「開発者のセーブデータ」 第一回 “そもそもゲームが好きだった” スパイク・チュンソフト 中村光一 氏 インタビュー

「開発者のセーブデータ」は、家庭用ゲームの業界が勃興し始めた約30年前に開発者として生まれた“当時の若者たち”をインタビューする連載企画。当時20代だった若者たちが、自身のルーツやこの30年間の開発秘話、そして現代の若者たちへ向けたメッセージを語る。

1983年、任天堂、「ファミリーコンピュータ」を発売。それまでアーケードゲームに代表されていた日本のゲームシーンは、“家庭内でゲームハードを買ってソフトを遊ぶ”という家庭用ゲームへと徐々に切り替わっていった。家庭用ゲーム黎明期に開発者として生まれ業界に関わってきた“当時の若人たち”は、30年が経ち激動のゲーム史をどう振り返るのだろうか。

「開発者のセーブデータ」は、家庭用ゲームの業界が勃興し始めた約30年前に開発者として生まれた“当時の若者たち”をインタビューする連載企画。当時20代だった若者たちが、自身のルーツやこの30年間の開発秘話、そして現代の若者たちへ向けたメッセージを語る。

第一回は、スパイク・チュンソフト代表取締役会長である中村光一氏と、聞き手としてアクティブゲーミングメディアの中西一彦氏が登場。幼少期のころから、学生時代に2人がチュンソフトを立ち上げるまでの興味深い歴史の一幕をお届けする。

 

中村光一氏: 現スパイク・チュンソフト代表取締役会長。1984年にチュンソフトを中西氏らと立ち上げ、以降『ドラゴンクエスト』『かまいたちの夜』『不思議のダンジョン』など数々の名作を生み出してきた。
中村光一氏: 現スパイク・チュンソフト代表取締役会長。1984年にチュンソフトを中西氏らと立ち上げ、以降『ドラゴンクエスト』『かまいたちの夜』『不思議のダンジョン』など数々の名作を生み出してきた。
中西一彦氏: 現アクティブゲーミングメディア社長室所属。中村氏らと大学で知り合い意気投合、後にチュンソフトを立ち上げ共に会社を切り盛りした。
中西一彦氏: 現アクティブゲーミングメディア社長室所属。中村氏らと大学で知り合い意気投合、後にチュンソフトを立ち上げ共に会社を切り盛りした。

 

中西氏:
今日は主に我々が若人であった学生時代から20代までのお話を聞かせて頂きたいと思いますのでよろしくお願いします。

――よろしくお願いします。

中西氏:
まずは中村さんがどうしてゲームを開発するようになったのかお聞きしたいと思います。きっかけとか感銘を受けたものはあったんでしょうか。

中村氏:
そもそもゲームが大好きだったというのが一番の理由です。ただ僕が小さい頃は、ビデオゲーム、いわゆるテレビにコンピュータ画像を映してやるゲームというのはまだ無くて、デパートの屋上にある遊戯施設の……なんだろう(笑)。10円入れてスマートボールのような玉を打って、転がって落ちて入ると何点になるゲーム。ハンドルの先に棒がついてて先端には自動車の模型があって、後ろにある背景の道がロールで、道をしっかり進んでいくと電気ブラシになってるところでポイントが加算されるドライブゲーム。あとピンボールとか。僕はそういうのが大好きで、でも当時は小学校の低学年の時だから、ピンボールとかの台に届かなくて見えないんですよ(笑)。

中西氏:
目に浮かびます(笑)。

中村氏:
お店のおじさんからイスを借りてきて、乗っかってやってたくらい。それぐらいそういうゲームが大好きだった。

その流れのなかで、僕が中学校二年の時に『スペースインベーダー』が大ブームになった。それでもまだコンピュータそのものにはまったく興味が無かったんだけど、進学した高校にコンピュータを使って活動していた数学同好会があって、部活紹介のデモンストレーションで当時出始めてた『平安京エイリアン』のようなデモをしていて。「ここに入ったら毎日無料でゲームできそうだな」ぐらいの軽い気持ちで入ったら、意外に真面目なところで、一から先輩がプログラムを教えてくれた。

