『原神』はなぜ面白いのか。結果ではなく過程を愉しみ共有する新しいソーシャルゲーム
ゲーム界に彗星のごとく現れた3Dアクションアドベンチャー『原神』。現在すでに全世界1000万ダウンロードを達成し、人気を博している本作ではあるが、誕生以前からとある話題で持ちきりであった。それは特定層を狙い撃ちするアニメ風ビジュアルでありながら、業界を席巻した名作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』の明確なフォロワーであると認識されたことだ。さて蓋を開けてみれば、ただのフォロワーでは終わらなかった。
まずゲームの要素を見ていこう。基本的なゲームシステムはモバイル向けのソーシャルゲームで一般的な、複数アイテムを合成することでキャラクターを強化していくシンプルな方式であり、マネタイズは基本、そのゲームシステムに合わせて利益の出しやすいガチャで行う。戦闘アクションは開発元miHoYoの自社タイトルである『崩壊3rd』の技術を基盤に、簡単な入力で爽快感が得られる『ニーア オートマタ』などを組み合わせて作られていることが見て取れる。『フォートナイト』を筆頭に近年対応タイトルが増えてきたクラスプラットフォームプレイを導入することで参入間口を低くし、バトルパスで継続的なプレイを誘導する。昨今のトレンドを詰めに詰め込むことで生まれたその姿は、現代におけるゲーム作品のあり方として、間違いなく先をいくものの一つでもあるし、安易な融合の末に生まれた、作品意図の読めないキメラの様にも思える。
通常、筆者はこうした「企業利益を先行している様に見える、快楽優先の独自性の見えない作品」というのは嫌いなのだが、興味半分で触れた結果、見事心を掴まれてしまった。そして不思議なことに、本作は最先端のゲームのうちの一つではあるが、覚えたものはある種、ノスタルジーに近いものだった。これは決して私が『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』『ニーア オートマタ、『フォートナイト』を既に遊んでいることに由来するものではない。私がより幼かった頃。ただただコンテンツに驚き感動していた頃の思い出に触れるものがあったからである。本稿は話題作としてようやく産声を上げた『原神』。一見継ぎ接ぎだらけのような姿をした彼の心臓の在り処を明らかにし、その構造を解きほぐすものである。
アニメの世界で冒険がしたい
「アニメの世界で冒険がしたい」。私が中学生の頃、主に授業中描いた夢だ。そこには中世風の町並みがあり、五行を元にした属性の法則が成立している。ゴブリン、妖精、スライム、魔導兵器、そしてドラゴン。剣と魔法の世界。『原神』は主にファンタジーを題材にしたアニメやライトノベルで育った人間に対し、五感を通して強烈なノスタルジアを吹き込む。「アニメ調の世界で、アニメ調のキャラクターを存分に動かす」という、私のような――『.hack』シリーズや「ソードアート・オンライン」などを楽しんできたような――ヲタクが一度は観たであろう夢の実現を核とし、すべてが組み上がっている作品である。トレンドのパッチワークという安易な評価に収まるゲームでは決してない。
まずは悲願を達成する上で肝心要となるキャラモデルに関してだが、完成度は非常に高い。現在フリーダウンロードできるキャラモデルを観察してみると、モバイルからコンソール、PCという幅広いプラットフォームに耐えうる仕様となっていることがよく分かる。ポリゴン数を抑えつつさまざまな設定のレンダリングに対応できるモデリングが成されている。上位機種ではより美しく、下位機種で動かしても違和感が生まれないための技術が注ぎ込まれている。キャラクター自身に関しても設定は練り込まれており、用意された膨大なテキストが彼/彼女らを人形ではなく生きた人間として形作っている。本作にはフォトモードも備わっており、美麗な世界の中で美しいキャラクターを撮影、シェアすることが可能。そうでなくとも元がアニメ絵であるため、イラストレーターたちが自主的に二次創作を拡散し、自然とファンコミュニティの醸成や宣伝効果が見込めるようになっている。
抽象化されたオープンエアー
役者の次に必要となるのは、演技を披露するための舞台である。監督であるmiHoYoはこの精巧なキャラモデルを動かすために、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』における「オープンエアー」を作品の一部として取り込むことを選んだ。
