『Everybody’s Gone to the Rapture -幸福な消失-』レビュー ビデオゲームの詩学

Everybody’s Gone to the Rapture -幸福な消失-』は、8月11日発売のダウンロード専用のアドベンチャーゲームだ。開発のThe Chinese Roomは小規模のインディーズのスタジオであり、とりわけPCでリリースされた『Dear Esther』を開発したことで、多くのゲーマーを驚かせた。この最新作『Everybody’s Gone to the Rapture』ではSCEサンタモニカスタジオが開発に協力しており、プラットフォームもPS4独占になっている。

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美しいグラフィックと、最小限度のゲームメカニクス

『Everybody’s Gone to the Rapture』をプレイしてまず眼に飛び込んでくるのは、ジョン・コンスタブルの絵画から抜け出したようなイギリスの田園風景だ。CryENGINEで描かれたその写実的なグラフィックは、まさに次世代ゲームという風格をもっている。
しかしこのゲーム、ここからが曲者である。プレイヤーは自分が操作している主人公が何者かはわからない。主人公自身が話すことはないし、一人称視点なので姿を見ることもできない。プレイヤーはヨートンという村に放り出され、なぜここにいるのか、なにをするのかの目的も提示されない。とはいえ、ゲームなので簡単な操作はできる。3D空間をゆったりと移動し、時には電話やラジオ、扉などにインタラクションしていく。しかし、プレイヤーがこのゲームに干渉できるのはここまでだ。このゲームはプレイヤーがすることといえば、ほとんどが「移動すること」だけなのだ。

 

残留思念から浮かび上がる人間関係と村の異変

ゲームを進めていくと村は完全に無人になっていることがわかる。村のあちこちに残留思念のようなものあり、電話やラジオからの声や、ときには光が人の形をかたどって、モノローグやダイアローグを聞くことで過去にこの村で起こった出来事の輪郭がおぼろげにわかっていく。

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ゲームはいくつかのエリアごとにわかれるオープンワールドのスタイルを取っており、思念にアクセスする順番はプレイヤーの任意に任されている。思念から発生するダイアローグは時系列順にはなっておらず、プレイヤーの中で自発的に再構成して整理していく必要がある。ただしこのように書くと極めて論理的なストーリーが展開されるように思えてくるが、実際はそうではない。特にストーリーのキーパーソンであるケイトから語られる言葉は隠喩に富んでおり、朦朧で難解である。

思念の記憶から明らかになってくるのはTVドラマ『ツイン・ピークス』を思わせるような、田舎の人たちの複雑な人間模様や贖罪意識、そして失踪事件から始まる大きな異変にたいして、生々しく反応する人々の驚きや戸惑いの声である。

なお、ゲームの中で登場人物の相関図はなく、人物は光で表現され匿名的になっているので、メモを取らない限り、初回プレイでは多数の人物を把握しきれないだろう。それでも日本語吹き替えにおける俳優の迫真の演技は真に迫った感情を定着されている。また、このゲームは手元で地図を開いて現在地を確認できないため、美しい風景に見惚れていると、自分がどのあたりを進んでいるのかわからず迷子になることも珍しくはない。一応、現在地がわかる地図が設置されていたり、残留思念の一部のような光球がナビゲート的な役割をはたしたりして、進むべき方角はわかるが、その動きは直線的なものではなく不規則な動きを伴ったものであり、惑わされることもしばしばだ。

つまりストーリーやシステム面においても、このゲームはプレイヤーを突き放して作られているのだ。ときには不親切とも感じるこのゲームの傾向は、決して90年代初頭以前の古典的なアドベンチャーゲームを意識したものでない。この疑問は精神的前作『Dear Esther』のときの開発者のインタビューにヒントがあるように思える。

“Dan Pinchbeck ゲームの環境は単なる背景でなく、ストーリーの一部として機能するはずだと信じています。(中略)私のミッションは、物語を支える環境を作ることではなく、環境によって物語をもっと拡大させることでした。”
引用元: Dear Esther 開発者 the chinese room スペシャルインタビュー

Dan Pinchbeck氏は『Everybody’s Gone to the Rapture』でもディレクションを担当している。この発言は文字通り受け取ったら舞台となる場所そのもの事物や現象でストーリーを語るということだろう。だが、『Dear Esther』も『Everybody’s Gone to the Rapture』もそんな一筋縄ではいかないゲームであることを我々は知っている。「環境」とはどこまで含むのか。「物語をもっと拡大させる」とは何のことなのか。ここで『Dear Esther』と『Everybody’s Gone to the Rapture』を比較しつつ、それを明らかにしてみたい。

 

『Dear Esther』と比較して

2008年に『Half-Life 2』のMODとして登場し、2012年にリメイク版としてリリースされた『Dear Esther』。『Everybody’s Gone to the Rapture』との共通点はFPS視点であること、パズルなどのゲーム性を排除していること、景観と音楽は変化に富み美しいことだ。一方で、共通していない差異として以下を挙げることができる。

  • 島が舞台/村が舞台
  • リニア/オープンワールド
  • 移動以外のインタラクティブの排除/扉を開けるなどインタラクティブな少し要素はある
  • ボイスオーバーが主体/ダイアローグとモノローグが主体
  • モノローグや小道具がプレイ毎にランダムに変化する/変化しない
  • 90分程度のボリューム/初回プレイは4~5時間
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『Dear Esther』(2012年)

