『人喰いの大鷲トリコ』レビュー
確かめられない「絆」、優しくも残酷な誤解の可能性
ゲーマーという人種にとって「発売前のゲームを待つ」ということ自体は実は苦痛ではない。それが10年だろうが20年だろうが、だ。逆説的に言えば、楽しみに待てるゲームが存在していること、それ自体がゲーマーの証であり、人間としていつまでもそうありたいと思える人こそが本物のゲーマーなのだろう。
『人喰いの大鷲トリコ』は発売された。もうそれは成されたことであり、すでに過去形で表現可能なものとなった。その瞬間、幸せな夢は覚め、現実の時間は流れ始める。7年の月日が過去から怒涛のように流れ込んでくると同時に、リアルとなった夢の産物を検証しなければならない時が来た。『人喰いの大鷲トリコ』の発表から7年。『ICO』から15年。当時プレイしていた少年達はもう、現実を直視することのできる大人になったのだ。そして等しく同じ時間を過ごしたのは、実はプレイヤーだけではない。
本作のゲーム内容そのものを説明するのに多くの言葉は必要ない。見知らぬ場所で目覚めた一人の少年が、伝説の人喰いの怪物と呼ばれるトリコという巨大な生物と出会い、トリコと共にその場所から脱出しようと試みる。各ステージのギミックを解くことによって先のステージへと進み、その繰り返しの間にストーリーイベントが挟まれる。システムとしての目新しさはなく、むしろスタイルとしては古い。旅のパートナーであるトリコ自体がステージギミックを解く鍵になっている場合も多いが、それも革新的な手法とはいえない。『ICO』と『ワンダと巨像』をプレイした人になら、さらに分かりやすく説明できる。もっとも簡単にこのゲームを表現するならば、ゲームシステムは『ICO』であり、パートナーが『ワンダと巨像』の巨像に差し替えられた、と言えばそれで済む。それほどにシンプルだ。15年前の『ICO』と比べれば改善されているとはいえ、操作感とカメラワークは改善の余地を残しており、むしろ現代では懐かしさを感じるレベルのクオリティ。難易度は高めな上、時おり理不尽なギミックがあるのも既視感を覚える。それら全ての要素が『ICO』『ワンダと巨像』の後継として違和感のない作りになっている。しかし、「シリーズの後継策として違和感がない」というのは、はたして褒め言葉だろうか。
『ICO』は優れたアートデザインと共に、そのゲームメカニックの「革新性」が評価された。続く『ワンダと巨像』では、世界観やデザインに共通のものを残しながら、まったく別のベクトルでゲームの新しい可能性を探求して我々を驚かせた。そして二つの作品が生み出した「革新性」は、驚くべきことに今もなお古くさくなく、唯一無二であり続けている。『人喰いの大鷲トリコ』を『ICO』『ワンダと巨像』と同じシリーズの作品とみなし比べた場合、この「違和感がない」と感じる感情の裏に隠れているものは、「新たな驚きがない」のとほぼ同義だ。そして、それが『人喰いの大鷲トリコ』という作品を貶めているわけでもない。
今作でもっとも大きく取り上げるべきポイント、それはやはり「トリコ」という名の奇妙な一つの生命を軸に語るべきだろう。一見不気味にも見えるその生物は、物語の経過と共に実に生き生きとした様子を見せ、生物としての躍動感と愛らしさをプレイヤーに感じさせる。それと同時に、優れた“舞台装置”としての役割も担っている。たとえばトリコの羽の動きは、その世界に吹く強い風を感覚的に伝えるための装置だ。トリコの水遊びは、その世界に確かに水が存在する気づきをプレイヤーに与える。あるいはプレイヤーに撫でられながら寝込んでしまうトリコは、その世界の日差しの優しさと確かな温かみを感じさせる。その全てがプレイヤーと世界を繋ぐための舞台装置なのだ。そして主人公が旅する世界は、逆にトリコという架空の存在の手触りをプレイヤーに伝える舞台装置として機能している。世界がトリコを存在させ、トリコが世界を存在させる。リアリティの在り方を相互補完的に実現する一連の演出は非常に効果的に力強く機能している。プレイした誰もがトリコと世界が生きているように感じるであろうカラクリはここにある。
旅の中で少年はトリコと少しずつ心を通わせていく。トリコの餌である樽を与える時、ゲーム序盤は少年が近くにいるとトリコは食べないが、物語が進むにつれ少年が抱えてる樽にも食らいつくようになる。興奮しているときには撫でてあげればすぐに落ち着くようになり、ほっとくと顔をこすりつけてくるようにまでなる。トリコは協力的になり、少年の命令を理解できるようにまでなる。きっと道中に転がっている餌をずっと与え続けてあげたから。身体に刺さった槍を抜いてあげたから。傷を優しく撫でてあげたから。命令に従った時に褒めてあげたから。少年=プレイヤーは、トリコとの間に芽生えた感情をそう感じ始め、最終的にそれを確かな「絆」と実感するに至る。
