『デス・ストランディング』レビュー。道行く人に「すいません」ではなく「ありがとう」と言いたくなる、唯一無二のゲーム体験

『デス・ストランディング』レビュー。『デス・ストランディング』は「人間のあり方」を目に見える形で提示し、体験させることでプレイヤー自身の実存を問わせる、唯一無二のゲーム。平たく言えば、道行く人に「すいません」ではなく「ありがとう」と言いたくなる、そんな作品である。

「人間は社会的な動物である」。古代ギリシアの哲学者アリストテレスの言葉である。他方ヤスパースは「人は関係性から逃れる事はできない」と語った。ワールド・ワイド・ウェブ。かつて形而上に張り巡らされた電子の蜘蛛糸は、地球儀の上に佇む人類を誰彼構わずすくい上げ、“世界のありのまま”を俯瞰する視点を与えた。しかし人類は一向にひとつになる気配を見せなかった。遠近法の如く歪んだ視界の前では、目の前にある笑顔の意味すら、解釈の名の下に歪んでいくがゆえに。

そうでなくとも、相次ぐ天災や貧富の格差、信条の違いに由来する諍いや今もなお残る偏見。社会は物理的にも精神的にも分断の一途をたどり続けている。そうした現状に対し、憂いを覚えているであろう人間の一人、小島秀夫氏。彼は自著「創作する遺伝子 僕が愛したMEMEたち」の中で“大震災という試練の中で、僕らに何ができるのか、未来をどう繋いでいくのか?その真価が問われている。”と語った。また、ゲームを作り続けることこそが、自身の業であるとも述べている。彼は仲間と共に何を思い、何を作品の内に込めたのか。発表から約3年半。ついに私達のもとへ運ばれてきた『デス・ストランディング』は、「人間のあり方」をゲーム化するという壮大な試みのもと作られた傑作であった。

『デス・ストランディング』は、11月8日にソニー・インタラクティブエンタテインメントより発売されたアクションゲーム。開発を手掛けたのはコジマプロダクションだ。突如発生した「デス・ストランディング」という現象により、地理、社会、文化、コミュニケーション、さまざまな意味で関係性が分断された世界を舞台に、プレイヤーは配達人「サム・ポーター・ブリッジズ」としてアメリカ大陸を横断。運び屋として人々のつながりを取り戻し、国家再建を目指すこととなる。

 

直立二足歩行のゲーム化

あなたは初めて歩いた時の感覚を覚えているだろうか。無論、私も覚えていない。そもそもとして、私達が「今、歩いている」ということを直接意識する機会はほとんど無いだろう。基本的に「歩行」という行為の大部分は無意識下において行われている。重心の調整や感覚器官による地形の判別。筋肉の躍動。『デス・ストランディング』の要となるゲームシステムは、人類が進化の末に獲得した最大の特徴である「直立二足歩行」を「遊び」という型に美しく落とし込んだ興味深いものだ。物資を各地へ配達し続けるという、一見面白さの検討もつかないような内容を私達の身体の延長線上に置くことで、システムに対する強いシンパシーと奥深さ、エキサイティングな体験を生み出すことに成功している。

本作のゲームシステムは、物資を背負い拠点間を移動するという至極単純なもの。与えられたミッションごとに指定された荷物を指定された場所まで、ときには徒歩で、ときにはバイクにまたがり、ときには空中を滑走して送り届ける。配達速度や荷物の保存状態によって評価が変わる。これをエンディングを迎えるまで延々と繰り返すのである。以上の説明だけを聞くと、本作のゲーム内容に懐疑的な態度を抱くかもしれない。しかし実際にプレイしてみると、本作がプレイヤーに提示する選択肢の多いこと、すなわち多くの自発的な行動の組み合わせを要求することに驚く。

