『文豪とアルケミスト』は、DMMから配信されているブラウザゲームである。本作に登場するキャラクターは、名だたる文豪たちが擬人化されたものだ。自分でもなにを言っているのか、よくわからない。「擬人」を辞書で調べてみると、「人間でないものを人間に見立てて扱うこと」とある。文豪は文豪である前にひとりの人間なのだから、正確には「キャラクター化」なのだろうか。しかし私の目の前のディスプレイのなかで起こっていることは、まちがいなく「文豪の擬人化」である。こんがらがってきた。
打ち明け話というほどのものではないが、そもそも筆者も文学を志している人間である。芸事で満足な飯を食べるには特殊な苦労がつきものだが、そういうふうに生まれついたのだから仕方がない。十代のころの筆者にとって、ビデオゲームは執筆のあいまに気分転換をするための格好の間食だったわけだが、そのころの私はビデオゲームが飯のタネになるなどとは思いもよらなかった。まだ文学のほうが食っていけそうな感じがしたわけだ。どういうわけか、いまでは状況が逆転し、こうしてビデオゲームにまつわる話をして紙面を汚すことで糊口を凌いでいる。我ながら作品に対して失礼な態度だと言わざるをえないが、作品を紹介する文章をすこしでも良いものにしようと努めることが、ある程度の返礼にはなっているはずだ。そう信じるほかない。
さて、絶え間ない創作への欲求のために延々と悩み続けることを運命づけられた文豪たちの生活の記録は、それがたとえ売れっ子の華々しいものであっても、あるいは商業的にまったく成功しなかった作家のものでも、彼らが残した作品と同等かそれ以上に、筆者を慰めるものであり続けている。彼らがいかに実際の生活を、そつなく、あるいは不器用に過ごしたかを知るたびに、筆者の無聊も慰められるように感じられる。そして夏目漱石の没後百年を数える昨年の暮れ、筆者のスマートフォンに本作の広告が表示された。そういうわけで、このタイトルについて筆者に何か書かせるよう編集部に強要した結果、弊誌にあまり載らないタイプのブラウザゲームについての記事を、こうして貴方が半ば困惑しながら読むことになったわけだ。
プロローグにあたるフィクションを要約すると、こんな感じだ。プレイヤーは「帝國図書館」という施設の新人となり、さいきん書物を蝕んでいるという「侵蝕者」たる存在を駆逐することとなる。この存在を放っておくと、人々の記憶から重要な文学作品が失われてしまうらしい。あなたはアルケミストとして名だたる文豪たちの魂を現世に呼び出し、彼らとともに文学作品のなかの世界へと没入して、「侵蝕者」と戦うことになる。呼び出すことができる文豪の魂は、公式サイトに挙げられている通り。一見して、明治・大正・昭和初期の名前が多いようだ。
ゲームプレイについて。プレイヤーは4人までの文豪を指定してパーティー(ゲーム内では「会派」)を組み、名だたる名作の名前だけを冠したステージで、全自動化されたRPGのような戦いをする。ステージの最深層には強敵が待ち構えているが、最深部にたどり着けるかどうかを決めるのは、プレイヤーの技術ではなく運である。アイテム消費によるヒットポイントの回復はなく、いちいちベッドに寝かせなければならない。戦闘中に傷ついた文豪は「耗弱」、瀕死となれば「喪失」、やられてしまうと「絶筆」となる。要するに、「小破」「中破」「大破」だ。
新しい文豪を仲間にするためには、任意の文豪を本の中に潜らせる。呼ぶ文豪と呼ばれてくる文豪のあいだに史実にあるような関係性はそこまで必要ないらしく、尾崎紅葉がいきなり太宰治を連れてきたりする。この作業には「有魂書」というアイテムが必要だが、クエストを消化していけば手に入るので、10名程度の文豪ならすぐに集められる。多くの文豪たちが住んだ町である谷根千もかくやという賑わいぶりである。
はっきり言わせてもらうと、本作のゲームプレイは『艦隊これくしょん』や『刀剣乱舞』と同様だ。配給元は同じDMMなので、まったく問題はない。文豪よりも刀や旧日本海軍の船艦が好きなら、あちらをプレイしたほうがいい。船艦を入渠させるかわりに文豪をベッドに寝かせ、給油するかわりに食堂でおいしそうな食事をするほうが好きだと思うのなら、本作にしておけばいいだろう。
