文化人類学における定義では、子供の誕生に際して生殖に関与したとされる生物学的父親を「ジェニター」、遺伝子のつながりはないが子供の養育を担う社会的父親を「ペイター」と呼ぶ。男性が子宮という苗床に種を与え、それを女性という大地が発芽させるという生殖理論に基づいて、ジェニターと子供の系譜関係こそ親子とする解釈が世界に普遍的と言われている。しかし、父親とは決して単なる精子の製造元ではなく、我々は必ずしも親父のクローンなどではない。たとえ遺伝子を残せない物理的な境遇や家族的パートナーシップにあっても、誰しもが後世に模倣子を残せるからだ。
『Dad Quest』は、そんな父親という存在を大衆向けの解釈で再構築した2Dプラットフォーマーだ。タイトルが示すとおり、その内容はダッドの冒険にほかならない。なお、ここでいうダッドとはジェニターともペイターとも異なる父親という抽象概念。すなわち自分の子供を愛する人たちの総称として用いられている。体型や見た目はもちろん、性別の概念すら関係ない。一見頼りなさそうに見えて、いつも美味しいランチを作ってくれるような普遍的存在のメタファーだ。そして何よりダッドを父親たらしめているのが、可愛い子には旅をさせよという諺があるように、愛しのムスコを大空へぶん投げる厳然たる腕力である。
可愛いムスコには旅をさせよ
最初に断っておくが、ムスコといっても決して子孫繁栄やエネルギーのシンボルとして男性の股間に雄々しくそびえ勃つ象徴的ファルスの俗称ではない。つまり陰茎のことではない。本作で不滅の存在にして究極の破壊兵器となるプレイヤーの子供はムスメでもあり得るのだ。ダッドが父親たる資格を得る時、同時にプレイヤーは我が子の性別と名前を自由に決定できる特権を享受する。あえて“ムスコ”とは書いたが、ダッドが性別をも超越した抽象概念であると同時に、ムスコもダッドを定義する上で欠かせない愛の絆としてのメタファーにすぎない。要するにダッドの定義に陰茎の有無は関係ないのと同様に、ムスコもまた然りというわけである。
この世界におけるダッドとは、運命に選ばれし者だけがなれる特権階級のような存在で、決して誰もがダッドとして生きられるわけではない。さらにチュートリアルという名の試練を乗り越えたダッドだけが、ダッドベンチャーの大海原へ旅立つことを許される。すなわちダッドとは勇者なのだ。多くの子供にとって父親が最初のヒーロー像であるように、ダッドは父性のロールモデルとして描かれている。ちなみにダッドは泳げない。水に触れると一瞬で死ぬ。また、すべてのダッドは最重要スキル「サモン・チャイルド」を発現した能力者でなくてはならない。あたかも別世界にいるかのごとく、強いイメージを想い描きながらマウスを左クリックし続けるのだ。
子供にとっての世界とは親の支配下に置かれた日常の行動圏内がすべて。ダッドのスローイングアームによって画面外にぶん投げられるたび、彼らは未知の世界を体験している。そこで破壊したあらゆる存在が、大人への階段を登る経験値へと変わっていく。しかし、ムスコは元の鞘に収まる術を知らない。「サモン・チャイルド」とは、誰もが無条件に見分けられるであろうお父さんの御手に子供たちが引き寄せられ、あるべき場所に帰ってくるという究極の愛である。ちなみに筆者は幼少期、ダンボールから飛び出た複数の手から自分の父親を当てるというゲームで、とうとうお父様の手を選ぶことはできなかった。今でもそのことが忘れられない。
愛しいムスコは旅をさせるだけでなく鈍器としてぶん回すこともできる。左クリックでぶん投げて、右クリックでぶん回す。慣れない内は父親の不器用さゆえに子供を振り回してしまうかもしれない。しかし、愛児はやがて成長を遂げ、ダッドのプレイスタイルに応じた理想の武器へと姿を変えていく。ターゲットを貫通する旅好きな子に育つも、刃物片手に周囲の敵を切り刻むようなグレた子に育つも、ムスコがレベルアップした際の進路選択次第だ。また、フィールドやショップで手に入る消耗品のおもちゃを装備させれば、触れた敵に爆発札を貼り付けたり、クッキーでダッドの体力を回復してくれたりと、子供に秘められた可能性も大幅に広がる。