プレイヤーは伝説の配達人「サム」として、託された荷物を依頼先へ迅速に損耗無く配達することになるわけだが、本作のシステムにおける特徴のひとつ「転倒」のギミックがこれを拒む。そう、伝説の肩書こそあれど、サムはコケるのだ。それも盛大に。コケるとどうなるかって?当然大事な荷物と任務の評価に傷がつく。そうならないためには荷物の積み方と「踏ん張り」アクションによる重心の調整、そして消費アイテムを使用するタイミングが肝要になる。

荷物は背中へジェンガの様に詰めるほか、両肩腰回りにケースを装着という形で運搬することが可能だ。持ち運びする物資は、消費アイテムを含め全て重量が設定されており、たとえば重い荷物を左肩に積み、軽いものを右に積むと、左側に転倒するリスクが高まる。背中にひたすら積めば後ろ側に転倒するリスクが上昇するほか、天井の低い場所に侵入できなくなる。また大自然がむき出しとなったアメリカ大陸がサムの足元へ執拗に手を伸ばしてくる。歩くための足場には危険度が設定されており、上昇するほどに転倒の可能性が増していく。危険度は星型の糸巻きに似た形状のセンサー「オドラデク」によって一時的に判別でき、プレイヤーは随時センサーを起動しての地形調査を要求される。ときには狂った承認欲求を振りかざす「ミュール」や、どこからか流れ着いた霧状の謎の存在「BT」など、貨物やサム自体を直接狙う存在が出現することもある。荷物を丁寧に積み、危険な地形、地域を避ける。配達業者の「基本のき」だ。

だがどれだけ安全確認を行っても、転倒しそうになってしまう時はくる。そうでなくとも仕事の都合上、やむを得ず危険な場所を通過する必要に迫られることもあるだろう。そんなときに欠かせないのが「踏ん張り」アクションである。サムが左右に転倒しかけた際、転倒する方向とは逆のLRボタンをすかさず押し続けることで、傾いた重心を中心に戻すことができる。またLRボタン両方を押し続けることにより、危険度が一定の平地や斜面、河川であればそのまま踏破することが可能となる。では常に踏ん張っていれば良いのかと聞かれれば、そうではない。踏ん張ると移動速度が大幅に低下するほか、「忍耐ゲージ」が危険地域を横断している間減少していく。ゲージが0になった途端に転倒してしまうため、「踏ん張り」もまた貨物の整理や地形の選択同様、使いどころを考える必要があるのだ。

そして作中もっとも考慮が必要となるのが、梯子やロープをはじめとする消費型のアイテムである。消費アイテムは基本的に特定の状況下において無くてはならない存在だが(崖を下降する際のロープなど)、それ以外では単なる重しだ。邪魔以外の何者でもない。だが何をどれだけ使うことになるのかといった、正確な情報はプレイ中一切仕入れることはできない。航空写真地図と目的地をマーキングした際にでる経路の高度表からおおよその必要量を予測し、使う分だけを持ち運ぶ必要がでてくる。また使用するタイミングも重要だ。雑にアイテムを使用した結果、長い道のりを引き返すことになれば目も当てられない。

貨物の選択、重心の調整、ミニマップ抜きでの移動ルートの選択、そして速やかな目的地への到達。今説明した一連のシステム概要は、私達が普段何気なく行っている、日常的なことでもある。用事に合わせて身支度を整えること。つまずいた際に身体をもとに戻すこと。足を動かし段差を上り下りすること。時間を考慮しながら移動経路をさっと考えること。生涯を終えるまで永遠と行われる、記録されない無数の選択。今一度それを分解し、エンディングを設定。意識のもとに当たるよう再構築したものこそ、『デス・ストランディング』におけるメインのゲームシステムなのだ。

