯瞰して捉え、あらゆるシステムをフル活用する必要があった。

一方『魔界戦記ディスガイア6』は戦闘ごとに自動で恩恵が得られるシステム部隊屋や、非戦闘ユニットが勝手にアイテムを入手してきてくれる調査団が名前を変えて続投されている。そのほか、余分な経験値やエキス、マナなどを貯蓄し通貨と交換で引き出せるドリンクバーが存在している。能力上昇率ボーナスの入手やレベル上限開放の方法に関しては、レベルリセットの副産物であるカルマの消費となった。装備強化に必要なダンジョン探索(アイテム界)に関してもオートバトル使用の制約はない。

つまり、育成に関わるすべてのシステムが自動戦闘を起点に機能している。一度どこかで自動戦闘を行うたびに追加報酬が発生し、アイテムを入手でき、レベルがカンストすればボーナスを入手しリセットする。そして再び効率の良いステージで自動戦闘……レベリングかアイテム堀りに帰るというサイクルをデザインしている。プレイ中に遊び手がコントローラーを握っている時間はほとんどない。ゲームバランスを自在に調整できるチート屋を活用することで、戦闘報酬のバランスに関しても調整可能。このサイクルを加速させる役割を果たしている。

ここまでの説明であれば、新機軸たるオートバトルを中心とし、便利でミニマルな方向にまとまっているという印象を受ける。また、ステータス上昇を行うという点に絞るのであれば、システムをすべて活用する必要はなくなった。ステータスリセットを繰り返しながら「レベルアップに伴うステータス上昇率アップ」を持つ魔ビリティの組み合わせを試すも良し、アイテムを鍛え上げて目指すも良し、極論を言ってしまえばドリンク=金とエキスでレベル1のまま一線級で戦えるキャラクターを作り出すこともできる。当然ながら選択肢を組み合わせたほうが時間対効果は高い。これも参入者の間口を広げるという方向性で見ると効果的であると言えよう。

しかし実際のところ、オートバトルを起点とした育成システムは、「便利なだけ」である。ナンバリングタイトルとして、新たな価値を創造しているわけではない。またシステムのフル活用をする必要がなくなったことで、シリーズファンの中にはこれをスケールダウンと捉える人もいるだろう。そこで今回打ち出されたのが、ステータスの大幅なインフレーションだ。


『魔界戦記ディスガイア6』ではユニットが到達する最大レベルが9999万9999になったことに合わせて、能力値やダメージ量の大幅なインフレを導入。レベル1時点での各種初期値ですら万の値を軽く越える(ちなみに、前作『魔界戦記ディスガイア5』の最大レベルは9999。ステータスのカンスト値は9999万9999)。先述したように、本シリーズの醍醐味の一つは理論値の追求にある。旧作と比較して理論上の最大値が増えたことは単純に「謎」としての奥行きが広がったということに思え、本作をプレイする前の私は期待に胸踊らせていた。だが実際に蓋を開けてみれば、その認識が間違っていたことに気づく。

ステータスの大幅なインフレがもたらしたものは、「強さの段階的な指標」というステータスが持つ、元来の役割の喪失であった。たとえば9876万6540レベルと9876万7000レベルのステータス差を直感的にイメージすることは難しい。旧作においても、ステータスがある程度を超えた段階で、現時点に置ける強さを数値上からイメージすることは難しくなっていた。だが強くなっていることは実感できた。なぜなら、ゲームにプレイヤーが干渉していたからである。

この「強さが分からない」「強くなった実感がわかない」ことの原因としては、ステータスの大幅なインフレと同時に、オートバトルを中心としたレベリング自動化政策の負の側面ーー手応えなくレベルが上がり続けるーーによるところも大きい。自動化されたレベリングを通じ、プレイヤーによるキャラクター強化への干渉が限りなく削られたことで、ゲームとしての報酬体系が崩れてしまったのだ。