こうした成長に欠かせないのが、世界中に分布するハトの存在だ。何の恨みがあってか作中で“取るに足らない無意味な存在”と表現されているように、ただただ殴り殺されるためだけに大量のハトが登場する。『Dad Quest』の舞台「ダッドアイランド」の原住民の子供によると、多くのダッドが経験値稼ぎのためにファームし続けることから絶滅の危機に瀕しているらしい。そして本作には、プレイヤー以外にも選ばれしダッドたちが存在する。「デザートダッド」がその一人だ。砂漠地帯で主人公の前に姿を現す新手のムスコ使い。敵か味方かは早期アクセスの現時点では分からない。ちなみに名前にデザートが付いているからといって、砂上走行用のジェットスキーが装着されているわけではない。
本作のプレイフィールを一言で表すとすれば、ファーストパーソンシューターの操作性で遊ぶ横スクロールのアクションゲーム。ムスコと同じように自分のタマゴを敵に投げつける『ヨッシーアイランド』や、チームアップで相棒を投げられる『ドンキーコング』シリーズと違って、キャラクターの進行方向と飛び道具の照準を別々に操作しなければならない。もちろん『ヨッシーアイランド』のように狙いを定めている間は時間が止まるわけではなく、走ってジャンプして敵の攻撃をかわしながら同時にマウスでエイムする必要がある。操作感覚はFPSと大して変わらない。惜しむらくは、早期アクセスの段階とはいえ体験版ほどのボリュームしかなく、1時間もプレイすれば突如シナリオが中断してしまう点だ。なお、正式リリースにあわせて日本語への対応も検討されている。
父の役割は子供と戯れ具現化する
冒頭、父親とは決して単なる精子の製造元ではなく、我々は必ずしも親父のクローンなどではないと述べた。それでは父親の役割とは何か。元来、経済的に家庭を支える稼ぎ手はもちろん、子供の発育における監督者や性役割のモデルが、父親の役割であると考えられていた。男子にとっては時にマッチョイズムの象徴であり、女子にとっては人生で最初に出会う異性である。交際する男性の中に無意識に父親像を求める女性も多いのではないだろうか。しかし、近年の研究ではむしろ父親の存在が子供の精神的発達におよぼす影響の重要性が注目されている。その役割は父親としての自認に始まり、子供が成長するにつれて変化していく。
多くの場合、女性は妊娠を経て身体的および生理的な変化を伴うことで母親になる一方で、男性は膣内への射精を繰り返す日々の中、ある日突然父親になったことを告げられる。子宮に新たな生命を宿した瞬間から子供と栄養を分かち合う母親とは異なり、父親の役割というものは出産後の育児を経て徐々に具現化していくものだ。女性を孕ませた途端に自らの役割を直感する男性などいないだろう。日増しに大きくなっていく伴侶の腹部を目の当たりにしてもなお、女性ほどの実感は湧かないはずだ。男性は子供と時間を共有することで初めて本当の意味で父親となるからだ。やがて彼らの変化は、無意識の内に子供の知的発達を促すような働きかけへとつながっていく。
アメリカの心理学者ジュディス・ウォーラースタイン氏の研究によると、離婚や死別で父親を失った子供は、精神的な適応力の悪化により学業成績が低下したり、反社会的な行動へ走ったりしてしまう傾向がほかより強いという。また、人間関係を育むことに対して臆病になりがちで、自身が結婚してからの離婚率も高いと言われている。逆に父親が在宅で働いているか主夫、もしくは父子家庭の場合など、父親が子供と過ごす時間が長い環境下においては、子供の社会的な発達はむしろ良好であるとの報告がある。これは母親が共感によって子供を理解しようとするのに対して、父親は遊びを通じて彼らの感情や欲求を把握することに起因している。父親と戯れる刺激が子供の脳に健康的な発育をもたらすとされているからだ。
その中でも父親は全身を使って荒々しく遊ぶことが多い。父親は荒っぽい遊びを通じて、安全な日常の中でも子供に冒険的な体験を提供しているのだという。幼い頃に“たかいたかい”をしてもらった記憶が残っている人は少なくないだろう。筆者も豪快に胴上げされて初めて宙を舞った時の興奮を覚えている。また、子供は遊びの中で感情を制御する術や、他者と協力関係を築くという概念を覚えていく。子供にとって母性が安らぎの象徴であるとするならば、父性とは刺激そのものである。子供たちは遊びを通じて世界を学んでいるのだ。『Dad Quest』でムスコをぶん投げるダッドが象徴するものとは、まさにそんな父親の役割そのものと言える。