まあそれでいつしか、プログラムにハマっていったんですね。実際にプログラムを覚えたら、じゃあ何やりたいかって、もちろんゲームを作りたくなる。当時先輩が個人的に持ってた「TRS-80」っていうパソコンをかりて、「BASIC」で『スペースギャラクシー』っていう、ロケットを発射して宇宙船に当てて何点みたいなのを作ってた。本当は『スペースインベーダー』を作りたかったんだけど、「インベーダー」の数が多くって、「BASIC」では処理し切れなかったんだよね。まあ最初にそういうのを作ったりしたところから、ゲーム人生が始まるみたいな感じでしたね。

中西氏:
我々が小学生の頃って、確かにデパートの屋上に行くのが数少ない楽しみのひとつでしたので、その気持ちはよくわかります。ちなみに中学生の頃はどんな部活を?

中村氏:
中学校の時の部活?それは全然ゲーム開発には関係無くて、テニス部。高校に入って文系になったという。

中西氏:
それ文系っていうんですかね(笑)。

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――ほかにも子供の頃に体験したもので、ゲーム開発へ繋がったと思うものはありますか。

中村氏:
鍵っ子ってわかります?家帰っても誰も居ないっていう状態だったので、学校が終わって家に帰るとテレビ見放題。当時のアニメとかは、ほぼ見尽くしたというぐらい見ていて。だから映像に対する自分の中での基本作法みたいなものが、無意識で身についているのかなっていうのがある。間合いとかタイミングとか、どこかで習ったわけじゃないんだけど、多分そういうものが自分の作品の中に生かされているかなあと。

あと小さい頃の遊びでいうと、板に釘を打って輪ゴムをいっぱいかけて、ピンボールとかいっぱい作った。両サイドは鉛筆で巻いた紙を付けて、ゴムでパチンコの玉を打って。さすがに電気じかけはできないから得点は入らないんだけど、ここに入ると何点みたいなの自分で決めて、それをすごい枚数作ったり。大きな奴はその辺からこの辺ぐらい(部屋の幅約2mを指差す)まで作って(笑)。

中西氏:
えっ、えー(笑)。

中村氏:
小学校二年生とか三年生ぐらいの時に作ったりしてね。でっかい箱に入った輪ゴム買ってきて(笑)。

――それでお友達と遊ばれたりとかして。

中村氏:
そうそう。それ作って、友達に遊ばせるっていうのが楽しくて。

――それはもう、ゲーム作りと同じですよね、自分が作ったものを他人に遊ばせるという(笑)。

中村氏:
結構、でっかいのを作ると向こうの方までいかないんだよね。それが大変で、あそこまでいったら何点みたいな。でもね、あれは楽しかったですよ。

――何枚も作られているというのが凄い。研究熱心だった?

中村氏:
画面のデザインをするのが楽しくって。ぐるって回るところ作ったりとか、紙でくるくる回るやつ作ったりとか。新しい仕掛けを考えるのが楽しい。

――生粋のゲーム開発ですね。

中村氏:
あとボードゲームで覚えているのが、いわゆる「人生ゲーム」ってあるじゃないですか。お金いっぱい持ってる人が勝つ。その「人生ゲーム」とほぼ同時期に、もっとお札がリアルな「運命ゲーム」っていうのがあって。「人生ゲーム」のお札って子供っぽいところがあるけど、そういうのではなくて本当にお札っぽいお札でやるゲームがあった。近所のお兄ちゃんが持っていたんだけど、僕が欲しいと思った時点ではもう売ってなかったのか、買ってもらえなかったかで、どうしても欲しいなあと思って自分で紙切って作ろうと思った(笑)。……でも、何枚かお札を作って、これは絶対無理だと思って途中であきらめたけど、紙切ってボードを書いて、まんま同じじゃつまらないからここに止まったらどうのこうのとかを自分でいっぱい書いたりとか。

――遊びを作るというのが楽しかったのですね。

中村氏:
楽しかった。あとみんなやったことあると思うのだけど、細長い紙をくるくる巻いて、右に行く左に行くみたいなのを書いて、行き着く先がアタリかハズレか、あみだくじを延々とやっていくみたいな。それのめっちゃくっちゃ長いやつを作ったんですよ。何メートルあるのみたいなの(笑)。誰にやらせても、だいたい半分もいかない。