キャラクターたちの設定や人物像に史実との大きな矛盾はないが、かなり誇張されている。いくぶん個人的な趣向だとは思うが、筆者がとても好きなのがこのキャラクターデザインだ。織田作之助が嘘くさい大阪弁でカレーを食べたいと発言し、萩原朔太郎と三好達治の協力技に専用の音声が用意されている。谷崎潤一郎はもはや女物の着物で妖艶に着飾っており、正岡子規に至っては野球のバットをしっかりと握りしめた状態で現れる。
現実に生きていた文豪たちの外見や性格をなんとなく知っているために、流麗に描かれた異様なイケメンたちに文豪の名前が添えられていると、思いもよらぬ爆笑が引き起こされる。自分のなかにある文豪たちの認識と、ゲームが提示する人物設定のズレが、どうしようもなく面白いのだ。永井荷風は絶対にそんな格好をしていなかったし、江戸川乱歩はすでに自分が怪盗に扮してしまっている。宮沢賢治はあどけない少年、堀辰雄は気の弱そうな青年。特高警察に目をつけられていた小林多喜二は顔を隠すようなフードつきの衣装を身にまとっており、夏目漱石の特徴的な口髭はしっかりと踏襲されている。太宰治は芥川龍之介のことばかり考えている。
これがあの文豪です、と勢いよく提示されたものを眺めているだけでも楽しいが、史実をゆるく引き延ばした感のある設定を眺めるのはもっと楽しい。たとえば志賀直哉の人物紹介には「前方不注意で何かにぶつかることが多い」という文章があるが、これは現実の志賀直哉が山手線に轢かれた逸話への言及だろう。この逸話から始まる「城の崎にて」という短編のなかで、「脊椎カリエス」にならないかと医者に質問し、それはまったく見当違いの病気だと答えられるくだりは、「細かいことは気にしないさっぱりとした性格をしている」という紹介部に反映されているのだろう。
もしかすると隠しキャラとして存在しているのか、それともアップデートのために取っておいてあるのかはわからないが、現段階で作品に登場しない文豪はかなり多い。大岡昇平も有島武郎もいない。横光利一がいるのに川端康成がいないし、小林多喜二がいるのに葉山嘉樹がいない。中勘助と水上瀧太郎は絶対に入れて欲しいし、内田百閒がいないのはどう考えても寂しい。まあ、おそらく、このあたりはアップデートで実装されるはずだ。筆者が期待しているのは、比較的時代が下ったあとの、昭和中期から後期にかけての文豪の登場である。安部公房や遠藤周作、三島由紀夫なんかは絶対に外せないだろう。変わったところで福永武彦や中島らもなんかが出てきたら、筆者は脱帽する。
想像するに、登場する可能性がいちばん薄いのは女流作家で、林芙美子も尾崎翠も与謝野晶子もたぶんお目にかかれないだろう。女の子が好きな女の子もいるので、別にいいと思うのだが、そういうものだ。また、現実に存命している文豪も厳しいかもしれない。なんとなく、筒井康隆や村上春樹は難しそうだ。森見登美彦や円城塔くらいまでいってしまえば、頼まれれば快諾してくれそうな感じもある。このさい、もう哲学者も評論家も翻訳家もオーケーというのはどうだろう。九鬼周造も澁澤龍彦も小林秀雄も鼓直も、みんな仲間に入れてしまおう。ビスマルクやプリンツ・オイゲンの例もあることだし、思いきって海外の文豪というのはどうだろう、シェイクスピアやセルバンテスやカフカも使ってしまおうじゃないか! なに、予算が足りない? 黙れ、俺が出す!
ゆいいつ筆者が不満だったのは、せっかくそうそうたる顔ぶれの声優陣を起用しているのに、彼らを利用した物語が薄すぎることだ。期待していたような文豪どうしの会話などは添え物程度しかなく、量も多くない。現実の文豪たちのエピソードは興味深いものばかりだ。森鴎外が石を投げて雁を殺してしまったり、夏目漱石が二階から飛び降りたりすれば大変おもしろいと思うのだが、五時間ほどのプレイでは、そういったコンテンツをほとんど見ることができなかった。印象に残ったのは、中原中也が太宰治をむりやり飲みに連れて行ったことぐらいだ。
『文豪とアルケミスト』のゲーム性はDMMによる「艦隊これくしょん」のクローンにすぎないが、もしも大正から昭和初期にかけての日本文学に触れた経験があるのなら、純粋にキャラクターを愛でるという目的で楽しめる作品である。美しく描かれたキャラクターたちの画像の隣に、実際の文豪達の近影写真を貼り付けて、この記事のなかで紹介してみようかとも思ったが、やめておいた。私の仕事は他人の夢を壊すことではないからだ。ただ、ゲームをプレイして興味が湧いた方は、お気に入りのキャラクターの名前で検索してみることをおすすめする。案外、現実のほうにもいい男が揃っているからだ。