コンピューターゲームは共通して、ルールを持ち、目標が設定され、プレイヤーの干渉を通して目標を達成すると報酬が貰える。今作のオートバトルは(魔心エディットの内容が心許ないのも含め)干渉を削ぎ落とす形になっており、プレイヤー側からすると、画面を眺めているだけで報酬が貰える=レベルが上がり、強くなることに対する十分な理由付けがなされていない。残念ながら爆発的なステータス・インフレーションと自動戦闘を中心としたレベリングの効率化は、結果としてプレイヤーの中にある強さの意味を見失わせてしまった。戦闘システムの項でも述べたが、便利なことは悪いことではない。しかし便利であることと、作品の魅力は必ずしも等号で結ばれるわけではないのだ。

ちなみに、本作に似たモデルを採用している作品としては、『グランブルーファンタジー』などレイドコンテンツを採用しているソーシャルゲーム群が挙げられる。だが、こちらにおける戦闘の自動化は、あくまで目標達成の準備のために行われ、達成するための直接的な要因になり得ない。たとえばレイドコンテンツのクリアという目標達成に対する直接的な要因は戦うことである。強くなることではない。こうした点で性質が異なっている。


育成要素と言えば、汎用キャラクターの数がかなり減少してしまったことにも触れておきたい。『魔界戦記ディスガイア6』に登場する汎用キャラクターは全22種類。前作がDLC抜きで34種類であったため、大幅な人数削減となった。この理由に関して公式から具体的な説明は現時点でなされていない。筆者の推測からすると、本作の売りの1つであるキャラクターの3Dモデル化に伴うコスト、新規参入者が抱える「どのキャラクターを育成すれば良いのかわかりにくい」という問題の解消、「前作で用意したけど、結局Aは人気がなかった」といった需要や開発費用に関する問題など、さまざまな理由が考えられる。

だが消費者側の心理としては、冒頭で説明した本作の「やり込み」における構成要素「没入対象」が減少したことに等しく、やはり規模縮小という印象を受ける。また武器技の消滅や固有魔ビリティなどの仕様変更によってキャラクターの得手不得手がより鮮明になった。なお「没入」の体験そのものがオートバトルの導入によって変動するのかに関しては、あまりに個人差におけるところが大きいと考えたため、本稿では言及しないこととする。ちなみに私はほぼ自動戦闘でストーリーをクリアしたが、主人公であるゼットが大好きになった。

最後に言及するのは『魔界戦記ディスガイア6』のストーリーだ。度重なるリトライを通じて強さの意味を一貫して探求するストーリーは、シリーズのテーマとよく噛み合っており、コメディとシリアスの塩梅もちょうどよく、シリーズファンとして満足のいくものだった。本作を腐らずプレイできているのは、ゼットを中心とした、魅力的なキャラクター達がいるおかげだ。しかし演出に関して、特にキーキャラクターである破壊神について、キャラクター削減や開発コストの影響が露骨に出てしまっているのは、いささか残念である。


時代に合わせて表現を変化させていくことは、作家に対して、必ずしも良い結果をもたらすものではない。だが商品としては常に消費者の需要に合わせた供給を行わなければならない。俗に言う「芸術的価値」と「商業的価値」。前者は絶対的な、後者は相対的な価値基準を持ち、時折、2つは相反するものであると勘違いをされることがある。少なくとも日本一ソフトウェアは思い違いをしているのではないかと、思えてしまう。

優れたプロダクトはそれ自体が絶対的な価値を持ち、同時に消費者の需要を喚起するものだ。かつてカルト的とも称された突き抜けた個性によって、『魔界戦記ディスガイア』が一大ブランドを築き上げたことが懐かしく思えてしまう。伝統と革新の両立が困難であることは強く理解できるが、本作に見られる“八方美人”めいた場当たり的なアプローチは、何も知らない新規層はまだしも、古くからタイトルを愛好してきたシリーズファンに対して失礼だと私は思う。今後のアップデートを通じて、「『6』が一番面白かった」と後世に伝えられるような、最新ナンバリングらしい魅力が提供されることを切に願っている。

Takayuki Sawahata
Takayuki Sawahata

娯楽としてだけではなく文化としてのゲームを知り、広めていきたい。ジャンル問わず死にゲー、マゾゲー大好き。

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