中西氏:
みんなやったことありますが、何メートルも作ったのは中村少年だけですよ。間違いなく(笑)。

中村氏:
なんせ、そういうものを作ったりするのは好きだったかなあ。

――なにか作品や人物が中村さんに影響を与えましたか、という原点のお話を聞こうと思ってたんですが、最初からもう自分で作っていたという感さえありますね。

中村氏:
うちは父親が左官業だったんです。左官ってわかります?壁を塗る仕事で、おじいちゃんもそうでした。家にはカナヅチとか釘とか道具の類は山程あった。そういうものを作ろうと思った時に困るってことがなくて、木とか切り放題だし、見よう見まねで道具の使い方もわかってましたから。ただ電気系統の家では無いので、コンピュータとか目に見えない世界というのは、あまり興味がなかったです。だから高校入るまで、コンピュータとかあんまり興味無いなっていう感じでした。

中西氏:
お父さんが左官をされていたのは初耳でした。我々の世代だと、中学校の頃にコンピュータを持っている家庭ってあんまり無かったですけどね。

中村氏:
まあ無いけどね。でも、「電子ブロック」みたいなの好きな奴いたでしょ。

中西氏:
ああ、「電子ブロック」ですね。なつかしいなあ……。

中村氏:
そうそう、あと小学校の高学年の頃には、プラモデルにハマったりして。けっこう本格的で、ジオラマを作ったりとか。あと鉄道模型なんかも一時期好きだったんだけど、あれはお金がなくて買えなくて、ひたすらレイアウトの設計ばっかりしてた(笑)。大人になったらこういうの作ろうと思いながらね。当時はすっごい流行ってて、雑誌見ると家の中を走らせたり二階から降りたりとかさせてる人がいて。ああいうのいいなあ、大人になったらやりたいなあと、すっごく思ってて。

――今は(鉄道模型を家の中で)走らせていますか?

中村氏:
いいえ(笑)。

中西氏:
確かに中村さんが鉄道模型を走らせているところは見たことないです(笑)。

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中西氏:
高校で同好会に入って作り始めてから20代までのゲームというと、『トルネコの大冒険』とか『かまいたちの夜』頃までの話で、一緒に苦楽を共にして来たので聞きにくいのですが、今だから話せる開発秘話というわけではないですけど、印象に残っている話とかあれば聞かせて下さい。

中村氏:
なんだろうなあ。今だから話せる……。

中西氏:
作り始めて、おおよそ30年ぐらい経過してますよね。世の中に「ファミリーコンピュータ」が出て30年以上経ち、それこそ今年は『ドラゴンクエスト』が30周年で、「ファミ通」さんもちょうどその頃に創刊された。

中村氏:
そうだねえ。まあねえ、秘話っていっても、いっぱいありすぎるからなあ、何から話したらっていう感じがあるけども。

――たとえば最近でもよく思い起こされることはあったりしますか。

中村氏:
うーん、なんかあの、ゲームの本当に黎明期の初期の頃から業界に関わってて、当時ってゲームの著作権に対する考え方も無くって。結構コピーし放題というか、それこそさっき言ってた『インベーダー』も、最初はタイトーさんが作ったと思うんだけども、いろんな会社がいろんな基盤を作ってたりとかしていて。僕が高校生の時に「I/O(アイオー)」と「アスキー」という雑誌があって、それが当時のソフトウェア寄りの二大コンピュータ雑誌で、どちらかっていうと「I/O」ってゲーム寄りの記事が多くて、僕は作っては投稿するみたいな感じで作品を出してたんだけども、やっぱりほとんどがゲームセンターにあるゲームのものまねというかコピーというか。当時、『スクランブル』という横スクロールシューティングゲームがあったんだけども、それの「PC-8001」版を結構忠実に再現して作って「I/O」に投稿した。1年ぐらい前、あるゲームのインタビューの時にサウンドの古代祐三さん
からあの画面のマップはどうやってコピーしたんですかって聞かれて、「ひたすらやって覚えたよ」って(笑)。驚いてました。

中西氏:
“目”コピーなんですね。

中村氏:
そうそう。キャラの出方とかタイミングとかもぜんぶ目コピーで。今みたいにスマホがあればムービー撮っといたら終わりだけども、そういうこともできないし。たぶん当時はビデオそのものも……家庭用のビデオってたぶんまだ無かったよね。あったかな。

中西氏:
まだ出始めのころですね。

中村氏:
出始めたぐらいで、ましてや家庭用のビデオカメラなんて無いみたいな時代だった。そういう涙ぐましい努力をコピーするために結構やったなあっていう。そういう思い出はあります。

中西氏:
ビデオも非常に高価でしたよね。20万円とか30万円ぐらいの話で。

中村氏:
そうそう。デッキそのものが高かったし。

中西氏:
それが高校一年生とか二年生?