『Dear Esther』と問題意識を共有する他作品

先ほど引用したインタビューでThe Chinese RoomのDan Pinchbeck氏は『Dear Esther』が影響を受けた作品をいくつか挙げている。そのなかで最も共通点があるのはウクライナ製FPSゲーム『Cryostasis』だろう。

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『Cryostasis』(2009年)

『Cryostasis』はゲーム中、マクシム・ゴーリキーの短編小説が文章として引用されるのだが、クライマックスになるとこの文章が、映像と断絶した形のボイスオーバー(画面外の声)として引用されるシーンがあり、『Dear Esther』と酷似している。この終盤の小さなシーンが、『Dear Esther』のモノローグの着想の原点になっているのではないだろうか。プレイ感覚は全然違うが、時系列ではない過去を再構成する点においても『Everybody’s Gone to the Rapture』と共通していると言える。

また他メディアにおいては似た要素をもつタイトルをいくつか挙げることができる。
全体的な参照元と推察できるのがヴァージニア・ウルフの小説『灯台へ』だ。スコットランドの孤島が舞台という共通点を持ち、話法に捉われずに意識の流れを叙述した小説である。

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『去年マリエンバードで』(1961年)

映画においては、セーヌ左岸派と呼ばれる一派の映画作品が挙げられる。一人称視点のゆったりとしたカメラの前進移動と、時系列を入れ替えた複数視点のモノローグを使った『去年マリエンバードで』、エリック・サティの美しい音楽と、主人公が自殺するまでの48時間を描いた『鬼火』、映像と一致しない複数視点の画面外のダイアローグを多用した『インディア・ソング』などがそうだ。

『鬼火』が孤独感や絶望感などの表現が類似しており、これは例外だが、他に挙げた作品『Cryostasis』『『去年マリエンバードで』『インディア・ソング』に共通するのは、映像とボイスオーバーの断絶性である。その点において、話法も不規則でしかも語彙の飛躍まで見られる散文詩か自由詩を思わせるようなボイスオーバーが挿入される『Dear Esther』は、ゲームにおいてボイスオーバーを美的に肯定し、視覚と音声の自律性を問題提起している。

 

自律的な諸要素が織り成す「環境」

『Everybody’s Gone to the Rapture』のダイアローグやモノローグは視覚的な世界に立脚しており、断絶性はみられないのだが、過去にあった内実を暴き出すという論理的な方向には最終的にはいかない。結局、『Everybody’s Gone to the Rapture』は『Dear Esther』と同様に、作品内の主観と客観、現在と過去の厳密な識別を拒否している。この世界においてプレイヤーが書き加えることはほとんどない点において、純粋な傍観者、純粋な観察者としてプレイヤーは世界に立たされることになる。『Dear Esther』の偉大なフォロワーである『Gone Home』や『The Vanishing of Ethan Carter』との最大の違いはそこだ。プレイヤーの行動によって舞台となる状況が明らかになっていくのではなく、明らかになるのは状況そのもの、自律した状況なのだ。そのような自律的な状況を『Dear Esther』はボイスオーバーを、『Everybody’s Gone to the Rapture』では主にダイアローグをもちい、周到に表現している。

これは音楽にもいえるだろう。Jessica Curry氏による美しくも仰々しい音楽は景観においては確かに相応しいものだが、その音楽が奏でられる瞬間とは、なにげない平凡な日常的なダイアローグのシーンと劇的なシーンであり、この両者は区別されていない。音楽はダイアローグに対応する形で対位法的なのだ。

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無垢なるビデオゲームを目指して

先のインタビューで、さらにDan Pinchbeck氏は「FPSのストーリーを研究していました」と語り、『Dear Esther』の源流を探っていけば『DOOM』に辿りつく」とまで言っている。

FPS研究の結果が、環境でストーリーを拡大するという方法論に達し、それはしばしばsteam上では「Walking Simulator」というジャンルで呼ばれており、今もなお多くのフォロワーを生み出している。その一人称視点のストーリーテリングは今後のヴァーチャル・リアリティ・ゲームのストーリーテリングの大きな源泉のひとつとなるだろう。

だが、The Chinese Roomの定義する「環境」とは諸要素がなにかに従属せず、自律的な要素で成り立つ。それが一緒くたに内包されている点で重層的な対位法的なイメージを形作っていると言えるだろう。しかも『Everybody’s Gone to the Rapture』ではそのイメージすら再帰的に環境に溶け込んで消えていくような感覚すら感じられる。これは環境でストーリーを拡大するという方法論以上に、プレイヤーに想像させること、抽象的な美しいイメージを信じることへの異常なこだわりは、The Chinese Roomの確固とした個性だろう。

その意味で、このゲームは主流のビデオゲーム、特にFPSのアトラクション的なビデオゲームに反旗を翻している。伝統的なFPSを拡張するのではなく、FPSの再定義をたくらむ、いわばゲーム自体が「異化」としてのゲームなのだ、我々は未知のゲームに遭遇しているため、ときに戸惑ったり、突き放されていると感じるわけだ。しかし、それらで我々の現前に立ち現われてくるのは、今までとはまったく違ったビデオゲームの光景だろう。

まるでThe Chinese Roomは『Doom』より遥か以前の原初的で無垢なるFPSを渇望しているかのようだ。しかも、その存在するはずのない彼岸のビデオゲームは「詩」に属していたはずだ、と静かに主張している。

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