それはゲームプレイの操作の面でも表現されている。序盤は少年が指示を出しても、トリコは必ずしもプレイヤーの意図と同じように動くわけではなく、トリコを直接操作できないフラストレーションが発生する。ゆえにプレイヤーの気持ちとシンクロするように動いてくれた時には、プレイヤーはカタルシスを感じる。けっして画面上にパラメーターとして表示されないこの感情は、プレイヤーが自身の想像力をもってトリコを“他者”として擬人化していることを意味する。『人喰いの大鷲トリコ』は、ゲームシステムやトリコの愛らしい挙動、そしてストーリーなどを全て使って、「他者に愛情を感じる」というテーマを貫いているのだ。
単純に見れば、この作品は人間と動物の絆が生む愛情の物語。その理解はある意味で非常に正しい。ただし、いくら童話的な話とはいえだ。いや、逆に童話的な話だからこそ、その理解ですませてしまうのは、いささか乱暴ではないだろうか。
いまさらになって「ユクスキュルの古典的原理」を持ち出すのは、いささか時代遅れだろうか。そもそも個々の生物は、それぞれ独自の身体的な構造と自身が住む環境によって、まったく異なる世界を体験している。生物には自身が生きるために必要な器官しか備わっておらず、見える世界も感じるものも必ず主観的なものとなる。至極当たり前な理屈だ。そして主観を持つことを宿命づけられている生物同士は、本来的に分かり合うことが出来ない。たとえばダニは自分の生命維持に必要な「明るさ」と「乳酸」を感知する器官しか持たない。立脚する世界も、見えているものも、感じているものも、生きる目的も、全てひっくるめてまったく違う。そんな生物を「擬人化」するのは、あらゆる生物を上から見下げている人間だけが持ちうる醜悪なエゴイズムの一つの終着点だ。もっといえば、人間は他の生物の擬人化を好むにも関わらず、同じ人間同士ですら本質的な部分ではほぼ分かり合うことができていない。
誤解を恐れずに言えば、少年とトリコの間に「絆」は確かにあるのだ。ただし、それは少年がトリコに感じる「絆」であって、トリコが少年に「絆」を感じている証明はどこにもない。トリコが少年を守るのは、トリコという生物が持つ本能的な性質が理由かもしれないし、少年を自分の子供と勘違いしたのが原因かもしれない。とにかく少年を「守り」続けるトリコ、その生物の中にある「動機」は、結局誰にもわかりはしない。それは「言葉」でも表現されなければ、パラメーターとして画面上に表示されるわけでもない。
唯一その根拠にできるのは、少年が一方的に感じている「絆」であり、そして絆があると感じることは少年にとっての「望み」でもある。何故なら作品中、少年=プレイヤーにとって、旅の終着点へ向かうためにトリコとの「絆」は必要絶対条件であるからだ。本作の主人公である少年は実に無力だ。ギミックを解いたり、トリコが嫌がるオブジェクトを破壊したり、あるいはトリコが行けない狭い場所で行動することはできるが、トリコによる大きな跳躍によるステージ移動がなければほぼどこへも行けはしない上、戦闘もできない。知らない土地からの脱出はトリコ抜きでは考えられない。どんなにイライラさせられても、どんなに不快でも、その存在がいなければ何もできない。生まれたばかりの赤ん坊が本能的に母親に愛情を感じるのと原理は変わらない。愛しているから必要なのではなく、必要だから愛する。このゲームの中には「絆がある」と感じる無数の誤解がある。その指向性の先にあるのは、「未熟な愛情」というとても幸せな、そしてとても大きな誤解のはずである。
しかし。もしかしたら、それらはすべて間違っていて、本当は少年とトリコの間には相互に感じている確かな「絆」があるのかもしれない。もしかしたら、トリコという生物の知性は人間と心を通じさせることができるほどに高いのかもしれない。もしかしたら、少年は「必要だから」ではなく、本当に純粋にトリコのことが大好きなのかもしれない。誰しもがどの可能性も否定できない。すべては「パラメーターとして画面上に表示されているものが一つもない」ゲームだからこそ生まれる無言でありながら圧倒的に多弁なメッセージであり、その答えは全てのプレイヤー一人一人の手に委ねられる。主観から逃げられないのなら、主観で語ればいいのだ。主観で答えを出すことを、人は許されている。