中村氏:
そうね。それでエニックスのコンテスト(第1回ホビープログラムコンテスト )に『ドアドア』を応募して、準優勝みたいなのを頂いた。実は『ドアドア』を作る時も、最初『ドアドア』じゃなくてナムコの『ディグダグ』をコピーしてやろうと思ってて。当時すごい『ディグダグ』にハマってたんですね。あれがすっごい面白くって、それをコピーしようと思って一生懸命ゲームをやって、面構成とかを覚えて、キャラクターのグラフィックデザインとかも描いたりしてた。でも、ある時ふと「これコピーでいいのかな?」って思って応募条件を見たら、なんかオリジナルに限るって書いてあって(笑)。

中西氏:
オリジナル?(笑)。

中村氏:
で、わざわざ電話して確認したんですね。そしたら「いや、オリジナルでお願いします」って言われて、急遽『ディグダグ』はやめて自分でなにか考えなきゃということになった。ただ『ディグダグ』のあの要素、追いかけてくるモンスターは膨らませて爆発させてしまっても得点なんだけども、ちょっと膨らませて一瞬止めることで後ろから追いかけてくるほかのモンスターと一緒に重なって、石を落としてまとめて倒すと高得点っていうのが、すごい快感で。なんとかその要素を別の形で表現できないかとずっと考えていて、ある時ふっと教室で休み時間に友達が出入りする様子を見た時に、「あ、これだ!」みたいに思いついたというのが、『ドアドア』の開発秘話。

中西氏:
友達がドアを開閉しているところを見てあれを作ろうっていうのは、普通の人は思いつかないと思います(笑)。

中村氏:
(笑)。でもやっぱり、その『ディグダグ』の面白さを別の形で表現するっていうのが自分の中でテーマとしてあって、それをどう具体化するかってことをずっと意識していました。そしたら、こうなんかふっと解決策が見える瞬間があって。
先日「ドワンゴ」の川上さんのNHKの番組(プロフェッショナル 仕事の流儀 第301回)やってたでしょ?あれで川上さんが解決策は別の会議の時に思いつくっていう話をされてたのだけど、あれはすごいよくわかる。全然関係ない時に、「これこうやったら上手くいくかも」みたいなのが思いつく。一生懸命に真っ直ぐ考えてもダメなんだけど、実はまったく別な観点から見つかったりとか。

中西氏:
それで『ドアドア』が高校生の頃で、その後大学に進学して私とクラスが一緒で、しかも学籍番号が1番違いで知り合いましたよね。その頃の事で今でも覚えていることがあって、ひとつはコピープロテクトの話。ゲームのプログラムは当時カセットテープに入ってて、コピーが容易でした。どなたかにコピープロテクトの仕事を依頼したけども、すぐに解かれてしまって、その人のやけ酒に付き合った記憶がおぼろげながらあります。

中村氏:
それね、カセットじゃなくてフロッピーの時じゃなかったっけ。

中西氏:
そうそう(笑)。

中村氏:
フロッピーをコピーできないようなプロテクトをやってくれたんだけど、あっさり解かれちゃった。

中西氏:
そう。秋葉原で次の日に並んでたとか言って(笑)。

あとひとつは、ローディングの時間が昔はテープだから時間かかってたんですけど、その時に退屈させないように絵を表示させてたじゃないですか。その辺の発想がすごいなと思ってました。

中村氏:
「PC-6601」だったかな、それの『ドアドア』だよね。あれはロードのプログラムに音楽のプログラムが割り込みでできてたんで、そういうこともできるよねっていうところから確かやったと思うね。

中西氏:
その2つは印象的に覚えてます。その頃からプロとしてゲームを生業にしようと?

scs-16中村氏:
いや、もうそれはねえ、高校生の時に。当時「NEC」のパソコンショップが日本全国にできて、高校の近くにもあった。本当にカセットテープでゲームをいっぱい売ってたんだよね。その中に、ちょっとHっぽいタイトルのゲームがあって(笑)。