だが少し待ってほしい。私達の普段が画面の中にあるとして、はたしてそれは“面白い”のだろうか。ここで主人公であるサムに仕込まれた、表現力豊かなモーションと多様な台詞が活きてくる。画面の中で行われる「歩く」という行為が、あまりにも私達に寄り添ったものだからこそ、私達はいつの間にかゲームの中にいるサムに自身を投影してしまうのである。ゆえにサムがよろければプレイヤーは自らの事のように慌て、荷物を落とせば言葉を無くす。踏ん張る際は激励を行い、ぐずる赤ちゃん(BB)をあやすときの表情はサムと同じ顔をしているのではないだろうか。長い道程に刻まれた足跡はサムのものであると同時に、他ならぬプレイヤー自身のものなのである。

直立二足歩行。『デス・ストランディング』のゲームシステムは、人間が持つ可能性の再認識だ。普段人間が何気なく行っている直立して歩くという行為を分解し、それがどれだけの興味深いシステムの組み合わせで成立している現象であるのかを、身を持って体験させる。そしてそこから得られる感覚が身体性の延長にあるがゆえ、私達はサムと自身を徐々に同一視してしまう。そのため彼が一歩を踏み出す度に彼を励まし、安堵のため息をこぼすのだ。されど一歩は一歩。延々と広がる雄大なアメリカ大陸を前に、踏み出した一歩で得られる成功体験というのは恐ろしく少ない。そして感傷に浸るまもなく直ぐに次の課題解決を要求される。アメリカの復興という果ての見えぬ枠組みのなか、永遠と目に見えぬ思考を繰り返し、感じ取ることすら許されない喜びを淡々と積み上げていく。だがゲームを進めていくと突如、悠久とすら感じられる暇のない問答から解き放たれる瞬間があるのだ。それは視界の隅に目的地が写り込んだ時、歩みの末に偶然絶景を見つけ出した時、美しい楽曲がシネマティックなカメラワークと共に挿入された時。「俺はやったのだ」と、知らず知らずのうちに背中に積み上がった喜びの火種が、感情の爆発と共に大きく花開く瞬間である。

 

その空いた両手で一体何を掴むのか

しかし、ここまで聞くと以下のように考える方もいるかもしれない。「結局のところ『デス・ストランディング』の中身は、移動→感動のルーティーン。感動が、主に移動から生まれる無数の問答に依存するなら、たとえ最初のうちは大きな爆発をみることができたとしても、次第に爆発の規模は小さくなっていくだろう。ゲームに対する慣れによって、問に対する回答はいずれ暗記じみた形になっていくし、ゲームの特性上、手段の拡充と共に「移動」という体験の濃度は薄まっていく。とてもでは無いが数十時間のプレイに耐えうる内容ではない」と。確かにプレイスキルの向上によりオドラデクによる地形判断の頻度は減っていくし、ゲーム内容が進展していく度に徒歩ではない移動手段が新たに提示されたり、移動を補助する目的の装備品が手に入るようになる。だが、プレイ自体が快適で安っぽい内容になるかというとそれは違う。たしかにバイクを始めとする乗り物の登場は移動を楽にするのだが、移動を楽にしているのは乗り物それ自体だけではない。真の意味で「楽になった」と感じさせてくれるのは、先を征く誰かが残した軌跡、未来から「早く来い」と差し伸べられた手なのだ。ソーシャル・ストランド・システム。本作におけるもう一柱のゲームシステム。人類が進化の末に手に入れたものは、未来へ向かうための両足だけではない。未来を掴み取り、未来を差し出すためにある両の手だ。

『デス・ストランディング』の舞台となるアメリカ大陸は壊滅状態にあり、インフラを始めとする公共設備はほぼ喪失している。そこでカイラル通信という、特殊技術を用いた通信網を引き直すことで、個々人が持つさまざまな情報を国家のもとに収束、循環させることが、このゲームにおける目標のひとつである。プレイヤーは大陸を横断する中で、点在する拠点や個人が住まうシェルターをこのカイラル通信で繋いでいく。すると通信網が復帰した地域のみ、他プレイヤーの痕跡がふわりと浮かび上がってくる。背後を振り返ればあぜ道が見え、視点を遠くに向ければ見慣れない看板やセーフハウスが建っているだろう。