それでは何故ダッドは自分の子供に旅をさせるだけでなく、自我を持たない武器としてムスコに身を委ねるのか。いくらダッドが父性のロールモデルとして描かれたとて、ムスコを振り回さなければハト一匹倒せない上、泳ぐことすらままならないようでは父親として頼りないと考えるユーザーもいるかもしれない。しかし、幼児期における父親の重要性を表現するには、ムスコが兵器でなくてはならないのだ。ちょうど本作で描かれる年頃の幼児は、日常生活における行動範囲の拡大や監督者による行動制限から、問題解決や他者との共存という概念を学ぶとされる。ゲーム攻略という問題解決をとおしてプレイヤーと共存する存在。それこそがプレイヤーにとっての武器にほかならないというわけだ。
同時にあえてダッド自身が経験値を積んでレベルアップするのではなく、ぶん投げられる子供自らが成長していくゲームデザインにすることで、ロールプレイングゲーム特有の育成による達成感というカタルシスへの回帰を狙っているとも考えられる。そういう意味では、プレイヤーがゲーム序盤で子供の性別や名前を自由に変更できるように、『Dad Quest』の主人公は実はダッドではなく、究極の兵器としてのムスコということになる。父親が子供に新たな世界を経験させるにつれ、ムスコに自信が芽生え始め、やがて自慢のビッグボーイは「サモン・チャイルド」に頼ることなく自分の足で歩くことを覚えていく。この作品は父性のメタファーであると同時に、ムスコの旅立ちを描いた成長譚である。
総評
ヨーロッパでは中世にいたるまで、子供は徒弟(若者を商人や職人の業務に従事させる職業教育制度)や奉公といった労働をとおしてあくまで「小さな大人」として扱われており、現代における「子供」という概念は存在しなかったという。18世紀フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、著書「エミール」の中で消極教育論を説き、それまでの「小さな大人」という価値観を否定した。教育の対象として「子供」という概念を確立すると共に、人間の自然性へ回帰させることを教育の目標に定めている。すなわち人間に元から備わっている本質を引き出し、人間としてより相応しい生き方へと導くことを教育と説いた。ちなみに教育を意味する言葉「Education」とは、元々「導き出す」ことを意味するラテン語「Educere」に由来している。
このゲームについて開発元のSundae Monthは、「子供はいつだってワシのように大空高く飛び回りたいと望んでいる! だが一人きりではとてもそんな技術はない。君だけが父として子供をあるべき姿“兵器”として育てるのに必要なスローイングアームを持っている」と説明している。つまり、未知の世界へ羽ばたきたいと願うそれまでの「小さな大人」たちは、ダッドとの強い愛の絆によって真の成長を遂げ、武器としての自然性へ回帰できるという教育論を説いているのだ。そしてダッドとは、その過程における父親の役割を大衆向けに可視化した触媒にほかならない。筆者が自身の名前を付けた子供を無心の境地でぶん投げる行為を“ルソー的”であると感じた背景には、こうした思想的な要因が働いていることが考えられる。
父親とは時として不器用だけれど、子供を想う愛情があれば誰もが特別なダッドになれる。その形は千差万別。映画「遠い空の向こうに」のように背中で生き様を語るダッドはもちろん、「幸せへのキセキ」が見せるダッドの弱い部分、どんなに平凡な人生でも誰かを感動させられると教えてくれる「ビッグ・フィッシュ」のダッド、無様だろうが闘い続ける「シンデレラマン」、どんな絶望にも笑顔を絶やさない「ライフ・イズ・ビューティフル」、果ては娘のためなら無慈悲な鬼神と化す「96時間」のやり過ぎダッドまで。いろんなダッドがあっていい。『Dad Quest』は、ジェニターともペイターとも異なるダッドという抽象概念をユーモラスに定義した上で、父親がその役割を実感するために必要不可欠な子供との時間を独特のタッチで描くことに成功している。