中西氏:
あー(笑)。

中村氏:
これは相当期待できるなと思って(笑)。当時4000円とか5000円したんだよね、それを買って帰ってやってみたら、すっごいくだらないゲームで(笑)。いや、こんなんだったら俺の方が面白いもん作れるよという気持ちがあって、早く学校を卒業して東京行ってゲーム会社作ろうと思ってた。だいたい周りは受験生だったんで、みんな数IIBとか数IIIとかやってる時に、僕は「株式会社の作り方」っていう本を読んでたっていう、変な高校生。相当変わってる奴だったと思う。

中西氏:
私は普通に数ⅡBとか数Ⅲやってましたよ。変わってる(笑)。

中村氏:
本人は別にそんな変わってるつもりはなくて、ちゃんと目的意識を持ってやってたけど(笑)。

中西氏
:
私が言うのもアレですが、普通の学生には出来ないことかなあと思いますね。まあでも、大学入って見事に1年後には会社を立てて。

中村氏:
ね。中西さんのおかげでもあって。

中西氏:
実は大学一年生の頃には中村さんの家によく遊びに行って、お手伝いをするようになったんですね。でも手伝いするだけで終わらせたく無かったから、「早く会社を作ろうよ」なんて言いながら、それこそ「株式会社の作り方」を読みながら、一年生と二年生のあいだの春休みに株式会社チュンソフトを作った次第ですね。最初の仕事は『ドアドア』の移植でしたよね?

中村氏:
そうね。さっき言った『ドアドア』の「PC-6601mk2」だったかな。

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――高校生の頃にゲーム開発の会社を作ろうと考えていた、というのがまったく想像できないですよね。どうやってそういった情報を手に入れられたんですか。

中村氏:
本屋さんの経済コーナーに行くと、「株式会社の作り方」とかって本が並んでたりするから、これなら俺でも読めそうだなあみたいなのを探しだして。今は会社って別に1人でも始められるし、資本金も少なくていいんだけど、当時は発起人が……何人だっけかな。

中西氏:
5人だったかな。いや、7人。

中村氏:
7人必要で、プラス資本金が500万円だっけ50万円だっけ。そんな感じのがあって、そういうのクリアしなきゃできないんだとか。

中西氏:
それになんせまだ未成年でしたからね。その上、学生なんで今の我々からは想像出来ないと思うけど見るからに若いじゃないですか。マンションの一室で始めたんですけど、そのマンションを借りたり銀行さんに会ったりした時に大変苦労をしましたよね。

中村氏:
どこ行っても相手にされないみたいな。そらそうだよね、十代の奴らが行って「会社やりたいんですけど、マンション貸してください」って言われても、「は?なに言ってんだこいつら」みたいな(笑)。ほとんど相手にされないという。

でもそのなかで唯一、学校の近くのワンルームマンションを、なんとか借りられて。そこで始めたのが最初です。まもなく隣の部屋も空いたっていうんで、二部屋並べて。学校の授業のコマのあいだに来て仕事をやったりとか。まあ、逆っていう考え方もあるけど(笑)。そんな感じで会社と学校を行ったり来たりしながら、まあ部活感覚だよね。だからけっこう学校の友達とかが集まって、アルバイトでやってもらったり。最初は社員としては5人。でもすぐアルバイトとかも入ってきて、なんだかんだいって10人ぐらいにはなったかな。

――会社の設立やゲームの開発について、いわゆる師匠的な方はいなかったんでしょうか。

中村氏:
開発そのものは僕らが初代みたいなもんだから、誰かに聞くというのもね。業務用の会社とかに入ったら聞けたのかもしれないけど、パソコンでゲーム作るっていったら、たぶんプロというかそれを生業にしている人は自分達が初代ぐらいの時代だから。たぶんまあ聞こうにも聞ける相手もいなかった。ほとんど独学かな。

 

 

第二回では、チュンソフトが開発に参加した『ドラゴンクエスト』の話に始まり、現在まで続く数々の名作の開発について話をうかがう。

[聞き手 Kazuhiko Nakanishi]
[編集校正・取材アシスタント Shuji Ishimoto]
[写真撮影 Mon Gonzalez]

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