本作では通信網復帰後に限るが、配達業務を快適にする建造物を各地に建てることができ、これまで使用した梯子やロープを含めて、建てた建造物は他プレイヤーのアメリカ大陸にも反映されるようになっている。このシステムの面白いところは、基本的に自分からアクションを行っても直ぐにはプレイが快適にならない点である。最大の建造物である国道はもちろん、地形を無視できるジップライン、急流や谷間を横断できる橋など、強力な建造物は建築に手間がかかるのだ。

その一方で、「便利だ/快適だ」「ゲームのプレイ内容が明確に変わった」と感じる瞬間というのはいつだって、「誰かが伸ばしてくれた手=建造物」を見つけた時なのである。ただそこにあるだけの親切。いや、親切という意味すら持たないかもしれない善意。プレイ内容の快適具合が他人という乱数に依存しているという事実は、プレイヤーへ濃密な経験をもたらし、合理性のかけらもない行動を訴求する。一応、作中には他者からの感謝を「いいね」という形で数値化する仕組みが備わっているが、「いいね」を多く取得しても特に称号以上の意味は持たない。誘発されるのは使命感や責任ではなく、伸ばされた手を掴んだのだから自分も手を差し出してみる……建てたいから建てるという自然な仕草だ。人の姿も影もなく、ぬくもりだけを軌跡として残すソーシャル・ストランド・システムは、握手を通じて人肌の暖かさを共有し合い、感じた温度の変化でもってゲームプレイに変化を生み出すという、緩くもありながら繋がりたい、合理性を超えた人間の本能を呼び覚ますシステムとなっている。遊びを快適にするというプラスの変化をゲーム内にもたらしつつ、プレイヤーを能動的に不便な場所へと導き、アクションを行わせるというシステムは、史上類を見ない、全く新しいプレイ体験を私達にもたらしてくれる。

このほか目立つ要素として、敵対者の例として挙げたミュールやBT達との戦闘アクションがあるが、これは独立したシステムではなく、あくまで「荷物運び」の延長線上にあるということに留意しておきたい。基本的にサムは人間として非常に丈夫で、筆者は難易度ノーマルでプレイをしたが、死んで実質上のGAMEOVERとなる事態に陥ったことは片手で数えるほどしか無かった。特にBT戦においては、基本的に回復アイテムや弾薬が無尽蔵に手に入るため、負ける機会はほとんど無いだろう。また、用意されたアクションや武器は意外と豊富で、これらを活用すればガンアクションじみたゲームプレイも可能となる。一方で荷物は脆く、一度戦いの中で落としてしまうと品質の劣化は避けられないようになっている。遊びの幅を持たせながらも、コンセプトからブレない仕様となっているのは好感が持てる。

サムとの自己同一化による歩行という、普遍的な行動のエキサイトメント化、ソーシャル・ストランド・システムによる他者との握手を通じたゆるやかな相互援助。人間の身体がもつ可能性を遊びに変換する『デス・ストランディング』のゲームシステムは、まさに遊ぶ人=ホモ・ルーデンスの体現なのだろう。

 

「絆」と宿命のナラティブ

ゲームシステムが身体性から人間の可能性を暗に示すものであるなら、ストーリーは精神性=言の葉でもって人間の宿命を声高に語るものである。安部公房の短編「なわ」から着想を得たという『デス・ストランディング』の物語は、一見難解に思えるが、大枠としては非常にシンプルで分かりやすく、それでいて興趣が尽きない素晴らしいものだ。過去の一件から接触恐怖症に陥ったサムが、かつて「多様性の象徴」であったアメリカ横断の旅を通じて、プレイヤーと共にさまざまな形の「絆」と呼ばれる現象を垣間見ていく。それは「利用し利用される」というドライな絆からはじまり、信頼、友情、恋愛、憎悪、家族、現世とあの世、社会。そして「繋がることを忌避する人間との対峙」。その内容は単純に人間同士が結ぶ関係性を尊ぶものではなく、「なわ」がモノを縛るようデザインされているように、絆に縛られた人間の有り様も同時に描いているのが興味深い。作中肯定的な意味で何度も連呼される「人は一人では生きていくことはできない」という文句が一転呪詛へと変わるのだ。ただしこのことは、絆という現象が持つ意味を「良いものでも悪いものでも無い」という、曖昧模糊な帰結へと落ち着けるものではない。やがて迎える絶滅、即ち死という必然を前に、私達は繋がるしかない、繋がりとは善悪の概念を超越した人間の業なのだということを、本作では終始一貫して投げかけている。

