死んだおばあちゃんを『ポケットモンスター ソード・シールド』で弔ったネットユーザー、コラージュ素材にされてしまう。死というトピックの繊細さ


『ポケットモンスター ソード・シールド』を用いて祖母を弔ったネットユーザーが、厳しい批判を受けているようだ。時代の進化と共に、ゲームが社会や生活に馴染んできたのか、ゲームを使い身内を弔い、その様子をネットに共有するようなケースを見かけるようになってきた。亡くなった身内との思い出のゲームをプレイし、ゲームを通じて愛する人に感謝する。それ自体は崇高な試みであるが、やり方を間違えると反感を買ってしまうようだ。

発端となったのは、10月16日に海外の匿名掲示板4chan内のポケモン板にあたる/vp/に建てられたスレッド。同スレッドでは、『ポケットモンスター ソード・シールド』にてダイマックスポケモンを呼び出そうとしているNintendo Switchの画面が映し出されている。添えられた言葉は「Playing Pokemon in memory of grandma, Rip grandma(おばあちゃんを偲んでポケモンを遊ぶぜ、安らかに眠れ)」。一見普通の画像であるが、背景をよく見ると「棺」が見えている。目を凝らせば人の顔らしきものも。つまり、葬式会場でNintendo Switchで『ポケットモンスター ソード・シールド』をプレイし、写真を撮っているのである。


葬式会場でNintendo Switchを使い祖母を弔い撮影。そしてその画像を、悪名高き掲示板4chanに投稿しているのだ。普段は悪態をつくアングラな4chanユーザーたちも、そんな投稿者の行動にドン引きしているが、スレッド主はお構いなし。「冗談だろ」という返信には、「冗談じゃないよ、認知症は最悪だ。でもオレのギャラドスが励ましてくれてるぜ!」といまいち噛み合わないコメントをしている。そしてその後、最初に投稿した時のポスト番号と板名を腕に書き、Nintendo Switchをつかみながら、背後に眠っている祖母を映す写真を投稿した。添えられた言葉は「おばあちゃんに色違いヨノワールを見せてる」。

稿主の祖母の顔は、遺体ということで弊誌にて自主規制


祖母の眠る横で、ゲーム機を出して、その様子をネットに投稿。一連の行動に、4chanのユーザーは激怒。2900以上の批判まじりの返信が寄せられた。この波紋はスレッド内におさらまず、さまざまなSNSにて拡散。Nintendo Switchをつかみ『ポケットモンスター ソード・シールド』の画面を映すシュールな画像は、ネットユーザーの“おもちゃ”になっており、それらを素材としたコラージュ画像が続々と生み出されている。


一方で、意見のすべてが投稿主を批判するものかというと、そういうわけでもないようだ。4chanのスレッドがアーカイブ化された後、このトピックはRedditなどにも拡散されていた。Redditのスレッドでは、この問題について真剣に話し合われている。そこでは「おいおい、人生の優先順位はどうなってるんだ」という意見に対し「俺らにはそれぞれ違う哀悼がある。俺は葬式でお酒を飲むけど、それがこの人の弔い方と比べて良いか悪いかはわからない」との意見が寄せられており、議論が繰り広げられている。同話題をネットミームとして取り上げたKnow Your Memeのコメント欄においても、Nintendo Switchと『ポケモン』を用いた哀悼法の是非が熱く論じられているのだ。

葬儀場という神聖な場所で、Nintendo Switchを取り出して、祖母の顔を写して記念撮影するということは、いくら祖母と思い出があり、自分なりの弔いをしようとしていたとしても、TPOが守られていない点で批判されることはやむを得ない。そもそも投稿主の祖母と『ポケモン』の関連性は明示されておらず、単純に方法として意味不明。思い出のポケモンがギャラドスなのか、ヨノワールなのかもわからない。倫理的な問題に加えてそうした不可解さもあり、アンダーグラウンドな4chanユーザーですらも許せなかったのだろう。人の死というのは、それだけ繊細な問題であるということ。しかし一方で、このやり方を是とする者もいるように、そうした弔いの方法を認めるユーザーもいるわけだ。

4chanにて大量にレスをつけられる投稿者


投稿主は匿名であり、(祖母の顔以外は)個人情報も開示していないので、嫌がらせなどには発展していない。実害はなく、自分の手が映し出されたコラージュ画像が量産されているだけとも言える。しかし、各所では今回の「ポケモン哀悼」をめぐる議論が繰り広げられている。ゲームを用いて、愛する人を弔う。それ自体は神聖な行為であるが、行為の目的が哀悼ではなく自己顕示であるとすれば、批判の的になりかねない。ゲームに限った話ではなく、死というトピックを用いて何かを表現する際には、細心の注意を払う必要があるだろう。