「オープンエアー」とは、Nintendo of Americaのシニア・プロダクト・マーケティング・マネージャーを務めるビル・トリネン氏曰く「探検要素や冒険とが完全に融合している世界」を生み出すための開発コンセプトであり、すべてのフィールドを移動可能としつつ、アクションの方向性が異なる選択肢を逐次豊富に提示することを特徴とする。たとえば目的地へのルート構築ひとつとっても、山を登るか、戦闘をこなすか、泳ぐか、ステルスするかという選択肢をプレイの進行と同時に絶えず提示していく。選択の合間には探索=アクションを快適にするオブジェクトをプレイヤーの視界に挿入し、さらなるアクションを訴求する。これを限りなく恣意性を排除した形で成立させる。つまりキャラクターをプレイヤーの意思で常に動かし続けさせるためのデザイン方式と言え、本作の目標を達成するための手段としては非常に理にかなったものだ。『原神』はこのオープンエアーシステムをうまく抽象化し、モバイルでもPCでも満足に遊べる内容へと落とし込むことに成功した。
『原神』の世界においてオープンエアーを通じた冒険という行為は「移動」「発見」「戦い」の3要素へと噛み砕かれ、旅の道中に提示される「道なりに進む」「崖登りと空中飛行」「ザコとの戦闘」という3つの選択肢として反映されている。それぞれは「制作素材」「ランドマーク」「宝箱」というインセンティブを伴い、3つは「像のアップグレード素材」や「謎解きギミック」など興味関心を促す仕掛けを通じてシームレスに接続している。祠の代替となるダンジョンに関しては、通常のフィールド上では味わえない高度な戦闘と、独自の謎解きを提供することで、普段とは地続きでありながら切り離された体験を演出している。
なかでも『原神』における戦闘は、アクションがもたらす爽快感や、プレイヤーが習得するテクニックそれ自体に面白さを見出すというよりかは、キャラクターそのものにフォーカスし、彼らが持つ属性同士の相性や、アビリティの連続発動タイミングの調整、キャラ性能を活かしたビルドの構築など、複数人を使い分け組み合わせるソ―シャルゲームベースのメタゲームを中心に面白さを演出している。つまりアクションそれ自体が不慣れなプレイヤーや操作環境が特殊なモバイル機でも平等に愉しみを享受できるように設計されているのである。
だが見て分かる華やかさをおざなりすることはなく、アビリティ発動の際に発生する派手なエフェクトや大振りなモーションが導入されている。敵の色合いが地味なことや、姿のバリエーションが少ないこともこれを助けている。中でも最高レアリティに該当するキャラクターには独自の演出や専用モーション(戦いに関係ないものを含め)が実装されており、戦闘力だけでなくキャラそのものをゲーム内における価値としていることがよく分かる。クロスプラットフォームとしたことも、参入間口を広げるだけではなく、プラットフォームごとの性能に由来する画質の差によって「もっと綺麗で広大な世界を味わいたい」という欲求を喚起し、プレイヤーに複数のプラットフォームにまたがったプレイを訴求する。結果として『原神』に触れる時間は増加していく。
本作は基本プレイ無料の長期運営型ゲームサービスの方式を採用しており、プレイヤーのプレイスピードをコントロールするため、時間経過でアイテムが入手できるシステムや、俗に言う「スタミナ」の概念を導入している。だがスタミナシステムにより制限されるのはダンジョン攻略や強敵の討伐とったキャラクターの強化にまつわる部分に限られており、世界散策やストーリークエストなど、移動を主体とするアクションにはあえて枷をはめていない。だが本作のメインであるストーリーを進行させるためには、散策やお使い型のサブクエストで得られる経験値が必須となる。すなわち、プレイヤーには強化のためにある作業よりも、移動、すなわちキャラクターの操作を楽しんでほしいという意図が読み取れる。またマルチプレイが本作には実装されているが、これに関してもあくまで自身の成長をブーストさせるものではなく、他プレイヤーを助けることそれ自体を楽しむため設計されている。
つまるところ『原神』は「アニメキャラクターを存分に動かす」という理念のため、「冒険」というテーマを設定し、広大な箱庭を設け、オープンエアーシステムを取り込んだ。それでいて参入間口を広げるべく、手触りに関してはスマートフォンで遊ぶソーシャルゲームをベースにした、柔らかくも歯ごたえある手応えを持った内容を構築している。たしかにリリースからまだ数週間ということもあってか、用意されたコンテンツの量に物足りなさを覚える場面は多い。だがそれ以上に、開発陣が持つ、規模の異なる複数の優秀なゲームシステムをさまざまなプラットフォームでのプレイに耐えうるよう落とし込む技術には、ログインを重ねるたびに感嘆してしまう。