また作中にはSFらしい数々のキーワード、キャッチーな魅力に溢れるキャラクターたちが登場するが、それらの内容、人物の素性といった情報は、プレイ当初の時点で全くと行っていいほど明らかにならない。このことは怪現象により情報が断絶しているという背景に説得力を持たせるだけではなく、プレイヤーの知的好奇心を刺激し、ゲームプレイを促進させる効果を生んでいる。

対して物語の屋台骨となる視覚表現に関しては非常に明快だ。ありのままの写実的な大自然があり、人工物らしい不自然な丸みを特徴としたアイテムや建設物……人間の世界があり、臍の緒とタール、そしてクジラをモチーフとした幻想的なビーチの世界がある。自然が減り人工物が増えたと感じた時にはアメリカの復興が進んだことの証左であり、地面がタールの海に沈んだ時にはゲームモードが変化したことを意味するわけだ。性質の異なる三者三様のビジュアルデザインが、それぞれ明確な異なる意図を含みながら、互いに違和感なく溶け合う姿は感嘆するほか無い。

 

快適なプレイを遮る明確な欠点

人間の持つ可能性をゲーム化するという試みに見事成功している本作ではあるが、現実に完璧な人間など居ないように、残念ながらこのゲームも同様完璧ではなく明確な欠点が存在する。それは「見づらさ」である。UI中に表示される文字の小ささであったり、一人称視点中に表示されるターゲットサイトの視認性の悪さであったり、荷物を多く積んだ際のオドラデクであったり。さまざまな場所で見られる視認性の悪さはゲームプレイを崩壊させるまでには至っていないものの、シンプルに不快だ。まるで爪の横に出来る硬いささくれのように手を動かすたび気になってしまう。

確かに利便性と見た目の良さはトレードオフの関係にはあるが、筆者としては不便さにかかるウェイトの方が大きいと感じられた。各所で挿入される演出(カットシーンを除く)にクドさを感じる瞬間があるということも伝えねばなるまい。本作では荷物を納品した時をはじめとして、さまざまな場所でスキップ可能な演出が挿入される。最初のうちは気にならないが、長時間プレイをしていると、プレイヤー自身のリズムを著しく損なう要素として悪目立ちしてしまっている印象を受けた。自動でスキップできる設定があれば良かったと何度思ったか計り知れない。

進み続ける人はいつだって孤独である。並び立つ者はおらず、一度は助けられた手を繋ぎ止めることなく振り払い、自らの足を頼りに前へ前へと進んで往く。だが止まる事は無い。過ぎ去りし人たちから託された想いが「頑張れ」と「諦めるな」と、仕切りに背中を押すからだ。やがて人は届け先を見つけ、運んできた想いを、自らの分も乗せて次の人間に託していく。『デス・ストランディング』は、普段意識の外にある「人間のあり方」というものを、目に見える形で提示し体験させることにより、改めてプレイヤー自身の実存を問わせる、唯一無二のゲームといえるだろう。平たく言えば、道行く人に「すいません」ではなく「ありがとう」と言いたくなる、そんなゲームである。

Takayuki Sawahata
Takayuki Sawahata

娯楽としてだけではなく文化としてのゲームを知り、広めていきたい。ジャンル問わず死にゲー、マゾゲー大好き。

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