結局は、「絆」や「愛情」あるいは「信頼」がたとえ大いなる誤解であろうとなかろうと大きな問題では無いのだろう。それはその本人がどう感じるかでしか語ることができないものだ。重要なのは『人喰いの大鷲トリコ』というゲーム自体がその構造を浮き彫りにする力を持つということである。それは「ゲーム」という架空世界の中に「トリコ」という名の恐ろしいほどにはっきりとした輪郭と説得力を持った「生命」を吹き込むことに成功したこの作品だけが持ち得たもの。不可解なパワーの下支えによって生まれた、人と動物ひいては人と人の「関係性」についてのテーマである。それは酷く優しく、そして時に残酷な側面を同時に持った大テーマであり、『ICO』『ワンダと巨像』の底流に流れていた大きな一筋の共通したメッセージでもある。
前述したように、『人喰いの大鷲トリコ』は『ICO』のゲームシステムに非常に似通っており、メカニックの根幹にさほど新しい点は見られない。だが『ICO』のデザインで『人喰いの大鷲トリコ』を捉えた場合、プレイヤーの視点がイコという少年からヨルダという少女へ移動しているう点は非常に興味深い。ライフゲージをプレイヤーの操作するキャラクター以外に設定するという実に革新的な試みを考慮すると、今作は主人公が「守る」側から「守られる」側になったとハッキリと宣言していることになる。それは『ICO』をプレイした人間にとって、ヨルダがイコをどんな眼差しで見つめていたかという15年越しの追体験だ。『人喰いの大鷲トリコ』で主人公が敵にある地点まで連れて去られるというゲームオーバー条件は、明らかに『ICO』でヨルダが敵に連れ去られるというゲームオーバー条件のセルフオマージュである。そう考えると、トリコとイコの類似性と両者に共通する角の表現。イコの持つ「守る」という強い意志の表現、守る側と守られる側に横たわる非言語コミュニケーションの壁など、類似点は非常に多い。
『ICO』から15年、当時プレイしていた少年達が現実を直視できる大人になったように、制作者も同じ時間を等しく過ごした。日々の経験を重ね、喜びと悲しみを経験し、成熟した。誰もが15年前、7年前とは違うだろう。前述の類似点とあわせて考えれば、本作は15年後もまだゲームを愛し続けている『ICO』プレイヤーへのアンサーであり、制作者自身のセルフアンサーであると考えるのはしごく自然だ。だとすれば、その時感じた愛情、絆、強さや優しさを、そして「イコとヨルダの間にあると信じて疑わなかった確かな絆の本質」を、かつての少年達は今どう捉えるのだろうか。きっとそれも、個々のプレイヤーが今現在幸せでも不幸でも、辛くても悲しくても、自信がなくたとえたった一人で孤独だったとしても、その本人自身が出さなくてはならない「答え」なのだろう。
これは筆者の回答に過ぎないが、『人喰いの大鷲トリコ』の英語圏におけるタイトルである『THE LAST GUARDIAN』の「LAST」は、「最後の」という意味だけではない。その意味と、それが掛かっている名詞を考えてみると、その題名には意外な寓意が含められているのかもしれないと、少しだけ思う。
ともあれ、『人喰いの大鷲トリコ』で一つ区切りはついた。もしこれが『ICO』への答えだったとすれば、なおさらに決着はついた。とすれば、貪欲なゲームプレイヤー達には「次」を待つ幸せが与えられたのだ。
長い間ずっと待っていた。時々存在を忘れた。それでも新情報が入ってくる度に心が躍った。トレイラーを見る度に期待と不安が入り混じった。発売が延期されたら落胆した。それでもじっと待ち続けた。そしてついに出た新作ゲームが期待に応えるものだったしても、たとえそうでなかったとしても、次がやってくる。今は姿かたちがみえなくても、きっと次がある。その度に一喜一憂を経験できるゲーマーでありたい。これまでずっとずっと「これまでの時間」を与え続けてくれた『人喰いの大鷲トリコ』は優れたゲーム体験と共に、「ゲームの歴史」の中で一種のマイルストーン的価値を持つこのゲームについて何年も何回も語り続けながら、またずっと、そしてゆっくりと次を待つ、「これから先の時間」という名の、ゲームプレイヤーにとってこの上なく「幸福」な荷物を心にしっかり積み込んでくれた。
次が来るまで、年に一度くらいはくらい見知らぬ土地で出会った奇妙で愛らしい生き物に会いに行こう。そんな風に今は思う。