加えて、国内アニメ風のビジュアルでオープンワールドを導入している作品はそれこそリスペクト元である『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』や『ニーア オートマタ』、『夏色ハイスクル☆青春白書』など、実在する例として上げるには数がまだまだ少ないのが現状である。こうしてさまざまな層が手軽に遊べるアニメ・オープンワールドが海外から登場し人気を博しているという事実は、海外産の時代劇オープンワールド作品である『ゴースト・オブ・ツシマ』のリリース時同様、今後のゲーム業界に一石を投じることになるだろう。
結果ではなく過程を重視するゲームサービスが誕生する意義
ここまで説明してきたとおり、『原神』の心臓は「アニメキャラクターを存分に動かす」ことにあったわけだが、よくよく考えると、その心臓の構造自体が異質であることに気づく。前提として、『原神』はスマートフォンで遊ぶソーシャルゲームをベースとして作られていることは先述したとおりだ。だが多くの場合、そうしたゲームはプレイの後にもたらされる「結果」を面白さの最上位に位置付けるものである。課題を達成することはもちろん、経験値や強化のために必要となるアイテムなど。昨今ではいち早く結果をプレイヤーに与え、SNS上で共有させるため、プレイの過程そのものをカットするシステムを設けたり、プレイしなくてもゲームが進行する「放置型」と呼ばれるような作品が多く登場することになった。そうした潮流の中で、こうしたキャラを動かす=「過程そのもの」に価値を見出すことをメインに要求するソーシャルゲームが登場し人気を博していることは異常事態であると言える。
以前私が執筆した『あつまれ どうぶつの森』に関するコラムにも記述したが、コロナウイルスのパンデミックによって日常が変わってしまった昨今。人々が求めているのは「ふつう」を基準とした幸不幸の格差ではなく、「ふつう」そのもの。病魔の及ばない世界の中で「日常だったもの」をシミュレートすることで生まれる、社会の構成員であるという自認に由来する安心感ではないだろうか。つまり、「ルーティンの共有」である。だがルーティンの中身は作業であってはならない。私達の生活がその実、発見に満ち溢れていたように、シミュレーションの中身も、ワクワクとドキドキを含んだ内容となければならない。ゆえに、そうした「ルーティンの共有」をシステムとして実装した『あつまれ どうぶつの森』は大ヒットを記録し、『フォートナイト』を筆頭に、メタバースへの関心が世界で高まっている。
そうした状況の中で、狙ってか知らずか『原神』の仕様は非常に噛み合ったものであった。法が敷かれた安全な世界の中で、キャラクターという仮想身体を通じ、共通の目標を達成するマルチプレイ。中でもキャラクター間の連携を重視する戦闘システムはコミュニケーションとの親和性が非常に高い。SNS上にばら撒かれるテイワットを写したスクリーンショットは「私達は同じ世界の中にいる」という認識をもたせ、ガチャのシステムは社会からこぼれ落ちてしまうのではという焦燥を駆り立てる。そうした「秩序立った世界」へスマートフォンから、PCから、コンソール機からアクセスできる。
以下は私の推測になるが、今後この「過程を共有する」という、ある意味プラットフォーム化と呼べるような仕様はソーシャルゲームの新たなトレンドとなるだろう。「自分が何を成し遂げたか」、ではなく「誰と何をしている」か、を重視する潮流がソーシャルゲームにも流れ込むことになる。この流れの前身として、作品知識と「リアルタイムイベント」からくる一体感を共有することを旨とした『Fate/Grand Order』や、『メギド72』『SINoALICE ーシノアリスー』などが存在するが、『原神』以降求められるのは情報と、現実を舞台に、集団で仮想に浸る快楽の共有ではなく、仮想から現実を集団で感じ取る方向に向かうのではないだろうか。
だが同時に、プラットフォーム化は危険性を孕んだ仕様であることも私達は認識しなければならない。プラットフォーム化されたゲームを遊ぶということはつまり、運営が敷いた法が支配する世界の訪問者となるということ。解像度を落とした治外法権の中に居るということだ。たとえば『原神』の運営元miHoYoを含む中国企業のゲームを遊ぶ場合には、現地特有の規則を遵守しなくてはならない。ゲームではないが、FacebookがOculusを買収した結果、ハードを起動するにはFacebookアカウントを必ず紐付けなければならなくなった。AppleとEpic Gamesの対立は皆のよく知るところだろう。プラットフォームを利用することはつまり、異文化を訪れ折り合いをつけることと同じなのだ。私達はPCから、コンソール機から、そしてスマートフォンから、気軽に外国へ飛び立てる。ゲームソフトがフィクションである時代は終わった。
格差ではなくプロセスの共有を旨とする黒船の登場はソーシャルゲームビジネスそのものを変革しうる存在となるのだろうか。そしてそのまま日本のゲーム業界はプラットフォーム化されたゲームをとおして台頭する諸外国に飲み込まれてしまうのか。『原神』の今後に目が離せない。